2016年9月9日金曜日

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー)」の首吊り男』___「自殺」という首吊りの方法

 連作短編集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第三作目で、第五作目「泳ぐ男__水の中の雨の木(レイン・ツリー)」に次ぐ長さの小説である。短編、というより短い中編といったほうがいいかもしれない。作家の「僕」が半年ほどメキシコに滞在して、当地の「学院(コレヒオ)」で客員教授をしていた時の体験に基づいて書かれている。

 内容は平易でわかりやすい。小説の発端は、帰国した「僕」が、カルロスという男が癌に冒されたという噂を聞いて、衝撃を受ける場面である。カルロスは学院で事務をとるかたわら「僕」の通訳をしてくれたペルー人で、メキシコに亡命してきた日本文学の研究者だった。彼は研究者といっても、アカデミズムよりは作家個人のゴシップに関心をよせる人物で、何より肉体的な苦痛を恐れていた。もしも癌に冒されることになったら、苦痛のきわみで苦しむよりは首を吊って死にたい、と言っていたのである。

 カルロスはまた、作家の「僕」に「首吊り」による自殺願望があることに関心を寄せていた。カルロスと「僕」は「首吊り」というキーワードでつながっていたのである。メキシコ・シティーを去るとき、「僕」はカルロスがHAIKUと呼ぶ次のような詩作を残したのだった。
 Without you,
   I would have hanged myself
   Under a bougainvillaea shrub.

 物語には、「僕」とカルロスを中心に、カルロスを脅かす彼の元妻セルラさん、大使館員を名告って「僕」の前に飄然と現れる山住さんが登場する。カルロスの共同研究者、というより実質的な研究はセルラさんが主体だったが、彼女は山住さんを使って「僕」を動かし、カルロスがセルラさんとよりを戻さなければ、亡命者の政治セクトに命を狙われる、と思い込ませようとしたのだ。だが、『僕」がカルロスとセルマさんの軋轢を心配している余裕はなくなった。日本に残してきた障害をもつ息子が、思春期の訪れにともなう失明、という事態に陥ったことがわかったのだ。

 太平洋を越えてはるか彼方の日本からかかってきた国際電話で息子の失明を知らされて、「僕」は何もできない、しない、という「退行現象」に陥ってしまう。アパートの先住者が残していった「カラヴェーラ」と呼ばれる骸骨人形に囲まれて、マンゴーだけを食べながら外の世界と隔絶して、四日間ベッドに横たわったままだった。

 「僕」と連絡がとれないのを不審に思った山住さんがアパートを訪れて、「僕」は現実に復帰したのだが、山住さんが仕切った酒宴の主人公に祭り上げられて正体もなく酔いつぶれてしまう。そればかりか、山住さんのトラブルに巻き込まれて黒服の日本人会社員の二人連れに痛めつけられ、挙句の果ては、いかがわしい曖昧宿に連れ込まれて、娼婦たちの嬲りものになる。

 というドタバタが語られ、結局「僕」は任期半ばで日本に帰ることになる。帰国にあたって学院で開いてくれたパーティの席で、カルロスは「僕」にフィチヨル・インディアンのつむぎ糸絵画を贈ってくれた。それは絵画の中央に大きな木が描かれ、なおかつ登場する人物のひとりが首を吊っているように見えるものだった。「僕」はその絵を見て、描かれている木をみずからが「雨の木(レイン・ツリー)」と呼ぶ宇宙樹としてとらえ、このような木の下で、絵に描かれているのと同じように、生涯の師匠(パトロン)の立ち合いのもとに首を吊ることができたら幸せであろう、という感想を述べた。

 それに呼応して、カルロスが言った言葉が前述のように、自分もまた同じようなことを考えている。肉体的な苦痛を何より嫌がる自分が、もし癌だとわかったら、インディアンから手にいれた、幸福感のうちに死にむかうことのできる薬草を噛んで、首を吊りたい。自殺を許さないカトリックの妻の監視を逃れて、首を吊るのによい木が生えているペルーまで同行してくれる人をさがしておきたい、というものだったのである。

 以上のように、この小説はストーリーが分かりやすく、起承転結が整っていて、よくまとまった中編小説のようにみえる。ある種の要領の良さはあるが、軽薄で享楽的な美男のカルロスと、学究的な能力は高いが容貌の醜い先妻のセルマさん、カルロスのファンクラブだが故国の体制にはっきりと批判的な亡命者の女たち、プロフェソールと呼ばれながら、事あるとエキセントリックで幼児的な対応しかできない「僕」、「オペラで不吉な情報を伝えるために舞台にあらわれる密偵めいた役どころを連想させる」山住さん、など魅力的な人物が登場する。ストーリーの展開が面白いので、すらすら読めるのだが、最後までいって、はて、この小説は何だろう?と思ってしまう。何が腑に落ちないのだろうか、と考えてみると、「僕」がカルロスに揶揄されるほど一貫して「首を吊る」ことにこだわった理由が私にはわからないのだ。

 敢えて乱暴な言い方をすれば、大江健三郎の文学のテーマは「首吊り」と「強姦」である。この二つのテーマのどちらかが取り上げられない作品はほとんどないのではないか。『万延元年のフットボール』のように、二つとも存在する作品ももちろんある。そして、とくに「首吊り」についていえば、作者の関心は、それを方法として選ぶ自殺の動機にあるのではなく、「首を吊る」という行為そのものにあるように思われる。強姦について、いま詳しく検討する余裕はないが、「不必要な強姦、あるいは不自然な強姦」がプロットの中に組み込まれることが多いように思われる。

 私は、大江健三郎が一貫して「首吊り」にこだわる理由がわからないので、後年彼が「魂のこと」にこだわり「救い主」にこだわる理由もまたわからない。「魂のこと」は小説の主題たりえるだろうか。「救い主」もまた然り。その中間の「アンチ・キリスト」なら小説の主題たりえるように思う。素人の独断と偏見だけれど。

 この小説は連作短篇集の中央に位置する作品だが、「雨の木(レインツリー)」は宇宙のメタファーというより、首吊りの木であり、前作との関連は薄いように思われる。前作に登場した高安カッチャンもペニーも登場しない。おそらくこれは、作者のメキシコ滞在の経験に基づく独立した短編(もしくは中編)を連作短篇集に組み込んだものではないか。だが、そのことが連作集にどのような意味をもつのかはよくわからない。次作「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」には再びペニーが登場し、高保カッチャンの遺児ザッカリー・K・タカヤスが人気音楽グループのリーダーとして紹介され、「雨の木(レイン・ツリー)」はセフィロトあるいはクリフォトという名の「生命の樹」としてイメージされる。

 もう少しまとまったことを書こうと思って悪戦苦闘したのですが、力及ばず、でした。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
   

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