2013年11月22日金曜日

大江健三郎『同時代ゲーム』との「同時代ゲーム」__「村=国家=小宇宙」の終わる日

 群盲象を撫でるがごとき試行錯誤、悪戦苦闘のレポート作成を小休止して、しばし無責任な?読書感想文を書いてみたい。妄想、思いつきの類なので、真摯に文学を探求する方の鑑賞にたえるものではないと思う。

 一九七九年に出版されたこの作品と今日の日本の状況が酷似しているということに、不思議な感覚を覚えている。あのとき、日本がいまのような状況に陥ることを誰が予想しただろうか。貧しさは克服したけれども、豊かさの頂点はまだまだ先にある、というのがおおかたの庶民の生活実感ではなかったかと思う。いまから振り返れば、高度経済成長の頂点に登りつめる寸前だったのだろうけれど。

 『同時代ゲーム』の「第三の手紙 「牛鬼あるいは「暗がりの神」」は「村=国家=小宇宙」の最後の新生児だという二十歳の小劇団の演出家との対話を通して、「村=国家=小宇宙」の存在の両義的な意味とその終わりが語られる。「壊す人」の指揮により開拓、植民された土地は実は禁忌の場所としてすでに知られ、知られていながら人々が足を踏み入れることのないものだった。それゆえに「木蠟」生産の独創的な技術を開発し、またそれによって富を蓄積することができた。その富で兵器を買うこともしてきたのである。

 永く続いた「自由時代」においても、その半ば以降は、外部世界から森を抜けて下る塩の道を通って商人たちが入ってきた。そして、蠟と生活に必要な品を交易する商人たちが、「五人の芸人」をつれてやってきたことによって、谷間の共同体に転機が訪れる。「五人の芸人」は買い取られ、彼女らの後を追って村を出奔した若者ともども、再び「村=国家=小宇宙」の中に帰って行ったのである。

 「自由時代」の終末は、まず隣藩を脱藩してきた武士という異人の侵入からはじまる。ついで、二度の一揆の集団に「村=国家=小宇宙」が占拠され、これまで対外交渉の役を担っていた亀井銘助が上京して天皇の権威を利用しようとしたとで決定的なものとなった。亀井銘助は藩に捕らわれ、獄死し、「メイスケサン」と祀られる存在になる。この後「村=国家=小宇宙」は二重戸籍というカラクリで人口の半分を体制外に隠すという仕組みを工夫する。だが、それも「第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争」の結果、そのカラクリは暴かれ、人口の半分は殺されてしまう。そして、その後、新生児の出生率自体がおちこみ、亀井銘助の子孫だという小劇団の演出家が最後に誕生した人間となってしまったのだ。

 「村=国家=小宇宙」という「谷間の村」は、商人たちの連れてきた五人の芸人の血がまじらなくても、武士という異人が侵入してこなくとも、二度の一揆の集団に占拠されなくとも、そしてまた亀井銘助が彼の政治的判断を誤らなくとも、衰退して滅びることになったかもしれない。「壊す人」が丹精した薬草園が荒れるにまかされてしまったように、体制を維持する「老人たち」の気力が枯渇してしまったからである。

 だがしかし、上にあげたような外部世界からの圧力と、「武勲赫々たる五十日戦争」の敗北がなかったら、もう少し違う展開になっていた可能性はないとはいえないのではないか。「武勲赫々たる五十日戦争」がなぜ行われたのか、そして、「村=国家=小宇宙」の人口の半分が絞首刑で殺され、大日本帝国側でこれを指揮した無名大尉もまた縊死するという無残な結果となったのはなぜか。そもそも緒戦以来、ほとんどの局面で勝利していた(それでいながら敗北を前提していた)「村=国家=小宇宙」が、あくまで「森」を守るために白旗をあげて降参した根本的な理由は何か。

 現実に日本という国家で、ペリー提督をはじめとする「外圧」と「明治維新」という政権交代がなかったら、新しくできた政権が十九世紀末から二十世紀にかけての四度の戦争を起こさなかったら、どうなっていただろうか。もちろん歴史は後戻りできないので、このような問いは無意味である。だが、だからこそ、歴史の検証はどこまでも執拗になされなければならない。

 up to dateな話題をとりあげることは極力ひかえているのだが、なんとか秘密保護法案とやらが議会を通って成立するという。何が秘密か「それは秘密です」と言って法案をふりかざすこともできそうで、まことに恐ろしい。山本何とかいう議員が天皇に手紙を手渡ししようとしたといって、マスコミがいつまでも騒いでいるのも気味が悪く、「天誅」などという言葉が発せられたり、議員のもとに銃弾が送りつけられるという事態も異常である。赤報隊と名のる犯人に朝日新聞の記者が銃殺された事件を思い出す。人間共同体としての日本という国は崩壊しつつあるのではないだろうか。

 敗戦後の数年間を除いて、この国の出生率は下がる一方である。『同時代ゲーム』では新生児の誕生が途絶える理由は明らかにしていないが、現実の日本という国がすでにその状況にあったからだろう。福島の事故がなくても、いずれ、どれほどの年月がかかるかわからないが、日本人は絶滅危惧種になってしまうのではないか。また、『同時代ゲーム』の作品中では、「村=国家=小宇宙」が自分たちの言葉を捨て、独自の言語体系をつくり上げる試みはついに完成しなかったが、いまこの国では、「国際語」としての英語教育の必要性が以前にもまして喧伝されている。すでに英語を社内共通語としている企業もあるという。だが、「初めに言葉ありき」____ことばこそが人間であり、その存在証明ではなかったか。

 まさに出来の悪い読書感想文となってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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