「エズミに捧ぐ」について、いま新しく書き加えることはほとんどないのだが、ごく当たり前ののことをいくつか確認しておきたい。
その1 この作品を書いたのは作家サリンジャーである。
その2 書かれたのは『ナイン・ストーリーズ』が発表された1953年以前である。
その3 小説は「私」が一人称で語る形式で始められる。
その4 「私」がエアメールで受け取った結婚式は4月28日にイギリスで行われる。年号は明示されていない。1944年のノルマンディー上陸作戦の直前にエズミと出会い、その出来事が「6年前」と書かれていることから、1950年と推測されるが、疑問の余地がないわけではない。
その5 エズミと「私」の出会い(正確にはエズミの弟チャールズ、家庭教師のミス・メグリーも含める)は1944年4月の土曜日、場所はイギリスのデヴォン州である。人称の変わる後半、X曹長が開封したエズミからの手紙には、「1944年4月30日午後3時45分から4時15分の間」と書かれている。
その6 小説の後半は3人称で語られる。
その7 時はヨーロッパ戦勝記念日(1945年5月8日)から数週間後の夜10時30分ごろである。」
その8 場所はバヴァリアのガウフルトである。
その9 登場人物は「私」と推測されるX曹長、戦友のZ伍長(なぜか彼はクレイとも呼ばれる)、犬のアルヴィンである。
その10 X曹長は「すべての機能を無傷のままに戦争をくぐり抜けてきた青年ではなかった。」
その11 何ヵ所か転送の跡があるエズミの手紙と、同梱されていたエズミの父の時計を前に、X曹長は突然「快い眠気を覚えた。」 ____ここまで3人称で書かれている。
その12 最後に突然人称は変化する。実はこの人称の変化に巧妙な仕掛けが施されているように思われるのだが、それがどのようなものなのか、極めて難解である。とりあえず日本語訳と原文を対照されたい。
「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね。」
You take a really sleepy man, Esme', and he always stands a chance of again becoming a man with all his fac---with all his f-a-c-u-l-t-i-e-s intact.
以前書いたように「笑い男」が「用心深い入れこ構造」の小説であるとするならば、「エズミに捧ぐ」は用心深い「額縁小説」であるといえるのではないか。サリンジャーという実作家が「エズミに捧ぐ」という題名で(額に入った)小説を書く。その額の中におさまった小説の中で「私」という登場人物が「愛と汚辱の小説」を書くとエズミに約束する。小説の後半は3人称で書かれているので、前半「私」がエズミに約束した「愛と汚辱の小説」である、と推測される。つまりサリンジャーが書いた「エズミに捧ぐ」という小説の中に、もうひとつ「愛と汚辱の小説」が入っている、と誰もが無意識のうちに前提して読んでしまう。
問題は、最後の一文だ。小説の登場人物だったX曹長が突然話者になったかのような語り口になる。陶然と眠りにひきこまれていくX曹長が、エズミに語りかけてお終いになるのだ。「愛と汚辱の小説」の登場人物だった彼が、額縁から抜け出て「エズミに捧ぐ」という小説の「私」として発語する。この人称の転換を、なんとか認めるとしても、時間の問題は残る。1950年のできごととして始まった物語が1945年の過去に遡り、そのときを現在として語り終えるというのは無理が過ぎるのではないか。
この問題を杓子定規に論理で解決しようとすれば、解決方法はただ一つ、後半部分の小説のX曹長は「私」ではない、と考えるしかない。だから、最後の一文でエズミに語りかけているのはX曹長ではない、という結論になる。野崎孝さんの日本語訳の文章と原文もまた、微妙なズレがあるように思われる。
遅々として進まない原文講読に少なからず焦っています。秋まで雑事に追われそうですが、なんとか時間をつくって書いていこうと思っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年5月30日水曜日
2012年2月28日火曜日
「エズミに捧ぐ」その2___テキストへの信頼性とリアリティ
リアリティとは何か、ということを考えている。私たちが文学作品を読むとき、少なくともそのテキストに書かれていることは、一貫する真実である、という無意識の前提で読んでいる。語りが一人称であれ、三人称であれ、作品の中では「真実」__「事実」ではない__が語られていると信じて最後まで読むのだ。「エズミに捧ぐ」を読んでいて、ある不快ともいうべき違和感をどうしてもぬぐえないのは、その前提が揺らぐからだ。そして、その前提の揺らぎは、サリンジャー自身がそう仕向けたものなのだ。サリンジャーはルール違反ぎりぎりのことをやっている。
語り手の「私」がこれは回想記ですとことわって始まった小説は、その直後「一九四四年四月」と日時を特定したうえでストーリーを展開する。主人公の「私」は史上最大の上陸作戦といわれた「ノルマンディー作戦」に備えた諜報活動のためにデヴォンシアにいる。この作戦がいかに厳しいものだったかは記録が示す通りである。作戦準備のための演習ですでに七百名以上の死者をだしたともいわれている。訓練の最終日に「私」は激しい雷雨の中「引金を引く指がむずむずするような思いとはおよそ離れた気持ち」で外出する。雷に打たれるのも弾丸に撃たれるのも、どちらも「こちらでどうにかできることではないのだから」という思いで。ここまでは、「この小説」の語り手、そしてサリンジャーが文字に定着させたリアリティーを疑わせるものは何ひとつない。異常を日常として生きる人間の孤独な姿が浮かび上がってくる。
場面はその後「町の中心部__町の中でもおそらく、ここが一番ひどい雨に見舞われているらしかった」教会の中に移る。そこで子供たちが練習している聖歌の響きに「私」は感動する。中でも、際立った声でみんなをリードしている「少女に「私」は目をとめる。その少女が、弟と家庭教師らしき婦人とともに、一足先に教会を出た「私」が立ち寄った喫茶店に入ってきて、「私」と言葉をかわす。リアリティはこのあたりから微妙にゆらぎだすのだ。
喫茶店の中での三人の会話にも行動にも不自然なところはない。あどけないがやんちゃなチャールズと、彼をたしなめながら、自分たちの身の上を「私」に語るエズミ、少し緊張しながらも彼女の言葉にこたえる「私」のやり取りが一人称で書かれる。ここで少し違和感を覚えるのは、エズミとチャールズの言葉が直接話法で書かれるのに、「私」の言葉は短い応答の言葉がいくつか直接話法で書かれるが、ほとんどが間接話法で記されていることだ。「私」は用心深く背景に退いて、小さな貴婦人のエズミと小さな暴君のチャールズの姿が鮮明に浮かび上がってくる。キャンベル・タータンの服を着て、雨に濡れた美しい金髪をしきりに気にしながら、大人びた言葉づかいで「私」と会話するエズミと、「「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか」という謎謎を繰り返してエズミと「私」の会話に割り込んでくるチャールズの様子は具体的すぎるくらい具体的に語られる。いま目の前に二人がいるような気分になるほど、生き生きとした描写が続く。
リアリティがゆらぎだすのは、自己紹介を終えたエズミが、「わたしのために」「愛と汚辱の短編」を書いてほしいと頼むあたりからだ。「十三歳くらい」の少女エズミがなぜ「わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」と言うのか。そしてなぜ「お身体の機能がそっくりそのままでご帰還なさいますように」と、ある種不気味な言葉を別れの挨拶にしたのか。やんちゃなチャールズは帰り際なぜ「片方の肢がもう一方のより数インチも短い人みたいに、ひどいびっこを引きながら歩いてゆく」と描写されるのか。エズミとは何ものなのか?チャールズとは?また、「私」の前歯に真っ黒な詰め物がしてある、という記述が繰り返されるのも異様である。
小説の後半は「私の口から明らかにすることは許されない理由によって」三人称で記述される。だが、語り手は「私」で「私」が三人称で書いている、と読者は無意識のうちに前提している。たしかにそのはずである。そして、誰もがX曹長は「私」である、と信じる。Z伍長はクレーと呼ばれる男で、クレーにはロレッタという心理学に詳しい妻とその母親がいる、と理解する。それ以外に考えられない。だが、小説の冒頭、「私」が結婚式に出られない理由として「家内の義母が、四月の最後の二週間をうちに来て、われわれのところで過ごすのを楽しみにしている」という文章があったのは偶然なのだろうか。それから「アルヴィン」という犬は何のために登場したのか。そもそも本当に犬はいたのだろうか。
小説の読者は、作品の中で書かれている事柄は、作品中では「真実」である、と信じられるから読み進むことができる。信じることができるから「リアリティ」が存在するのであって、「リアリティ」があるから信じられるのではない。だが、「エズミに捧ぐ」と言う小説は、敢えてリアリティをゆるがすような構成で書かれてる。エズミと「私」の出会い、X曹長とクレーのやりとり、それらは一見いかにもリアルな、一方は「愛」に一方は「汚辱」にかかわるエピソードのようでありながら、実はその細部に複雑な罠が仕掛けられた「短編」の一部なのだ。前回は「語り手は誰か」という問題提起をしたのだが、今回はもうひとつの疑問を提出してとりあえずのまとめとしたい。それは、「この小説」は「何時」書かれたのか。そして「どこで」書かれたのか、という疑問である。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
語り手の「私」がこれは回想記ですとことわって始まった小説は、その直後「一九四四年四月」と日時を特定したうえでストーリーを展開する。主人公の「私」は史上最大の上陸作戦といわれた「ノルマンディー作戦」に備えた諜報活動のためにデヴォンシアにいる。この作戦がいかに厳しいものだったかは記録が示す通りである。作戦準備のための演習ですでに七百名以上の死者をだしたともいわれている。訓練の最終日に「私」は激しい雷雨の中「引金を引く指がむずむずするような思いとはおよそ離れた気持ち」で外出する。雷に打たれるのも弾丸に撃たれるのも、どちらも「こちらでどうにかできることではないのだから」という思いで。ここまでは、「この小説」の語り手、そしてサリンジャーが文字に定着させたリアリティーを疑わせるものは何ひとつない。異常を日常として生きる人間の孤独な姿が浮かび上がってくる。
場面はその後「町の中心部__町の中でもおそらく、ここが一番ひどい雨に見舞われているらしかった」教会の中に移る。そこで子供たちが練習している聖歌の響きに「私」は感動する。中でも、際立った声でみんなをリードしている「少女に「私」は目をとめる。その少女が、弟と家庭教師らしき婦人とともに、一足先に教会を出た「私」が立ち寄った喫茶店に入ってきて、「私」と言葉をかわす。リアリティはこのあたりから微妙にゆらぎだすのだ。
喫茶店の中での三人の会話にも行動にも不自然なところはない。あどけないがやんちゃなチャールズと、彼をたしなめながら、自分たちの身の上を「私」に語るエズミ、少し緊張しながらも彼女の言葉にこたえる「私」のやり取りが一人称で書かれる。ここで少し違和感を覚えるのは、エズミとチャールズの言葉が直接話法で書かれるのに、「私」の言葉は短い応答の言葉がいくつか直接話法で書かれるが、ほとんどが間接話法で記されていることだ。「私」は用心深く背景に退いて、小さな貴婦人のエズミと小さな暴君のチャールズの姿が鮮明に浮かび上がってくる。キャンベル・タータンの服を着て、雨に濡れた美しい金髪をしきりに気にしながら、大人びた言葉づかいで「私」と会話するエズミと、「「ひとつの壁が隣の壁になんて言ったか」という謎謎を繰り返してエズミと「私」の会話に割り込んでくるチャールズの様子は具体的すぎるくらい具体的に語られる。いま目の前に二人がいるような気分になるほど、生き生きとした描写が続く。
リアリティがゆらぎだすのは、自己紹介を終えたエズミが、「わたしのために」「愛と汚辱の短編」を書いてほしいと頼むあたりからだ。「十三歳くらい」の少女エズミがなぜ「わたし、汚辱ってものにすごく興味があるの」と言うのか。そしてなぜ「お身体の機能がそっくりそのままでご帰還なさいますように」と、ある種不気味な言葉を別れの挨拶にしたのか。やんちゃなチャールズは帰り際なぜ「片方の肢がもう一方のより数インチも短い人みたいに、ひどいびっこを引きながら歩いてゆく」と描写されるのか。エズミとは何ものなのか?チャールズとは?また、「私」の前歯に真っ黒な詰め物がしてある、という記述が繰り返されるのも異様である。
小説の後半は「私の口から明らかにすることは許されない理由によって」三人称で記述される。だが、語り手は「私」で「私」が三人称で書いている、と読者は無意識のうちに前提している。たしかにそのはずである。そして、誰もがX曹長は「私」である、と信じる。Z伍長はクレーと呼ばれる男で、クレーにはロレッタという心理学に詳しい妻とその母親がいる、と理解する。それ以外に考えられない。だが、小説の冒頭、「私」が結婚式に出られない理由として「家内の義母が、四月の最後の二週間をうちに来て、われわれのところで過ごすのを楽しみにしている」という文章があったのは偶然なのだろうか。それから「アルヴィン」という犬は何のために登場したのか。そもそも本当に犬はいたのだろうか。
小説の読者は、作品の中で書かれている事柄は、作品中では「真実」である、と信じられるから読み進むことができる。信じることができるから「リアリティ」が存在するのであって、「リアリティ」があるから信じられるのではない。だが、「エズミに捧ぐ」と言う小説は、敢えてリアリティをゆるがすような構成で書かれてる。エズミと「私」の出会い、X曹長とクレーのやりとり、それらは一見いかにもリアルな、一方は「愛」に一方は「汚辱」にかかわるエピソードのようでありながら、実はその細部に複雑な罠が仕掛けられた「短編」の一部なのだ。前回は「語り手は誰か」という問題提起をしたのだが、今回はもうひとつの疑問を提出してとりあえずのまとめとしたい。それは、「この小説」は「何時」書かれたのか。そして「どこで」書かれたのか、という疑問である。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月27日月曜日
「エズミに捧ぐ」その1___「語り手」は誰か
これもまた難解極まりない小説である。サリンジャーの小説作法には大分慣れてきたつもりだったが、ここまで仕掛けられると、もうサリンジャーを読むのはやめようかとさえ思った。
小説は、結婚式の招待状を受け取った「私」が、花嫁との六年前の出来事を回想する、という書き出しではじまる。一九四四年の四月、イギリスのデヴォン州でノルマンディー上陸作戦に備えた特殊訓練を受けていた「私」は訓練最終日激しい雨の中外出する。子どもたちが聖歌の練習をしているのを聞きに教会に入った「私」は、その中でひときわ美しい声を響かせている少女に目をとめる。教会を出て喫茶店に入った「私」は、遅れて入ってきたその少女から話しかけられる。「エズミ」と名のった少女と彼女が連れていたチャールズという名の弟は、両親が亡くなったため、伯母に育てられたという。亡くなった父親が古文書の蒐集をしていて名文家だったと話すエズミは、「短編作家のつもり」と言う「私」に、「わたしだけのために、短編をひとつ」書いてほしいと頼む。そしてなぜか「どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」なので「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と言う。エズミは、自分のほうから先に必ず手紙を書くと約束し、「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉を残して、喫茶店から出ていった。
小説の後半は、「場面はここで一転する」と書かれて始まる。「私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう」という文章の後、文体は三人称で書かれる。
翌年五月のヨーロッパ戦勝記念日から数週間後の夜十時半ごろ、バヴァリアのガウフルトの民家に、フランクフルトの病院から退院してきたX曹長がいる。彼は文字を読むことも書くことも思うようにできず、指はたえずふるえている。郷里の兄からの無神経な手紙に神経を苛まれているX曹長の部屋にZ伍長という年下の戦友が入ってくる。「Z伍長」と呼ばれながら、なぜか「クレー」とも呼ばれるこの男はX曹長と対照的に神経のタフな人間である。X曹長のことを「神経衰弱になりやがった」とうれしそうにいうクレーは、ノルマンディー上陸作戦で砲撃を受けたとき、ジープのボンネットにとび乗った猫を撃ち殺した話をし始める。X曹長の再三の制止にもかかわらず話を続けるクレーに、彼は「あの猫はスパイだったんだ。」と「ユーモア」と取れなくもない言い方で、逆に彼の神経を逆なでする。だが、そのことがX曹長自身の心身を一気にずたずたに切り裂き、彼は屑籠に吐いてしまう。
ようやくクレーを部屋から追い出したX曹長は、手紙を書くために机の上をかたづけようとして、「緑色の紙に包まれた小箱」を見つける。封を開けると、それは、前年六月七日付のエズミからの手紙だった。箱の中には、X曹長の安否を気づかう文章に添えて、エズミが身につけていた父親の腕時計が一緒に入っていた。彼は、送られてくる途中でガラスがこわれてしまった時計を長いこと手にしていたが、そのうちに快い眠気を覚える。
ここまで三人称で書かれていた小説は、最後にまた一人称に戻る。最後はこう終わるのだ。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」
あらすじの紹介だけで大分長くなってしまった。今日は、「この小説」の作者は誰か、語り手は誰か、という問題提起をして終わりたいと思う。それからまた、「私の口から明らかにすることを許されない理由」とは何か、と言う問題も提起したい。そのヒントは、あらすじの紹介では触れなかったが、作中一度だけ登場する「アルヴィン」 という名の「犬」にある。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
小説は、結婚式の招待状を受け取った「私」が、花嫁との六年前の出来事を回想する、という書き出しではじまる。一九四四年の四月、イギリスのデヴォン州でノルマンディー上陸作戦に備えた特殊訓練を受けていた「私」は訓練最終日激しい雨の中外出する。子どもたちが聖歌の練習をしているのを聞きに教会に入った「私」は、その中でひときわ美しい声を響かせている少女に目をとめる。教会を出て喫茶店に入った「私」は、遅れて入ってきたその少女から話しかけられる。「エズミ」と名のった少女と彼女が連れていたチャールズという名の弟は、両親が亡くなったため、伯母に育てられたという。亡くなった父親が古文書の蒐集をしていて名文家だったと話すエズミは、「短編作家のつもり」と言う「私」に、「わたしだけのために、短編をひとつ」書いてほしいと頼む。そしてなぜか「どちらかと言えば、汚辱のお話が好き」なので「うんと汚辱的で感動的な作品にしてね」と言う。エズミは、自分のほうから先に必ず手紙を書くと約束し、「お身体の機能がそっくり無傷のままでご帰還なさいますように」という言葉を残して、喫茶店から出ていった。
小説の後半は、「場面はここで一転する」と書かれて始まる。「私は依然として登場するけれど、これから以後は、私の口から明らかにすることを許されない理由によって巧妙に扮装してしまっているので、どんなに慧眼な読者でも私の正体を見抜くことはできないだろう」という文章の後、文体は三人称で書かれる。
翌年五月のヨーロッパ戦勝記念日から数週間後の夜十時半ごろ、バヴァリアのガウフルトの民家に、フランクフルトの病院から退院してきたX曹長がいる。彼は文字を読むことも書くことも思うようにできず、指はたえずふるえている。郷里の兄からの無神経な手紙に神経を苛まれているX曹長の部屋にZ伍長という年下の戦友が入ってくる。「Z伍長」と呼ばれながら、なぜか「クレー」とも呼ばれるこの男はX曹長と対照的に神経のタフな人間である。X曹長のことを「神経衰弱になりやがった」とうれしそうにいうクレーは、ノルマンディー上陸作戦で砲撃を受けたとき、ジープのボンネットにとび乗った猫を撃ち殺した話をし始める。X曹長の再三の制止にもかかわらず話を続けるクレーに、彼は「あの猫はスパイだったんだ。」と「ユーモア」と取れなくもない言い方で、逆に彼の神経を逆なでする。だが、そのことがX曹長自身の心身を一気にずたずたに切り裂き、彼は屑籠に吐いてしまう。
ようやくクレーを部屋から追い出したX曹長は、手紙を書くために机の上をかたづけようとして、「緑色の紙に包まれた小箱」を見つける。封を開けると、それは、前年六月七日付のエズミからの手紙だった。箱の中には、X曹長の安否を気づかう文章に添えて、エズミが身につけていた父親の腕時計が一緒に入っていた。彼は、送られてくる途中でガラスがこわれてしまった時計を長いこと手にしていたが、そのうちに快い眠気を覚える。
ここまで三人称で書かれていた小説は、最後にまた一人称に戻る。最後はこう終わるのだ。「エズミ、本当の眠気を覚える人間はだね、いいか、元のような、あらゆる機___あらゆるキーノーウがだ、無傷のままの人間に戻る可能性を必ず持っているからね」
あらすじの紹介だけで大分長くなってしまった。今日は、「この小説」の作者は誰か、語り手は誰か、という問題提起をして終わりたいと思う。それからまた、「私の口から明らかにすることを許されない理由」とは何か、と言う問題も提起したい。そのヒントは、あらすじの紹介では触れなかったが、作中一度だけ登場する「アルヴィン」 という名の「犬」にある。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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