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2022年2月16日水曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__ニガヨモギの如意宝珠、鳥になった両親?契約印の魔法

 『千と千尋の神隠し』には不思議な効果をもつ「モノ」がいくつかでてくる。体が「融けていく」千尋に、ハクが飲ませた赤い錠剤(?)、空腹の千尋がむさぼる大きなお握り。お握りには、「千尋が元気になるように魔法をかけておいた」とハクはいうのだが、なぜか食べながら千尋は泣きじゃくっている。だが、一番不思議で、一番重要なのが、翁面の「名のある河の主」が千尋に与えたニガヨモギの草団子である。

 この草団子は、どんな効能をもつのか。千尋はこれを豚になってしまった「お父さんとお母さんに食べさせようと思った」と言っている。だが、食べた両親が人間に戻ることが出来るかどうかは分からないはずである。それを千尋は瀕死の龍ハクに飲み込ませる。するとハクは盗んだ契約印と黒いタールのような液体を吐き出し、人間の姿となる。さらにまた、食べ物も人間も手あたり次第に飲み込んで、怪物化したカオナシの口にも放り込む。カオナシもまた、ハクと同じように飲み込んだものすべてを吐き出す。ニガヨモギとは吐瀉剤なのか?千尋はニガヨモギが吐瀉剤だと知っていたのか。そんな筈はないのだが。

 おそらく、千尋が翁面の龍から授かったニガヨモギの団子は、如意宝珠と呼ばれる「龍の玉」の寓意だと思われる。龍の脳みそからとれるともいわれる如意宝珠は、その名の通りどんな願いもかなえる珠であるという。千尋の渾身の行為を翁面の龍は「善哉」と言祝いで、万能の珠をあたえたのだ。

 だが、それが「ニガヨモギ」である理由は何か。

 効能はなさそうだが、不思議なモノはまだある。ひとつは、ハクが湯婆の部屋に行くとき、なぜかエレベーターに乗らずに、建物の内部を螺旋状に上る階段を登っていくのだが、その途中に不思議な袋が二つ吊り下げられている。肌色の布の袋のようで、そんなに大きくはない。何が入っているのだろう。そして、なぜ、この場面があるのだろう。

 不思議な鳥も登場する。傷ついたハク龍を追いかけて、千尋が建物の外から危険を冒して湯婆の部屋に上っていくときに、二羽の白い鳥が千尋の周囲を飛んでいる。何も論理的根拠はないが、この二羽の白い鳥は千尋の両親のように見える。だが、なぜここに白い鳥、もしくは千尋の両親が登場するのかわからない。

 ニガヨモギの効能を考えるとき、忘れてならないのがハクが盗んだ契約印との関係である。海原鉄道に乗って、銭婆の家を訪れた千尋が「銭婆さん、これ、ハクが盗んだものです。お返しに来ました。」と契約印を差し出す。銭婆は「あんた、これが何だか知ってるかい?」とたずねる。「いえ、でも、とっても大事なものだって。ハクの代わりに謝りにきました。ごめんなさい。」と千尋が頭を下げると、銭婆はしげしげと判子を見て、小さな声で「おや、まもりのまじないの魔法が消えてるね」とつぶやく。千尋が「あの、判子から出てきた虫、あたしがつぶしちゃいました」というと、銭婆は「踏みつぶした?!あんた、あれは、妹が弟子を操るために、龍にかけた魔法だよ。踏みつぶした!あ、は、は」と大笑いする。

 このくだりは、非常にわかりにくい。敢えて分かりにくくしているように思われる。ここで呈示されている事実は二つある。一つは、契約印にかけられた「まもりのまじないの魔法」(かけたのは銭婆だろうか)が消えているということ。もうひとつは、契約印と一緒にハクの体から「虫」__黒いタール状の液体がとびだしたということである。「虫」とは湯婆が「弟子を操るために龍にかけた魔法」であり、千尋がそれを踏みつぶした、ということは、「弟子を操るために龍にかけた魔法」もまた消えたということだろう。この二つの事実はニガヨモギの効能と関係があるのか。

 最後に、ニガヨモギと契約印の魔法の関係は、ひとまず措いて、千尋の行動について考えてみたい。瀕死のハクが吐き出した契約印を、千尋が、ハクの代わりに銭婆に返す。そして「ごめんなさい」と謝る。銭婆もこれを受け入れ、龍の姿でやってきたハクに「あなたの罪は、もう咎めません」と許す。一件落着で、めでたしめでたしの大円団だが、ほんとうにそれでよかったのか。ハクが命がけで銭婆のもとから奪い取った契約印を千尋は「大事なものだって」と言って、独断で返してしまう。盗んだものを元の持主に返すのは「よい」行為で、千尋は「よい子」、という文脈は、ドラマづくりの巧みさから何となく受け入れられてしまう。強欲で酷薄そうな湯婆と、質素で優しそうな銭婆が対比的に造型されていることも、その流れを後押しする。

 だが、契約印がどういうもので、なぜ湯婆が奪おうとしたのか、という根本的な問題は曖昧にされたままである。もしかしたら、「根本的な問題」などなかったのかもしれない。あるように見せかけて、さまざまな謎を仕掛け、最後まで関心を惹きつけておいて、効果的な音楽と緻密な作画で観客にカタルシスを味わわせることが目的のすべてだった、といったら言い過ぎだろうか。あるいは、本当の核心は隠したままで、その周辺を丁寧に繊細に描くことで、観客にいつまでも繰り返し作品を反芻させることが目的だった、とは言えないだろうか。

 上記の問題提起については、もう少し論旨を整理して(できるだろうか)、考えてみたい。その前に、千尋の神話的深層についても触れなくてはいけないのだが、うまくまとまるだろうか。ハクが「ニギハヤヒ」であるという前提にたてば、千尋は「ヒルコ」である、というのが今の私の仮説なのだが。 

 論の展開が少し強引だったかもしれません。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

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2022年2月2日水曜日

宮崎駿『千と千尋の神隠し』__どうしても解けない謎__たくさんの腕を持つ龍、コハクヌシ、など

  作品の大まかなプロットはいくらかつかめたように思うのだが、細かな事がどうしても気になって、先に進まない。どうでもいいことなのかもしれないが、少しずつ書き出して考えたいと思う。

 冒頭、花束を抱いた女の子が運転中の車の後部座席に横たわっている。「やっぱり田舎ね」という女の人の声がかぶさると、画面全体が亀裂が入ったように二度揺れる。車の振動ではないようだ。何?「買い物は隣町に行くしかなさそうね」という女の人の声に対して、男の人の声が「住んで都にするしかないさ」とこたえるのも、ちょっとおかしいといえばおかしい。ふつうは「住めば都さ」とかえすのではないか。「住んで都にする」のは、大袈裟に言えば、権力をもつ者にのみ可能なことだと思われる。

 エアコンの効いた車内で、窓を開けることの不思議については以前も述べたので、ここでは繰り返さない。その後、トンネルを抜けて、父親が振りかえると、建物の頭頂部に奇妙な二つの時計があって、それぞれが違う時刻を指している。また、その文字盤が左右反転した算数字だったり、よく読み取れない漢字だったりして、まともに機能していないことを暗示している。これから先の空間には、それぞれ異なる時間が流れ、しかもそれが歪んでいる、ということなのだろう。

 千尋の両親が食べ物の匂いにつられて入り込んだ飲食店街については、前回「つげ義春「ねじ式と河の神」_めの世界」で述べたので、深く立ち入ることは避けたい。世にいう陰謀論が好きな人には説明するまでもないだろう。それと関連して、湯婆の部屋のしつらえもいわくありげである。天上に張り付けられた巨大な鳥(鷲?)の翼の彫刻__まん中に丸で囲んで「油」と描いてある__と、本棚を埋め尽くす百科事典の本が物語る記号も「めの世界」を示唆している。

 最も不気味なのが、後半、ハクが傷ついた龍の姿になって倒れ込むシーンで、一瞬映し出される恐竜のような鳥の剥製である。吹き抜けの屋根から吊り下げられているのだろうか、よく見ると、まん中に人間のような形のものが透けて見える。手と足はそれぞれ四本指で爪が生えているが、恐竜の翼に磔けられたキリストのように見えなくもない。

 だが、何といっても、この映画の最大の謎は、「名のある河の主」が龍の姿になって油屋を去る場面だろう。油屋のあたり一帯が暗い雲に覆われ、激しい雨が降り始める。まさに龍神の登場の予告である。オクサレさまの姿で油屋を訪れた「名のある河の主」は、翁の面に変身して、千尋にドラゴンボールならぬよもぎ団子を与える。「善哉」とひとこと言って龍に化身し、高笑いとともに去る「名のある河の主」は、湯婆に「お帰りだ!大戸(王戸?)を開けろ!」と叫ばせるほど「畏れ多い」存在のようである。

 だが、不思議なことに、この龍には角がない。さらに奇妙なのが、体のなかに無数の腕を持っているのだ。人間の腕のようだが、よく見ると指は四本で海老なりに曲がっている。たくさんの腕を持っているが、それが、尾に近くなると、腕というよりは肢のようにも見えてくる。はたしてこれは龍神なのか?

 龍神といえば、「ニギハヤミコハクヌシ」と名乗る少年ハクは、紛れもない龍神である。立派な角の生えた白龍として颯爽として登場する。「すごい名前!神さまみたい!」と千尋にいわれる「ニギハヤミ」という名前も、古事記に登場する「饒速日(ニギハヤヒ)」を連想させる。「饒速日」は天の磐船に乗って降り立ち、神武東征前の大和の地を治めていた、とされる。それまで協力関係にあったが、神武に従わない長髄彦(妻の兄であった)を討ち、神武に大和の地を国譲りしたが、その後の伝承はない。まさに隠された、あるいは隠れた神である。

 なので、ハクが龍神とされることは疑う余地がないのだが、「コハクヌシ」について、どう考えればいいのか。

 銭婆の家から帰るとき、龍の姿になったハクの背に跨ってハクの角をつかんだ千尋は突然思い出す。自分が小さいとき川に落ちて溺れそうになったときのことを。いまは埋め立てられてマンションになってしまったその川の名が「コハク川」だった、と千尋は言い、ハクに「あなたの本当の名はコハク川」と言う。その瞬間、龍の鱗が飛び散り、ハクは人間の姿になる。「私も思い出した。千尋が私の中に落ちたときのことを。靴を拾おうとしたんだ」とハクもこたえ、千尋が「そう、コハクが私を浅瀬に運んでくれたのね。うれしい」と言って、千尋とハクは手をとりあい、空を飛ぶ感動のシーンとなる。

 この成り行きはちゃんと辻褄が合っているようだが、何となくひっかかるものがある。なぜ、龍の背にまたがって角をつかむと、自分が溺れたときのことを思い出すのか?その川の名が「コハク川」だからハクの名前が「コハク川」だ、と千尋が断言できるのはなぜか?

 千尋の回想の言葉に先立って、画面には、水中で龍らしきものの背に跨った裸足の足が映され、その後、ピンク色の靴(たぶん左足の方)が川面に浮かび、みるみる遠ざかる。流れは速く、川幅は広く、海のようである。これが「コハク川」だとしても、埋め立てられてマンションになるような川幅の川には見えない。それから、遠ざかる靴の映像の後、突然、太い腕(これもたぶん左腕)が大きな音を立てて水面に挿し込まれる。これは何を意味するのか?

 わからないことはまだまだあるのだが、長くなるので、今回はこれまでにしたい。最後に、また蛇足をひとつ。油屋の店は、従業員が全員古代人風の衣裳を着ているが、湯婆はきんきらきんの洋装である。「天」と表示される階にあるその居室も豪華絢爛で、国籍不明だが、まったく日本風ではない。そして、最後にハクが湯婆と対決するシーンで、窓の外の景色なのか、大きな絵画が貼られているのかよくわからないが、どこか外国の風景が映される。山を背にした大きな建物が正面にあって、スイスかどこか、ヨーロッパの山岳地方のようである。その直前、坊の幕屋の背後にちらっと熱帯の島のような風景が見えるのも不思議なのだが。

 次回はもう少しまとまりのある文章を書きたいと思います。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

2013年9月14日土曜日

「紅の豚」を見る者____さよならをもう一度

 もう一度だけ書かなければならない。「紅の豚」とは何か、ということについて。いままで書いてきたことはすべて正しかったと思っている。「紅」はコミュニズム=共同体主義の象徴であること、「豚」は最後には殺されること、そして「豚」という言葉をもう一つのカテゴリーで考えるべきこと、それらのすべてを統合して、それらを超克する存在、それが「紅の豚」なのだ、ということをあらためて呈示しなければならない。

 豚が人間の顔に戻るのは豚の側にその主体的な条件があるのではない。見る側に、見る側の状況にあるのだ。豚が人間の顔をしているところを見たのは、フィオとカーチスである。この二人に共通した状況とは何か。二人ともある行為をした後に人間の顔をした豚を見たのだ。そしてその顔は、このブログを読んでくださっている方なら、誰もが知っている人間の顔である。そう、世界中の読者の方が知っている。あるいは宮崎駿の作品を継続的に追いかけてきた方なら、私より先にとっくに気がついていたかもしれない。

 フィオは言う。「あたし、マルコ・パゴット大尉のことたくさん知ってるの。父が同じ部隊だったでしょ。大尉が嵐の海に降りて敵のパイロットを助けた時の話、大好きで何度も聞いたわ」___マルコ・パゴット___嵐の海に下りて敵のパイロットを助ける___これだけでヒントは十分だろう。さらにいえば、マルコは意識を失い、いったん「雲の平原」の上に昇る。だが、昇天した飛行艇の群れには加わらず、再び気がつくと海面すれすれを漂っていたのだ。

 だが、それでも、私にはわからない。何ゆえにポルコは再び地上に現れて、そして再び去ったのか。

 どなたかわかる方がいたら、教えてください。投稿お待ちしています。
 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

蛇足 修理が終わった飛行艇を運河から空中に離陸させる場面、ポルコでもフィオでもない第三の声が二回入るのだが、これってルール違反ではないか?いや、そのことをバラしてしまう私がルール違反?

2013年9月13日金曜日

さらば「紅の豚」よ___戦争がノスタルジーで語られるとき

 「紅の豚」にはまだいくつもの重要な謎が残されている。でも、謎解きはこれくらいにして、そろそろ「紅の豚」とお別れしなければならない。まだ若かったが、私はあるとき「I shall not live by Chadler alone」とチャンドラーに別れをつげた。宮崎駿にも同じことを言わなければならない。「人は宮崎駿のみにて生くるにあらず」と。

 1992年という絶妙なタイミングでこの映画は公開された。バブル、と今は呼ばれる日々が終わり、日本人はかすかな不安を感じながらも、まさか今のような時代が来るとは夢にも思っていなかった。戦争は遠い日の出来事であり、語り伝えられる「歴史」となっていた。「自己実現」という言葉が流行り、人は無限の自己拡大がなされるかのような錯覚に陥っていた。

 だから、「挫折」を語リ、ノスタルジーにひたることができたのだ。エンディングに流れる加藤登紀子の「時には昔の話をしようか」のように。ここに語られる「昔の話」は60年安保の昔であり、70年全共闘の昔だろう。「揺れていた時代の熱い風にふかれて」「嵐のように毎日が燃えていた」___過ぎ去ってしまった政治の季節。「過去」となった「戦争ごっこの日々」を。そして、そのさなかにあったかもしれないし、たんなる願望だったかもしれない恋の残像にもう一度胸をうずかせたのだ。

 だが、エンディングとともに流れる映像は(たぶん)第1次大戦の時のスケッチである。「ごっこ」ではないほんものの戦争の現実だ。けれど、加藤登紀子の思い入れたっぷりな歌声とともに流れると、それも「アニメの中」の現実で、「青春の思い出のひとコマ」のように感じられてしまう。戦闘員でない一般市民をまきこんで何百万もの人間が死んだ戦争なのに。そして、その後、もっと多くの人間がもっと残酷に殺されていった戦争があったのに。いや、いま、この地球上で人間は理不尽に殺され続けているのに。

 戦争は、大空を縦横無尽にかけめぐる飛行艇乗りの間だけで行われるものではない。戦争はロマンではない。冷徹な経済論理の支配下(もう一度言おう。ポルコの稼いだ大金を最後に手したのは誰だったか)、わけのわからない抽象的な理念や美しいスローガンで洗脳し、人間同士を殺し合わせるもっとも残酷なゲームなのだ。オープニングの画面に流れる字幕の効果音は機銃掃射の音である。タイトルの「紅の豚」は「血塗られた豚」だ。ラスト近く、ポルコとカーチスの死闘が終わって、ジーナが言う。「さぁ、お祭りは終わり。イタリア空軍がここに向かってるわ」_____映画が公開された1992年には聞こえなかった戦争の足音が、ひたひたと聞こえてくるような気がする。もう、戦争をノスタルジーで語っているときではない。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年9月9日月曜日

「紅の豚」__「紅の」「豚」とは何か

 どなたかがブログで「紅の豚」の「紅」は共産主義の「赤」であると書いていた。私も同意見である。「共産主義」というなかば化石のようになってしまった言葉を「コミュニズム=共同体主義」と訳したらどうだろう。映画の中でくり返しジーナが歌う「さくらんぼの実る頃」というシャンソンはパリ・コミューンに参加した銅工職人が作詞したものだそうだ。短かったコミューンとそれに続く「血の一週間」を悼んで多くの歌手が歌っている。もちろんふつうの人たちも。

 少し長くなるが、歌詞を紹介しよう。もちろん私はフランス語も出来ないので日本語に訳したものである。

 さくらんぼの実る頃 さくらんぼの季節を歌い
 ナイチンゲールやマネツグミが みな陽気にさえずる頃

 女たちの心は狂喜にあふれ 
 恋人たちの心は陽光にみたされる

 私たちがさくらんぼの季節を歌えば
 鳥たちも一層上手にさえずり始める

 でもさくらんぼの季節はとても短い
 片方無くしたさくらんぼの耳飾
 夢の中でそれを探しに行く

 愛のさくらんぼはどちらも同じ衣をまとい
 滴る血となり葉の上に落ちる

 でもさくらんぼの季節はとても短い
 夢の中で摘む珊瑚の耳飾

 いつも私はさくらんぼの実る頃を愛する
 あのときから私は心を切り裂いた傷を秘めている

 「紅」は共産主義の「赤」であると同時に、さくらんぼの「紅」であり、「滴る血」の「紅」なのだ。生と死との両義性に満ちている。

 上記のブログ作者の方は「豚」について、抑圧とたたかう理想に燃えたエネルギーをもつ存在としてとらえている。私は、それについては同意できない。猪は「猪突猛進」という言葉が示すように、一直線のエネルギーを持つ物かもしれないが、豚は「人間に飼いならされた猪」であり「最後は人間に食べられるために」存在するのだ。豚は十分肥え太らせてから、殺すのだ。恐ろしいことである。ポルコが稼いだ大金を最後に手にしたのは誰だったか?

 「豚」については、このような食用家畜としての意味とはまた別のカテゴリーでも考えなければならない言葉であると思っている。ジーナを大統領夫人にするというカーチスに彼女はこうこたえるのだ。「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの」___人生は両義性に満ちている。

 宮崎駿は素晴らしいアーティストだ。
 だが、美しい薔薇には棘がある。

 不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

「紅の豚」の謎その3__豚が人間になるとき__「人生は生きるに値する」

 宮崎駿は引退宣言にあたって「人生は生きるに値する」と言ったそうだ。

 
 「生きるに値する」_____含蓄の深いことばだ。真意はどこにある?

 「紅の豚」の半ば近く、ポルコとともに野宿したフィオが彼の人間の顔を垣間見てしまう場面がある。ポルコが薬莢を点検しているときに見えた横顔は人間のものだった。

 その後、ポルコはフィオに戦争の体験を語る。壮絶な空中戦で敵味方ともに彼以外がみな死んでいったときのことを。多くの戦闘機が上へ上へと昇って行き、美しい銀河の帯の中に入って行った。いや銀河そのものが昇天した戦闘機の群れなのだ。そしてポルコは気がつけば一人で海上すれすれを漂っていた。

 この話を聞いたフィオは言う。「神様がまだ来るな、って言ったのね」。それに対してポルコはこう答える。「俺には、そうして一人で飛んでろ、って言われた気がしたがね」。すると、フィオはこう叫ぶのだ。「そんなはずはないわ!ポルコはいい人だもの!」

 
 
 最後のフィオの反応は、自然な流れの中で発せられた言葉のようだが、どこかひっかかるものがある。「そうして一人で飛んでいる」ことは「いい人のやることではない!」とフィオは言っているのだ。なぜ?賞金稼ぎだから?それとも?

 ラストもう一度ポルコは人間の顔を今度はカーチスに見せる。イタリア空軍を空賊の逃げた方向と別の方向へ誘導しようと誘いかけたときだ。薬莢を点検している時と戦闘行為の意志を示した時、ポルコは人間の顔に戻る。

 エンディング、加藤登紀子の歌声が流れる。画面左側に白黒のデッサンが次々に現れる。多くは戦闘機が描かれている。大空を飛ぶ戦闘機もあれば、墜落して木にかかった戦闘機、戦闘機の前に立つ豚人間、戦闘機の描かれていない絵もある。人間の兵隊が多数入り乱れて戦う白兵戦、捕虜になった兵隊たち、塹壕を築く市民、そう、これらはフィオの言う「その後何回も起こった戦争」の現実なのだ。

 「人生は生きるに値する」_____含蓄の深いことばである。

紅の豚」の謎その2___前回の訂正と補筆

 前回フェラーリンとポルコが会った映画館で上映されていたアニメについて、間違ったストーリーを書いてしまったので訂正したい。

「主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが『ひでぇ映画だな』と言っている」と書いたが、DVDで見直してみたら、ポルコは、豚らしきキャラクターが女の人を拉致して(?)乗せていた飛行機が墜落するのを見て「ひでぇ映画だな」と言っているのだ。蛇はその前に2機の飛行機を追いかけようとして、自分で自分の首を絞めて悶絶している。その後、飛行機から降りた豚キャラと主人公の恋人らしき鼠キャラ(?)が決闘して豚キャラが負けるのだ。最後に恋人同士が抱擁し合ってめでたしめでたし、となるのである。それをみたフェラーリンが「いい映画じゃないか」と言うのだ。

 いうまでもなくこの映画はこれから起こるポルコとカーチスの決闘の予型である。でも結末が映画と逆のようであるが、もしかしたらそうでもない?自分で自分の首を絞める蛇って何?そこまで考えるのは考え過ぎ?

 もうひとつ、根本的な疑問は、冒頭ポルコに電話してきた依頼者は誰か、ということである。「契約14条の第3項を該当させる」という依頼者にポルコは「第4項だな」と応答しているので、両者の関係は継続的なものだろう。電話の声はフェラーリンに似ているようでもあり、そうでもないようでもある。最後にポルコがカーチスに「イタリア空軍を別の方向に誘導しよう」と素顔をさらして誘ったのはなぜだろう。カーチスの飛行艇のマークが矢がささったハートであることと、ジーナのコードネームが「ハートのG」であることは無関係なのか?

 「ジーナさんの賭けがどうなったかは私たちだけの秘密」というフィオのナレーションで映画は終わる。そのとき、上空からジーナの別荘が映されるのだが、ドアが開いたままの室内には人気がなく、なんとなく荒廃した雰囲気が漂う。ジーナとポルコはほんとうに結ばれたのだろうか。

 「もののけ姫」以降の作品に比べて、情緒的にはすんなり受けいれられるのですが、やはり一筋縄ではいかない作品のようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年9月8日日曜日

「紅の豚」の謎___いくつかの小さな疑問

 テレビはめったに見ないのだが、「ジブリの呪い」など賑やかなので、「金曜ロードショー」の「紅の豚」を見てしまった。あらすじは紹介するまでもないだろう。空と海と男と女の冒険とロマンの物語である。ハラハラドキドキの空中戦あり、胸キュンの少女の片思いあり、サービス満点のエンターテインメントとして申し分のない作品である。美しい色彩とレトロな雰囲気も気持ちよく見る者を酔わせてくれる。

 だから見終わって「おもしろかった~!」ですんでしまいそうで、実際すんでしまったのだが、なぜ「紅の」「豚」なのか、という疑問が残った。いや、正確に言えば、最初から「紅の」「豚」の解は持っていたのだが、ストーリー全体との整合性がいまひとつ満足のいくものではなかった。ジグゾーパズルのすべてがピタッと合わないのだ。それで、重箱の隅をつつくような作業だが、いくつかのちょっと不思議な場面を書き出してみることで、パズルをもう一度組み立ててみたい。

 冒頭ポルコが昼寝をしているシーン。「1929」の年号が書かれている雑誌を顔にかぶせている。その雑誌は「CINEMA」というタイトルなのだ。この映画のもう一人の主人公カーチスというアメリカ人(祖母がイタリア人というクォーター)は物語の後にアメリカに渡って映画俳優になったことが語られる。そのこととこの冒頭のシーンは関係があるのだろうか。それからカーチスが主演した映画のタイトルは「THE TRIPLE LOVE」となっていて、これもなんだか思わせぶりである。

 おなじく冒頭で小さなテーブルの上に食べかけのりんごが置かれている。これが不思議なことに灰色?のりんごなのである。半分以上食べられていて、しかも彩色するのを忘れたのかと思うような色なのでいかにもまずまずしい。ところが、次にまたりんごが登場するシーンがある。ポルコが賞金を手に入れて、カーチスとの一騎打ちのため飛行艇を修理に出すフライトに飛び立つときだ。なぜか今度は真っ赤なおいしそうなりんごがまるごとテーブルの上に残っているのである。

 カーチスの飛行艇に「ガラガラ蛇」が描かれているのはなぜだろう。物語の中盤でポルコが戦友フェラーリンと映画館で会うのだが、そのとき上映されていたアニメにも蛇が出ていた。主人公の女の人が蛇に巻きつかれているシーンを見ていたポルコが「ひでぇ映画だな」と言っている。最後は蛇が撃退されて、主人公の男女の抱擁で終わり、フェラーリンが「いい映画だったじゃないか」というのだが。

 一番ミステリアスに描かれているが、一番分かりやすいのがジーナで、暗号解読をするシーンがあるので、そういう人間なのだろう。経営するホテルではいつも紫の服を着て金の大きな丸いイヤリングをつけているが、昼間の別荘(これがなぜかちょっとした要塞のようで、カーチスは塀をよじ登ってドアにたどり付く)では白い服で青いすらりとしたイヤリングだ。だが、暗号解読のシーンではネイビーみたいな服装でズボンを穿いている。彼女の飛行艇の「G」はジーナの「G」なのだろうが。しかし彼女が愛した男はどうしてみんな死んでしまうのだろう。「一人は戦争で、一人は大西洋で、もう一人はアジアで」死んだというのは不吉だ。その彼女がポルコを「愛するか」どうか「賭け」をしている、というセリフも不思議だ。「愛される」かどうかなら不思議ではないが。

 ピッコロ社の主人もちょっと不思議なのは、どう見てもイタリア人には見えないことだ。極端に小さな体に眼鏡はむしろ日本人の典型ではないか。孫の天才少女フィオは生き生きと行動的でしかもナイーヴな女の子だが、空賊たちとの交渉の後、心を落ち着かせるために「あたし、泳いでくる!」というのは唐突だ。「泳ぐ」といえば、最初にポルコが救出した「バカンス中の女学生」という「15人」の少女が服を脱いで大海原で泳ぎだすシーンがあって、しかもそれが5~6歳の幼女にしかみえないのもおかしい。

 まだまだ不思議が見つかるかもしれないが、最後の結末の不思議を書いておこう。大人になったフィオが「ジーナさんはますますきれいになって」と語るのだが、彼女の経営するホテルアドリアーノの店内に彼女の姿は見えないのである。ホテルの裏に赤い飛行艇らしき物が見えるので、ジーナとポルコは結婚したのだ、という結末がネット上でよく語られるのだが、果たしてそうだろうか。

 さて「紅の」「豚」とは何か。・・・やはり書かないでおこう。「ポルコ」が「紅の」にあたるそうだが(イタリア語は全然わかりません。だからポルコが読む新聞の見出しも分からない。残念!)ジーナは彼を「マルコ」と呼んでいる。「マルコ」はマーク、マルクス、マルス、マースだろう。それから、「豚」といえばサリンジャーの「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」にも「美しい豚の描き方」について書かれている。この後、宮崎駿自身も「千と千尋の神隠し」で主人公の少女の両親を「豚」に変えるのだけれども。そう、「青」といえば、カーチスがいつも青い服を着ているのも何か意味があるのか、とおもってしまうのだが、際限もなくなりそうなので、このくらいにしておこう。

 『同時代ゲーム』の読みが遅々として進まないので、また寄り道してしまいました。乱雑な走り書きの文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。