2013年7月22日月曜日

『万延元年のフットボール』以前と以後____大江健三郎の闘いは変わったか

 up to date な事柄について書くことは控えようと思っているのだが、昨日の参議院議員選挙の結果はあまりにも衝撃的だった。意外だと言うのではもちろん、ない。予想されたとおりだったのだから。予想されたとおり過ぎたからだ。テレビというものを見ない私に、テレビをみていた連れ合いが午後八時の開票と同時に自民過半数が報道された、と教えてくれた。前回の衆議院選挙と同様、いろいろなことがいわれているが、現実は、「戦後民主主義」及び「戦後民主主義教育」のみごとな到達地点が示された、ということにつきる。

 そして、大江健三郎について考えている。私の大江体験は『雨の木(レインツリー)を聴く女たち』から始まった。大江健三郎が颯爽と登場した頃、私は「ホー・チミンってフランスの女優さん?」という世界の人間だったので、彼の文学とはまるで無縁だった。樺美智子さんの死も痛ましい「ニュース」だった。私が大江を読み始めたのは、その時期たんに比較的時間があったからだ。読んでもさっぱり分からないので、熱心な読者ではなかった。だが、続いて、すでに文庫本で出版されていた『飼育』『死者の奢り』『芽むしり 仔撃ち』『個人的な体験』などを買ったので、なにか惹かれるものがあったのだろう。

 今回大江を再読し始めたのは、サリンジャーの作品に導かれてのことである。『万延元年のフットボール』を読んで、小説というものはそう読まれなければならないのか、そう読めばなんと面白いものだろう、と齢?十歳を過ぎて開眼したのだ。恥ずかしながら。

 いま『万延元年のフットボール』以後の作品を順を追って読みながら、何とか『同時代ゲーム』までたどり着いた。そして思うことは、大江の小説は『万延元年のフットボール』以前と以後ではあきらかにちがうのではないか、ということである。内容も方法も。誤解をおそれずに言えば、『万延元年のフットボール』以前は、図式的とも見えるくらいに構造がはっきりしていた。たたかうべき現実は何か、どのようにたたかうか、という方法が作品の中で呈示されていた。言葉がつむぎだすイメージは鮮烈で激しすぎるほどだった。

 「イノセンス」という価値観がそれ自身の持つ無邪気な邪悪性(?)も含めて、それまでの作品に通底していたのが、『万延元年のフットボール』を分水嶺として、それを見出すことが困難になる。かわって、隠微に慎重に隠された「現実悪」をほのめかし、それとたたかうことが作品の主題になる。だが、悪の実体が何かということは容易には悟られないし、たたかいの担い手は誰か、どのようにたたかったのか、も具体的に突きとめることが困難である。文章は難渋をきわめ、文脈をたどることも一筋縄ではいかない。『同時代ゲーム』にいたっては、語りの次元と語られる次元が錯綜して、しかも、一つの出来事の解釈を同時に並列する、という手法をとったりするので、なかなか読了できなかった。

 一つのエピソードが日常的次元、神話的次元、そして歴史的現実の次元、で解釈しうるように書かれているので、最も深層の歴史的次元のどの出来事に対応するのかを読み解くことが重要なのだ。サリンジャーの小説と同じように。だから、もともと「ホー・チミン=フランスの女優?」の知識と教養しかなかった私は悪戦苦闘の連続なのである。それゆえにこそ、読書の楽しみはいや増す、といえるのかもしれないが。

 しかし、読書の楽しみを堪能している状況ではない。「民主主義」あるいは『民主主義教育」といわず、「天皇制」といわず、「戦後」が行き着いた果てが何であったかを、今回の選挙が教えてくれた。いま、ここに、徒手空拳の一個人たる私はどうやってたたかったらいいのだろう。

 作品に即して語ること以外はすまい、と思っていたのですが、今回は原則を破ってしまいました。『万延元年のフットボール』から『同時代ゲーム』までの作品についてはまた改めて書きたいと思っています。とくに『ピンチランナー調書』は愉快痛快奇奇怪怪の傑作だと思うのでなるべく早く取り上げたいと考えています。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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