『秋刀魚の味』も何故このタイトルなのか、ずっとわからなかった。そもそも『晩春』と同じ「父と娘」「娘の結婚」のテーマを繰り返す理由がわからなかった。いま、『晩春』の焼き直しのように見えるこの映画が『晩春』とどこが違うのか(表面的なプロットの違いでなく)検討する前に、『秋刀魚の味』というタイトルの意味するものについて、少しだけ考えてみたい。
映画の冒頭、煙突が5本映し出されて、舞台が工場地帯であることが示される。主人公の平山は丸の内近辺の大手会社ではなく、工場地帯で製造業を営む会社の役員という設定である。平山の役員室を友人の河合__こちらは丸の内の大手会社の役員のようである__という男が訪れる。挨拶もそこそこに、平山は河合に「奥さん怒ってなかったか、こないだ」と聞く。「怒ってない、怒ってない。おもしろがってたよ」と言う河合に「どうも、酒飲むとよけいなこと言いすぎるな」、と平山が返し「すぎる、すぎる、お互いにな」と河合が受ける、というやりとりがあって、これが何を意味するのか、ずっとわからなかった。河合の家で酒を飲んだ平山と河合の奥さんがどうしたというのか、この後の展開で触れられることはまったくないのである。
ところで、私くらいの年代以上の人は「秋刀魚の味」と言えば佐藤春夫の「秋刀魚の歌」を連想するのではないか。
あはれ
秋風よ
情〔こころ〕あらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉〔ゆふげ〕に ひとり
さんまを食〔くら〕ひて
思ひにふける と。
私の記憶にあったのはこの部分までだった。秋の気配の立つ頃、一人食卓に向かって秋刀魚の味をかみしめる男の孤独の詩。しかし、この後、
さんま、さんま
そが上に青き蜜柑の酸〔す〕をしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみてなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児〔こ〕は
小さき箸〔はし〕をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸〔はら〕をくれむと言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝〔なれ〕こそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒〔まどゐ〕を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証〔あかし〕せよ かの一ときの団欒ゆめに非〔あら〕ずと。
あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児〔おさなご〕とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
と続くドラマがあるのだ。谷崎不在の谷崎家の食卓を、谷崎の妻千代、娘の鮎子、佐藤春夫の三人で囲んで、秋刀魚を食べる。その折の回想と、不遇の妻といたいけな幼女へ寄せる思いをうたった「秋刀魚の歌」は長く人口に膾炙したが、この「秋刀魚の歌」にちなんで、それと同じくらい有名になったのが、谷崎と佐藤の間のいわゆる「細君譲渡事件」である。千代をめぐる三人にどのような人情の機微があったか、いまとなっては私などにわかるはずもないが、当時二十代のはじめだった小津にとって、センセーショナルな出来事として記憶されたものと思われる。
平山と河合の妻との間に具体的な何かがあったとは思われないが、酒を飲んだ平山が酔った勢いで河合の妻に何らかの言葉をかけたのだろう。映画の冒頭、さりげなくかわされる平山と河合の会話から、温厚そうな初老の平山という男の内側にうごめく情動を、まず、うけとめなければならないのではないか。画面に河合の妻が登場するのは、平山が道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときが最初である。先に河合の家に来ていたもう一人の友人と河合が示し合わせて平山を担ごうとしたときに、二人の嘘を平山に教えに入ったのが河合の妻だった。このときの河合の妻は、典型的な上流婦人のたたずまいで、それ以外のなにものでもないのだが。
「秋刀魚の歌」と直接関係ないのかもしれないが、この映画には不思議なことがもう一つあって、平山と河合が同じ(ように見える)カーディガンを着ているのである。平山の娘の路子が思いを寄せていた男がすでに婚約していたことを告げるシーンの平山と、道子の縁談を頼みに河合の家を訪れたときの河合が、どうみてもまったく同じカーディガンを着ている。平山を演じる笠智衆と河合役の中村伸朗は体型が似ているので一つのカーディガンを着回ししたのかと思ってしまう。小津はどのような意図でこんな演出をしたのか?衣装の類似については、平山の娘路子と、軍艦マーチのレコードをかけるバーのマダムの服装についても指摘される方がいるようだが。
いつもながらの独断と偏見でいえば、『秋刀魚の味』は男の老醜を描いた作品ではないか。老醜とは、平山たちの中学校の漢文教師だった「ひょうたん」という綽名の男の落魄の姿をいうのではない。「ひょうたん」を二度にわたってなぶりものにする平山や河合をはじめとする、いまは功成り遂げた男たちの内面である。娘のように若い妻を娶った大学教授に平山が「この頃、お前が不潔に見えてきた」と言うシーンがある。「不潔」の意味するところは、けっこう複雑なものではないか。
『秋刀魚の味』は、小津安二郎の作品の中で、最初に観た映画でした。そのときの、いわば卒読の印象と『晩春』『麦秋』・・・・と小津作品をいくつか観てきた印象とは、微妙に変わってきたように思います。不思議なシーンがいくつもあって、それらを繋いでいくと、何か暗くて重いものに行きつきそうなのですが、形として存在するのは静謐、平穏な日常性です。静謐、平穏な日常性が、こんなに緊張感のある画面で語られるということの不可解が小津作品の魅力なのでしょう。もう少し、その不可解にかかわってみたいと思います。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。