2021年3月13日土曜日

三島由紀夫『暁の寺』__認識と破壊、そして燔祭(1)__本多繁邦の欲望

 『豊饒の海』第三巻は、日米戦争前夜一九四一年タイの首都バンコックを舞台に始まる。主人公は前二作でそれぞれの主人公松枝清顕、飯沼勲の同行者として登場した本多繁邦である。飯沼勲の弁護のために裁判官を辞して弁護士となった本多は、商社の仕事でバンコックを訪れる。その地で本多は、飯沼勲の生まれ変わりではないか、と思われるタイの王女の話を耳にする。

 自分はタイの王女ではなく、日本人の生まれ変わりで、本当の故郷は日本だ、と言い張ってきかない姫君がいる。父殿下始め多くの王族がスイスに行ったきりになっているのに、まだ七歳になったばかりの姫君が、侍女たちに囲まれて薔薇宮というところに押し込められているという。

本多は、ホテルでタイに持参した清顕の夢日記を繙く。その中で清顕は、タイの王族になって、廃園を控えた宮居の立派な椅子に掛け、かつてタイの王子がはめていたエメラルドの指輪を自分の指にはめている。そのエメラルドのなかに「小さな愛らしい女の顔」が泛んでいる。ここまで読んで、本多は、これこそまだ見ぬ姫君の顔で、姫は清顕の、また勲の生まれ変わりであると思う。

 商社員の菱川という男の取りつぎで、本多は姫に謁見がかなう。姫は突然本多に縋りついて、自分は八年前に死んだ勲の生まれ変わりだと言って泣き叫ぶ。清顕と勲に関する出来事の日時もまた、正確に答える。姫が清顕と勲の生まれ変わりであることは、本多の確信となった。

 だが、その後本多は、たまたま幼い姫の裸体を見る機会を得たが、その左脇腹に、転生のしるしである三つの黒子は、なかったのである。

 時は流れ、十一年の歳月が経った。物語の始めから日中戦争はすでに始まっていた。一九四一年に日米戦争が起こり、世界大戦となって、日本は敗れ、前年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた。日本だけでなく、世界中で多くの人が惨禍に巻き込まれたが、本多の生活は変わりがなかった。というより、僥倖ともいえるなりゆきで、金満弁護士となっていた。そうして、若さ以外のものは多くを手にいれた本多が、恋をしたのである。いまは、「月光姫(ジン・ジャン)」と呼ばれ、美しく成長したタイの姫君に。

 恋に理屈はいらないが、本多のジン・ジャンへの執着は異常である。姫の容姿がいかに魅力的であるかは、これ以上は不可能なほど精緻に描かれるが、その内面、精神に言及されることはない。言葉の問題もあるかもしれないが、はたして、本多とコミュニケーションがとれているかも怪しい。本多の欲望は、ジン・ジャンの左脇腹の黒子の有無を確かめたい、という点に集中する。そのために、本多は御殿場に別荘を作ったのである。姫を招いて、その寝室を隣の書斎に穿った覗き穴から覗き、プールを掘って、彼女の水着姿を見ようとしたのだ。

  初老の男の欲望というものがどんな内実をもつのかについて、女の私がどこまで理解、というか実感できるかについては、甚だ心もとないものがある。作者三島は言葉を尽くして、本多の心理を語るが、あまりにも観念的な分析だと思われる。ジン・ジャンの黒子を確かめるために彼女の裸体を「見る」ことへの欲望__それを本多(作者三島)は「認識慾」と呼ぶのだが、認識慾が自分の肉の慾と重なり合うということは「實に耐へがたい事態」であったから、この二つを引き離すために、ジン・ジャンは「不在」でなければならなかった、と書かれる。「不在」であること即ち

……ジン・ジャンは彼の認識慾の彼方に位し、又、欲望の不可能性に關はることが必要だったのである。

 本多はジン・ジャンに恋をする義務があったかのようである。

 ところで、「認識」という言葉はこの小説のなかで、ほとんど「見る」という言葉と同じ意義をもつかのように使われている。実は、本多はジン・ジャンの裸体だけをみることに固執しているのではない。夜の公園で睦あう男女の姿態をひそかに見ることにも異常なほど傾斜しているのだ。「認識」という言葉が「見る」という言葉、もっといえば「覗き見」という言葉と重なってくる。そうして、「見る」という行為は「権力の行使」なのである。

 「認識」という行為が「権力の行使」であり、直接には「破壊」である、という機序について語る事は、私の能力の限界を超えているいるようにも思われるが、次回「孔雀明王」のモチーフを中心に、いくらかでもたどってみたい。この小説のかなりの部分を占める仏教の理論に触れなければならないので、成功するかどうかまったく自信はないが。

 随分久しく書くことから遠ざかっていて、ようやく出来たものが、肝心なところで、尻切れとんぼになってしまいました。あまりの難解さに、もう書くのをやめようと思ったこともあったのですが、何とかメモを残せました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

0 件のコメント:

コメントを投稿