2022年12月4日日曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__葡萄と栗を交換する

  『風の又三郎』後半は、逃げた馬を追って彷徨した嘉助が、臨死体験のなかで「風の又三郎」を見た上の野原の出来事の後

 「次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終わりの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削ったような青ぞらもできて、その下を真白なうろこ雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも残りの雲が湯げのようにたちました。」

と書き出される。この「次の朝」が上の野原の出来事があった九月四日の日曜日の次の朝かどうか疑問なのだが、ともかくもここからは、嘉助の物語ではなく、又三郎と呼ばれる「高田三郎」の物語が語られる。

 耕助という子が葡萄蔓とりに嘉助を誘い、嘉助が三郎を誘う。葡萄蔓のありかを見つけた耕助は、嘉助が三郎を誘ったのがすでにおもしろくない。宝物のような葡萄蔓のありかをできるだけ秘密にしておきたかったのだ。

 葡萄蔓のある場所への道中、三郎はそれと知らないで、たばこの葉をむしって一郎に尋ねる。一郎は、たばこの葉が専売局の厳重な管理下にあるのを知っているので、少し青ざめて三郎をとがめる。子どもたちも口々にはやしたて、とくに耕助が、もと通りにしろなどと、いつまでも意地悪くいい募る。

 やがて山を少しのぼった所の栗の木の下に、山葡萄が藪になっている。耕助が「こごおれ見っつけたのだがらみんなあんまりとるやないぞ。」と言うと、三郎は「おいら栗のほうをとるんだい。」といって石を拾って枝に投げ、青いいがを落とす。そして、まだ白い栗を二つとったのである。

 その後一行が別の葡萄蔓の場所に移動する途中で、耕助が上から水をかけられて、体中水びたしになる。いつのまにか三郎が栗の木にのぼって、枝をゆすり、たまっていた雨水をふりかけたのだ。耕助がとがめても、三郎は「風が吹いたんだい。」とわらうだけである。そしてまた別の葡萄蔓に熱中する耕助は、またしても頭から水びたしになってしまう。姿は見えないが、今度も三郎が木をゆすって耕助に水をかけたのだった。

かんかんにおこった耕助と「風が吹いたんだい。」とくり返す三郎のやりとりを、ほかの子どもたちは笑ってみていたが、耕助は気持ちがおさまらない。三郎にむかって、「うあい又三郎、汝など世界になくてもいいなあ。」と言う。三郎は「失敬したよ、だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」と謝るが、耕助のいかりはおさまらない。

 「汝などあ世界になくてもいいなあ。」「うなみたいな風など世界じゅうになくてもいいなあ。」「風など世界じゅうになくてもいいなあ。」と、あまりにも腹がたって言葉がみつからない耕助は、いつまでも同じことをいいつのる。結果、三郎に、風がなくてもいいというわけをいってごらん、と問い詰められ、いろいろ風の弊害をあげるが、最後に「風車もぶっこわさな。」といって、三郎だけでなくみんなに笑われてしまう。ついには耕助自身も笑い出し、三郎もきげんを直して耕助に謝り、仲直りする。

 帰るさに、一郎は三郎にぶどうを五ふさくれ、三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けた、とあるが、この交換は何を意味するのだろう。そもそもこの一日のエピソードは何のためにここに置かれているのか。

 ここに描かれている高田三郎という少年は、議論をすることが上手だという点を除けば、同年齢の子どもたちと変わらないように見える。議論が上手なのも、父親の仕事上、いろいろな土地、世界を知っているためもあるかもしれない。要するに、都会的で「おませ」なのだ。だが、村の子たちが当たり前に知ってるたばこの葉のことを知らなかったことで、自尊心を傷つけられてしまう。

 それからもうひとつ、村の子たちと異なるのは、食べ物にたいする貪欲さに乏しいことだろう。「もう耕助はじぶんでも持てないくらいあちこちにためていて、口も紫いろになってまるで大きくみえました。」とあるが、耕助だけでなく、ほかの子どもたちにとっても、ぶどうは大のご馳走だった。三郎にとってもぶどうは魅力的だったはずで、「ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽へ二っつ漬けたよ。」と言っている。それでも三郎は自分では葡萄をとらなかった。

 その三郎に、一郎はぶどうを五ふさくれて、三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けた、とある。おいしいぶどうと、未熟で食べられない栗は等価交換ではない。そもそも、藪のようになっているぶどうはすぐに手に取って食べられるが、白い栗は三郎が石を投げて木から落としたものである。食べられないもののために、なぜ、三郎はそんな乱暴なことをしたのか。

 三郎のなかにある暴力性と自尊心の問題は、この後二日間のエピソードを読む上でも大きなテーマとなるが、それについては、また回をあらためたい。「耕助」「一郎」それから「嘉助」など、一見固有名詞に見えるものの意味することも考えてみたい。もちろん「風の又三郎」と「三郎」についても。

 いまの季節になっても、昼間は農作業に忙しく、といっても大したことはやっていないのですが、なかなかものを書く時間も読む時間もとれません。つくづく、体力、知力の衰えを感じています。今日も不出来な一文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

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