カムパネルラを殺したのは、いうまでもなく作者賢治である。右手に時計をもって「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。」と父親に宣告させ、賢治がカムパネルラを死なせたのだ。そして、カムパネルラは賢治である。賢治はカムパネルラを殺して、自分に罰を与えたのだ。『ポラーノの広場』のレオーネ・キューストと同じように。
前回の投稿で、カムパネルラのモデルについて、保坂嘉内と妹のとし子をあげ、おおむねそれで間違っていないと思うと述べたが、いまは賢治その人がカムパネルラだと考えている。それだけでなく、『銀河鉄道の夜』という作品そのものを根本から見直さなければならないと思う。
『銀河鉄道の夜』は、初稿、第二次稿と書き継がれ、第三次稿でいったん完成されたかに見えた作品だった。だが、賢治は最終稿で完全に結末のベクトルを変えてしまった。結末の部分がどうなっているか、繰り返しになるが、もう一度確かめたい。
初稿、第二次稿では、カムパネルラがいなくなると、ジョバンニが
「さあ、やっぱりたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」
と叫ぶ。そのことばにこたえるかのように、まっくらな地平線の向こうに青じろいのろしうちあげられる。昼間のように明るくなった汽車の中で、ジョバンニは
「あゝマジェラン星雲だ。さあ、もうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのためにみんなのためにほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」と宣言する。すると、「セロのやうな声」がして、ジョバンニに、汽車の中で車掌に見せた「切符」をしっかり持って、現実の世の中を歩いて行くようにはげます。その声がしたと思うと、天の川は遠くなって、「あのブルカニロ博士」が現れ、ジョバンニの体験が博士の実験だったといい、彼に金貨を二枚くれる。
第三次稿でもおおむねプロットは変わらないが、「セロのやうな声」の人は、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」の姿をしてあらわれ、カムパネルラの座っていたところにすわり、ジョバンニに語りかける。そして、詳しく、具体的に、宇宙の真実のようなものをジョバンニにおしえ、不思議な実験を彼にほどこすのである。さらに、その人がジョバンニに「プレオシスの鎖」を解かなければいけない、というと、青じろいのろしがあがり、ジョバンニはマジェラン星雲に誓いをたてるのだ。
そのあと、再び「セロのやうな声」がして、ジョバンニをはげまし、天の川が遠くなって、「あのブルカニロ博士」が登場し、ジョバンニにこれが実験であると伝える部分は前二稿と同じである。前二稿と異なるのは、「セロのやうな声」のひとと「あのブルカニロ博士」と二人がジョバンニを実験の対象としていることである。「セロのやうな声」の人がした実験も含めて、ジョバンニの銀河鉄道の旅の体験すべては「あのブルカニロ博士」のした実験であって、ジョバンニに対して二重の実験がされたことになっている。
これは前ニ稿へのかなり大きな改変だと思うが、最終稿は、何と、この部分を完全に削除してしまっている。「青じろいのろし」、「マジェラン星雲」「セロのやうな声」「あのブルカニロ博士」といった印象的な表象はすべて消され、ジョバンニの持っているとされた「切符」も、かれに与えられた「二枚の金貨」の話もない。ジョバンニをはげまし導いてくれるメンターも、お金をくれていつでも相談にのってくれるというパトロンも消えてしまう。いうまでもなく作者賢治が消したのである。第三次稿まで紡ぎあげてきた物語は、最終稿でハッピーエンドから一転、何もない空間に読者を放り出してしまう。
胸を熱らせ頬につめたい涙を流してジョバンニは夢からさめる。注意しておきたいのは、彼の銀河鉄道の旅の体験が夢だったと明言されるのは最終稿だけである。それまでの三稿では、「セロのやうな声」がしたと思うと天の川が遠ざかり、風が吹いて、ジョバンニは「まっすぐ草の丘にたってゐる」自分を見るのだ。それは夢と現実の二項対立ではなく、銀河鉄道の旅の体験とひとつながりの現象なのである。自分で自分の姿を見る、という不思議な現象であるが。
夢から覚めたジョバンニは、病気の母親のことを思い出し、走って丘を下りさっき断られた牛乳をもらいに牧場に行く。今度は白いズボンをはいた人が出てきて、まだ熱い牛乳瓶が渡される。そのあと、ジョバンニは、牧場を出て家に向かうが、町の十字路で女たちが集まって、橋のほうを見ながらひそひそ話しているのを見て「なぜかさあっと胸が冷たくなったやうに思ひました。」と書かれる。カムパネルラの溺死という事実を知る前に、ジョバンニは戦慄を感じたのだ。
カムパネルラは、烏うりを流そうとしてあやまって川に落ちたザネリを救うために飛び込んで、その後見えなくなってしまった。たくさんの人が集まる中、黒い服を着た「青じろい尖った顎をした」カムパネルラのお父さんが、カムパネルラの死を宣告する。もう四十五分たったから駄目だ、と。なぜ四十五分が期限となるのかわからないのだが。
『銀河鉄道の夜』の読者は、汽車に先に乗っていたのが「ぬれたやうなまっ黒な上着を着た」カムパネルラであり、そのカムパネルラは「少し顔いろが青ざめて、どこか苦しいといふふう」と書かれているのを知っているので、カムパネルラの死を違和感なくうけいれてしまう。だが、そもそも、なぜ、カムパネルラは死ななければならなかったのか。あるいは、なぜ、ザネリを救うために死ななければならなかったのだろう。ほかでもない、ジョバンニを辱め、執拗に苛めたザネリを助けるために。作者はどうしてこんな皮肉な設定にしたのか。
多くの読者は、とくに第三次稿の中で、ジョバンニのカムパネルラへの思慕が縷々つづられているのを読んで、無条件に二人が親友だと思っている。ほんとうにそうだろうか。親友だったら、苛められ辱められている友を見過ごして、高く口笛を吹いて遠ざかっていくことなどできるだろうか。カムパネルラはジョバンニを裏切り続けたのだ。そして、その報いに殺されたのだ。作者賢治に。
そして、冒頭書いたように、カムパネルラは賢治である。『銀河鉄道の夜』を先入観なしに読むことができたら、カムパネルラは賢治とほぼ等身大に描かれていることに気がつくだろう。「せいが高い」ことなどささいな違いはあるが。自分と等身大に描いたカムパネルラに、友を裏ぎらせ、その報いに死を与える作者賢治の屈折、挫折そして自罰の念は、いつから、どこからきたのだろう。
第三次稿から最終稿への変化は、結末部分だけではない。初稿と第二次稿の前半部分が欠落しているので、断定はできないが、最終稿の冒頭「午后の授業」から「活版所」「家」まで、かなり長い部分は最終稿で書き加えられたもののようである。ここには、銀河鉄道に乗るまでのジョバンニの生活が具体的に時系列に沿って書かれている。
ジョバンニは毎日学校の授業の前後にはたらかなければならないので、どうしても勉強に身が入らない。先生に指名されても、わかっているはずのことに自信がもてず、こたえられなくて浮き上がってしまう。授業が終わると活版所に行って活字を拾う仕事をする。一緒に働いている労働者から「虫めがね君」と呼ばれて冷たくわらわれるが、六時過ぎまで働いて銀貨を一枚もらう。
仕事を終えたジョバンニはパンを一塊と角砂糖を買って家に帰る。角砂糖は母親に飲ませる牛乳に入れるのである。「あゝジョバンニ、お仕事がひどかったらう。」と彼を迎えた母親は、白い巾を被って寝ている。ジョバンニは、姉がつくってくれたトマトのおかずでパンをたべながら母親と会話している。話題は不在の父親のことである。ジョバンニは、北方の漁に出ている父親はまもなく帰ってくると思っている。母親もそう思っていると言いながら、父親は漁には出ていないかもしれない、とも言う。言外に、監獄に入っているかもしれない、とにおわせている。
それにたいして、ジョバンニは、父親がそんな悪いことをしたはずはない、と言う。父親は前回巨きな蟹の甲羅やとなかいの角を持って帰り、学校に寄贈したのだ。この次はジョバンニにラッコの上着をもってくる、ともいっていたのだが、そのことがジョバンニが苛められる理由になっている。
不在の父親については、第三次稿でより詳しく書かれている。ザネリに「お父さんから、らっこの上着が来るよ。」とからかわれたとき、ジョバンニは心の中でこう思っている。
「ザネリは、どうしてぼくがなんにもしないのに、あんなことを云ふのだらう。ぼくのお父さんは、わるくて監獄にはひってゐるのではない。わるいことなど、お父さんがする筈はないんだ。去年の夏、かえって来たときだった、ちょっと見たときはびっくりしたけれども、ほんたうはにこにこわらって、それにあの荷物を解いたときならどうだ。鮭の皮でこさへた大きな靴だの、となかいの角だの、どんなにぼくは、よろこんで跳ね上がって叫んだかしれない。・・・・・・・。」
第三次稿で、ジョバンニが「お父さんは、わるくて監獄にはひってゐるのではない。」と思っているということは、彼は、父が監獄に入っていることは事実として受けとめていることになる。ところが、最終稿では、ジョバンニは、「お父さんが、監獄に入るやうなそんな悪いことをした筈がないんだ。」といっているので、監獄に入っているかどうかは不明である。共通するのは、父親が「となかいの角」「蟹の甲ら」「らっこの上着」など、動物を屠ってこしらえたものを持って帰る、と書かれていることだ。「蟹の甲ら」は第三次稿では「鮭の皮でこさえた巨きな靴」となっていて、こちらの方がより生々しい印象がある。ジョバンニの父親の職業は何だろう。
「となかいの角」や「蟹の甲ら」は違法な獲物ではないかもしれないが、「らっこの上着」については、漁獲に関して禁止、規制の法律が定められているので、違法の可能性がある。ジョバンニの父親は、監獄に入っているかどうかは別にしても、何らかの違法行為を犯しているかもしれない。ジョバンニはたんに「病気の母親の面倒を見ながら家計を支えるけなげな少年」として描かれるだけでなく、出自に何か暗い闇の部分をかかえる複雑な存在として登場する。ジョバンニにたいする差別、執拗な苛めの原因は彼を取り巻く闇の部分にあるのだろう。作者はそれをあえて明らかにしないのだ。
第三次稿から最終稿への過程で、第三次稿の結末部分の削除と、カムパネルラの死、「午后の授業」「活版所」「家」の部分の加筆と、どちらが先だったかわからない。同時並行的に行われた可能性もあるだろう。銀河鉄道に乗るまでのジョバンニについては、第三次稿では、彼の心理に即して語られているので、それを整理し、客観化して最終稿に組みなおしたともいえる。
いずれにしろ、最終稿のジョバンニには、何もない。メンターもパトロンも誰もいないし、道しるべとなる切符もお守りのような金貨もない。彼は孤独だ。そして自由である。もう彼は博士の実験の対象ではないのである。
ジョバンニからいっさいを奪って、現実の中に立たせたもの、それは作者の大きな断念だろう。最終稿のジョバンニは、マジェラン星雲に向かって誓いをたてることもない。病気の母親のために、牛乳を受けとりにもう一度牧場に行き、今度は熱い牛乳瓶をもらって帰るのだ。希望があるとすれば、カムパネルラの父が、ジョバンニの父から無事の便りを受け取った、と知らせてくれたことかもしれない。
不思議な、謎にみちた銀河鉄道の旅の終わりに、ジョバンニはあたたかい牛乳を受け取り、父の無事を知らされる。金貨二枚がもたらされるハッピーエンドはなくなったが、ここに救いが、そして希望の光が、微かだが確かにに見いだされるような気がする。
『銀河鉄道の夜』について、いくつも投稿してきましたが、何か違う、何も言えていない、という消化不良の思いを拭いきれませんでした。賢治の作品は、今までにもいくつか取り上げて書いてきましたが、今回が一番七転八倒して、なおかつ一番不出来だと思っています。今回満足にほど遠いながら、何とか最後まで書くことができたのは、鈴木守氏の「みちのく山野草」というブログに助けられたことが大きかったと思います。連日の鈴木氏の投稿が、生活者賢治のいきづかいを伝えてくれるような気がしました。本当にありがとうございました。
今日も未熟な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。