2019年6月28日金曜日

宮沢賢治『山男の四月』__「山男」とは誰か

 標題の作品は賢治が生前に出版した『注文の多い料理店』の巻頭を飾る短編である。最初『山男の四月』というタイトルで出版を考えていたともいわれる。短編だが含蓄の深い作品であり、賢治の作品の中でも重要な意味をもつと思われるのだが、論考の対象となることが少ないのが不思議である。まったくないわけではないようだが。

 山男は金色の目を皿のようにし、せなかをかがめて、西根山のひのき林のなかをうさぎをねらってあるいていました。

 という書き出しではじまるのだが、「山男」は人間なのか、それともけものなのだろうか。「金色の目」をしているので、少なくともふつうの日本人ではない。

 うさぎはとれないで山鳥がとれ、それで山男はうれしくなって「顔を真っ赤にし、大きな口をぐにゃぐにゃまげてよろこんで」とあるので、よほどおなかがすいていたのだろう。ところが不思議なことに山男はせっかく捕まえた山鳥をその場ですぐ食べるのではなく、「ぐったり首をたれた山鳥をぶらぶら振りまわしながら」森から出て、「ばさばさの赤い髪毛を指でかきまわしながら」日あたりのいい南向きのかれ芝に寝ころんで「碧いあおい空」をながめているうちに、夢の世界に誘いこまれる。これは、「金色の目」と「赤い髪毛」の異形の男の「風流夢譚」なのである。

 山男は自分が「七つ森」の中にいる夢を見る。「七つ森」は、いうまでもなく、賢治の処女詩集『春と修羅』の巻頭を飾る「屈折率」という詩に

 七つ森のこっちのひとつが
 水の中よりもっと明るく
 そしてたいへん巨きいのに
 わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
 向こうの縮れた亜鉛の雲へ
 陰気な郵便脚夫のやうに
   (またアラツデイン 洋燈(ランプ)とり)
 急がなければならないのか

とうたわれる実在の森である。

 山男は(そしてここまで来てみると、おれはまもなく町へ行く。町へはいって行くとすれば、化けないとなぐり殺される。)とひとりごとを言いながら、木こりのかたちに化ける。何故、七つ森の中に入ると必然的に町に入ることになるのか、そしてそのままの姿ではなぐり殺されるのか、理由はわからない。夢の中で山男がそう思ったのでそうなったのである。

 山男が町に入って行くと「入口にはいつもの魚屋があって」とあるので、山男は(夢の中で?)何回も町にも出入りしているらしい。魚屋の軒に「赤ぐろいゆで章魚が五つ」吊るしてあるのに見入って、そのまがった足のりっぱさや、海底をはう姿を思い浮かべて感動し指をくわえて立っていると、通りかかった行商のシナ人に話しかけられる。

 「あなた、シナ反物よろしいか。六神丸たいさんやすい」

これ以降くりひろげられるシナ人と山男のやりとり、とくにシナ人の言葉は抱腹絶倒のおもしろさである。「シナ人」という呼称、彼が使う助詞を省いた独特の日本語は、今日の読者(の一部)には「差別的表現」などとには眉をひそめる向きもあるかもしれないが。

 ところでシナ人が商品として売っている(後でわかるのだが、シナ人の「製造直売」である)六神丸とは、京都の呉服商亀田利三郎が清国で病気になった時これを服用してたいへん効き目があったので持ちかえったのが始めという。麝香、牛黄、熊胆、人参、真珠、センソの六種の生薬が原料である。「六神丸」の名称のいわれはその他にもあるようだが、これに二種の生薬を加えたものが現在の「救心」で、心臓の薬である。効能書きに「この薬を用いているときは他の薬は服用しないこと」と書かれているので、大変強い作用を持つもののようである。

  山男はシナ人のとかげのような「ぐちゃぐちゃした赤い目」や「ずいぶん細い指」や「あんまりとがっている爪」を警戒するのだが、シナ人は香具師の口上よろしく

 「あなた、この薬飲むよろしい。毒ない。決して毒ない。飲むよろしい。わたしさき飲む。心配ない。わたしビール飲む、お茶飲む、毒飲まない。これながいきの薬ある。飲むよろしい。」

と言って、飲んでみせる。気がつけばなぜかそこは町の中ではなく、ひろい野原の真ん中で、シナ人と山男の二人だけになっていた。執拗にせまるシナ人に根負けして、飲んだら逃げ出すつもりで山男は薬を飲む。すると山男はちぢまって、六神丸になってしまったのである。

 山男はくやしがり、シナ人は文字通り欣喜雀躍する。六神丸になってしまった山男は、シナ人に行李の中に押し込められ、やがて行李の上から風呂敷をかけられて、真っ暗闇のなかでひとり言を言っていると、横から話しかけられる。行李の中には、山男と同じように、シナ人に六神丸にされてしまった仲間が何人もいたのである。

 ここからの山男の心理の変化は微妙である。横の六神丸(にされてしまった人間)と話していて、シナ人に「声あまり高い。しずかにするよろしい。」といわれた山男は腹を立てて、町にはいったら大声でシナ人を罵ってやるという。これを聞いて、シナ人はしばらくしんとしている。山男はシナ人が泣いているのだと思い、いままで見てきたシナ人たちの様子と重ね合わせて想像し、かわいそうになってしまう。

 「それ、あまり同情ない。わたし商売たたない。わたしおまんまたべない。わたし往生する。それ、あまり同情ない。」

 山男は、シナ人のこのことばを聞くと「おれのからだなどは、シナ人が六十銭もうけて宿屋に行って、鰯の頭や菜っ葉汁をたべるかわりにくれてやろう」と気の毒になる。山男は、町にはいったら声をださないとシナ人に言う。シナ人は安堵し喜ぶ。

 ところが、町へ行く道中、山男は横の六神丸にされた人間から聞いて、シナ人は名前を陳といい、行李のなかには陳に六神丸にされてしまった孔子聖人の末裔がたくさんいることを知る。陳が悪者だと知った山男は、六神丸になってしまった人間をもとの形に戻してやろうと考える。骨まで六神丸になっていない山男は丸薬さえ飲めばもとへ戻る。陳が水薬を飲んでも六神丸にならないのは、一緒に丸薬を呑むからだという。山男がもとへ戻ったら、ほかの六神丸を水につけてもめば、その人たちも人間に戻るといわれる。横の六神丸からそう聞いた山男は行李から出て人間に戻る機会をうかがう。

 やがて外で陳が「シナたものよろしいか」と商売を始める声がする。にわかに蓋が開いたので、山男が外を見ると、おかっぱの子供がいる。いる。陳はいつもの口説で子供に薬を飲ませようとしてとしている。そのとき山男は丸薬を呑む。いきなりもとの立派な赤髪のからだになった山男を見て、陳はびっくりして、丸薬と一緒に飲む水薬はこぼしてしまい、丸薬だけ飲んでしまう。すると陳は頭がめらぁっと延び、二倍の大きさになって山男につかみかかる。山男は一生けん命逃げようとするが、足がから走りして逃げられない。「助けてくれ、わあ」という自分の叫び声で山男は夢からさめる。

 夢からさめた山男は、投げ出された山鳥の羽をみたり、しばらく夢の世界の出来事を考えていたりしたが、「夢の中のこった。陳も六神丸もどうにでもなれ。」とあくびをして放念する。

 以上が大まかなあらすじだが、不思議な夢物語である。人間が六神丸になったり戻ったりすることが不思議なのではない。奇想天外な話だが、夢なのだからそんな話があってもおかしくはない。不思議なのは山男という存在である。うさぎを狙ったり、山鳥をつかまえて喜ぶというのは野生だからだろう。一方、人間のことばを話し、六神丸になった人間とことばをかわすのだから、立派に社会性のある人間である。

 童話の世界だから、人間以外の生物が人間とことばをかわすことがあっても不思議ではないかもしれない。山男が不思議なのは、その性格の曖昧さである。シナ人に声をかけられると、さして必要とも思われないのに反物を買うといってしまう。とかげのようなシナ人を警戒しながらも、その場しのぎで薬を飲んでしまう。およそ主体性というものが感じられないのである。

 騙されて六神丸にされてしまったことをくやしがりながら、シナ人がご飯がたべられないと泣いていると思って、自分はシナ人の犠牲になろうとする。安易な同情心にひたるのだ。ところが、シナ人が自分以外にもたくさんの人間を六神丸に変えている悪者だと知ると、正義心に駆りたてられる。仲間の六神丸をもとの姿にもどしてやろう、と義侠心を発揮するのだ。そして、おかっぱの子供がシナ人の毒牙にかかろうとしているときに、もとの姿に戻るのだが、シナ人が倍の大きさになると怖くて逃げだそうとする。

 最後は、すべては夢の中のこと、として山男は(そして作者も)韜晦してしまう。いったい賢治は、山男の何が描きたくてこの作品を書いたのか。仮説はあるのだが、まだもう少し確かめたいものが私の中にある。それは、そもそも、宮沢賢治の作品をどう読むか、というより、どう読まれなければならないか、という問題提起につながるもののように思う。

 体力的に思うようではなくて、なかなか集中力が保てません。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。