2024年7月22日月曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__橄欖の森のあやしい音いろ

  燈台看守が配った苹果はジョバンニとカムパネルラのポケットにしまわれ、汽車は青い橄欖の森にさしかかる。

 「川下の向ふ岸に青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標がたって、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじって何とも云へずきれいな音いろが、とけるやうに浸みるやうに風につれて流れてくるのでした。」

 橄欖の森は、白鳥の停車場から南十字星まで、銀河鉄道の旅のほぼ真ん中に当たる部分に位置する。『銀河鉄道の夜』はどの部分をとっても難解だが、とくに橄欖の森の場面はいつまでも解決のつかない謎にみちている。「橄欖の森」が何の寓意であるかは、私にとっては明らかで、橄欖=オリーブであることから、「オリーブ山」とほぼ同定している。旧訳の聖書ではオリーブ山を橄欖山と訳している。

 もっとも、「オリーブ」を「橄欖」と訳したのは中国語聖書の誤訳であるといわれているので、これもじつは橄欖の森をオリーブ山と同定することにゆらぎがまったくないわけはないのだが。

 問題は、「青く茂った大きな林が見え、その枝には熟してまっ赤に光る赤い円い実がいっぱい」と書かれる「まっ赤に光る赤い円い実」が何を意味するのか、「その林のまん中」の高い高い三角標」はたぶん十字架のことだろうが、それでほんとうにいいのか、そしてまた、「オーケストラベルやジロフォンにまじって」流れてくる「何とも云へずきれいな音いろ」とは何か、皆目見当がつかないのだ。

 橄欖もオリーブもその実が「まっ赤に光る赤い円い実」をつけることはないので、この部分が何を指しているのかわからない。何かの比喩なのか、あるいは、実際は青や紫の実を「赤」と書いているのか。余談だが、賢治は色彩の表現、とくに「赤」にはこだわりがあるようである。この作品でも、ふくろうや蠍の眼を「赤」と書いているが、どちらの眼も実際には赤くない。

 続いて、

 「青年はぞくっとしてからだをふるふやうにしました。
 だまってその譜を聞いてゐると、そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物かがひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやうに思われました。」

と書かれているのも不審である。まず第一に、「青年はぞくっとして」という叙述は青年の心理を内側から描写したもので、三人称の話法ではルール違反ではないか。一方「だまってその譜を聞いてゐると...」という文章は、主語がない。おそらく「ジョバンニが」という主語を示す部分が省かれていて、主語がなくても日本語は成り立つので、些細な事にとらわれる必要はないのかもしれないが。

 だが、何よりも、「何とも云へずきれいな音いろ」で「そこらいちめん黄いろやうすい緑の明るい野原か敷物がひろがり、またまっ白な蠟のやうな露が太陽の面を捺めて行くやう」な光景を浮かびあがらせるような「譜」が青年を「ぞくっと」させるのはなぜか、いったいその「譜」は何だろう、という疑問の解決の糸口さえわからないのである。そもそも、青年の「ぞくっとした」と表現される心理の内容がわからない。たんなる「怯え」ではないだろう。

 初稿では、橄欖の森を「琴(ライラ)の宿」と呼び、橄欖の森を過ぎた後イルカ_イルカ座が登場する。琴座とイルカ座は、そのどちらもオルフェウス、アリオンという琴の名手を主人公とする神話を持つ星座であることから、「何とも云へずきれいな音いろ」は竪琴を鳴らす音だと思われる。だが、第二次稿以降はその部分はどちらも削除されてしまっているので、これもまた断定はできないのだが。

 このあと、少し唐突な感を覚えるのだが、天の川の河原にたくさんのかささぎが列をなしてとまっている描写が挿入される。かささぎといえば、

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持

が有名である。七夕に織女と牽牛の逢瀬のために天の川を填めて橋をなしたという伝承が想起されるが、そのことと青年をぞくっとさせる「あやしい音いろ」は関係があるのだろうか。

 「あやしい音いろ」が竪琴を鳴らす音であると仮定すると、前述したように、琴の名手オルフェウスの伝説に行きつく。オルフェウスは、毒蛇にかまれて死んだ妻エウリュディケーを取り戻しに冥界に入り、いったんは取り戻すことをゆるされたが、はやまって失敗する。妻を失ったオルフェウスは、女性との愛を断ち、オルフェウス教を広めるが、ディオニューソスの信者の女たちに八つ裂きにして殺される。ばらばらになったオルフェウスの首と竪琴は歌を歌いながら、投げ込まれた川をくだって海に出、レスボス島に流れ着いたといわれている。

 不思議なのは、オルフェウスの伝説もかささぎの七夕伝承も、どちらも恋愛の話なのである。なぜ、この時点で恋愛がテーマになるのか。橄欖山=オリーブ山であるとすれば、聞こえてくるのは、マタイ受難曲のたぐいのものではないだろうか。もしかしたら、オーケストラやジロフォンの奏でる曲はそれかもしれない。「あやしい音いろ」はそれにまじって、だがかき消されることなく聞こえてきたのだった。

 この後、汽車が橄欖の森を正面に見る位置に来たとき、汽車の中で起こった合唱はまぎれもなく讃美歌だった。第二次稿では詳しく歌詞を紹介しているが、有名な「主よみもとにちかづかん」である。

 「主よみもとにちかづかん
 のぼるみちは十字架に
 ありともなどかなしむべき
 主よみもとにちかづかん」

なぜか歌詞は第三次稿以降省かれ、讃美歌の番号も不明のままにされているが、汽車のうしろの方からこの讃美歌が聞こえてくる。ジョバンニもカムパネルラも一緒にうたいだしたが、かほる子と呼ばれる女の子はハンケチを顔にあててしまい、「青年はさっと顔いろが青ざめ、立っていっぺんそっちへ行きそうにしましたが思ひかへしてまた座りました。」と書かれる。青年は讃美歌を歌ったのだろうか。

 またしても謎は謎のままで、かえって深まるばかりです。この後、遠くになって緑いろの貝ボタンのように小さく見える橄欖の森の上に登場する孔雀についても書きたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。

 ここまで書いてきて、橄欖の森=オリーブ山と同定するならば、もう少し深くオリーブ山について考えなければいけないことに気がつきました。たんに、イエスが十字架にかけられる直前に祈ったゲッセマネがそのふもとにあり、復活のイエスが昇天したのがその頂であるというだけで、橄欖の森_オリーブ山がこの作品の肝ともいうべき部分に登場するのではないように思います。そのことを書くかどうか、迷っています。『銀河鉄道の夜』論、あるいは宮沢賢治論を根底から検討し直すことにつながるかもしれず、軽々に文章にできないのが現状です。

 いま、私が立てている仮説が正しいならば、「まっ赤に光る赤い円い実」と「高い高い三角標」の意味するところも分かるような気がするのですが、むしろ、その仮説が間違っていてほしいような矛盾した思いがあります。

 混乱を極めた文章を、最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2024年7月2日火曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__燈台看守が配る苹果

  プリオシン海岸の発掘現場を後にして、再び汽車に乗ったジョバンニの隣に不思議な人物が座る。天の川に帰って死ぬ間際の鳥を捕まえて「からだに恰度合ふほどに稼いでゐる」鳥捕りである。鳥捕りについては以前「ケンタウロス_生の軛」というサブタイトルの投稿で触れたので、ここでは詳しく語らないが、ジョバンニがその人を見て「なにか大へんさびしいやうなかなしいやうな気がし」たこと、その人が、ジョバンニが車掌にわたした紙切れを横目で見て「ほんたうの天上へさへ行ける」「どこでも勝手に歩ける通行券」とほめだしたこと、そしてジョバンニはその鳥捕りが気の毒になって「ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこのひとのほんたうの幸いになるならじぶんがあの光る天の川の河原に立って百年つゞけて鳥をとってやってもいゝといふやうな気がし」たことを覚えておきたい。

 とくに、ジョバンニ自身も不可解な「いちめん黒い唐草のやうな模様の中に、をかしな十ばかりの字を印刷した」紙切れを解読したのが鳥捕りだったこと、さらに、鳥捕りが、これがあれば「こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこでも行ける筈」とまで断言していることは忘れてはならない。ジョバンニの持っていた紙切れは、独断と偏見で推測すれば、何かの護身符の役割をするものだったと思う。そしてそれは、後に登場する孔雀と関連するのではないかと考えている。

 鳥捕りが姿を消すのと入れ替わりに、苹果と野茨の匂いがして、「つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子」と「黒い服をきちんと着たせいの高い青年」、「十二ばかりの眼の茶色な可愛らしい女の子」が登場する。氷山にぶつかって沈没したタイタニック号を思わせる客船に乗っていて、船とともに沈没した三人連れらしい。黒服のせいの高い青年は二人の子どもたちの家庭教師で、一足先に帰国した父親のあとに子どもたちを連れて本国に帰るための航海だった。

 船が沈んでいくなかで、青年は葛藤する。子どもを含む他の客をおしのけて、二人の子どもたちを救命ボートに乗せて救うか、それとも、このままみんなで神の前に行くほうが子どもたちの本当の幸福なのか。「神に背く罪」は自分ひとりで引き受けて、子どもたちはぜひとも助けてあげよう、と思いながらどうしてもそれができず、船はどんどん沈んでいく。青年は覚悟して子どもたちを抱いて沈む船と運命をともにしたのだった。

 ちょっと不思議なのは、青年の話を聞いたジョバンニの反応である。青年の話のあと、汽車の中では「小さないのりの声が聞えジョバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思い出して眼が熱くなりました。」とあるが、ジョバンニはどんなことを思い出したのだろう。

 (あゝ、その大きな海はパシフィックといふのではなかったらうか。その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乗って、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかって、だれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに気の毒でそしてすまないやうな気がする。ぼくはそのひとのさいわひのためにいったいどうしたらいゝのだらう。)

 ジョバンニの関心の中心は、自分の行動の当為を問う青年の葛藤や、生死を分けた乗客の運命ではなかった。北の海の厳しい自然とたたかいながら労働する人たちを思って、その人たちのために何ができるかを自分に問うている。そして、何もできないでいることで自責の念にかられている。

 青年の話をひきとったのは、燈台守だった。燈台守は「尖った帽子をかぶり、大きな鍵を腰に下げ」、ジョバンニとカムパネルラの向こうの席に座っていた。燈台守は青年をなぐさめて言う。

 「なにがしあわせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから」

 汽車はきらびやかな燐光の川岸を進み、対岸の野原は「まるで幻燈のやう」と書かれているが不思議な光景である。「百も千もの大小さまざまの三角標」が野原のはてに集まってぼおっと青白い霧のやう」で、どこからか狼煙のようなものが桔梗色のそらにうちあげられる。風はばらの匂いでみちている。

 それから、燈台看守は、ひともりの金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を配る。

 少し違和感を覚えるのは、これ以降「燈台守」が「燈台看守」と書かれることである。なぜ「看」という文字を入れたのか。「看守」とは、牢獄の番人である。「大きな鍵を腰に下げ」ているのは囚人を管理するためだろう。「燈台看守」という呼称は当時一般的だったのだろうか。船の航行を見守るのに「大きな鍵」はいらないと思うのだが。

 苹果を最初に受け取ったのは青年で、次にカムパネルラが「ありがとう」といったので、気がすすまなかったジョバンニも青年から送られた苹果を受け取る。この苹果が、というより、苹果について語る燈台看守のことばがまた不思議なのだ。

 こんな立派な苹果はどこでできるのか、という青年の問いに燈台看守はこの辺ではひとりでにいいものができるので苦労がない、と答える。不可解なのは、その後の燈台看守のことばである。

 「けれどもあなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかおりになって毛あなからちらけてしまふのです。」

 農業がない即ち人間が耕して作物をつくることがない、ということと、食べ物にかすが生じないということがどうして結びつくのか。さらに、苹果やお菓子が「そのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかをりになって毛あなからちらけてしまふ」とはどういうことなのか。ここでいう「苹果やお菓子」は『注文の多い料理店』の序にある「あなたのすきとおったほんたうのたべもの」にあたるのだろうか。なんとなく観念的にはわかるような気がするが、わかる、と安易に言ってはいけないように思う。「毛あなからちらけてしまう」という表現が妙に生々しい。

 注目すべきは、燈台看守がくれた苹果を、青年たち一行は食べ、ジョバンニとカムパネルラの「二人はりんごを大切にポケットにしまいました。」と書かれていることである。ジョバンニが苹果を受け取りたくなかったのは、燈台看守に「坊ちゃん」と呼ばれたのが面白くなかったからとされている。だが、第二次稿では、青年たち一行(第二次稿では五人)が五つの苹果をきらきらのナイフでむいているのを見たジョバンニが、心の中で「僕はあゝいふ苹果を百でももってゐるとおもひました。」と書かれているのだ。「あゝいふ苹果」とはどういうりんごか。

 燈台看守から声がかかったとき、こだわりなく受け取ったカムパネルラも苹果を食べなかった。苹果を食べるという行為の意味するものは何だろう。それから、これもまた些細なことにこだわるようだが、「苹果」と「りんご」の表記のちがいに何かの意味があるのだろうか。男の子が夢のなかで「立派な戸棚や本のあるとこ(それは普通の家庭の居間だろうか)に居たおっかさん」に「りんごをひろってきてあげましょうか」というときも「りんご」と記されているのだが。

 燈台看守の配る苹果の意味を考えるとき、誰でも思い浮かべるのは旧約聖書の創世記第三章だろう。蛇が女にすすめてエデンの園の中央にある禁断の「善悪を知る木」の実を食べさせ、夫にも与える。このことが神に知れて、女と男はエデンの園を追放され、神は「善悪を知る木」と同じく園の中央にある「命の木」を守るためにケルビムと回る炎の剣を置いた、と書かれている。

 さて、「金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」は「善悪を知る木」の実だろうか。また、「燈台看守」はケルビムだろうか。「燈台」は航海する船の安全を守るためでなく、「善悪を知る木」に近づく者を発見するための光を照らしているのだろうか。「回る炎の剣」あるいはそのメタファーは、この後『銀河鉄道の夜』に登場するだろうか。

 そしてまた、「燈台看守」は蛇だろうか。「善悪を知る木」の実を青年たち一行に与え、同時に「命の木」に近づく者を発見して、遠ざけるという両義的な役割をもつ存在が「燈台看守」だろうか。

 このように、「燈台看守」と苹果のモチーフを考えるとき、創世記第三章には重要なヒントが隠されていると思うのだが、創世記第三章後半にはこう書かれている。

 17.更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、
    地はあなたのためにのろわれ、
    あなたは一生、苦しんで地から食物をとる。
 18.地はあなたのために、いばらとあざみを生じ、
    あなたは野の草を食べるであろう。......

 23.そこで神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。

 旧約聖書の世界では、農業は神が人間に定めた苦役だったのである。燈台看守が「あなたがたのいらっしゃる方なら農業はもうありません。」といったのは、青年たち一行は苦役から解放され、エデンの園に戻ることができることを示唆したのだろうか。苹果が「善悪を知る木」の実であるとすれば、ここには大きな矛盾があると思うのだが。

 あるいは、青年たちが向かうのは、「苹果だってお菓子だってかすが少しもありませんからみんなそのひとそのひとによってちがったわづかのいゝかおりになって毛あなからちらけてしまふのです。」という不思議な言葉の具現する世界であって、エデンの園とは違う場所なのだろうか。

 『銀河鉄道の夜』のなかでは、不思議な人物が不思議な言葉を発する。プリオシン海岸の発掘現場の学者然り、苹果を配る燈台看守然り。おろかな私は、それらの言葉を自分の経験の範疇で理解することができない。混乱の中で思考が堂々巡りして、解決の糸口が見つからないのだが、燈台看守と苹果のモチーフについては、創世記第三章を手掛かりに模索してみた。

 この後汽車は対岸に青い橄欖の森が見える場所にさしかかる。森の方からきれいな音楽が流れ、汽車の中では、ジョバンニやカムパネルラも一緒になって、讃美歌が合唱される。この青い橄欖の森と、その上で羽を光らせる孔雀については、また次回考えてみたい。どこまで考察できるか、はなはだ心もとないのだが。

 苹果と野茨の匂いとともに汽車に乗り込んできた青年と子どもたちは、あきらかにキリスト教のエートスを身にまとっているが、しかし賢治の視線は単純ではない。「ハレルヤ」を「ハルレヤ」と表記したり、橄欖の森を正面に見る汽車の中で合唱される讃美歌(第二次稿では、「主よみもとにちかづかん...」と特定されるが)が特定されない、など微妙に曖昧なのである。

 たんに『銀河鉄道の夜』の疑問点を書き出しただけになってしまいました。未整理で未熟な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。