昭和二十年六月、本多は、渋谷松濤の依頼人の邸宅に招かれる。渋谷近辺の光景は、一週間前、二日にわたり延べ五百機のB29が東京を焼いて、「その高臺の裾から驛までの間は、ところどころに焼きビルをした殘した新鮮な焼址で」と描写される。人間の生の営みが完膚なきまでに破壊され、蹂躙された有様が、正確な筆致で過不足なく記述されるが、看過ごせないのは、その後
___これこそは今正に、本多の五感に譽へられた世界だった。戦争中、十分な貯へにたよって、気に入った仕事しか引き受けず、もっぱら餘暇を充ててきた輪廻轉生の研究が、このとき本多の心には、正にこうした焼址を顯現させるために企てられたように思ひなされた。破壊者は彼自身だったのだ。
と書かれていることである。
この焼け爛れた末期的な世界は、それ自体終わりでもなく、はじまりでもない。世界は一瞬一瞬平然と更新されていく。本多は唯識の阿頼耶識の法則が全身に滲み透るのを感じて「身もをののくやうなを涼しさに酔った」のである。
この後、用を済ませた本多は足を延ばして、旧松枝邸を訪れる。かつて十四萬坪あった敷地は細分化され、千坪ばかりになってしまったが、いままた茫々たる焼址になって、昔の規模を取り戻している。そこで本多は『春の雪』の影の主人公ともいうべき蓼科に邂逅する。蓼科は九十五歳になっている!
『春の雪』の悲劇をよくできた人形浄瑠璃と見立てることができるとすれば、聡子と清顕の美しい人形を操っていたのは、蓼科である。綾倉伯爵への蓼科の思い、情念が二人を完璧な破滅に導いたのだ。破滅ではなく、輪廻のはじまりであり、今生の完成かもしれないが。あるいは、イノセントな二人に罪を教え、楽園追放にみちびく蛇の役割を果たしたのが蓼科だったかもしれない。この焼址に登場する蓼科は、あきらかに蛇のメタファーとして描かれているように思われる。
本多は依頼人から土産にもらった鶏と卵を二つ蓼科に与える。いったんしまった卵を一つ取り出して、その場で割って呑みこむ蓼科のしぐさが、逐一描写されるが、それがまさに「蛇が卵を呑む」様子なのである。
蓼科は本多に礼として「大金色孔雀明王經」という本をくれる。これを身につけていれば、さまざまな難を免がれることができるという。もともとは、蛇毒を防ぎ、蛇に咬まれても癒す呪文を釈迦が説いたということだが、蛇毒だけでなく、一切の熱病、外傷、痛苦を除く効験があるとされる密教の経典である。讀誦する場合はもちろんだが、「孔雀明王」を心にうかべるだけでも効験があるとされる。
だが、この「孔雀明王」という優美な女神の原型は、かつて本多が訪れたカルカッタのカリガート寺院で見た「赤い舌を垂れ、生首の頸飾りをしたカリー女神」__殺戮と破壊をもたらし、たえざる犠牲を要求する大地母神なのだ。そしてまた、明王を背に乗せる孔雀は、毒虫や毒蛇を攻撃する鋭い蹴爪をもつ鳥である。蛇のメタファーとして登場する蓼科が、孔雀明王経を身につけているというのは逆説である。
家に帰った本多が「孔雀明王經」を繙くと、そこに描かれた明王像は優美でやさしく、無限に人々を厄災から救うかのようにまどろんでいる。明王を背に乗せる孔雀もまた金、銀、紺、紫、茶の暗鬱な五彩に彩られて、その羽根尾を燦然と展いていた。だが、本多は、蓼科と会った焼址の夕焼けの空には、きっと緋色の孔雀が、緋色の孔雀明王すなわち殺戮と破壊を司るカリー女神を背に乗せて、顕れていたのだ、と思ったのである。
孔雀明王はそれから七年後本多の夢の中に再び登場する。昭和二七年は血のメーデー事件が起こり、暴力革命前夜のような騒乱が続いたが、本多は再会した月光姫(ジン・ジャン)に溺れていた。妻の梨枝は夫の恋に気づき嫉妬するが、本多はジン・ジャンと直接の交渉をもったわけではない。彼女を手に入れようと奇怪、卑劣な策を弄するが、失敗する。ジン・ジャンは本多にとって、再び不在の人となった。
夢の中で本多は、いまは消え失せてしまったような住宅街をさまよって、朽ちかけた枝折戸の向こうの古風なホテルの前庭に入っていく。ひろい前庭では立宴がひらかれている。突然喇叭の調べが起こると、足下の地が割れ、金色の衣裳の月光姫が、金色の孔雀の翼に乗ってあらわれる。孔雀は喝采する人々の頭上をを飛びめぐり、そうしているうちに月光姫は人々の頭上に放尿する。本多は姫のために厠を探しにホテルの中に入ったが、外の喧騒にひきかえて、中は人気がない。どの部屋も鍵がかかっていなくて、ベッドの上に棺が載せてある。あれがお前の探している厠だという声をどこかで聞きながら、本多は尿意をこらえかねる。棺の中にしようと思いながら、神聖を犯す怖ろしさにできなかった。
何だかかの有名な『家畜人ヤプー』の一場面のようだが、ここにはまぎれもなく全体を覆う死のイメージがある。棺のなかには、すでに死者が納められているのだろうか、それとも、いま立宴で姫に喝采している人々が納められることになるのだろうか。地を割って出現した孔雀明王の化身が、小水を驟雨と降らせるというのは、何のメタファーなのか。
そして、この夢からさめた本多は「誰憚るもののない喜びの、輝かしい無垢が横溢していた」というこの上ない幸福感に包まれる。
空翔る孔雀明王の化身の姿を、本多は神話と共感の全き融和の裡にとらへてゐた。ジン・ジャンは彼のものだった。
と書かれるのだが、孔雀明王は無限の救いをもたらすのか。それとも、破壊と殺戮だろうか。あるいは破壊と殺戮の果ての無限の救い?本多の裡にあるのは、まったき自己の消滅、すなわちまったき世界の消滅であり、彼の欲望を成就させる孔雀明王こそジン・ジャンだったのだ。
さて、清顕の、また勲の転生のしるしである左脇腹の三つの黒子はどうなったのか。別荘のプール開きの日、盛大に行われた祝宴の最中、本多は水着姿のジン・ジャンに何の印もないことを確認する。ところが、深夜再び本多が書斎に穿った覗き穴から覗くと、そこに繰りひろげられていたのは、別荘の隣人久松慶子とジン・ジャンが濃密に愛をかわしあう姿だった。そして、このときジン・ジャンの左脇腹には、はっきりと転生のしるしがみとめられたのである。
三つの黒子は本当に存在するのか?現実に存在しない黒子が、本多の目には、久松慶子とむつみあうジン・ジャンにみとめられた、ということなのか?それとも、愛の行為の最中にだけ黒子は出現するのだろうか。
三島が提示する「恋と認識と不在または不可能の方程式」を解くことは私の手に負えるものではない。輪廻転生と恋のそれも同様である。だが、妻の梨枝と二人して覗き穴からジン・ジャンジャンの裸体を見て、「本多が実體を発見したところに、梨枝は虚妄を発見していたゐたのである」と書かれて、すべては終わる。
だから、この後、ジン・ジャンの裸体を見るために建てられた御殿場の別荘は見事なまでに焼かれて、燃え尽きたのである。建物の中に男女二人を燔祭の生贄として捧げて。そして、燃やしたのは本多である。あるいは本多の認識といってよいかもしれない。
焔、これを映す水、焼ける亡骸、……それこそはベナレスだった。あの聖地で究極のものをみた本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があらうか。
冒頭引用したように、
破壊者は彼自身だったのだ。
最後に、タイに帰ったジン・ジャンが、二十歳の春にコブラに咬まれて死んだことが簡単に報告されて物語は終わる。もはや、輪廻転生にも、孔雀明王にも言及されることはなく。
プロットの表面だけをなぞった感想文しか書けませんでした。題名となった「暁の寺」は、本多が見る幻影としての富士山だと思われ、こちらからも本多の「認識」についてアプローチしなければならないのですが、今回は力及ばす、でした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。