2024年11月28日木曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の旅の夜』__旅の終わりに___カムパネルラの消失から死まで

  前回の投稿を終えて、ずっとカムパネルラのことを考えている。カムパネルラとは何だったのか。

 カムパネルラについては、今回『銀河鉄道の旅の夜』を読み直すにあたって、最初に「カムパネルラという存在とその消失の意味するもの」と題して書いている。興味のある方はそちらを参照していただけるとありがたい。今回あらためて考えてみたいのは、「カムパネルラとは何か」あるいは「ジョバンニとは何か」である。

 前回「カムパネルラという存在とその消失」でも述べたように、第三次稿で具体的に記されたジョバンニとカムパネルラのかかわり、そして縷々と綴られたジョバンニのカムパネルラへの切ない思いは最終稿ではほとんど削除されてしまっている。代わりに、病気で臥せっているジョバンニの母とジョバンニとの会話のなかで、少し不思議なことが語られている。

 「あの人はうちのお父さんとはちょうどおまへたちのやうに小さいときからのお友達だったさうだよ。」これはジョバンニの母のことばだが、「あの人=カムパネルラ」が「うちのお父さん」と「小さいときからのお友達だった」とはどういうことを意味するのだろう.

 「あの人のお父さん」と「うちのお父さん」が小さいときからの友達だった、と言っているのではない。ややこしい話だが、「あの人=カムパネルラ」が「うちのお父さんの友達だった」と言っているのである。作者賢治の書き間違いだろうか。ジョバンニの同級生のカムパネルラがジョバンニの父と「小さいときからの友達だった」という状況は普通はあり得ない。また、ジョバンニの母の「小さいときからのお友達だったさうだよ」という言葉は、母がジョバンニの父からカムパネルラとジョバンニの父が友達であると聞いていたことを示している。

 ところで、『銀河鉄道の旅の夜』の多くの読者は、ジョバンニのモデルは作者賢治であり、カムパネルラのモデルは賢治の思慕の対象となった保阪嘉内、あるいは亡くなった妹のとし子を想定していると思う。おおむねそれで間違ってはいないと思うが、ジョバンニとカムパネルラの人物造型は少し複雑である。

 ジョバンニは父が不在で、貧しく、病気の母の面倒をみながら、学校の前後に働かなくてはならない。そのため同級生にいじめられ、疎外されている。この状況は賢治とまったくかけ離れたものである。賢治はむしろ、何不自由ない暮らし向きのカムパネルラと同じ境遇だった。では、ジョバンニは賢治とまったくことなった人物として描かれているのかといえば、もちろんそうではない。

 「天上へなんか行かなくたっていゝぢゃないか。ぼくたちこゝで天上よりももっといゝとここさへなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」サウザンクロスの駅で降りる支度をしている女の子にかけたジョバンニのことばだが、これは賢治の思想だろう。この後、クリスチャンの青年とジョバンニは「たったひとりのほんたうのほんたうの神さま」について神学論争をはじめるのだが、結論は出るはずもない。ほかならぬ「ここで」、「天上よりももっといゝとここさへなけぁいけない」とは、賢治の至上命題で、ジョバンニはまさに賢治の代弁者である。

 そのジョバンニを、なぜ賢治は自身と正反対の境遇においたのか。おそらくそれは、「みんなのほんたうのさいはひをさがしに行く」主人公を、経済的、あるいは政治的にも賢治の属する階層とは異なった階層の人間として設定したかったのだと思われる。そして、それは、旅の途中で唐突に新大陸のインディアンや「星とつるはしの旄」が登場することにつながっているのではないか。

 賢治とほぼ重なる境遇のキャラクターとして造型されたのは、先に述べたようにカムパネルラの方である。裕福な家庭に育ち、学力も高く、絵も上手で、「運動場で銀貨を二枚弾いてゐたりしていた。」と第三次稿で書かれている。もっともこの部分は最終稿では完全に削除されてしまっているのだが。

  では、カムパネルラは銀河鉄道の旅の中で、何をしたのか。

 ひとことでいえば、何もしていないのだ。何もしていない、といえば語弊があるかもしれない。先に汽車に乗ったが、ジョバンニの同行者として最後まで彼の傍らに「ゐた」のである。

 ジョバンニが持っていない「銀河ステーションでもらった地図」をもっていて、旅の途中都度々々地図を開いて、現在地とその状況を確認するのがカムパネルラだった。天の川の砂を見て、「この砂はみんな水晶だ。中で小さな火が燃えてゐる。」と言ったり、河原に列をなしてとまっている鳥が烏でなくかささぎであると判定したり、自然科学の知識が特に豊富なようだ。空を渡る鳥の大群に旗を振って信号を送る渡し人が現れる場面では「どこからかのろしがあがるため」だろうと推測したりしている。両岸に「星とつるはしの旄」が立つ川に発破がしかけられ、鮭や鱒が打ち上げられる場面では、ジョバンニとともに小躍りして喜んでいる。

 『銀河鉄道の旅の夜』は三人称の作品だが、一貫してジョバンニの心情から語られているので、カムパネルラが何を考えているかはわからない。ほぼジョバンニと重なっているように見えるが、二人の距離は稿を重ねるごとに微妙に離れていく。少し煩雑になるが、サウザンクロスでほとんどの乗客が降りたあとのジョバンニとカムパネルラの会話を比べてみたい。

 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならばそしておまへのさいはひのためならば僕のからだなんか百ぺん灼ひてもかまはない。」(下線は筆者)
 「うん、僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
 「けれどもほんたうのさいはいは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
 「僕わからない。」カムパネルラはさうは云っていましたがそれでも胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしました。
 「僕たちしっかりやらうねぇ。」ジョバンニが云ひました。

 これが初稿だが、第二次稿もほとんど同じである。ただジョバンニのことばから「そしておまへのさいはひのためならば」が削除されている。第三次稿と最終稿ではこうなっている。

 「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねぇ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼ひてもかまはない。」
 「うん、僕だってさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
 「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。(下線は筆者)
 「僕たちしっかりやらうねぇ。」ジョバンニが胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。(下線は筆者)

 初稿では、ジョバンニはカムパネルラを前にして「そしておまへのさいはひのためならば」僕のからだなんか百ぺん灼ひたってかまはない、と言っている。はっきりと、カムパネルラそのひとを対関係の対象にすえている。

 第二次稿では「そしておまへのさいはひのためなら」は削除され、「おまへのさいはひ」は「みんなの幸」と集約され一般化されている。さらに第三次稿と最終稿では、それまでの稿と以下の二点で明確に異なっている。

 ひとつは、初稿と第二次稿では、本当の幸いはなんだろう、というジョバンニの問いにカムパネルラは「僕わからない」と言いながら、「それでも胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしました。」と書かれているのに対し、第三次稿と最終稿では、「「僕わからない」カムパネルラがぼんやり云ひました。」となっていること。また、「胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をしたのは、カムパネルラではなく、ジョバンニなのだ。

 初稿から最終稿まで、ジョバンニの傍らにいるカムパネルラは、「きれいな涙を「うかべて」ジョバンニに共感するたたずまいはかわらないが、最後は「ほんたうのさいはひはなんだらう。」というジョバンニの問いに「僕わからない」と「ぼんやり」言うだけなのだ。ジョバンニひとりが「「僕たちしっかりやらうねぇ。」と「胸いっぱい新しい力が湧くやうにふうと息をした。」のである。賢治は、ジョバンニから完全ににカムパネルラを引きはがしたのだ。

 「僕たちしっかりやろうねぇ。」とジョバンニが言った直後「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」とカムパネルラが天の川に空いた大きなまっくらな孔を指し示す。そして彼は「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」というジョバンニに「あゝきっと行くよ。」と言いながら消えてしまう。

 注意しなければならないのは、初稿と第二次稿では、カムパネルラは「いなくなった」のであり、必ずしも「死んだ」ことにはなっていないことだ。というより、作者の関心は「さあ、やっぱりぼくはたったひとりだ。きっともう行くぞ。ほんたうの幸福が何だかきっとさがしあてるぞ。」(下線は筆者)というジョバンニの決意表明にある。そしてジョバンニは「セロのやうな声」の主に、切符をしっかりもって、厳しい現実を歩いて行くよう訓示をうけ、次に現れた「ブルカニロ博士」から金貨を二枚もらって帰途に向かう。

 第三次稿のカムパネルラは、「どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」というジョバンニに「あゝきっと行くよ。」といった後「あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集まってるねぇ。あすこがほんたうの天上なんだ。あっあすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と叫んで消えてしまう。カムパネルラの消失に慟哭しているジョバンニに声をかけたのは、「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」だった。その人はカムパネルラが「ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。」といい、もうさがしてもむだだ、と彼の死を示唆する。

 『銀河鉄道の旅の夜』の成立論を始めるつもりはないのだが、第三次稿はそれまでの二稿に比べて、かなり異色である。初稿、第二次稿は前半が欠落しているので、一概にいえないが、第三次稿は分量が前の二稿の倍以上になっている。とくに、カムパネルラが消えた後に不思議な人物が現れるが、その人物がジョバンニに世界の真理を説く部分が長いのである。

 前の二稿では「セロのやうな声」がして、ジョバンニを励まし、「天の川のなかでたった一つのほんたうの切符」を持って「本当の世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐ歩いていかなければならない。」という。それから、「あのブルカニロ博士(欠落している前半部分にすでに登場しているのだろうか)が近づいてきて、ジョバンニの銀河鉄道の旅の体験が「遠くから私の考えを伝える実験」であり、「これから、何でもいつでも私のとこへ相談においでなさい。」と言って、金貨を二枚ジョバンニに与える。

 第三次稿では、消えたカムパネルラの座っていた席に「「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」が「優しく笑って大きな一冊の本をもって」いた。そして、その人は、カンパネルラの死を示唆した後、人生と世界の秘儀について長い講釈をするのだが、私の能力ではそれを要約することができない。おそらく仏教の宇宙観、もしかしたら三島由紀夫が「暁の寺」で精緻な説明を試みていた阿頼耶識のことかもしれない。それからその人はジョバンニに不思議な実験をする。

 「そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものがじぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんながいっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。」

 前の二稿はブルカニロ博士が実験をしたのだが、第三次稿ではカンパネルラの席に座った不思議な人が汽車のなかでジョバンニに実験をする。だが、この後またしても「あのブルカニロ博士」が現れ、この実験を含む銀河鉄道の旅すべてが私の実験だった、という。賢治はなぜこんな重複とも見える筋立てにしたのだろう。

 不思議なことに、こんなに詳しく世界を語ることに情熱を傾けた第三次稿の最期の部分は最終稿では完全に削除されている。「あのブルカニロ博士」の実験のくだりもなく、代わりに、「青じろい尖った顎をした」カムパネルラのお父さんが黒い服を着て登場し、カムパネルラの死を宣告する。第三次稿と最終稿の断絶については検討しなければならない多くの課題があるが、それについてはもう少し時間がほしいと思っている。

 ひとつの仮説として、第三次稿までは、ジョバンニが求道者として世界に屹立するまでの物語だった。そのためにジョバンニは、カムパネルラから自立しなければならなかった=カムパネルラを失わなければならなかった。そのことによって、「みんながカムパネルラだ」という真実に気づくために。

 『銀河鉄道の旅の夜』の難解さは、決定稿がないため、活字化されたものでも初稿から最終稿まで段落が錯綜していることにも原因があるように思います。今回は岩波現代文庫の『「銀河鉄道の旅の夜」精読』を参考にさせていただきました。初稿から最終稿まで掲載されているので、賢治の推敲の過程がわかりやすく、非力な私でもいくらか読解を深めることが出来たように思います。著者の鎌田東二氏に感謝申し上げます。

 未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。