2019年8月28日水曜日

宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』_九十年前のジオ・エンジニアリング

 地球温暖化の議論、異常気象などここ数年地球環境の異常さが人類生存の深刻な危機として問題になっている。自然の猛威の前に文明は何をなし得るか。九十年前にその課題に挑んだ人間の軌跡として『グスコーブドリの伝記』を取り上げてみたい。

 前回のブログで書いたように、この作品も相次ぐ冷害と飢饉で主人公の両親が自死することが物語の発端である。『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』は冒頭数枚の原稿が焼失してしまっているが、『グスコーブドリの伝記』の方は、主人公ブドリの父は森の木こりで、幼いブドリと妹のネリが楽園のような森の生活を送ったことが描かれている。だが、ブドリが十になった年とその翌年冷害が続いて、どうしても食べる物がなくなってしまう。最初に父が「おれは森へ行って遊んでくるぞ。」という悲痛なことばをのこして森の中へ入っていく。翌日に母もわずかな食糧を兄妹に残して、後を追う二人をしかりつけて森に入る。それから二十日後に妹のネリが人さらいにさらわれ、ブドリはたった一人になってしまう。

 誰もいなくなった森にやってきたのは「てぐす」を飼う男だった。「てぐす」とは「天蚕糸」のことで、「家蚕糸」が屋内で蚕を飼うのに対し、屋外でクヌギやナラなどの木に「てぐす」という虫を這わせて繭を取る方法だそうである。物語の中でもかなり詳しく「てぐす」を飼って繭を取る方法が書かれている。日本ではとくに長野県安曇市の有明というところで盛んに行われ、明治二十年から三十年が全盛期だったが、焼岳の噴火で降灰の被害にあったことが記録されている。賢治はこの史実を踏まえていると思われる。

 ブドリはてぐすを飼う男たちの仕事を手伝うことで食料をもらい、最初の冬を越すことができたが、翌年も同じように作業をしているときに火山が爆発し、森は灰で覆われてしまう。てぐすも全滅でブドリは男たちと一緒に森から脱出しなければならなくなったのである。

 『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』のネネムは、昆布取りのつらい作業を十年間やって三百ドル貯め、、自立して、自由意志で森を出ることにしたのだが、ブドリは、そうではない。両親を死に追いやった自然がまたしても人々に襲いかかったのだった。自然の克服がブドリの出発点であり、到達点である。

 灰に覆われた森を出て歩き続けると、しだいに灰は薄く浅くなって、美しい色のカードでできているような町に入っていく。ブドリは「山師を張る」という赤ひげの大百姓に出会って、そこで働かせてもらうことになる。「山師を張る」というのは実験的というか投機的な農業を試みることだった。ブドリは大百姓に見込まれて、大百姓の亡くなった息子の代わりに勉強するように、たくさんの本を渡される。ブドリが本から学んだ知恵が役立って、作物の病害を防いだこともあったが、翌年からまたしても冷害と旱魃が続き、大百姓はブドリに暇をださなくてはならなくなってしまう。 

 大百姓のもとで六年間働いたブドリは、汽車に乗って、勉強しているときに読んだ本の著者クーボー博士の学校のあるイーハトーヴに行く。「クーボーという人の物の考え方を教えた本はおもしろかったので何べんも読みました」とあるが、クーボー博士は『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』のフゥフィーボー先生と同じ役割を果たす人物である。フゥフィーボー先生は「せの高さ百尺あまり」のばけもので、空を飛ぶ能力をもっていたが、クーボー博士は小さな飛行船に乗って空を飛ぶ。

 夕方ちかくようやく探しあてた教室で、クーボー博士は大きな櫓のような模型を使って「歴史の歴史」ということを教えていた。授業はその櫓のような模型を図に書き取ることだった。(どんな図ができるのでしょうか?)授業が終わると卒業試験で、一番最後に試験を受けたブドリは優秀な成績でほめられ、イーハトーヴ火山局の仕事を紹介される。

 イーハトーヴ火山局のくだりを読む度に、賢治はどこからこの構想のヒントを得たのだろうか、と不思議に思いかつまた感嘆してしまう。イーハトーヴ火山局は「大きな茶いろの建物で、うしろには房のような形をした高い柱が夜の空にくっきり白く立っておりました。」とあり、中に入ると

 その室の右手の壁いっぱいに、イーハトーヴ全体の地図が、美しく色どった大きな模型に作ってあって、鉄道も町も野原もみんな一目でわかるようになっており、そのまん中を走る背骨のような山脈と、海岸に沿って縁をとったようになっている山脈、またそれから枝を出して海のなかに点々の島をつくっている一列の山々には、みんな赤や橙や黄のあかりがついていて、それらがかわるがわる色が変わったりジーと蝉のように鳴ったり、数字が現れたり消えたりしているのです。下の壁に添った棚には、黒いタイプライターのようなものが三列に百でもきかないくらい並んで、みんな静かに動いたり鳴ったりしているのでした。

と描写される。「イーハトーヴ」という地域がどれくらいの広さのものかわからないが、この後「三百ある火山」という記述もあるので、かなりのものだろう。火山も含めてその土地の模型を作ることは賢治の時代でももちろん可能だったと思われるが、ここでは、すべての火山がその活動をリアルタイムで観測されるというのである。それを可能にしているのが三列に百でも聞かないくらい並んでいる「黒いタイプライターのようなもの」なのだろうが、これはまさにコンピューターではないだろうか。

 ブドリの仕事は火山活動の制御だった。噴火の時期を予測して、人々が生活する市に被害が及ばないように工作する。ブドリは、上司の老技師ペンネンナームとともに、噴火まじかの火山が市街地でなく海岸の方にむかって噴火するように工作し、遠隔操作で爆発させることに成功する。

 それだけでなく、火山局は肥料を空から降らせることにも成功する。まずクーボー博士が飛行船に乗って、雲の上に出る。その後、

 その雲のすぐ上を一隻の飛行船が、船尾から真っ白な煙を噴いて、一つの峰から一つの峰へちょうど橋をかけるように飛びまわっていました。そのけむりは、時間がたつほどだんだん太くはっきりなってしずかに下の雲の海に落ちかぶさり、まもなく、いちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網が山から山へ張りわたされました。

という光景が出現する。がする。(これと同じような光景を近年見かけることが多いような気がする)飛行船が再び雲の下に沈むと、ペンネン技師が、地上で雨が降っていることを確認して、ブドリにぼたんを押すように指示する。ブドリがぼたんを押すと、さっきのけむりが美しい桃いろや青や紫にかがやき点滅する。こうして合成された硫酸アムモニヤが雨とともに地上に降り注ぎ、農作物の肥料になった、というのである。

 これはいわゆるジオ・エンジニアリングではないだろうか。賢治の時代に人工降雨の技術はあったようで、チャールズ・ハットフィールドというアメリカ人が「レインメーカー」と呼ばれ、1890年から二十六年間全米各地で雨を降らせることを商売にしていたという。1916年サンティエゴで雨を降らせたが、洪水になってしまい、これを最後に人工降雨の技術をみずから封印したといわれている。賢治がこのことを知っていた可能性は大きいが、雨の中に肥料をまぜるという発想は賢治独自のものだろう。

 もう一つ、最後にブドリが実行したジオ・エンジニアリングは、火山を人工的に爆発させ、気層の中の炭酸ガスの量を増やす工作である。ある年、ブドリの両親が死に追いやられた時と同じような冷害の予兆が続いた。ブドリはクーボー博士をたずねて、カルボナードという火山を爆発させ、噴出した炭酸ガスで地球全体を暖める計画を提示する。だが、その計画を完遂するためには、最後までカルボナード島に残る人間が必要だった。ブドリは、止めるペンネン技師を説得して、みずからその任務に就いたのだった。

 『グスコーブドリの伝記』という作品は、最後のブドリの死に焦点があてられ、「自己犠牲」が主題として論じられることが多い。そういう読み方もあるかもしれないが、作者賢治が多くの枚数を費やして述べているのは、当時としては空想的な、しかし非常に具体的で、現代の私たちから見ればリアルなジオ・エンジニアリングである。異常気象による大災害が世界中であい次ぐ今日、この作品をもう一度、別の観点から読み直す試みがあってもよいのではないか。ブドリの死は、たんなる自己犠牲、というよりは、自然を冒したことにたいする贖罪の意識もあったのではないか、と思われるのだが。

 自己犠牲に焦点が当てられ、教訓的な解釈で終わってしまいそうなこの作品が、不思議な世界を展開していることを発見して、いかに自分の読みが浅薄なものだったかに気づかされました。未整理な読書感想文に最後までつきあってくださってありがとうございます。
 

2019年8月20日火曜日

宮沢賢治『ペンネンネン・ネネムの伝記』__ばけもの社会のMMT

 『グスコーブドリの伝記』について調べていくうちに、『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』という作品に出会った。『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』と呼ばれる草稿に手を加えて完成したものが『グスコーブドリの伝記』であるとされている。たしかに、この二つの作品は、冷害と飢餓のため両親が自死し、妹も人さらいにさらわれて、一人ぼっちになったた少年が自立して世の中に出ていくという成長小説である。

 だが、作品として完成し、どこかとりすました感のある『グスコーブドリの伝記』とくらべると、『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』は粗削りだが、とにかくおもしろいのである。主人公のネネムが、偶然に、奇術の一座の中に人さらいに連れ去られた妹のネリを見つける場面など、手に汗握る面白さである。豪華絢爛、奇想天外な奇術(魔術?)の舞台、それを固唾を飲んでみつめる観客の緊張と興奮、賢治の天才的な想像力がほとばしり、躍動感あふれる描写に圧倒される。

 そしてもうひとつ、私が関心を惹かれたのは、この作品が「ばけもの社会の経済学」とでもいうような論理を呈示していることである。いやそれは人間社会の経済学かもしれないが。

 一人ぼっちになったネネムは、住んでいた家ごと森を買い占めた男に昆布取りの仕事をさせられる。栗の木にはしごを掛けててっぺんまで登り、空中に網を投げて昆布を捕るのである。? こんなことで昆布が取れるのかと不思議だが、男は一日一ドルの手間をくれるという。だが、男がネネムに差し入れるパンの値段が一ドルで、一日十斤以上昆布を取ったらあとは十セントで買ってくれるというのだ。一日十斤に足りないときはネネムの損で、借金が残る。じつにあこぎなシステムだが、人間社会でも同じように、いやもっとひどいことに、最初から借金を背負って働かなければならない人たちが多かったのだろう。

 ネネムは栗の木のてっぺんに立ちっ放しで十年で借金を返し、貯めた三百ドルをふところに、栗の木から降りてばけもの世界のまちに向かって歩き出したのである。三百ドルは賢治の時代にいかほどの価値があったのか。かなりの大金だったのではないか。そしてネネムは、そのお金で森の出口の雑貨屋でまっ黒な上着とズボンを買って身をかため、学問をして書記になろうと考えたのである。「もう投げるようなたぐるようなことは考えただけでも命が縮まる。」じっさい、肉体労働者が確実に命を縮めて働くのは賢治の時代の日本だけではない。

 立派な姿になったネネムは嬉しくて一気に三十ノットばかり走り、出会った黄色な幽霊にまちまでの距離をたずねる。すると黄色な幽霊はネネムをばけものりんごの木の下まで連れて行って、木の根とネネムの足さきをそろえてから、市まで六ノット六チェーンだという。不思議なことをするものだ。もう一つ不思議なのは、ノットは船の速度の単位だが、距離の単位としても使うのだろうか。

 それからネネムは市の刑事の尋問にあったり、失踪した息子の行方を探している母親に息子と間違えられたりしながら、無事にばけもの世界の首府の市に着く。ここでネネムは当代一の化学者フゥフィーボー先生の教室に紛れ込む。フゥフィーボー先生は「せの高さ百尺あまり」のばけもので、何だかよくわからない講義の終わりにテーブルの上に飛びあがって、「げにも、かの天にありて濛々たる星雲、地にありてはあいまいたるばけもの律、これはこれ宇宙を支配す。」と大見えを切る、と書かれている。あきらかにドイツの哲学者イマヌエル・カントのパロディである。動く哲学大全みたいなカントの道徳律を空飛ぶばけもの博士に語らせているのだ。

 ネネムはめでたくフィフィーボー先生の試験に一等で合格して「世界裁判長」という職に抜擢される。書記よりはるかに偉そうな地位につくことができたのである。ネネムに尋問した刑事は、ネネムが森の中でばけものパンばかり喰ったので書記になりたがっていると指摘したのだが、「ばけものパン」と書記に関係があるのだろうか。やわらかいパンばかり食べていると、過酷な肉体労働などいやになるということなのだろうか。

 世界裁判長になったネネムは、人間界に出現したばけものの裁判をした後、中生代の瑪瑙木(これはいきものかしらん)の「世界長」に挨拶に出向く。そしてその後まちに出る。ネネムが町で出会ったのは「フクジロ印」という商標のマッチを売り歩くばけものの一行だった。一行はフクジロという皺くちゃで年寄のような子供のような怖いおばけに一つ一銭のマッチを十円で売らせているのだった。

 ネネムがフクジロを捕まえると、フクジロはいくらマッチを売ってもお金はみんな親方に巻き上げられてしまい、ご飯もろくにたべさせてもらえないという。そこでフクジロにマッチを渡している親方を捕まえると、その親方もやっと喰うだけしか貰えず、後ろにいるばけものにみんな取られるという。ネネムは一行三十人あまりを全員捕まえて調べ上げる。

 調べてわかったことは列の一番おしまいの緑色のハイカラなばけものを除いて、前に並ぶばけものはみなその前のばけものに借金があり、それぞれ日歩を払っているということだった。緑色のばけものは百二十年前にその前に並ぶまっ赤なハイカラなばけものに九円貸して、今は元金が五千円になっているという。まっ赤なばけものは、元金は手付かずで、日歩三十円をばけものは、緑色のばけものに払っている。同様にばけものたちは前のものにお金を貸して、利息を受け取り、また利息を払っていて、最後のものは三百年以上も前に借りたお金の利息千三百三十円三十銭を払っているというのだ。これはまさしく金融資本主義の原型ではないか。

 千三百三十円三十銭という金額がどのくらいのものか見当もつかないのだが、マッチの値段がふつうは一銭というので、その十三万三千三十倍、ということは千万円くらいだろうか。もう少し少ないかもしれないが、それにしても一日に入る現金としては大変な額である。ばけもの一行がやっていることは、フクジロというばけものにただ働きをさせて、一銭のマッチを十円で売り、一日何もしないで暮らすことだった。

 もちろん、脅して無理やり買わせるのだから悪いことである。悪いことだが、マッチを買う方は、脅されたとはいえ、自由意志で買うのだから、これは商取引といえないこともない。だいたいものの値段が需要と供給の均衡で決まるなど神話以外なにものでもないだろう。脅されるか、おだてられるか、ともかく買う側に価格決定権などない。一銭のマッチが十円で売れれば、GDPは膨らむのである。

 世界裁判長たるネネムはこの事実を見逃すわけにはいかない。みんな悪いがみんなを罪にするのはかわいそうだと言って、ネネムは一行を解散させてしまう。あわれなフクジロは張り子の虎をつくる工場に送られ、ほかのばけものはちりぢりに逃げてしまった。見物人は「えらい裁判長だ。」と喝さいするのだが、膨らんでいたGDPはしぼんでしまう。それだけでなく借金がなくなると、元金も永遠にもどらなくなり、毎日入っていた利息も消えてしまうのである。これでよかったのだろうか。もちろんこれは、私の疑問であって、賢治にこの問題意識があったかどうかわからないのだが。

 この後ネネムは名声いやがうえにも高まり、幼いころさらわれていった妹とも再会し、これ以上を望むことができないほどの暮らしをする。だが、自己実現の極みともいうべき境地に達したネネムは、火山の爆発に興奮狂喜して、人間界に出現してしまう。そして、その罪によりいっさいを失うのである。賢治の自己消失への願望、それは自己昇華あるいは自己犠牲と呼ばれたりするものだが、そのことについては『グスコーブドリの伝記』との対照で考えてみたい。文章にまとめるのにはもう少し時間がほしいと思っている。

 『ペンネンネンネン・ネネムの伝記』と『グスコーブドリの伝記』は発端も結末もよくにているのですが、作品のベクトルは正反対のような気がします。Gay Twentyといわれた1920年代から大不況の30年代への時代の変遷がそのことと何ほどの関係があるのかについても考えてみたいのですが、これも課題としてずっとかかえていくしかないようです。この作品のおもしろさを伝えることができなくて残念です。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。