2018年12月5日水曜日

宮沢賢治『フランドン農学校の豚』__父と子そして国家

 前回『フランドン農学校の豚』について、救済をもたらさない受難物語として読んでみた。概ねそれでいいと思うのだが、もう少し書いてみたい。この作品に限らないのだが、賢治の作品、とくに散文の中には、ときに周到に隠されているのだが、「父と子」のテーマが存在するのである。

  フランドン農学校の校長と豚の関係は、たんに擬人化された飼育者と家畜のそれにとどまらないものがあるように思う。豚と言葉を交わしコミュニケーションをとるのは、校長だけである。どこにも救いのない死に至る豚だが、校長とのやりとりには、微かな甘えの気配が漂うのだ。校長もまた、豚に対して決然とした態度をとれないでいる。

 校長は、印を押させるための死亡承諾書を持って来ながら、豚の様子があまりに陰気だったので、承諾書をそのまま持ち帰ってしまう。再びやってきた校長が意を決して切り出すと、豚は「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」と泣き叫ぶ。犬/猫にも劣る恩知らず、と罵りながらも、校長はやはり印を押させることができない。豚は「どうせ犬猫なんかにははじめから劣ってますよう、わあ」と、すねて大泣きする。ここには哀歓をともにする感情の交流が間違いなくあるのだ。

 だが、豚は「農学校で飼育されている食肉用家畜」である以上、殺戮されることを運命として引き受けなければならない。校長と感情の交流があるといっても、校長は最終的に豚に死を宣告する役割がある。殺戮を実行するのは冷徹なテクノクラートだが、「死亡承諾書」に印を押させることは、校長にしかできないのである。

 ところで、「死亡承諾書」なるものは何を意味するのか。豚が殺される前の月、その国の王が「家畜/撲殺同意調印法」を布告した、と書かれている。『フランドン農学校の豚』を、たんなる受難物語として読み過ごすことができないのは、「家畜/撲殺同意調印法」の意味がわからないからである。なぜ家畜を殺すのに家畜の同意を得る必要があるのか。それを法律で定める必要があるのか。___というより、賢治がこの作品の中に、唐突に国王と法律を持ち出すことの意味がわからないのである。

 「死亡承諾書」が存在しなくても、殺される豚と農学校の校長との物語は成り立っただろう。死を強制せざるを得ない父と最後にはそれを受け入れざるを得ない子との物語である。だが、その強制の背後に「法律」が存在して、「国」の「王」がいる、となると、これは「父と子」のプロットを包み込む、さらに大きな枠組みが用意されていることになる。

 いったい、賢治の「童話」と称されるものは、実はかなり複雑な影を帯びているものが多い。有名な『注文の多い料理店』という作品も、例によって独断と偏見の持ち主の私は、「富国強兵」のスローガンのもと、「イギリス風の紳士」然と西洋化した(させられた)日本が、言葉巧みに操られて、最後は丸裸になって滅亡させられてしまうところだった、というお話だと考えている。賢治は、最後に死んだはずの犬が「山猫軒」を襲って二人の「イギリス風の紳士」を助けてくれることにしているが、この結末にはかなりの無理があるように思われる。

 『フランドン農学校』という作品は、賢治の晩年、と言っても三十代のことだろうが、に書かれたようである。晩年に近づくほど、詩、散文ともに、賢治の作品は、実生活の影が濃く、苦渋に満ちたものが多くなってくる。『フランドン学校の豚』は、擬人法、というより、人間社会を豚に擬えて書いた、という意味で「擬豚法」とでも呼ぶべき方法で描いた、苦渋に満ちた傑作であると思う。

 もっと丁寧に「父と子」と「国家」について掘り下げなければならないのですが、体力、気力ともに十分ではないので、もう少し時間が欲しいと思っています。今日も不出来な感想文を読んでくださってありがとうございます。

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