2022年2月16日水曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__ニガヨモギの如意宝珠、鳥になった両親?契約印の魔法

 『千と千尋の神隠し』には不思議な効果をもつ「モノ」がいくつかでてくる。体が「融けていく」千尋に、ハクが飲ませた赤い錠剤(?)、空腹の千尋がむさぼる大きなお握り。お握りには、「千尋が元気になるように魔法をかけておいた」とハクはいうのだが、なぜか食べながら千尋は泣きじゃくっている。だが、一番不思議で、一番重要なのが、翁面の「名のある河の主」が千尋に与えたニガヨモギの草団子である。

 この草団子は、どんな効能をもつのか。千尋はこれを豚になってしまった「お父さんとお母さんに食べさせようと思った」と言っている。だが、食べた両親が人間に戻ることが出来るかどうかは分からないはずである。それを千尋は瀕死の龍ハクに飲み込ませる。するとハクは盗んだ契約印と黒いタールのような液体を吐き出し、人間の姿となる。さらにまた、食べ物も人間も手あたり次第に飲み込んで、怪物化したカオナシの口にも放り込む。カオナシもまた、ハクと同じように飲み込んだものすべてを吐き出す。ニガヨモギとは吐瀉剤なのか?千尋はニガヨモギが吐瀉剤だと知っていたのか。そんな筈はないのだが。

 おそらく、千尋が翁面の龍から授かったニガヨモギの団子は、如意宝珠と呼ばれる「龍の玉」の寓意だと思われる。龍の脳みそからとれるともいわれる如意宝珠は、その名の通りどんな願いもかなえる珠であるという。千尋の渾身の行為を翁面の龍は「善哉」と言祝いで、万能の珠をあたえたのだ。

 だが、それが「ニガヨモギ」である理由は何か。

 効能はなさそうだが、不思議なモノはまだある。ひとつは、ハクが湯婆の部屋に行くとき、なぜかエレベーターに乗らずに、建物の内部を螺旋状に上る階段を登っていくのだが、その途中に不思議な袋が二つ吊り下げられている。肌色の布の袋のようで、そんなに大きくはない。何が入っているのだろう。そして、なぜ、この場面があるのだろう。

 不思議な鳥も登場する。傷ついたハク龍を追いかけて、千尋が建物の外から危険を冒して湯婆の部屋に上っていくときに、二羽の白い鳥が千尋の周囲を飛んでいる。何も論理的根拠はないが、この二羽の白い鳥は千尋の両親のように見える。だが、なぜここに白い鳥、もしくは千尋の両親が登場するのかわからない。

 ニガヨモギの効能を考えるとき、忘れてならないのがハクが盗んだ契約印との関係である。海原鉄道に乗って、銭婆の家を訪れた千尋が「銭婆さん、これ、ハクが盗んだものです。お返しに来ました。」と契約印を差し出す。銭婆は「あんた、これが何だか知ってるかい?」とたずねる。「いえ、でも、とっても大事なものだって。ハクの代わりに謝りにきました。ごめんなさい。」と千尋が頭を下げると、銭婆はしげしげと判子を見て、小さな声で「おや、まもりのまじないの魔法が消えてるね」とつぶやく。千尋が「あの、判子から出てきた虫、あたしがつぶしちゃいました」というと、銭婆は「踏みつぶした?!あんた、あれは、妹が弟子を操るために、龍にかけた魔法だよ。踏みつぶした!あ、は、は」と大笑いする。

 このくだりは、非常にわかりにくい。敢えて分かりにくくしているように思われる。ここで呈示されている事実は二つある。一つは、契約印にかけられた「まもりのまじないの魔法」(かけたのは銭婆だろうか)が消えているということ。もうひとつは、契約印と一緒にハクの体から「虫」__黒いタール状の液体がとびだしたということである。「虫」とは湯婆が「弟子を操るために龍にかけた魔法」であり、千尋がそれを踏みつぶした、ということは、「弟子を操るために龍にかけた魔法」もまた消えたということだろう。この二つの事実はニガヨモギの効能と関係があるのか。

 最後に、ニガヨモギと契約印の魔法の関係は、ひとまず措いて、千尋の行動について考えてみたい。瀕死のハクが吐き出した契約印を、千尋が、ハクの代わりに銭婆に返す。そして「ごめんなさい」と謝る。銭婆もこれを受け入れ、龍の姿でやってきたハクに「あなたの罪は、もう咎めません」と許す。一件落着で、めでたしめでたしの大円団だが、ほんとうにそれでよかったのか。ハクが命がけで銭婆のもとから奪い取った契約印を千尋は「大事なものだって」と言って、独断で返してしまう。盗んだものを元の持主に返すのは「よい」行為で、千尋は「よい子」、という文脈は、ドラマづくりの巧みさから何となく受け入れられてしまう。強欲で酷薄そうな湯婆と、質素で優しそうな銭婆が対比的に造型されていることも、その流れを後押しする。

 だが、契約印がどういうもので、なぜ湯婆が奪おうとしたのか、という根本的な問題は曖昧にされたままである。もしかしたら、「根本的な問題」などなかったのかもしれない。あるように見せかけて、さまざまな謎を仕掛け、最後まで関心を惹きつけておいて、効果的な音楽と緻密な作画で観客にカタルシスを味わわせることが目的のすべてだった、といったら言い過ぎだろうか。あるいは、本当の核心は隠したままで、その周辺を丁寧に繊細に描くことで、観客にいつまでも繰り返し作品を反芻させることが目的だった、とは言えないだろうか。

 上記の問題提起については、もう少し論旨を整理して(できるだろうか)、考えてみたい。その前に、千尋の神話的深層についても触れなくてはいけないのだが、うまくまとまるだろうか。ハクが「ニギハヤヒ」であるという前提にたてば、千尋は「ヒルコ」である、というのが今の私の仮説なのだが。 

 論の展開が少し強引だったかもしれません。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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