タイチという金満家の男が、ベーリング(島?海?)をめざす列車の中で暴漢に襲われるが、船乗りの若者に救われる。稀少毛皮を外套にして幾重にも身にまとっていたことが、人だか熊だか判然としない暴漢たちに襲われた理由である。宗教学者の中沢新一は、『緑の資本主義』という著作の中でこの作品をとりあげ、「圧倒的な非対称」という章をもうけて論じている。中沢はタイチを襲う暴漢たちを熊とみなして、文明を作り上げた人間と動物の関係が「圧倒的な非対称」であり、この襲撃は「動物たちの人間へのテロ」であるという。多くの読者がすんなり納得させられる解析のように思われるが、はたしてそうか。
十二月二十六日クリスマスの翌夜である。外は吹雪に閉ざされているが、イーハトーヴの停車場は暖炉の火が赤く燃え、暖炉の前に「最大急行」「ベーリング行」の乗客が「まっ黒に」立っている。夜八時汽罐車は汽笛とともに出発する。
乗客は十五人。タイチはその中で最も太っていて、二人前の席をとっている。赤ら顔で「アラスカ産の金」の指輪をはめ、幾重にも毛皮をまとい、いかにも金に埋もれている様子だが、「十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲」を持っているので、狩猟家でもある。向いの席の役人らしい紳士との会話で、今回のベーリング行で、黒狐の毛皮九百枚を持って来て見せるという賭けをしたといっている。
乗客の多くは、タイチほどではなくても、同じように立派な身なりの紳士たちだったが、異質な人間が二人いた。一人は「北極狐のやうにきょとんとすまして腰を掛け」た「痩た赤いげの人」で、もう一人は「かたい帆布の上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうにな微かな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男」である。しばらくすると、船乗りの青年は自分の窓のカーテンを上げ、窓に凍り付いた氷をナイフで削り、外の景色を見ていたが、「何か月に話し掛けてゐるかとも思はれ」るように「笑ふやうに又泣くやうに」かすかに唇をうごかしていた。
痩た赤ひげの男は「熊の方の間諜」だった。タイチが役人風の男にいでたちの自慢をしているのを盗み聞きしていたのである。「イーハトーヴの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套ね、海狸の中外套根、黒狐表裏の外外套ね。」「それから北極兄弟商会の緩慢燃焼外套ね………。」「それから氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさえた上着ね。」とタイチの自慢は際限もないが、さらに、今回黒狐の毛皮九百枚持って来てみせるという賭けをしたという。
「ウヰスキーの小さなコップを十二ばかりやり」酔いがまわったタイチはあたりかまわずくだを巻きはじめる。他人の毛皮を贋物だとケチをつけたり、黄色の帆布一枚の若者に毛皮の外套を貸すと言って無視されたりしている。他の乗客は眠りについていて、起きているのは、聴き耳を立てて何か書きつけていた赤ひげの男と船乗りの青年だけだった。
夜が明けると急に汽車がとまり、形相を変えピストルをつきつけた赤ひげの男を先頭に「二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云った方がいいやうなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや着たといふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」が仮面をかぶったり顔をかくしながら車室の中に入って来る。人だか熊だか雪狐だかわからない集団は、赤ひげの男の告発でタイチを拉致しようとする。先頭から三番目のものが、タイチのことを「こいつだな、電氣網をテルマの岸に張らせやがったやつは」と指摘しているので、赤ひげが告発するより前にタイチの存在は集団に知られていたようである。
押されたり引きずられたりしながら、扉の外へ出されそうになったタイチを救ったのは黄色の帆布を着た青年だった。「まるで天井にぶつかる位のろしのやうに飛びあが」った青年は、赤ひげの足をすくって倒し、タイチを車室の中に引っぱり込んで赤ひげのピストルを奪ってそれを赤ひげの胸につきつけ、叫ぶのだ。
「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもおれたちだって仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから。」
そして汽車は動き、赤ひげの男は船乗りの手をちょっと握って汽車から飛び降り、船乗りはピストルを窓の外へ放り出した。
一件落着。めでたしめでたし。
だろうか。船乗りの理屈に納得できる読者はどれくらいいるのだろうか。そもそも「生きてゐるものがきものを着る」ことと「おまへ(熊)たちが魚をとる」ことは等価だろうか。タイチが身にまとうラッコ裏の内外套、海狸の中外套、黒狐表裏の外外套、氷河鼠の頸の毛皮だけでつくった上着は「生きてゐる」ために必要なものでさえない。毛皮の外套は、極北に近い土地に狩りをしに行くために必要となったので、日常の生活になくてはならぬものだったとは思えない。極寒の地に狩りに行くためにしても、ここまでたくさん身にまとう必要はないだろう。
それにたいして、熊たちにとって、魚をとることは生存の条件として絶対である。獲物をとって食べなければ生きていけないのだ。金持ちが道楽で毛皮を取るために動物を殺す行為と、熊が生存のために魚を殺す行為とを同じ秤ではかることはできない。金持ちの道楽のために殺される動物にむかって、殺す金持ちの側についたとりなし役が、あんまり無法に殺さないよう、すなわち適当に殺すようにするから、今回は許してくれ、という理屈が通用するのだろうか。
不思議なことに、こんな、人間にとってだけ都合の良い理屈が、熊たちに通用したのである。思うにこれは、中沢新一がいうような「圧倒的な非対称」にある人間と動物の関係について寓喩した話ではない。では、何の寓喩なのか、これが難問なのである。
そもそも「タイチ」とは何者か。タイチが若者に
「ふん。バースレイかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが、外套を一枚お貸し申すとしようぢゃないか。黄色の帆布一枚ぢゃどうしてどうして零下の四十度をふせぐもなにもできやしない。」
と話しかける場面がある。この「バースレイ」についてあれこれ調べたら、berth layのことのようである。船が波止場に繫留されている状態で、停泊休暇を意味するようだ。それにしても、タイチはなぜ黄色の帆布一枚の若者を見て停泊休暇の船乗りだと分かったのか。その後「黒狐だよ。なかなか寒いからね。」と続くのもわからない。
「黒狐」もたんに「毛色の黒い狐」を意味するものではない。中国明代のエンサイクロペディア「三才図絵」によると、黒狐は北山に住む神獣で、王者が天下を平定した時に現れるとされる。滅多に姿を現すものではない。というか、伝説の世界の瑞獣である。タイチは黒狐の毛皮を九百枚取ってくるというが、どうやって取るのだろうか。それとも、タイチのいう黒狐は、カナダ、シベリアなどに生息するという銀狐=シルバーフォックスのことなのか。
標題になっている「氷河鼠」の頸の毛皮というのもまたよくわからない。氷河鼠とは、北極圏に住むレミングという鼠のことだろうか。レミングは体長七センチから十五センチの鼠で、冬眠せず旺盛な食欲と繁殖力をもつが、三~四年周期で個体数が増減するそうである。こちらはうまくすれば、四五〇匹ないし百十六匹捕まえることは可能かもしれないが、こんなちいさな動物の頸の皮だけで外套を作る意味がわからない。
要するに、タイチの言っていることは意味をなさないのだ。たぶん、タイチは「注文の多い料理店』の英国風紳士や『オツペルと象』のオツペル、さらに『ポランの広場』の山猫博士と発展していくキャラクターだろうが、「タイチ」という固有名詞が意味するものは何か。そして、黄色の帆布の若者が超人的な能力を発揮して、富と権力をひけらかす鼻持ちならないタイチを助けたのは何故だろう。
タイチという固有名詞と黄色の帆布の若者との関係はひとまず措いておく。最終的に『ポランの広場』の山猫博士(謎の多い存在だが)へと行き着く「タイチ」というキャラクターは新興産業資本家のそれだろう。「ベーリング行最大急行」の乗客は資源獲得にむらがって、寒風吹きすさぶ停車場の暖炉の前に「まっ黒に立ってゐる」人たちだった。役人や商人も混じえた人々の群れの中で、もっとも強欲ぶりを発揮していたのがタイチだった。
タイチが強欲な新興資本家の典型として描かれているとすれば、「熊」という言葉で表現されているものは何か。自然界の生物としての熊そのものではないだろう。熊だか人間だかわからない「もの」が汽罐車に闖入してきたことを「パルチザンの襲撃」と解釈した評者がいたように思うが、私の解釈もそれに近い。
資源を搾取する側とされる側が「圧倒的な非対称」の関係にあることはいうまでもない。「非対称」は動物と人間の関係だけでなく、というよりむしろ、まず人間同士の間に「圧倒的非対称」=差別は在する。「ベーリング行最大急行」に闖入してきた「二十人ばかりのすざまじい顔つきをした人」は搾取され、差別される側のゲリラではないか。賢治が、「どうもそれは人といふより白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云ったほうがいいやうなすてきにもくもくしたした毛皮を着た、いや着たと云ふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」と、饒舌にことばを重ねながら、闖入者を描写しているのが興味深い。結局その集団は「人といふより…………、もの」とされるのだが。
では、汽罐車に闖入してきたゲリラからタイチを守った黄色の帆布の若者は何者なのか。ゲリラを先導した赤ひげの男は、船乗りにピストルを奪われ、突きつけられながらも、去り際に「笑ってちょっと」彼の手を握るのだ。赤ひげは、タイチの側すなわち資本家の側について体制と秩序を守った船乗りに対して、微かな和解の意をしめしたのである。船乗りの若者は「ベーリング行最大急行」の乗客たちとは距離をおきながら、ゲリラの側にはつかず、身を挺してタイチを取り戻した。黄色の帆布の若者は、タイチを守るために「ベーリング行最大急行」に乗っていたかのようである。
最後に「タイチ」という固有名詞について考えてみたい。「タイチ」は漢字で書けば「太一」だろう。「太極」かもしれない。いずれにしろ、宇宙、万物の根元であり、さらに北極星を指すともいわれ、古代中国において祭祀の対象になっていた。金に埋もれた資本家に賢治が「タイチ」という名をつけたのは何故だろう。船乗りの若者が「黄色」の帆布をまとっていたこととあわせて、私に仮説があるが、いま、ここで書くのは控えたい。
例によって独断と偏見でいえば、この作品は尻切れトンボで中途半端な革命譚である。そのことは作品自体が尻切れトンボで中途半端であるという意味ではない。いうまでもなく。そのような、「革命」ともいえないような、ゲリラ戦すら実行できない状況を切り取って、賢治は緊迫感あふれる短編に仕上げたのである。
前回の投稿から随分時間が経ってしまいました。賢治の作品はどれも難解ですが、その理由の一つが、彼の生きた時代の状況が私の中でもう一つつかみきれないということです。私が怠惰で非力であるということなのですが。今日も不出来な文章を最後までよんでくださってありがとうございます。