今世紀に入ってから「イデオロギー」という言葉は死語になったかの感がある。「左翼」「革新」も同様。「革新」は技術の分野で使われるが、「左翼」は使われるとすれば嘲弄の対象となることがほとんどである。それに対して、かつて「反動」の定冠詞であった「保守」は、いまは肯定的なニュアンスで使われる。時代は確実に変わってしまったのだ。
おそらくその分岐点は一九六八年の「パリ五月革命」だろう。日本でも、学生に始まり労働者を巻き込んでピークに達した革命運動は、これ以降セクト間の対立が激化、闘争を繰り返して、一般民衆の支持を失っていく。テレビにくぎ付けで「あさま山荘」の銃撃戦を見ていた人々は、その後に明らかになった連合赤軍の酸鼻を極める実情に衝撃を受ける。「政治の季節」は急速に終息に向かった。
この間一九六七年に『万延元年のフットボール』を発表してから、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』、『洪水はわが魂に及び』と、いわば正攻法で時代と向き合ってきた大江健三郎は、一九七六年一転スラップスティック・コメディ『ピンチランナー調書』を書き上げる。愉快、痛快、奇々怪々なこの小説は、しかし、スピーディな語り口とうらはらに、複雑で精妙な仕掛けがほどこされている。
物語の語り手は作家の「僕」である。同時に、かつて原子力発電所の職員で核燃料輸送中に被爆した「もと技師」である。作家の「僕」は「幻の書き手(ゴースト・ライター)」として「もと技師」の「いいはる」言葉を書き付けるのだ。作家の「僕」と「もと技師」は、ともに「われわれの子供」と呼ばれる障害児の父で、出身大学も同じである。『さようなら、私の本よ』でいうスゥード・カップルなのだ。
この小説にはもう一組のスウィード・カップルが存在する。「もと技師」と彼の子供「森」_moriである。小説の導入部以降「もと技師」は「森・父」と呼ばれるのだが、彼と「森」は物語の途中で、彼が二十歳若くなり、「森」が二十歳年をとるという「転換」が起こって、十八歳と二十八歳の「父・子」になった、と書かれている(そのように森・父がいいはっている)。そして、「転換」前は他者の「鸚鵡返し」の言葉のみ話していた森の肉声は一切記述されなくなり、森・父が彼の内奥の声を代弁する。
一方、このように二重、三重に複雑化した話法とうらはらに、この作品で語られた内容は、大江のこれ以降の作品に比べると、よほどシンプルである。語りの複雑さ、それでいてスピーディで波乱に富んだプロットの展開は、内容の直截さをカモフラージュするための仕掛けではないかと思われるのだ。これは権力の支配構造を具体的かつ論理的に解き明かした小説である。権力はどのように民衆を支配するか。その根本は民衆を分断、対立させることにある。作中の言葉を使っていえば「右手のしていることを左手に知らせない」あるいはもっとグロテスクに「右手と左手を血みどろになるまで戦わせる」とも。
プロットの展開にしたがえば、被爆したもと技師は、あるとき、八歳の息子を「教育のため」殴り続け、そのことをとがめた妻に頬を切られ、「眠っている自分の肉体を、まるごと表と裏、引っくり返すように過酷なことが仕掛けられる」という眠りを眠る。そして目覚めたら、8+20=28 38-20=18 という「転換」が起こっていたのである。
「転換」して二十八歳になった森と十八歳になった森・父は、被爆して休職中の森・父に世界各地の核情報を提供させ報酬として原発の手当以上の金銭を与えた「大物A氏」を倒すべく立ち上がる。「大物A氏」こそ、革命派とそれに対立する反・革命派の両方に核爆弾をつくる資金を与え、核の恐怖によって民衆をコントロールしようとした権力だった。
「大物A氏」は、『万延元年のフットボール』の「スーパーマーケットの天皇」、『洪水はわが魂に及び』の「怪(ケ)」の系譜に連なる存在で、モデルは誰でも容易に思いつくことができる人物だろう。興味のある方は以前に投稿した『万延元年のフットボール』の「「谷間の森とスーパーマーケットの天皇」でスーパーマーケットの天皇の容貌が描写された部分を参照されたい。この作品中では、森と森・父を「反・革命のゴロツキ集団」の暴力から救出した「ヤマメ軍団」の中年男のことばとして、「大物A氏」が敗戦直前の上海で軍の附属機関で中国の対知識人工作の役割をになっていたが、軍用機で上海から金、銀、ダイヤモンドを広島に運んで、原爆に遭い、仲間は全滅して資産と「大物A氏」だけが助かったという経歴が語られる。
広島の原爆体験こそ、「大物A氏」の権力支配の原点となった。彼は原爆を倫理の問題としてとらえなかった。原爆がもたらす極限の状況とその流動化のプロセスを検証して、自らの権力把握のシュミレーションを何通りにも組み立てたのである。その上で、「革命」を軸に対立する集団の両方に原爆製造の資金を提供した。「ヤマメ軍団」までも「大物A氏」とはかかわりがあったのである。
森の一撃で頭部に重傷を負った「大物A氏」_病室での描写では「親方(パトロン)と呼ばれる_は、末期の癌が見つかり死期が迫っている。彼は森・父と森父子を病室に招き入れ、彼らに五億円の現金を渡して原爆の完成を促す工作を依頼する。対立する党派をひとつにして、工場施設と核燃料を統合すれば四、五週のうちに原爆は完成するという。その段階で、公安と「大物A氏」の合同指揮で、原爆密造人たちは一網打尽、となる。こうして、核の恐怖から全都民と天皇ファミリーを救った「大物A氏」は孤独で醜悪な癌死ではなく、国家的ヒーローとして栄光の死を遂げる。日本人すべての「親方(パトロン)」となる。
「大物A氏」の野望は、宇宙的使命を帯びて転換した(といいはられる)森・父と森の闘いで潰える。森は「親方(パトロン)」の頭を滅多撃ちに撃ってかち割り、五億円の入ったボストン・バッグを持って、折から燃え盛る山車の炎の中にダイビングする。
余談だが、この小説が書かれてから三十五年後の日本に何が起こったのだろうか。日本に原爆が私有されているのと、日本で原発が爆発したのと、どちらが恐ろしいだろうか。「原爆が私有されていて、使用されていない」のと、「原発が爆発して、その結果どのような状況になっているかがわからない」のと。どのような状況になっているか、様々な情報があふれているが、私たちには判断するすべがないのである。私たちができることは、あの時メディアがどのような情報を流したか、あるいは流さなかったかを検証し続けることだけである。
『ピンチ・ランナー調書』には、「革命という殺し合い」がどのような一見もっともらしい理論で組み立てられていくか、そして、その資金はどこから出てくるのか、極めてシンプルに語られている。シンプルすぎるくらいである。シンプルであるがゆえに、これは歴史の真理ではないかと思われてくる。洋の東西を問わず、「革命」は「戦争」より多くの人間を殺してきたのではなかったか。そうして、「革命」の後に出てきたものは何だったか。
この小説には森父子と「大物A氏」のほかにも実に魅力的な人物が複数登場するのですが、力不足でそれらについて触れることができませんでした。それにしても、「大物A氏」のモデルと思われる人間がまだ存命中にこの作品が発表された、ということにブラック・ユーモア以上のものを感じてしまうのですが。
今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。