ここ二ヶ月余り雑事に追われて、まったく更新できない日々が続いております。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。
そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot your noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。
二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。
「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。
スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。
今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年10月31日水曜日
2012年8月16日木曜日
「テディ」____オレンジの皮と輪廻転生
「テディ」について書くのはこれが三回目である。以前書いたものを踏まえて、というより大幅に修正したものを早く出さなければいけないと思っていた。いま、完全なものが出せるわけではないのだが、とりあえずの経過報告をしたいと思う。
あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。
父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」
この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。
後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。
その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」
最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。
もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。
ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。
ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。
八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。
父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」
この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。
後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。
その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」
最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。
もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。
ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。
ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。
八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年8月7日火曜日
「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」____「わたし」はどんな絵を描いたのか
『ナイン・ストーリーズ』には三つの一人称の小説が収められている。「笑い男」「エズミに捧ぐ」そしてこの「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」である。「笑い男」と「エズミに捧ぐ」は非常に複雑な構造で、入り組んだストーリーの展開を追っていくうちに、語り手が誰なのかが分からなくなってしまう。それに比べると表題の作品は「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」を継父にもつ「わたし_(ド・ドーミエ=スミスという偽名をもつ)」が語る青春の回顧談として無理なく最後まで読んでいくことができる。ただ一つだけ腑に落ちないのは冒頭の一文である。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年7月20日金曜日
「セロひきのゴーシュ」___自虐と他虐の孤独な自画像
これも賢治の代表的な作品である。私は「セロひきのゴーシュ」に二回出会った。最初は遥かな(?)昔、まだ若い母親だったとき、自分の子供に読み聞かせるために絵本を購入した。茂田井武という賢治と同じように夭折した画家の挿絵がついていた。二回目は、それからかなりの月日が経って、子供の勉強をみる仕事をしていたとき、NHK学園という通信制高校の現代文のテキストに採用されていた。教えていた子、といっても十代の後半だから若者といったほうが正確かもしれない。彼の容姿や雰囲気が茂田井画伯の描いたゴーシュに似ているのが、興味深かった。たぶん、偶然ではないと思うのだが。
有名な作品なので、あらすじを紹介するまでもないと思う。ゴーシュという孤独な若者が、コンクールのために一人で深夜まで猛練習をする。そこに、猫とかっこうと狸と野ねずみが訪れる。それぞれの動物との交流を経て、ゴーシュはセロの演奏に上達し、コンクールの本番では、アンコール演奏の指名を受けるまでになる。この作品のテーマとして、芸術による自己昇華あるいは大自然の意志との感応(瀬田貞二氏)を見るのはもちろん正しいし、まずそれを考えなければいけないのだろう。だが、どうしても、私にはそれだけで割り切れない複雑なものが残るのである。「ゴーシュさんは一生懸命練習しました。動物たちもやってきました。それでみんなにほめられる演奏ができました。よかったです」では済まない何かがあって、それがこの作品をいつまでも心に残るものにしているのだ。
この作品を読んで、まず驚くのは、最初に訪れた猫に対するゴーシュの残虐さである。ゴーシュの畑でもいできたトマトを持って、半ば道化を装いながら陣中見舞いにやってきた猫をいたぶって、その舌でマッチをするという行為は尋常ではない。次にぎょっとするのは、一緒にドレミファを練習したかっこうを外に出すためにガラスをけり破って窓を壊す場面である。「のどから血が出るまでは叫ぶ」と言って叫び続け、出口を求めてはガラスにぶつかり血まみれになるかっこうも常軌を逸しているが、それを外に出すために自らも危険を冒すゴーシュがなにより常軌を逸している。
ところで、本題とはあまり関係がないかもしれないのだが、この作品を読んでいつも思うことがある。「町はずれの川ばたにある水車小屋」に「たった一人ですんでいて、午前は小屋のまわりのちいさな畑でトマトの枝を切ったり、甘藍の虫をひろったりして」いるゴーシュとはいったい何だろう。「トマト」や「甘藍」は当時(1920年代後半~30年代前半)一般的に栽培されていたのだろうか。現代でいえば、朽ちかけた廃屋にすんで高級メロンなどを作っているようなものではないか。童話の世界にリアリティを求めることが無理なのかもしれないが、何だか不思議な感じである。もう一ついえば、賢治の童話の登場人物の名前について、賢治の作品には片仮名表記=外国風の名前と、漢字もしくは平仮名表記=日本風の名前との2種類の名前が存在する。そして、それぞれの作品世界には明らかな違いがあると思われる。オツペル、ジョバンニ、グスコープドリの登場する作品世界と、又三郎、小十郎、虔十の登場する作品世界は、同一次元のものではない。前者は現実とは別次元の、もっといえばある種の理想に到達し得る世界として描かれているのではないか。
それでは「セロ引き」の「ゴーシュ」が登場するこの作品世界は理想郷たり得るのだろうか?たしかにゴーシュは演奏を成功させ、楽長に賞賛され認められた。愛らしい狸の子と一緒に演奏して平和に夜を明かすこともできた。そして、野ねずみの子の病気をなおすという奇跡のようなことも起こった。ゴーシュを取り巻く世界は変わったのである。だが、ゴーシュの孤独は変わらなかったのではないか。ゴーシュにほんとうのドレミファを教えたかっこうは永遠に行ってしまったのである。「ああ、かっこう。あの時はすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」という最後のゴーシュの独白は「おいゴーシュ君。君には困るんだなあ。表情ということがまるで、できていない。怒るも喜ぶも感情ということがさっぱり出ないんだ」という楽長の指摘と対をなして、この作品中最も印象的である。怒ったのではなかったのだ。あまりにも孤独で、それゆえ不器用だから、「感情というものが出な」かったのだ。「感情というもの」が「ない」わけでは決してないのに。
「サリンジャーに戻ります」といいながら、また宮沢賢治について書いてしまいました。賢治の作品に関しては、もう一つ「風の又三郎」についても書きたいと思っています。その前に「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」について書かなければなりませんが。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
有名な作品なので、あらすじを紹介するまでもないと思う。ゴーシュという孤独な若者が、コンクールのために一人で深夜まで猛練習をする。そこに、猫とかっこうと狸と野ねずみが訪れる。それぞれの動物との交流を経て、ゴーシュはセロの演奏に上達し、コンクールの本番では、アンコール演奏の指名を受けるまでになる。この作品のテーマとして、芸術による自己昇華あるいは大自然の意志との感応(瀬田貞二氏)を見るのはもちろん正しいし、まずそれを考えなければいけないのだろう。だが、どうしても、私にはそれだけで割り切れない複雑なものが残るのである。「ゴーシュさんは一生懸命練習しました。動物たちもやってきました。それでみんなにほめられる演奏ができました。よかったです」では済まない何かがあって、それがこの作品をいつまでも心に残るものにしているのだ。
この作品を読んで、まず驚くのは、最初に訪れた猫に対するゴーシュの残虐さである。ゴーシュの畑でもいできたトマトを持って、半ば道化を装いながら陣中見舞いにやってきた猫をいたぶって、その舌でマッチをするという行為は尋常ではない。次にぎょっとするのは、一緒にドレミファを練習したかっこうを外に出すためにガラスをけり破って窓を壊す場面である。「のどから血が出るまでは叫ぶ」と言って叫び続け、出口を求めてはガラスにぶつかり血まみれになるかっこうも常軌を逸しているが、それを外に出すために自らも危険を冒すゴーシュがなにより常軌を逸している。
ところで、本題とはあまり関係がないかもしれないのだが、この作品を読んでいつも思うことがある。「町はずれの川ばたにある水車小屋」に「たった一人ですんでいて、午前は小屋のまわりのちいさな畑でトマトの枝を切ったり、甘藍の虫をひろったりして」いるゴーシュとはいったい何だろう。「トマト」や「甘藍」は当時(1920年代後半~30年代前半)一般的に栽培されていたのだろうか。現代でいえば、朽ちかけた廃屋にすんで高級メロンなどを作っているようなものではないか。童話の世界にリアリティを求めることが無理なのかもしれないが、何だか不思議な感じである。もう一ついえば、賢治の童話の登場人物の名前について、賢治の作品には片仮名表記=外国風の名前と、漢字もしくは平仮名表記=日本風の名前との2種類の名前が存在する。そして、それぞれの作品世界には明らかな違いがあると思われる。オツペル、ジョバンニ、グスコープドリの登場する作品世界と、又三郎、小十郎、虔十の登場する作品世界は、同一次元のものではない。前者は現実とは別次元の、もっといえばある種の理想に到達し得る世界として描かれているのではないか。
それでは「セロ引き」の「ゴーシュ」が登場するこの作品世界は理想郷たり得るのだろうか?たしかにゴーシュは演奏を成功させ、楽長に賞賛され認められた。愛らしい狸の子と一緒に演奏して平和に夜を明かすこともできた。そして、野ねずみの子の病気をなおすという奇跡のようなことも起こった。ゴーシュを取り巻く世界は変わったのである。だが、ゴーシュの孤独は変わらなかったのではないか。ゴーシュにほんとうのドレミファを教えたかっこうは永遠に行ってしまったのである。「ああ、かっこう。あの時はすまなかったなあ。おれはおこったんじゃなかったんだ。」という最後のゴーシュの独白は「おいゴーシュ君。君には困るんだなあ。表情ということがまるで、できていない。怒るも喜ぶも感情ということがさっぱり出ないんだ」という楽長の指摘と対をなして、この作品中最も印象的である。怒ったのではなかったのだ。あまりにも孤独で、それゆえ不器用だから、「感情というものが出な」かったのだ。「感情というもの」が「ない」わけでは決してないのに。
「サリンジャーに戻ります」といいながら、また宮沢賢治について書いてしまいました。賢治の作品に関しては、もう一つ「風の又三郎」についても書きたいと思っています。その前に「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」について書かなければなりませんが。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年6月19日火曜日
「なめとこ山の熊」____死との融和_破綻した予定調和の世界
宮沢賢治の作品の中で、もっとも心惹かれる小説である。何故そんなに心惹かれるのだろう。熊と人間が「なりわい=生業」のために切り結ぶ生と死が鮮烈に描かれているのだが、それだけではない。むしろ、主人公小十郎と熊の交流の場面で、熊は擬人化され過ぎているし、荒物屋の主人と小十郎の関係は誇張され過ぎているのではないか、という感も否めない。それでもなお、この作品にこめられたある種のメッセージ性が感動をよぶのである。私だけかもしれないが。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出しでこの小説は始まる。「おもしろい」というのだから、語り手がいるのだが、語り手は徹底して物語の外側で語り、作品世界の中に登場することはない。「オツペルと象」の語り手と同じである。もうひとつ「オツペルと象」と共通していることがあって、語りの文体が常体なのである。賢治の童話は多くが敬体の文章で書かれている。童話集『風の又三郎』の解説を書いている谷川徹三氏の言うように「天成の教育者であった」賢治は、つねに語られる相手=子どもを意識して作品を作っていたので、子どもが受け入れやすいように「ですます」体を多く使ったのだと思われる。しかしこの作品はそうではない。語り手が語る相手は、必ずしも子どもを第一に意識しているのではないのだ。そして「オツペルと象」の語り手が最後には、「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」と韜晦してしまうのに対して、「なめとこ山の熊」は、小十郎の死骸をとりまく熊の様子を「ほんとうにそれらの大きな黒いものは、参の星(オリオン)が天のまん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石したようにうごかなかった」と描写して、最後まで語りの姿勢を変えることなく語りきるのである。
物語は「なめとこ山の熊」を「片っぱしから捕った」熊捕りの名人の小十郎と熊たちとの交流を語る。交流というより、殺すか殺されるかの勝負、といった方がほんとうは正確なのだろう。殺した熊に因果を含める小十郎の姿が描かれるが、「米などは少しもできず、味噌もなかったから、九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもっていく米はごくわずかずつでも要った」から、生きていくために殺さなければならなかったのだ。殺さなければ、すなわち自分が、否七人家内が全員飢え死にするのである。
小十郎と熊との関係は、時の推移とともに微妙に変化していく。「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした」という文章の後、小十郎は月あかりの中で「後光がさすように思え」た母子の熊の姿を見つける。この場面で描かれる母子の情景はまるで一幅の絵画のように美しく、その会話」は詩のようである。小十郎はこの二匹の熊を射つことができないばかりか、「なぜかもう胸がいっぱいになって、もういっぺん向こうの谷の白い雪のような花と、余念なく月光をあびて見ている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。」だが、小十郎がこの母子を見つけたのは、彼が「柄にもなく登り口をまちがってしまった」ため、去年つくった小屋にたどり着くまでに、犬も自分もへとへとにつかれてしまったので、水のある場所に下りて行こうとしたからである。剛毅な小十郎にかすかな衰えの兆候が見えはじめたのだ。
この後小十郎と荒物屋の主人との商談の様子が語られる。小十郎は命を切り結んで手に入れた熊の胆をさんざんに買い叩かれて、わずかな金と馳走で懐柔されてしまう。荒物屋の主人の老獪さと小十郎の卑屈さとが方言をまじえてリアルに描かれる。ここで語り手は「けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がどんどん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」と断定せずにはいられない。命しか売るものがない労働者とそれを買い叩く商人=資本家の一方的な力関係を前にして、なすすべもない語り手はせめてことばで弾劾するしかない。
そうやって小十郎が命の代償として手に入れたものは何か、という問いをつきつけたのは、木によじ登ろうとしていた大きな熊だった。「お前は何がほしくておれを殺すんだ」と問われた小十郎は「お前に今ごろそんなことを言われると、もうおれなんどは何か栗かしだの実でも食っていて、それで死ぬなら死んでもいいような気がする」 と答える。「九十になるとしよりと七人家内にもっていく」わずかな米のために殺生を重ねる生活世界から死の地平にかなりな角度で傾斜した姿勢である。残した仕事もあるので二年だけ待ってくれ、という熊のことばに小十郎は立ちすくんでしまう。そして、約束通りちょうど二年目の朝、熊は小十郎の家のまえで血を吐いて死んだのだった。その姿を「小十郎は思わず拝むようにした」
小十郎が最期を迎える朝の情景は、この作品の中でもっとも印象深い場面だ。少し原文を引用したい。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき、今まで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年とったでばな、けさまず生まれで始めで、水へはいるの嫌(や)んたよな気するじゃ。」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母は、その見えないような目をあげてちょっと小十郎を見て、何か笑うか泣くかするような顔つきをした。
今生の別れを告げる母子の情景は、月光の中で美しく描かれた熊の母子の情景よりもっと美しくて、はるかにせつない思いを伝えてくる。
「じいさん、はやくお出や」と孫たちに笑われて山に入った小十郎はあっけなく熊に殺された。かつて、小十郎は、何のために自分を殺すのか、と問われた熊と会話し、熊を射たなかったが、最後はことばを交わす間もなく自分が殺されたのだ。しかもいまわの際に小十郎は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」という熊の声を聞くのである。この最後の場面は謎である。熊はほんとうに小十郎を殺す気がなかったのか。だとしたら何故「棒のような両手をびっこにあげて、まっすぐに走って来た」のだろう。そして小十郎が鉄砲を射ったのに、何故「少しも倒れないであらしのように黒くゆらいでやってきた」のか?熊は何者なのか?
小十郎に死をもたらした熊が何者なのかについて一つの仮定があり、この作品といくつかの共通する部分をもつ「オツペルと象」とこの作品とを比較するためにも検討したい命題なのだが、それはまた別の機会にしたい。とりあえずのまとめとして、最初に私が述べた「この作品にこめられたある種のメッセージ性」の具体的な内容について、書いておきたいと思う。それを端的にいえば、「死の荘厳さ」、であろうか。小十郎と約束を交わしてその通りに死んでいった熊も、そうでない熊も、そして小十郎自身の死も、死は同じように荘厳な事実である。そしてそれ以外の何ものでもない。「畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出てもだれも相手にしねえ」小十郎の家族を残したまま、死はただ死として彼に訪れたのだ。死が生の完成であり、終着であるという予定調和の世界は最初から破綻している。語り手は、「まるで生きているときのようにさえざえして何か笑っているようにさえ見えた」顔の小十郎の死骸が「栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の平らに」置かれ、そのまわりを「黒い大きなものがたくさん輪になって集まって」「回回教徒の祈るときのように、じっと雪にひれふしたままいつまでも動かなかった」と語って、時を停止させるのである。
ほんとうはサリンジャーの原文講読を進めなければいけないのですが、どうしてもこの作品が気になっていたので、寄り道してしまいました。また明日からサリンジャーに戻ろうと思っています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
「なめとこ山の熊のことならおもしろい」という書き出しでこの小説は始まる。「おもしろい」というのだから、語り手がいるのだが、語り手は徹底して物語の外側で語り、作品世界の中に登場することはない。「オツペルと象」の語り手と同じである。もうひとつ「オツペルと象」と共通していることがあって、語りの文体が常体なのである。賢治の童話は多くが敬体の文章で書かれている。童話集『風の又三郎』の解説を書いている谷川徹三氏の言うように「天成の教育者であった」賢治は、つねに語られる相手=子どもを意識して作品を作っていたので、子どもが受け入れやすいように「ですます」体を多く使ったのだと思われる。しかしこの作品はそうではない。語り手が語る相手は、必ずしも子どもを第一に意識しているのではないのだ。そして「オツペルと象」の語り手が最後には、「おや、君、川へはいっちゃいけないったら」と韜晦してしまうのに対して、「なめとこ山の熊」は、小十郎の死骸をとりまく熊の様子を「ほんとうにそれらの大きな黒いものは、参の星(オリオン)が天のまん中に来ても、もっと西に傾いても、じっと化石したようにうごかなかった」と描写して、最後まで語りの姿勢を変えることなく語りきるのである。
物語は「なめとこ山の熊」を「片っぱしから捕った」熊捕りの名人の小十郎と熊たちとの交流を語る。交流というより、殺すか殺されるかの勝負、といった方がほんとうは正確なのだろう。殺した熊に因果を含める小十郎の姿が描かれるが、「米などは少しもできず、味噌もなかったから、九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもっていく米はごくわずかずつでも要った」から、生きていくために殺さなければならなかったのだ。殺さなければ、すなわち自分が、否七人家内が全員飢え死にするのである。
小十郎と熊との関係は、時の推移とともに微妙に変化していく。「小十郎はもう熊のことばだってわかるような気がした」という文章の後、小十郎は月あかりの中で「後光がさすように思え」た母子の熊の姿を見つける。この場面で描かれる母子の情景はまるで一幅の絵画のように美しく、その会話」は詩のようである。小十郎はこの二匹の熊を射つことができないばかりか、「なぜかもう胸がいっぱいになって、もういっぺん向こうの谷の白い雪のような花と、余念なく月光をあびて見ている母子の熊をちらっと見て、それから音をたてないように、こっそりこっそり戻りはじめた。」だが、小十郎がこの母子を見つけたのは、彼が「柄にもなく登り口をまちがってしまった」ため、去年つくった小屋にたどり着くまでに、犬も自分もへとへとにつかれてしまったので、水のある場所に下りて行こうとしたからである。剛毅な小十郎にかすかな衰えの兆候が見えはじめたのだ。
この後小十郎と荒物屋の主人との商談の様子が語られる。小十郎は命を切り結んで手に入れた熊の胆をさんざんに買い叩かれて、わずかな金と馳走で懐柔されてしまう。荒物屋の主人の老獪さと小十郎の卑屈さとが方言をまじえてリアルに描かれる。ここで語り手は「けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がどんどん進歩するとひとりで消えてなくなって行く」と断定せずにはいられない。命しか売るものがない労働者とそれを買い叩く商人=資本家の一方的な力関係を前にして、なすすべもない語り手はせめてことばで弾劾するしかない。
そうやって小十郎が命の代償として手に入れたものは何か、という問いをつきつけたのは、木によじ登ろうとしていた大きな熊だった。「お前は何がほしくておれを殺すんだ」と問われた小十郎は「お前に今ごろそんなことを言われると、もうおれなんどは何か栗かしだの実でも食っていて、それで死ぬなら死んでもいいような気がする」 と答える。「九十になるとしよりと七人家内にもっていく」わずかな米のために殺生を重ねる生活世界から死の地平にかなりな角度で傾斜した姿勢である。残した仕事もあるので二年だけ待ってくれ、という熊のことばに小十郎は立ちすくんでしまう。そして、約束通りちょうど二年目の朝、熊は小十郎の家のまえで血を吐いて死んだのだった。その姿を「小十郎は思わず拝むようにした」
小十郎が最期を迎える朝の情景は、この作品の中でもっとも印象深い場面だ。少し原文を引用したい。
一月のある日のことだった。小十郎は朝うちを出るとき、今まで言ったことのないことを言った。
「婆さま、おれも年とったでばな、けさまず生まれで始めで、水へはいるの嫌(や)んたよな気するじゃ。」
すると縁側の日なたで糸を紡いでいた九十になる小十郎の母は、その見えないような目をあげてちょっと小十郎を見て、何か笑うか泣くかするような顔つきをした。
今生の別れを告げる母子の情景は、月光の中で美しく描かれた熊の母子の情景よりもっと美しくて、はるかにせつない思いを伝えてくる。
「じいさん、はやくお出や」と孫たちに笑われて山に入った小十郎はあっけなく熊に殺された。かつて、小十郎は、何のために自分を殺すのか、と問われた熊と会話し、熊を射たなかったが、最後はことばを交わす間もなく自分が殺されたのだ。しかもいまわの際に小十郎は「おお、小十郎、お前を殺すつもりはなかった。」という熊の声を聞くのである。この最後の場面は謎である。熊はほんとうに小十郎を殺す気がなかったのか。だとしたら何故「棒のような両手をびっこにあげて、まっすぐに走って来た」のだろう。そして小十郎が鉄砲を射ったのに、何故「少しも倒れないであらしのように黒くゆらいでやってきた」のか?熊は何者なのか?
小十郎に死をもたらした熊が何者なのかについて一つの仮定があり、この作品といくつかの共通する部分をもつ「オツペルと象」とこの作品とを比較するためにも検討したい命題なのだが、それはまた別の機会にしたい。とりあえずのまとめとして、最初に私が述べた「この作品にこめられたある種のメッセージ性」の具体的な内容について、書いておきたいと思う。それを端的にいえば、「死の荘厳さ」、であろうか。小十郎と約束を交わしてその通りに死んでいった熊も、そうでない熊も、そして小十郎自身の死も、死は同じように荘厳な事実である。そしてそれ以外の何ものでもない。「畑はなし、木はお上のものにきまったし、里に出てもだれも相手にしねえ」小十郎の家族を残したまま、死はただ死として彼に訪れたのだ。死が生の完成であり、終着であるという予定調和の世界は最初から破綻している。語り手は、「まるで生きているときのようにさえざえして何か笑っているようにさえ見えた」顔の小十郎の死骸が「栗の木と白い雪の峯々にかこまれた山の平らに」置かれ、そのまわりを「黒い大きなものがたくさん輪になって集まって」「回回教徒の祈るときのように、じっと雪にひれふしたままいつまでも動かなかった」と語って、時を停止させるのである。
ほんとうはサリンジャーの原文講読を進めなければいけないのですが、どうしてもこの作品が気になっていたので、寄り道してしまいました。また明日からサリンジャーに戻ろうと思っています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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