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2013年9月1日日曜日

「香具山は畝傍をゝしと耳梨と」続々続々折口学再考___「つま争い伝承」?

 額田王、柿本人麻呂といわゆる宮廷歌人の歌を取り上げてきた。今回は天智天皇御製と記載されている歌三首。

 「香具山は 畝傍をゝしと、
   耳梨と、あひ争ひき。
  神代よりかくなるらし。
   いにしへも然なれこそ。
  うつそみも、つまを争ふらしき」 萬葉集巻一・一三

     反歌
 「香具山と 耳梨山と あひし時、立ちて 見に来し 印南国原」 萬葉集巻一・一四
 「わたつみの豊旗雲に入日さし、今宵の月夜明らけくこそ」 萬葉集巻一・一五

 大和三山のつま争いは有名な伝説だが、三山の雌雄は流動的である。多くは最も標高の高い(といっても199メートル)畝傍山を男性、耳梨と香具山を女性に見立てて解釈しているようだが、古代では母権制の名残で女山のほうが高い場合もあるようである。実際に登ってみると、香具山と耳梨山はあっという間に頂上に着いてしまう。高さはそんなに変わらないのだが、畝傍山はどこか神秘的な雰囲気が漂う妖しい山だった。

 だから、というわけでもないのだが、私は畝傍山が女山のような気がする。「畝傍を をし(愛しまたは惜し)」と読みたい。「畝傍雄々し」でなく。原文は「畝傍男雄志」とあるので畝傍山が男山であるとするのが一般的のようだが。折口も「畝傍男々し」と訓んでいる。だが、長歌は「香具山は、畝傍をゝしと」と詠み手が香具山の側に立って詠んでいる。とすれば香具山は天智天皇に擬せられるのだから男山ということになるのではないか。いずれにしろ、香具山は大和三山の中の一つ、というより、「ひさかたの」「天の」と枕詞を冠して詠まれる特別な存在だった。

「大和には群山あれど、
 とりよろふ天の香具山、登り立ち 国見をすれば、
   国原は煙立ち立つ。海原は鷗立ち立つ。
うまし国ぞ。蜻蛉島大和の国は」 舒明天皇 萬葉集巻一・二
「春過ぎて 夏来たるらし。しろたへの衣乾したり。天の香具山」 持統天皇 萬葉集巻一・二八
「ひさかたの 天の香具山。このゆふべ、霞たなびく。春立つらしも」 人麻呂歌集 萬葉集巻十・
一八一二

 香具山の説明が長くなってしまったが、雌雄いずれにしろ長歌は三山のうち二山が残りの一山をめぐって争った、という伝承を踏まえて「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」と詠んでいる。「つま争ひ」の歌である。それに対して反歌第一首「香具山と・・・」は三山のつま争いを仲裁に印南の国がやって来た、と長歌をうけた内容になっているが、必ずしも反歌としてしっくりあっていないようである。それでも、「あひし時」=「闘ひし時」または「戦ひし時」の意で、(つま)「争い」という共通項があることから、反歌として成り立たない、とまではいえない。だが、反歌第二首はどうだろうか。「わたつみの豊旗雲に入日さし・・・」とまったく異なる叙景歌が詠まれている。つま争いとは無関係なのだ。

 そもそもこの長、反歌はどこで詠まれたのか。「香具山は・・・」と読み出している長歌はどうしても、香具山を眼前にして詠んでいる、と考えるのが自然だろう。だが、「いにしへも然なれこそ。うつそみも、つまを争ふらしき」という詠嘆を反復、強調すべき反歌は「・・・立ちて 見に来し 印南国原」と木に竹を接いだような歌で、抒情のかけらも感じられない。そして第三首は、「わたつみの・・・」と海上の光景を詠んで、「今宵の月夜明らけくこそ」と歌い上げる。香具山を眼前にして「わたつみの・・・」はあり得ないので、少なくとも第三首は、海上ないし海を眼前にして読んでいるとしか考えられない。つまりこの三首は、つま争いの枠組みで一つながりの組歌として成り立たせることは困難なのだ。

 山本健吉氏は『万葉百歌』の中で、この三首は、六六一年正月、斉明天皇西征の時、印南の浦に泊り、宴を催した折のものではないか、と推測されている。おそらく、「そう読まれるべき」なのだと思う。萬葉集巻一は巻頭歌に雄略天皇「籠よ、み籠持ち・・・」を置くことから推測されるように、明確な意図をもって編纂されている。とすれば、この三首は、やはり、「つま争い」ではない一つながりの組歌として「読まれなければならない」。そしてその主眼は第三首「今宵の月夜明らけくこそ」にあると思われる。「明らけくこそ」は「清らけくこそ」「まさやかにこそ」など、異なる訓があるようだが、いずれも嘱目の光景を詠みながら、天気晴朗を願う歌である。同時に、その願望の先に何があるかはいうまでもない。軍旅である。そのことはまた、「つま争い」という伝承をもちだしたことの意味ももういちど考えなければならないことを示唆するものではないのか。

 この三首が「つま争い」という伝承に偏って取り上げられることが多いのは、おそらく額田王が天智、天武の両天皇に仕えたという史実によるのだろう。
「あかねさす 紫野行き 標野行き、野守は見ずや。君が袖振る」 額田王 萬葉集巻一・二〇
「むらさきの にほへる妹を。憎くあらば、人妻ゆゑに、われ恋ひめやも」 天武天皇 萬葉集巻一・二一
の二首もゴシップ的関心の的になるのかもしれない。だが、この三首の長、反歌はそれと切り離して読まれるべきである。

 萬葉集にこだわりはじめると、止め処がなくなりそうで、いつまでも大江健三郎やサリンジャーに戻れなくなりそうです。折口については、「折口信夫とキリスト教」とくに「貴種流離譚」というテーマで書きたいのですが、これは生半な覚悟では書けないので、だいぶ遠い先のことになりそうです。
そして、いつかは「権力小説としての源氏物語」を書きたいと思っています。日暮れて道遠し。

 今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年8月16日金曜日

「いかさまに 思ほしけめか」続々続折口学再考__懐古、鎮魂の目的

 わずか五年で廃都となった近江京は、その後多くの歌人たちの懐古の対象となって詠みつがれていく。ここではもっとも早く懐古、鎮魂の歌を詠んだ人麻呂の作品を取り上げてみたい。

「玉だすき畝傍の山の、橿原の聖の御代ゆ、
  あれましゝ神のことごと、栂の木のいやつぎつぎに、天の下知ろしめしゝを、
    空見つ大和をおきて、青丹によし奈良山を越え、
  いかさまに思ほしけめか、
あまさかる鄙にはあれど、いはゞしる近江国の、漣の大津の宮に、天の下知ろしけむ、
  皇祖の神の尊の大宮は、こゝと聞けども、大殿はこゝといへども、
    春草の茂く生ひたる、霞立つ春日のきれる、もゝしきの大宮どころ、見れば悲しも」
                                              萬葉集巻一・二十九
 
    反歌
「漣の滋賀の辛埼さきくあれど、大宮人の船待ちかねつ」 萬葉集巻一・三十
「漣の滋賀の大曲淀むとも、昔の人に復も逢はめやも」 萬葉集巻一・三十一

 長歌「あれましゝ神のことごと」の解釈がいまひとつ落ち着かないのだが、要するに、継続して都があった大和を捨てて、辺鄙な場所に近江京を造ったのに、今はそのあとかたもなく荒廃し、自然にもどってしまったことを嘆いた歌である。


 「玉だすき→畝傍」「栂の木の→いやつぎつぎに」「空見つ→大和」「青丹よし→奈良山」「いはゞしる→近江」「漣の→大津」「もゝしきの→大宮どころ」と、必ず枕詞をおいて地名を詠みこんでいるのは、たんなる修辞ではなく、呪術といってよい絶対の決まりごとだからだろう。折口はそれを「信仰」と呼ぶが、私にはもっと具体的なものへの畏怖の気持ちがそうさせるのだと思う。人麻呂はこの長、反歌を遷都という行為に対して中立の立場で詠んでいるように見えるが、実は違うのではないか。「いかさまに思ほしけめか」と懐疑の念をあらわにしているのである。

 反歌二首いずれも変わらぬ自然と激変した人事を対照して詠んでいる。
「大宮人の船待ちかねつ」折口はこの部分を「いくら待っても宮仕への官人衆の船が出て来ない。船を待ちをふせることが出来ないでいる」と口語譯をつけている。それで譯としてはよくわかるのだが、「船で宮仕へ」をするというのがいま一つわからない。人麻呂とほぼ同時代の黒人も
「旅にしてもの恋しきに、やましたの 朱のそほ船 沖に榜ぐ見ゆ」
など官船、及びその船旅を詠む歌をいくつも残していることから、現代の私たちが想像する以上に、この時代すでに水上交通が発達していたのかもしれない。ともかくも人麻呂のこの歌は湖上に船の姿が現れることがまったく期待できないことを嘆きつつ確認しているのだ。そしてさらに次の歌で「昔の人に復も逢はめやも」と念を押す。官人はもう誰もいないのだ、と。

 長、反歌あいまって、「(自然にもどってしまった)御所の跡を見ると悲しみにくれる」「船を待っても、来ない」「昔の人に(逢いたいのだが)逢えない」と悲傷、懐古の情が過不足なく詠みこまれている。だが、それは人麻呂個人の感慨を詠んだものというよりは、天武、持統両朝に仕えた宮廷歌人の作品として、廃都となった近江朝及びその建設にかかわった人々への鎮魂、慰撫を目的とするものであろう。さらにいえば、このように悲傷、懐古の姿勢を見せることで、「これほどまでも(廃都となった近江朝を)しのんでいるのだから、決して祟らないでくれ」と呼びかけているのだ。その対象はすでにこの世の人でなくなった天智天皇、大友皇子だけでなく、今も生きている近江朝にかかわった人々を含むのだと思われる。近江朝が滅んで千年もたってからこの歌が詠まれたのではない。

 萬葉集はこの歌の次に高市黒人の短歌二首を記載する。
「いにしへの人に 吾あれや。ささなみの故き京を見れば、悲しき」萬葉集巻一・三二
「ささなみの 国つ御神の うらさびて、荒れたる都見れば、悲しも」萬葉集巻一・三三
人麻呂の長、反歌とくらべれば、歌がずっと個人的な感慨に近くなってきていることがわかるだろう。鎮魂のくびきは残っていても、「いにしへの人に 吾あれや」という自省のことばがまず発せられるのだ。ここからは
「古き都に来てみれば 浅茅が原とぞなりにける 月の光はくまなくて 秋風のみぞ身にはしむ」(梁塵秘抄)から「辛崎の 松は花より朧にて」(芭蕉)まですぐのように思われるのだが、いまは歌謡史をたどることは控えて、黒人と人麻呂の歌柄の違いを指摘するにとどめたい。二人の歌人の間にさほどの年代の差があるとは思えない。歌が詠まれる場が異なっているのだと思われる。

 最後に、今回のブログの趣旨と少しずれるのだが、人麻呂の近江旧都を詠んだ歌をもう一首あげておこう。これは短歌だけで独立して萬葉集に記載された歌である。
「近江の湖、夕波千鳥、汝が鳴けば、心もしのに いにしへ思ほゆ」 萬葉集巻三・二六六
鎮魂、呪術といった実用を突き抜けた一直線の慟哭である。やはり天才というべきなのだろう。

 どうしても素材として作品を取り上げることに徹することが出来ず、鑑賞に傾きがちになってしまいました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2013年8月12日月曜日

「うまざけ 三輪の山」続折口学再考___信仰_呪術の根底にあるもの

 前回に続いて、額田王の作品を取り上げてみたい。額田王は鏡王の娘ではじめ大海人皇子に娶され、後に姉鏡女王とともに中大兄皇子(天智天皇)に娶された。以下は天智天皇作とも伝えられる有名な長、反歌である。

「うまざけ 三輪の山。
あをによし 奈良の山の、
 山の際にい隠るまで、
 道の隈い積るまでに、
  つばらにも見つつ行かむを。
  しばしばも見放けむ山を。
心なく 雲の 隠さふべしや」 萬葉集巻一・一七

   反歌
「三輪山を 然も隠すか。 雲だにも心あらなも。
隠さふべしや」 萬葉集巻一・十八

 六六七年天智天皇は近江の大津京に遷都する。「近江の国に下る時」という題詞から遷都以前に詠まれたものかと考えられる。通りすぎてゆく三輪山をいつまでも見たいのに、雲が立ち込めてこれを阻んでいるので、そうしないでくれ、と訴えかけている歌である。多くの解説がこの歌に三輪山への惜別の情を読み取っている。それで間違いはないと思うのだが、もう少し具体的な情景をイメージして考えてみたい。

 三輪山は山そのものが「御神体」として崇められる古来有名な山だが、標高は海抜467メートルである。山腹に雲が湧き立つような高さの山ではないように思う。同じことは大和三山のつま争いで有名な香具山、畝傍、耳成にもいえるのだが、いったいヤマトからナラにかけては「海山のあひだ」である日本列島では珍しくこじんまりとした平野なのだ。それでも、雨が急速に上がって気温変化が著しい場合は山全体を雲、というより霧がたちこめて隠すこともあるかもしれない。だが、この歌は国境の奈良山(これも海抜100メートル級の低丘陵である)まで道行を進めてきた時点で詠まれているので、そのような気候の変化があったとは考えにくい。とすれば、「雲が隠してしまうので、三輪山が見えない」というのは事実なのだろうか。

 事実として確実なのは、一行は三輪山を見ないで、国越えをしつつある、ということだと思われる。「雲だにも心あらなも」は「せめて雲だけでも情けがあってほしい」の意だが、「せめて雲だけでも」というのは雲以外に「心なき」ものがあって三輪山を隠していることになる。この歌の作者はそれには触れないまま、「せめて雲だけでも」と哀願しているのだ。

 「うまざけ 三輪の山」から「しばしばも見放けむを」までは、中国の四六駢儷体を意識したかのように、結句「心なく 雲の 隠さふべしや」を導くための対句を重ねているが、それだけのことで特に個性的な表現ではない。人麻呂の長歌もより多くの修辞を連ねるが同じ構成である。要は、ことばを連ねることで通り過ぎる三輪山を宥めようとしているのだ。折口は『口譯萬葉集』で「故京に對する執著が、唯一抹の三輪山の、遠山眉に集中してゐる。山について思ふ所の淺い今人の、感情との相違を見る必要がある」と解説している。だが「故京に對する執著」というより、もう一歩すすめ「故京に対する畏怖」といってよいのではないか。そしてそれは、たんに「信仰」の次元というよりももっと具体的な「畏怖しなければならない勢力」への配慮だったのではないか。


 額田王は斉明天皇から持統天皇の時代にいたるまでの間に歌を残している。その多くが天皇ないし高貴な身分の人の代作であると思われる。この長、反歌も天智天皇(この時点ではまだ即位していないと思われるので中大兄皇子)に代わって天智の宮廷のために詠んだものだろう。天智の宮廷が詞を尽くして慰撫しなければならない勢力が三輪山周辺にあったこと、まずそれを念頭においてこの長、反歌を考えるべきである。

 天智の断行した近江遷都は六七一年天智が崩じると翌六七二年壬申の乱によって陥落してしまう。今度は近江が「故京」となって、次の代の歌人たちの懐古の対象になるのだが、それについてはまた回をあらためて考えてみたい。

 いまだ整理のつかない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。












2013年8月10日土曜日

「熟田津に 船のりせむと」折口学再考____信仰という名の思考停止を超えて

 前回取り上げたレイモンド・チャンドラーとともに、若い日の私を虜にしたもう一人の男折口信夫について読み直さなければならない、と考えている。と言っても、折口は文学、宗教その他あらゆるジャンルにわたる巨人だ。これは折口批判などいうだいそれたものではなく、あくまで私の個人的な読み直しである。だが、どうしても、いま、しなければならに読み直しなのだ。

 学校の図書館ではじめて折口の著作に触れたとき、そこにあったのは難しくて読めない漢字と容易に意味の読み取れない文脈の連続だった。ほとんど理解できないまま、だが行間から立ち昇る妖気に惹かれて、次々と全集を読みあさった。折口学のよき紹介者となった弟子の池田弥三郎、山本健吉両氏による『萬葉百歌』が理解の手がかりを示してくれたことも大きい。文学を理解、鑑賞するためには、まずその発生の場に立ち帰らなければならない。可能な限り発生時の民衆の生活の場に立つこと、その方法論であり、又その集大成が折口民俗学である、という理解は間違っていないと思う。

 問題は、その民俗学が「信仰」という名の宗教の次元に入り込むことだ。乱暴な言い方をすれば、折口においては、「民俗」=「宗教」である。もちろんそれは、仏教、キリスト教、イスラム教などの教義、教団が確立されたものではない。民衆が生きていくために必要な生活の規定、法と分かち難いものであり、またそれが儀式化したものである。それ故に、折口学=民俗学=宗教学は文学の理解の原点なのだが、文学の理解に不可欠なものがもう一つある。それは文学の発生とその文字化=文献化は権力が関わらなければできない、ということだ。そして民衆と権力(者)の生活において、「信仰」という名で呼ばれる事柄の内容には微妙な、だが確実な違いがある。

 例をあげて考えてみたい。
「熟田津に、船乗りせむと 月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」萬葉集巻一・八
作者は斉明天皇とも額田王ともいわれる。おそらく額田王が斉明天皇に代わって詠んだものであろう。前記『萬葉百歌』には、「斉明七年(六六一年)正月、百済救援のため、西征の軍を発し、十四日に伊予の熟田津の石湯の行宮に着いた。ここに滞在中、女帝が船を水に浮かべて、禊の行事をやられた」とある。事情はおそらくその通りで、史実に即しているものと思われる。船上の「禊」とはどんなことをするのか、浅学菲才の私は具体的にはわからないのだが、船を乗りだすことそのものが「禊」であったのかもしれない。この場において、「信仰」=「宗教」は儀式であり、国家の命運を決める一大行事なのである。

 だから結句「今は漕ぎ出でな」に対して「この軍旅には、斉明女帝・大田皇女をはじめ、婦人の同行者が多かった。厳粛な祭事ではあるが、楽しい祭事でもあり、その華やかさや楽しさへのあふれるような期待が、「今は漕ぎ出でな」の結句字余りに現れていよう」という『萬葉百歌』の山本健吉氏の解釈には首を傾げざるを得ない。「婦人の同行者が多かった」のは本邦になんらかの重大な異変があって、大和に残るのが危険と思われたのではないか。何より、山本氏もいうように「軍旅」なのである。「潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」の間合いに、切迫した呼吸を読み取るべきではないか。この後女帝は七月筑紫朝倉行宮に崩じ、日本水軍は六六三年白村江の戦いで唐水軍に敗れるのである。

 折口学と信仰について、もう少し例をあげて考えたいと思っているが、長くなるので、また回をあらためたい。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。




2012年1月30日月曜日

「家にてもたゆたふ命。波の上に浮きてし居れば、奥処(おくか)しらずも」___存在の不安

以前二か所に家を持っていて、その間を行き来する生活をしていたことがあった。一つは一か月に一度くらいの割合で風を通しに帰る程度だったが、庭が割合広かったので、家庭菜園などしていた。優雅な生活といえなくもなかったが、一年くらいして、貸家にしてしまった。貸家にした理由は、経済的なこともあったが、それよりも二つの家を行き来することが、私の気分を不安定にしたからだった。いつか曽野綾子さんが書いていたのだが、女には二種類あって、「家事女」とそうでない女がいるそうだ。私は間違いなく「家事女」で掃除、洗濯、簡単な食事つくり(大量に食べるので、ほとんど手作りです)をしていれば、それだけで満ち足りた日常を送ることができる。家は、私にとってそういう自分のエロスをみたす空間なので、それが二つに分離しているのは、とても落ち着きが悪いのだ。どちらの家にいてももう片方の家が気になってしまう。魂が二つの家の間を揺れ動いているようだった。

 表題の歌は萬葉集巻十七大伴旅人のけん従の歌。旅人が任地大宰府から都へ上る船の旅の途中で詠んだもの。折口信夫は「萬葉集中第一の傑作」と激賞した。
「家にてもたゆたふ命」_男にとっては家にあっても、魂は落ち着くことがないのだろうか。まして、危険な海の旅では、魂はどこまで浮遊していくのだろう。

 日本の歌のなかで、最も早く「文学を発見」したのは羈旅歌_旅の歌だったと折口はいう。道中通過する土地の神に挨拶の儀礼として地名を詠みこむ歌を奉げ、土地の神を慰撫したのである。
「ともしびの 明石大門にいらむ日や。こぎ別れなむ家のあたり見ず 柿本人麻呂」
だが、古代の旅の厳しさは、たんなる挨拶儀礼をこえて、自分一個の生存の不安をみつめる歌をうみだす。
「いづくにか 吾は宿らむ。高島の勝野の原に この日暮れなば 高市黒人」
しかし、黒人の歌は、まだ必ず地名を詠みこんでいて、羈旅歌として形式を保っている。それにたいして、「家にても」の歌には、地名も固有名詞もない。不安心理の内省は抽象化、観念化の域に達している。どちらが優れているかということではない。文学が共同体の儀礼から展開していく過程を示しているということだろう。そしてこの歌はそこから一気に存在の原点に到達してしまったように思われる。

 萬葉集中で、もう一つ同じように生存の不安を見つめた歌がある。
「うらさぶる心さまねし。ひさかたの天(あめ)の時雨の流らふ。見れば 長田王」

 このところ身辺雑用が続いております。書く時間も読む時間もなかなかとれないのですが、できる限り書いていきたいと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月22日日曜日

「沫雪の ほどろほどろに降り頻けば、平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」____個人的感慨としての詩歌

萬葉集巻八 大伴旅人の歌。以前「男の恋歌」でとりあげた「ますらをと思へる吾や。みづくきの 水城の上に、涙のごはむ」の作者が、任地九州にあって、降る雪に故郷を思って詠んだ歌である。「ほどろほどろに降り頻けば」の「ほどろほどろ」が好きである。水分を多く含んだぼたん雪が、次から次へと地上に舞い下りてくるさまを、重過ぎも軽すぎもしない語感でみごとにとらえている。いつやむともしれない雪を、旅人はじっと見ている。そして、遠くはなれた都の生活と都の人を思っている。ここでは、雪は「豊年の予祝」として、儀礼的に詠まれているのではない。雪は、旅人の心を、いまあるこの場から遠くにときはなつ作用を及ぼすものとして詠まれている。雪は、というより歌は、共同体的な発想から抜け出して、個人の感慨の表現として詠みだされる一歩を踏み出したのだと思う。

 さてここで、昨日とりあげた永田耕衣さんの雪の俳句。
「雪景の生死生死(しょうじしょうじ)と締り行く」
旅人が「ほどろほどろ」ととらえた雪のふるさまを、「生死生死(しょうじしょうじ)」と表現している。雪が空から降ってきて、地面にすい込まれる様子を「生まれて死んで、生まれて死んで」と直観したものだろう。一秒にも満たない時間のうちに展開する雪の誕生と死、そのなかに永遠をみているのか。それとも永遠が遠ざかっていくのをみているのか。興味深いのは、この句
Sekkeino SyouziSyouzito Simariyuku とS音が句の先頭にきていることだ。S音の連続が一句全体に緊張感とある種の神聖感をもたらしている。と同時に、ここには詠む人の「個人的感慨」というようなものは、もはや消えてしまって、一句は乾坤一擲、宇宙を切り取る大勝負のおもむきがある。

 ちなみに、旅人の標題の歌を同じくローマ字表記してみる。
Awayukino Hodorohodoroni Hurisikeba NaranoMiyakosi Omohoyurukamo
となって、みごとなまでにS音はない。母音のAとOが多用され、子音のN、Mがはさまれることで、一首は、なまあたたかな感触がする。

 日本の歌が、共同体の儀礼歌から、個人の感慨の表現としての文学へ、という過程をたどる際に、もう一人必ず触れなければならない歌人として、旅人の先達高市黒人がいるが、ここでは黒人の業績について書く余裕がない。黒人は、萬葉集の中で私が最も好きな歌人であったが。一首黒人の雪の歌を紹介しておく。
「婦負(めひ)の野に 薄をしなべ降る雪の 宿かる今日し悲しく思ほゆ」
旅人ほど完全に個人的感慨の歌ではない。だが、羈旅歌としての儀礼より、じみじみと心細さのつたわってくる歌だと思う。

 萬葉の後半で、個人としての感慨_共同体の儀礼ではなく私のための文学_としての一歩をふみだした詩歌は、「私のため」をも通りぬけてしまって、永遠をつかみ取ろうとする禁断の領域にはいってしまったのか。最後に耕衣さんの俳句をひとつ。
「秋雨や空杯の空(くう)溢れ溢れ」
これは「あきさめや くうはいのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?それとも「しゅううやくう さかずきのくうあふれあふれ」と読むのでしょうか?

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月12日木曜日

「しるしなき恋をもするか」___男の恋歌

昨日に続いて、聖書のなかの「ぶどう園の農夫のたとえ」と「ぶどう園の労働者のたとえ」について考えてみようと思ったのですが、もう少し後にします。今日は萬葉集の中から、男の恋歌をいくつか紹介します。

 「しるしなき恋をもするか 夕されば ひとの手まきて 寝なむ子ゆゑに」巻十一 作者不詳
こんな実るあてのない思いに身を焦がすとは。夜ともなれば、ほかの男の腕の中で寝る女のために___人妻への恋をうたったもので「恋をもするか」の「か」にやるせない思いがこもっている。だが「作者不詳」とあるので、個人の独白というより、民謡のように集団に膾炙した歌なのだろう。空想の世界では、不倫は人に甘美な感情を呼び起こさせる。現実の不倫は、苦くみじめな思いに満ちたものだろうけれど。

「ちりひぢの数にもあらぬわれ故に 思ひ侘ぶらむ妹が かなしさ」巻十五 中臣宅守
ものの数にも入らないような自分のために、うちのめされている恋人が愛おしい。___ こちらは作者名が記されていて、歌の成立事情もある程度わかっている。宅守は、狭野茅上娘子(さのちがみのおとめ)との結婚問題が罪に問われて、越前の国に流された。この歌は、二人の間で交わされた「宅守相聞」六三首の一首である。一般には、茅上娘子の情熱的な歌群の方が有名である。宅守の歌はその情熱をうけとめるには、いくらか力が足りないような印象を受ける。「こんなダメな男に惚れたお前は可愛いが・・・・」なんて、他人事みたいに言っていていいの!という感じがする。

「ますらをと思へる吾や みづくきの 水城の上に 涙のごはむ」巻六 大伴旅人
立派な男と自負していた俺なのに。別れのときに、こんな所で涙を拭う始末だとは。___旅人は家持の父。九州大宰府の帥として五年間在任し、任期を終えて都に帰るときの歌。愛人だったと思われる遊行女児島が、水城まで旅人を送り、別れを惜しんで詠んだ歌への返歌である。旅人はこの時すでに六十歳を超えていて、病を得ていた。そうでなくても、児島とは永遠の別れになるだろう。万感の思いが込み上げてくるのを抑えられなかった。不覚の涙、しかし、颯爽とした「ますらを振り」の歌である。

 こうしてみると、女の恋歌が、技巧をこらしていても、相手への直接的な「訴へ」であるのにたいして、男の恋歌はどこか客観的で反省的である。弱々しく見えるのは、最後まで理性といわれるものを捨てきれないためかもしれない。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月10日火曜日

「愛(うつく)しき言つくしてよ」___聞かせてよ、愛のことばを

プロフィールで紹介したように、わたしが一番好きな歌は「昭和枯れすすき」である。二番目に好きな歌は「愛のさざ波」で、私のミーハー偏差値が確認されると思う。でも、好きなものは好きなのだ。歌は、恋の歌でなくっちゃ歌じゃない、と思っている。いまの歌は、恋の歌なのかどうか、私には、耳をすませないと歌詞を聞き取れないものが多くて、よくわからない。でも、恋の歌は昔にくらべると少ないような気がする。それで大丈夫なのか、この国は、と危惧している。歌は「うた」であり、「訴ふ」なのだ。絶対的な他者である男と女が、絶対的な他者であるがゆえに求めあうのが「こひ(=魂を乞う)」であり、求めても埋められない断絶をのりこえるために「うた」う=「訴ふ」のに。恋の歌が少なくなっているという現象は、共同体の生命力が衰えていることを示しているのではないか。

 今日は時間がないので、私が一番好きな恋の歌を『和泉式部日記』から一首紹介します。
「夜もすがら 何事をかは思ひつる 窓うつ雨の音を聞きつつ」___一晩中窓にうちつける雨の音に耳をすませていました。そしてただひたすらあなたのことを思っていました。
恋人であった帥の宮と交わした贈答歌のうちの一首であるが、独立した歌として、ほとんど何の説明もなく理解できると思う。ことさらな媚態もなく、思わせぶりな拒絶もない。自己の内面に沈潜していく心をそのまま詠んだ歌であると思う。

 二番目に好きな歌をもう一首。
「恋ひ恋ひて逢へる時だに 愛しき言つくしてよ 長くと思はば」___焦がれ焦がれてやっと逢うことができたこの時だけでも、恋のことばを聞かせ続けてくださいね。二人の関係がずっと続いてほしいと思うなら。
こちらは萬葉集巻四大伴坂上郎女の歌。娘の坂上二嬢(おといらつめ)の代作をしたものといわれている。経験をつんだ恋のベテランが、若い男に直球勝負で交情の持続を要求したものだ。さすが!と脱帽である。

 三番目に好きな歌は・・・・と続けているときりがないので、この辺で今日はおしまいにします。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年1月2日月曜日

「あたらし」と「あらたし」と___折口信夫について

昨日取り上げた大伴家持「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け。吉事(よごと)」の「新しき」は「あたらしき」と読むのだろうか?いま、折口信夫全集巻五の『口譯萬葉集』でたしかめようとしたのだが、ただ「新しき・・・」と表記されているだけである。

 いうまでもなく「あたらし」と「あらたし」はちがう言葉である。現代語の語感とは逆に「新しい」は「あらたし」であり、「あたらし」は「愛惜」の念、であろうか。もし、「新しき年」が「あたらしき年」と読むのであれば、「『あたらしき』年のはじめの・・・・」という歌は、たんに新年をことほぐ儀礼歌ではない。「あたらしき年の初めの初春の、今日降る雪の」と、格助詞「の」を連用して、「いや頻け。吉事」と体言で止める。それはまるで、容赦なく過ぎ去っていく日常の時間の流れを、何とかして繋ぎ止めてておこうとする意志をあらわすかのようだ。端正な予祝の歌のようでありながら、もっと激しい渇望にも似た希求を感じとるべきなのかもしれない。

 ところで、折口信夫自身が「あたらし」という言葉を、非常に印象的に用いている歌がある。処女歌集『海山のあひだ』巻頭歌である。
「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」
「踏みしだかれて」という暴力的なイメージに続いて「色『あたらし』」とあれば、これはやはり「新し」ではなく「愛惜し」であろう。とすれば「この山道を行きし『人』」の『人』は、誰をさすのか。「人あり」となぜ断定的にいわなければならなかったのか。

 折口信夫との出会いは、高校の図書館であった。書かれている内容はほとんど理解できなかったが、なぜか全集を次々とひもといていった。紙面から古代の空気の匂いがたちのぼって、、折口その人が姿をあらわしてくるような気がした。孤独な、しかし充実した時間だった。

 『海山のあひだ』の「葛の花・・・」に続く第二首はこの歌である
「谷々に、家居ちりぼひ ひそけさよ。山の木の間に息づく。われは」
ほとんど性的な衝動を暗示するこの歌は、巻頭の第一首から独立した歌なのだろうか。

 折口信夫は、いまだ私にとって、あまりにも多くの謎につつまれた、しかしそれゆえに危険な磁力で魂をひきつける存在である。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
またしても、日付が変わってしまいました。

2012年1月1日日曜日

移りゆく時見るごとに___閑散とした年の暮れに

今まで何もしなかったわけではないのだが、それでも今日は最低限の歳末の家事をしていたら、この時間になってしまった。夕方、買い物にでかけて、人出があまりに少ないことに驚いた。昨日もそうだった。風もなく、冬晴れの暖かい日なのに、新年を迎える緊張感もざわめきもない年の暮れだった。
 
 いったいいつからこの国は、こんなに活気のない平板な国になってしまったのだろう。街に人があふれ、終電まで駅のプラットホームが混雑していたバブルのころはもちろん、それ以前のまだ日本が豊かとはいえない六十年代でも、こんなに寒々とした年の暮れはなかった。でも、そう感じるのは、もしかしたら、たんに私が年を取ったからなのかもしれない。いつの時代でも、時間の推移は、人間に悲哀の感情をもたらすのかもしれない。

 「移りゆく時見るごとに、心いたく 昔の人し 思ほゆるかも」
これは、私のもう一つの青春の文学だった万葉集巻二十におさめられている大伴家持の歌。ただし、これは年の暮れに詠んだものではない。「天平勝宝九年六月二三日」と記されているので、真夏の盛りの歌である。しかも「大監物三形王の家で酒宴したときの歌」とあるのだが、およそ宴のどよめきなど無縁である。主に対する儀礼的なことほぎもない。きわめて個人的な感慨を吐露しているだけだ。それがかえって千年以上の時を経てなお共感を呼ぶのだが。

 だが、家持は懐古の情にひたっているだけではいられない。斜陽とはいえ、古代の名門大伴家の族長として、端正な新年のことほぎの歌も残している。
「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、いや頻け 吉言(よごと)」
そして、これが万葉集最後の歌として記録されているものである。

 新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。