「テディ」について書くのはこれが三回目である。以前書いたものを踏まえて、というより大幅に修正したものを早く出さなければいけないと思っていた。いま、完全なものが出せるわけではないのだが、とりあえずの経過報告をしたいと思う。
あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。
父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」
この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。
後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。
その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」
最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。
もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。
ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。
ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。
八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年8月16日木曜日
2012年8月7日火曜日
「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」____「わたし」はどんな絵を描いたのか
『ナイン・ストーリーズ』には三つの一人称の小説が収められている。「笑い男」「エズミに捧ぐ」そしてこの「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」である。「笑い男」と「エズミに捧ぐ」は非常に複雑な構造で、入り組んだストーリーの展開を追っていくうちに、語り手が誰なのかが分からなくなってしまう。それに比べると表題の作品は「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」を継父にもつ「わたし_(ド・ドーミエ=スミスという偽名をもつ)」が語る青春の回顧談として無理なく最後まで読んでいくことができる。ただ一つだけ腑に落ちないのは冒頭の一文である。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「わたしは、これから語るこの物語をば、その価値は問わぬにしても、ほんの微かながら粗野磊落な好色の匂いぐらいはところどころにとどめておりはせぬかと、それを唯一の心頼みに、今は亡き粗野磊落にして好色の継父、ロバート・アガドギャニアン・ジュニアの思い出に捧げたくなる気持を禁じがたい」
かなり長い文章で原文はもっと続くのだが、訳者の野崎孝さんはいったんここで切っている。ところで、いったいこの小説は最後まで読んでも「粗野磊落にして好色」の人間が登場しているようには見えないのだ。あえて見つけるなら、まだ見ぬ「シスター・アーマ」に異常なまでの関心をもち彼女に近づこうとする十九歳の「わたし」がそれであろうが、継父の「ロバート・アガドギャニアン・ジュニア」に関しては、離婚したての年若いX夫人との交際が示唆されるが、それらしいエピソードが語られるわけではない。
それから、これは単純に作者のミスなのだろうが(訳者の野崎さんはそのように指摘して注をつけている)、「ボビーとわたしがリッツ・ホテルに部屋をとって十ヵ月ばかりたった一九四〇年五月のある週」に「わたし」は〈東京帝室美術院〉前会員ヨショト氏が出した美術の添削講師の求人広告を目にしてそれに応募するのだが、実際にモントリオールにあるヨショト氏の職場兼住居に赴いたのは「一九三九年」となっている。「わたし」がシスター・アーマに宛てた「まるで小包みたいな手紙」も「一九三九年六月の夜」に書いた、となっていて、もう一つの「結局投函しなかった」手紙にも「カナダ、モントリオールにて 一九三九年六月二十八日」と明記されている。なんだか随分念入りなミスのようである。
『ナイン・ストーリーズ』の中でこの小説が最も長い。中篇、といっていいくらいの分量である。だが、語られる内容は比較的単純で、主人公の「わたし」のひと夏の体験である。少年期から青年期に差し掛かる十年をフランスで過ごし、母を亡くして継父とともに母国に戻った孤独な「わたし」は年齢を偽り、偽名で〈古典巨匠の友〉という美術学校の住み込み添削講師の職を得る。学校のスタッフは校長のヨショト氏とその夫人だけで、「わたし」は慣れない日本食(夫妻は日本人である)と椅子のない部屋に七転八倒しながら不本意な仕事をなんとかこなそうとする。展覧会で三つの金賞を受賞し、「自分が気味の悪いほどエル・グレコに似ている」「わたし」は、ヨショト氏の添削の翻訳や「二人のイカレタ生徒」の添削という仕事に意気阻喪してしまう。
ところが「わたし」は三人目に添削にあたった「聖ヨセフ修道会」の「シスター・アーマ」なる生徒の六枚の絵に異常なまでの興味をもつ。中でも褐色の包装紙に水彩で描いた一枚の絵___キリストの屍体を埋葬しようとしている場面を描いている__を「わたし」は絶賛してその中身をこと細かに描写する。そして、その絵をヨショト氏に奪われぬよう自分の部屋に持ち帰り、翌朝の四時までかかって添削、というより「走っている人の姿を描きたい」という彼女の求めに応じて、みずから十枚以上のスケッチを描いたばかりか「いつ果てるともしれぬような」長い手紙を書いたのである。
シスターアーマの次の作品と彼女自身との逢瀬に期待をふくらませた「わたし」は、明け方「午前三時半ごろ」スケッチと手紙を投函しに外出する。何故か作者はここでも時間の前後を間違えているようだ。朝の四時まで添削していたのに、三時半に投函した、というのは明らかに矛盾だろう。どうでもいいことなのかもしれないが、なんだか腑に落ちないものがある。
「わたし」の喜びは続かなかった。最初に受け持った二人よりさらに「もっと画才のない」生徒二人の添削をしなければならなくなったことと、決定的だったのは、シスター・アーマの修道院の院長から彼女の勉学許可の取り消しを告げる手紙が届いたからである。絶望した「わたし」は「講師を離れた個人の立場で」自分が受け持つ四人の生徒に「絵描きになることを断念するよう」フランス語で手紙を書いて言い渡す。その後「わたし」はまたもや長い手紙を書いて、シスター・アーマに勉学を続けるように促し、面会を求めるのだが、この手紙は結局投函されなかった。タキシードを着込んでホテルの食事を予約して外出した「わたし」だったが、途中で以前「泥水のようなコーヒー」と『「コニーアイランド風」なる特大のホットドック』を鵜呑みにした簡易食堂で食事をしているうちに、もう一度書き直したほうがいいように思えてきたからである。
以前私が「パウロの回心」にたとえた「異常な経験」に「わたし」が遭遇したのは、その帰り道であった。学校のある建物の一階の整形外科の器具の店に灯りがともっていて、「緑と黄と紫のシフォンのドレス」を着た「三十がらみの屈強な女性」がマネキンの脱腸帯を取り替えていた。「わたし」の視線に気づいた女性がよろけ、思わず手を差しのべた「わたし」に、「突然太陽が現われて」飛んで来たのだ。数秒間目がくらみよろけた「わたし」が再び見えるようになったとき、その女性の姿はもうなかった。
これでひと夏の体験は終わりである。「わたし」は退学させたばかりの四人の生徒に手紙を書いて復学させたが、ヨショト氏の学校自体は閉校になった。「わたし」は継父のボビーと以前の生活に戻り、シスター・アーマとは二度と連絡しなかった。
自意識過剰な青年のほろ苦い体験をユーモラスに語ったこの小説の中にいくつかぎょっとする場面、というか表現がある。一例を上げると、シスター・アーマに宛てた最初の手紙を投函した「わたし」が、夜毎呻き声をあげるヨショト夫妻の悩みを聞くことを想像する場面である。二人の話を辛抱強く聞いていた「わたし」がとうとう耐えられなくなって「ヨショト夫人の咽喉の奥に片手を突っ込み、心臓をつかみ出し、小鳥でも温めるようにしてこれを温めてやる」とあるが、どうしたら、このようなことが想像できるだろうか。また、「わたし」はシスター・アーマに書いた最初の手紙のなかで、彼女の絵をアッシジの聖フランシスの言葉に似ているというが、それはどんな意味なのか。聖フランシスの言葉とは、彼が焼き鏝で片方の目玉を焼きつぶされようとしたときの「わが兄弟なる火よ、神は汝を美しく有用なもの創り給うた。願わくはわれを鄭重に取り扱われんことを」というものである。さらに、結局投函されなかった第二の手紙でも「私の生涯で最も幸福だった日」母と待ち合わせの場所に歩く途中「鼻がなんにもない男とまともにぶつかってしまった」と書き、「世の中にはこういうこともあるのですから、どうかこのことの意味をお考えになってください」と言うのである。「わたし」はいったい何者なのか?シスター・アーマとは何なのか?彼女はどんな絵を描いたのか?そして「わたし」は何を描いて添削したのか?
あっけなく閉校になってしまったヨショト氏の学校だが、ヨショト氏の教育の能力に関して「わたし」はこう書くのだ。「豚だと分かるものが豚小屋だと分かるものに入っているように描くことは結構教えることができる。いや、いかにも絵にあるような豚がいかにも絵にあるような豚小屋に入っているように描くことだって教えられなくはない。しかし、美しい豚が美しい豚小屋に入っているように描くにはどうしたらよいか、・・・これを教えることはしゃっちょこ立ちしたって金輪際できることではない」____「わたし」は「美しい豚が美しい豚小屋に入っているように」描いたのだろうか。
もうひとつ「これだ!」と納得できるものがつかみきれなくて、かなり時間が経ってしまいました。まだ重要な部分が一つ曖昧なのですが、途中経過の報告です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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