2012年3月28日水曜日

「バナナ魚には理想的な日」四度_____「バナナ魚」とは何か

きわめて根本的な問題提起である。「バナナ魚」とは何か。「サリンジャー」とは何か、という問題提起であり、「サリンジャー現象」とは何か、という問題提起でもある。

私のサリンジャー体験は『フラニーとゾーイ』から始まった。そのことがサリンジャーの作品に対して、かなりバイアスのかかった受容を余儀なくさせてしまったように思う。作品の中で語られる一見宗教的、哲学的な話題を、作品の主題のように受けとめてしまった。だが、繰り返すが、小説は「世態、風俗」をこそ読むべきなのである。「物に即して物を語る」のでなければ、小説を書く意味はないだろう。

 だから、「バナナ魚」は、あくまで「バナナ魚」であって、「あくなき物欲」とか「捨て切れないエゴ」などの抽象的な概念ではない。「バナナを食べる魚」なのである。作品中にそう書かれている。「バナナを食べて、食べ過ぎて穴から出られなくなってしまう」という「悲劇的な運命」をたどる「物」である。シーモアはシビルを連れて海に出て、シビルがそれを見つけたから、ホテルに戻って、自分の部屋で、眠るミュリエルの隣のベッドで「七・六五ミリ口径のオルトギース自動拳銃」を取り出し、「自分の右のこめかみを撃ち抜いた」のだ。

それでは、シビルが見つけた「バナナ魚」という「物」は何の「物」か?これが何か、ををつきとめるのは、実は日本語に訳されたものを読んでいる限り、かなり困難、というか絶望に近いのではないか。日本語の限界なのか、翻訳というものの限界なのか、はたまた翻訳家の問題なのか、私にはわからない。外国語を一対一の対応で日本語に置き換えるという作業は成り立つのだろうか、とさえ思ってしまう。

たとえば、バナナ魚を見つけたシビルにシーモアが接吻する場面、野崎孝さんの訳は、「こら!」とシビルが叫ぶ。シーモアも「そっちこそ、こらだ!」となっている。橋本福夫さんは「いやだわ!」「こっちこそいやだわ、だ!」と訳している。原文は
"Hey!" "Hey,yourself"なのである。私だったら、「やったね!」「そっちこそ、やったよ!」くらいに訳したい。野崎さん、橋本さんは、シーモアがシビルの足に接吻したことに対してのシビルの反応として「いやだわ!」や「こら!」という訳をつけたのだろう。だが、ここは「バナナ魚を見つけた!」という喜びと驚きのニュアンスを大事にしたいところだと思う。

それから、小説の前半、全体の半分以上の分量を占めるミュリエルと母親の会話も、日本語の訳ではたんに通俗的な母親が、繊細な神経をもった青年と結婚した娘を心配している日常的なもののように感じられる。原文でもそうなのだが、それでもどこかニュアンスが違う。そう訳すしかない、とは思うものの、でも、なんとかならないものか、という訳がついている部分が何箇所もある。でも、それは翻訳の問題というより、サリンジャー自身が仕掛けた罠なのだろう。「サリンジャ―」とは何者なのか?

 サリンジャーとは何か、はひとまず置いて、「サリンジャー現象」については、はっきりしている。『ナイン・ストーリーズ』の裏カバーに「九つの『ケッ作』」という表記がされていることに明らかなように、体制に批判的な若者の青春をユーモラスに描いた「アンチ・ヒーロー」の物語であり、純真な子供、ないし子供時代への共感の物語として彼の作品を受け止め、それにたいする讃歌である。だが、ほんとうにそうなのか。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは「やせっぽちで、弱虫で、平和主義者」だと自称しているが、同時に「僕は嘘つきで、いくらだって嘘がつけるんだ」とも言っている。私が見る限り、ホールデンは「アンチ・ヒーロー」どころか、まぎれもないヒーローだ。カッコいい、カッコよ過ぎるヒーローなのである。そして、シーモアもまた、まぎれもないヒーローなのだと思う。戦争で神経を病んだ、繊細な若者ではなく。 

 おそらく、サリンジャーは、文字の表面だけを追いかけていたら、必ず彼の仕掛けた罠に嵌まるように、書いたのだろう。特に「日本語」で訳した場合に。そして日本語になった自分の小説が、どのように読まれるか、ずっと関心をもちつづけていたに違いない。彼の「日本」への理解と関心は、たんなる東洋趣味という範疇のものではないように思われる。

 今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

4 件のコメント:

  1. はじめまして
    バナナをwikiで調べてみたのですが
    知恵の実はバナナであるとする仮説があるそうです
    僕には教養がないのでnaokoさんの分析には作品の解釈をする上でとても助けられています
    気が向いたらまたサリンジャー作品について書いていただけたらとおもいます

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  2. 私の教養の程度は、いつかブログでも書いたのですが、「ホー・チミンってフランスの女優さん?」と聞いた十代の頃と大差ありません。必死であれこれ調べています。
    「バナナ=知恵の実」説は魅力的ですが、「バナナ魚」なので、「魚」の部分も考えなければいけないかもしれませんね。
    サリンジャーについては、もう一度読み直そう、と思っていますが、いまは大江健三郎の謎に嵌まっています。いちおう『水死』まで書いて区切りをつけたいと考えています。『万延元年のフットボール』以降の大江はあきらかにサリンジャーの方法を意識して書いていると思うので。


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  3. 昨日の者ですが
    シーモアの 僕の生まれは山羊座なんだ というセリフが気になり山羊座を再びwikiで調べてみたところ
    神話の上で山羊座は下半身が魚の神なんだそうです
    神話は複数あったのですが、メソポタミア神話においてその下半身の魚は鯉とされていました
    鯉についてもついでに調べましたら、これは偶然である可能性が高いと思いますが
    ドイツの鯉は 鏡鯉 と言うそうです
    ぼくはシーモアはおそらくドイツ人だとおもうのでもしかしたらとおもいました
    大江健三郎という人は初めて知りました、是非読んでみたいとおもいます(僕の教養はこの程度です ちなみに十代です)
    これからも何かきづいたら時々コメントさせていただきたいです

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  4. シーモアの「国籍」はあまり考えたことがなかったのですが、生まれが「山羊座」だった、と彼自身が言っているのは重要ですね。ご指摘ありがとうございます。上半身は山羊、下半身は魚。「バナナ魚」も「魚」なので、どちらも水に縁があります。それと同時に「山羊」には「犠牲」のイメージがつきまとうので、こちらも見過ごせないと思います。
    コメントありがとうございます。

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