双子の星の話は、姉と弟のの要領を得ない会話のあと、男の子の「ぼく知ってらあ。ぼくおはなししやう。」ということばの後は空白になり、段落が切り替わる。
「川の向ふ岸が俄かに赤くなりました。楊の木や何かもまっ黒にすかし出され見えない天の川の川の波もときどきちらちら針のやうに赤く光りました。まったく向ふ岸の野原に大きなまっ赤な火が燃されその黒いけむりは高く桔梗いろのつめたそうな天をも焦がしさうでした。ルビーよりも赤くすきとほりリチウムよりもうつくしく酔ったやうになってその火は燃えているのでした。」
近くの光景は黒い影絵のようで、その向こうに巨大な燃焼がある。賢治は筆を尽くして、それこそ「うつくしく酔ったやう」に銀河鉄道の旅のクライマックスを描写する。
あれは何の火だろう、とジョバンニが言うと、カムパネルラが地図を見て蝎の火だとこたえる。すると、女の子が「蝎がやけて死んだのよ。」と説明をはじめる。父親から何度も聞いた話だという。
むかし、バルドラの高原にいた一びきの蝎が、いたちに食べられそうになって、必死に遁げ、そして井戸に落ちてしまう。井戸からあがれなくて、溺れそうになって、蝎は祈る。
「あゝ、わたしはいままでいくつの命をとったかわからない。そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもたうたうこんなになってしまった。あゝなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかひ下さい。」
蝎は後悔している。いままでたくさんほかの命をとってきた自分が、今度は命をとられそうになったら遁げて溺れ死のうとしている。遁げないで、自分のからだを「だまって」いたちに食わせてやるべきだったのに、そうしないで、「むなしく」命をすてようとしている。そして祈っている。次に生まれてきたら、「まことのみんなの幸い」のために自分のからだを使ってください、と。
そして蝎は自分のからだがまっ赤なうつくしい火になって燃え、夜の闇を照らしているのを「見た」、と女の子はいう。蝎は、自分のからだが燃えているのを自分で見ている。幽明境をことにした世界ではそのようなことができるのだろう。
多くの人がここに銀河鉄道の旅の倫理的、思想的到達点をみている。「まことのみんなの幸いのため」という絶対利他の考えが、ことばとしてわかりやすいこともあるかもしれない。仏教の素養のない私には詳しいことはわからないが、捨身説話の一つのパターンがここで語られているのだと思われる。
自然界で食うものと食われれるものとの関係は「捕食」とよばれる。実は、捕食者(=食うもの)は、被食者(=食われるもの)を必ずしも仕留めることが出来るとは限らず、逃げられることも多いが、捕食者が追い、被食者が逃げるという関係に、それぞれの自由意志がはたらくことはなく、それは自然の必然である。蝎がたくさんの命をとってきたのも、いたちに追われて逃げたのも必然の行為である。蝎が自分のからだを「だまっていたちに呉れてやる」ことはありえない。また、井戸に落ちて溺れ死のうとしているからといって、「こんなにむなしく命を捨てずに」と罪の意識を覚えることもない。
一言でいえばこの話は嘘である。「おはなし」なのだから嘘に決まっている。問題は、この嘘の話が、「まことのみんなの幸いのため私のからだをおつかひ下さい。」という蝎の「心」をみた「神さま」が蝎のからだを燃やしまっ赤なうつくしい火と変えたと閉じられることである。あまりにも美しい嘘なので看過されそうだが、ここには「死」は「有用」であるべきだという思想が潜んでいる。「有用な死」と「自己犠牲」との間に距離はほとんどない。「自己犠牲」は『銀河鉄道の夜』のテーマの代表的なものとなった。
たくさんの命を奪ったから、自分の命も誰かに与えて死ななければならないという掟は自然界に存在しない。Give and Take は人間社会の論理である。人間社会の論理を自然に当てはめ、「自己犠牲」のベクトルのもとに語るのはプロパガンダである。作品がプロパガンダであってわるいということはない。蝎の話は初稿から最終稿まで一貫して存在し、多くの読者がこの部分を、というよりこの作品そのものを「自己犠牲」のテーマで論じているのだから、作者の狙い通りになったといえる。
もうひとつ微妙なのは、蝎の焼死は救済なのか、という問いである。「蝎がやけて死んだのよ。」という女の子の即物的な説明からこの話は始まっている。神に祈って、そのからだが天に引き上げられ、「まっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしている」__未来永劫照らし続けるだろう。未来永劫焼かれ続けるのである。「その黒いけむりは高く桔梗いろのつめたさうな天をも焦がしさうでした。」これは地獄の劫火ではないか。
救済か、地獄の劫火か。一見美しくわかりやすい蝎の話に、私は賢治の抱え込んだ深い闇を見る気がする。新大陸アメリカのコロラドインディアンから誕生間もないユーラシアの共産主義国家へ、銀河鉄道は地上を旅し、ふたたび天井を行く。天上の旅の最期に永遠の劫火を見て、ケンタウルの村に帰ってくる。だが、ジョバンニとカムパネルラ、そしてクリスチャンの一行との旅は終わらず、南十字星をめざすのである。
最後にまたもや蛇足をひとつ。宮沢賢治の抱えこんだ闇について関心のある方は、見田宗介著『宮沢賢治__存在の祭りの中へ』を読むことをおすすめしたい。あとがきに「わたしはこの本を、ふつうの子高校生に読んでほしいと思って書いた。」とあるが、わかりやすく、頭の中が整理されるような気がして、しかも、創作の秘儀にたちあっているような感覚を覚える。ただし_吉本隆明の『宮沢賢治』にも共通するのだが_不思議なほど時代状況とのかかわりへの関心が薄いのだ。いつかもういちど見田宗介の本については、熟読して思ったところを書きたいと考えている。
たくさんの謎を謎のままにして、ようやく蝎の話までたどり着きました。多くの人がとりあげる「自己犠牲」について、私も言わなければならないことがあるように思いますが、もう少し先の「カムパネルラの死」を読んでから考えたいと思います。きょうも不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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