三島由紀夫の『禁色』について、いつまでも考えている。書くことはたくさんありそうで、さて、何をどう書いたらいいのか迷っている。ひとことでいったら思弁的、形而上学的装いの通俗小説である、と評したくなる誘惑にかられている。あるいは、複雑かつ巧妙にカモフラージュされたモデル小説である、とも。
物語の発端は檜俊輔という老齢の作家が美少女に懸想し、袖にされたことから始まる。美少女康子に執着する俊輔は、彼女の後を追って海辺のさびれた観光地で、南悠一という美青年に出会う。アポロンのようなこの美青年は女を愛することができないのに、持参金目当てで康子と結婚することになってしまった。腎臓病の母親をかかえ、没落した家の家計を支えなければならなかったからである。
悠一の告白を聞いた俊輔は彼に持参金以上の金を与え、その上で康子と結婚させる。俊輔は自分を愛さなかった康子を女を愛することのできない悠一と結婚させ、不幸にしたかったのだ。そして、俊輔が不幸にしたかったのは康子だけではなかった。夫と組んで彼を美人局の罠に陥れた鏑木伯爵夫人、彼の愛を受けいれなかった穂高恭子、この三人の女が悠一を愛することによって、俊輔から復讐されるのである。「醜さ」のゆえに女から愛されない青春を送った作家俊輔は絶世の美青年南悠一という「作品」を操って女への復讐を企てたのだ。
中でも最も残忍な仕打ちを受けるのは穂高恭子である。俊輔の描いたシナリオ通りに悠一に誘惑された恭子は、悠一と思いこんで暗闇の中で俊輔に犯され、一夜をすごしてしまう。何故彼女がこうまでされなければならないのかその理由は明らかではない。俊輔は「あんな目に会わせるだけの悪いことはしていない女なんだ」といいながら「あの女はこの事件を境にひどく身を持崩すだろう」と予言するのである。
康子と鏑木夫人の不幸は複雑である。女を愛さない夫との間に子を生んだ康子は、夫が「作品」から「現実の存在」になったときに、ほんとうの「不幸」になる。悠一は同性愛が露見すると、それを取り繕うために鏑木夫人の力を借りる。だが、悠一が同性愛であろうがなかろうが、康子にとっては、もはやどうでもよいことだった。この間の機微を三島はこう書いている。
「しかるにすでに康子は自若としていて生活の中に腰をおちつけ、渓子を育てながら、老醜の年齢まで、悠一の家を離れない覚悟を固めていたのである。絶望から生まれたこんな貞淑には、どのような不倫も及ばない力があった。
康子は絶望的な世界を見捨てて、そこから降りて来ていた。その世界に住んでいたとき、彼女の愛はいかなる明証にも屈しなかった。・・・・・・・・
その世界から降りて来たのは、何も彼女の発意ではない。・・・良人として多分親切すぎた悠一は、わざわざ鏑木夫人の力を借りて、妻をそれまで住んでいた灼熱とした静けさの愛の領域から、およそ不可能の存在しない透明で自在な領域から、雑然とした相対的な愛の世界に引きずり下ろしたのである。・・・・・そこに処する方法は一つである。何も感じないことである。何も見ず、何も聴かないことである。
・・・・(康子は)自分にたいしてすら敢然と愛さない女になった。この精神的な聾唖者になった妻は、一見はなはだ健やかに、派手な格子縞のエプロンを胸からかけて良人の朝食に侍っていた。もう一杯珈琲はいかが、と彼女は言った。やすやすとそう言ったのである。」
康子は『仮面の告白』の園子をはるかに超えて、正真正銘の悪女となったのだ。
鏑木夫人の場合は、さて、彼女は不幸になったのか。それとも幸福になったのか。あるときは単独に、あるときは夫と組んで背徳をかさねた彼女は悠一に殉愛を捧げる。同性愛の夫と悠一の現場を見てしまってもその愛は変ることがない。悠一も失踪した彼女からの手紙に感動して「僕はあの人を愛している。・・・僕が女を愛しているんだ!」と思う。だがその愛は、少なくともこの世のものとしては、成就することはない。ラスト近く二人は連れ立って伊勢、志摩の海に浮かぶ賢島に旅行する。そこでプラトニックな一夜を明かすことで鏑木夫人は悠一への愛を永遠のものとしたのである。まるでエーゲ海のほとりで語られる神話のように。
悠一と三人の女たちとの関係は、美と愛をキーワードに語られる。それは、虚実皮膜論の皮のような危うさを含んでいる。絶対にありえないリアルさ、とでもいったらいいのだろうか。それに比べて、悠一と男たちとの関わりはリアルそのものである。そのキーワードは「金」と「権力」である。檜俊輔は悠一を愛して、彼に莫大な遺産を残して自殺する。鏑木伯爵は夫人に去られて生活の糧を失い、悠一に捨てられる。産業資本家であり有能な経営者の河田は悠一への愛に溺れそうになる自分を守るために多額の手切れ金を悠一に渡して別れる。悠一自身は、これら年上の男たちを愛することはない。彼が愛するのは、彼と同じように若くて美しい男である。そしてその愛はすべて一回的な愛である。
檜俊輔の女たちへの復讐譚として始まったこの小説は、途中から俊輔の「作品」としてつくられた美青年南悠一の物語となる。アポロンの塑像から血の通った野心的な青年へと悠一は成長していく。その過程が観念的でありながらも精緻な心理分析とともに語られるのだが、これが敗戦からそんなに月日を隔てていない昭和二十六年に書かれた小説であることに驚いてしまう。朝鮮動乱を経て、ようやく庶民が食べ物に困らなくなったこの時代に、鏑木夫人は悠一に「プラム入りの温かいプディング」をつくって食べさせるのである。不夜城と化すナイトクラブ、同性愛の外人のたむろする大磯の「ジャッキー」の家などの描写は、日本の上流階級は敗戦の打撃など受けなかったのだろうか、と思ってしまうほど豪奢である。三島由紀夫は庶民と隔絶した別世界の出来事をほとんど痛みなく書いていく。いったい三島由紀夫とは何者だったのか。何のためにこの小説を書いたのか。
この小説は、作中人物のそれぞれにモデルがいて、当時の読者にはそれを特定することが容易だったのではないだろうか。鏑木伯爵や河田、あるいは一場面だけ登場する製薬会社社長の松村など、それぞれに経歴や地位が書かれているので、大体のところは察しがついてしまう。不思議、というか複雑なのは檜俊輔で、そのモデルは誰でも思い浮かぶ文豪だろうが、私見ではそれは一人ではない。いや、モデルは何人いてもいいし、そのうちの一人は三島由紀夫自身かもしれないのだが、問題は作品中とはいえ、俊輔を自殺させてしまっていることである。小説が書かれて二十年近く経って、最初に三島が死に、それから文豪が不可解な死を遂げたことをいま現在の私たちは知っている。メビウスの輪のように、現在と過去と未来がよじれて繋がっていて、時間がゆがんでいるような感覚にはまってしまう。
いったい三島由起夫とは何者だったのか。
まだまだ書かなくてはならないことがあるのですが(この作品以降繰り返される「覗き見」と「火事」のモチーフについてなど)、長くなるのでまた次の機会にしたいと思います。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。