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2014年7月31日木曜日

たとえば薔薇___コクトー、三島、そして大江健三郎

 大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。

 『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。

 おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。

 でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。

 
 以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。

 コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。

 ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。

 なんて余計な話です。

脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。

2013年3月21日木曜日

「対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」について再び___主人公は誰か

 『ライ麦畑でつかまえて』の続きを書かなければ、と思うのだが、その前にコクトーの「美女と野獣」についてもう一度見直さなければいけないような気がしてならない。映画「美女と野獣」の主人公は誰なのか?

 「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。

 今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。

 美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。

 映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。



2013年1月31日木曜日

対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」____サリンジャーとコクトー

 「対エスキモー戦争の前夜」の中で「あれこそまさに醇乎たる天才だね」と作中人物に賞讃される映画「美女と野獣」について、もう一度考えてみたい。サリンジャーは「美女と野獣」のどこに「醇乎たる天才」を見いだしたのか。美しいモノクロの画面の中でくり広げられる物語は荒唐無稽なお伽話のようでありながら、細部の心理描写にリアルなものがあり、ストーリーの展開が緊密で無駄がない。だが、サリンジャーは、たんにそのような映画的完成度にたいして「醇乎たる天才」と言ったのだろうか。

 映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。

 一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。

 美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。

 最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。

 コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
 

 
 このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。

 
 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年4月16日月曜日

「対エスキモー戦争前夜」___「善きサマリア人」は誰か・その2

 「善きサマリア人」はやはりジニー・マノックスであるというのが現時点での私の結論である。細かい点については、まだ解決できない謎がたくさんあるのだが、大筋のところではほぼ輪郭が見えてきたように思う。

 本題に入る前に Just Before the War With the Eskimos という題名の意味をもう一度考えてみたい。Just Before という英語は「前夜」という日本語よりもっと切迫した語感を持つように思われる。まさに「直前」なのである。the War With the Esukimos の「直前」。それでは the Eskimos とは何か?the War With the Eskimos とは?

題名の「対エスキモー戦争前夜」は、作中セリーヌの兄フランクリンが「こんだエスキモーと戦争するんだ。知ってるか、あんた」とジニーにたずねることに由来するのだろう。「耳の穴をかっぽじって聞いとくれ」というのだから、よほど大事なことだ、とセリーヌの兄は考えているのだ。彼は何故会ったばかりのジニーにそんな話をしたのだろうか。

 その理由は二つある。一つはジニーも彼と同じように「指を切った」という経験を共有していることで、もう一つは、かつてジニーの姉ジョーンに彼が求愛した過去があるからである。「ブリ屋仲間の女王様」とセリーヌの兄が呼ぶジョーンに、「42年のクリスマス・パーティ」で出会った彼は「八遍も手紙を書いた」。だが返事は一度も来なかったのだ。

 そしてジニーも彼と言葉を交わしているうちに、彼の「指の傷」について積極的にかかわっていく。「マーキュロは効くかな?」と聞く彼に「ヨーチンでなきゃだめよ」と答え、「猛烈にしみるんじゃないか?」と言われても「でも死にやしませんからね」と駄目を押す。なかば無意識に怪我していないほうの手で傷に触ろうとしたセリーヌの兄は、ジニーの「触っちゃだめ」という言葉を聞いて、何故か非常な衝撃を受け、「夢でも見てるような表情」を浮かべるのである。

 だが、ジニーがセリーヌに払わせようとしていたタクシー代を放棄して、「あたし、遊びに来るかもしれない」と彼女に告げたのは、さらにもう一つ決定的な動機が芽生えたからだと思われる。それは、セリーヌの兄と入れ替わりに部屋に入ってきたエリックとの会話の中で示された「ぼくのアパートに同居していた・・・作家だか何だか知らない」奴の「善きサマリア人」のエピソードだろう。「餓死寸前」の作家に「善きサマリア人を地で行ったようなもん」の世話をやいてやった挙句が、「手の届く限りの物をそっくり持ち出して」「朝の五時か六時にぷいっと出て行っちまった」という結末を迎えたのである。この一連の顛末を聞いたジニーは、セリーヌが再び部屋に入ってくると、彼女がドレスを着替えていることを見咎めることもせずに、もうタクシー代は要らないと言い、セリーヌの兄に近づきたいという態度をとり始めるのだ。ジニーはフランクリンの「善きサマリア人」となる宣言をしたのである。

 ようやく五合目まで登ったという実感です。頂上制覇はまだまだ先のことのようです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月22日水曜日

「対エスキモー戦争の前夜」(続きの続き)___再び『美女と野獣』のプロットについて

  作中エリックに「ぼくは八遍見たな。あれこそまさに醇乎たる天才だね」と言わせているコクトーの『美女と野獣』から、サリンジャーは「ここまでやるの!」と言いたくなるくらい本歌取りをしている。まず、セリーヌの兄フランクリンとエリックは、野獣と美女ベルを慕うアヴナンの役割だろう。「髪は寝乱れ、金色の薄い鬚は二,三日も剃刀を当ててなかったと見えてまばらに伸びて」ジニーが「これまでお目にかかったことがない」と描写されるセリーヌの兄は野獣で、「整った顔立ち、短めに刈った髪形、背広の仕立て、絹のネクタイ」のエリックがアヴナンだ。それから、野獣の城の燭台をさしだすものが人間の「手」であるという奇怪な画面とジニー「マノックス(手の絆)」も無関係ではないだろう。

 セリーヌの兄の関心が指に集中しているのは、野獣が自分の爪が尖った指を見つめる動作を連想させる。口から出した煙を鼻から吸い込むという「フランス式喫煙術」とは、野獣の城の彫像が鼻から煙を出すシーンとほぼ同じ動作だ。「ベルが鳴りやがった。」と言って退場するセリーヌの兄と入れ代わりに入ってきたエリックは、自分が「善きサマリア人」よろしく助けた作家に恩を仇で返された、と長話をする。だが、「もっぱら口先だけで喋っている感じ」なのだ。もしかしたら、『美女と野獣』のアヴナンのように、借金のかたに家財道具を持ち出されてしまったのかもしれない。犬の毛だらけなのも、映画の冒頭で、アヴナンの射た矢が危うく室内にいた犬を射抜きそうになったことと関係があるのかもしれない。

 極地探検にもなぞらえ得るような過酷な飛行機工場での労働で、もともと病弱なセリーヌの兄は満身創痍であり、孤独だ。ジニーの「バンド・エイドないの?」という問いに、彼は「ああ、ないね」と答える。彼に手をさしのべてくれる存在はなかったのだ。だが、ジニーはその事実に心を動かされる。変化は彼女の内面におきた。この次のエスキモーとの戦争は年寄りでないと行かせてもらえない、というセリーヌの兄の言葉に「でもあなたはどっちみち行かなくてもいいわね」と反応して、自分の言葉が彼を傷つけたのではないかと心配する。だから、彼がさしだすサンドイッチの半分を「とってもおいしそう」と言って「苦労して飲み込」んだのだ。

 さて、ジニーはセリーヌの兄の「善きサマリア人」になれるのか。彼女は、見かけはいいが通俗的で中身のないエリックには目もくれなかった。そしてセリーヌに「あたし、遊びに来るかもしれない」と言って彼女を驚かせる。彼女の兄に関心をもったことを明らかにしたのだ。だが、「復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日かかったジニー」は、セリーヌの兄のくれたサンドイッチをどうするだろうか。サンドイッチは、野獣が美女ベルにくれた宝物の入った箱を開ける魔法の鍵ではないのだから。   
  
 これで、ひとまず「対エスキモー戦争の前夜」の読書感想文にもなっていないnoteは終わりにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月21日火曜日

「対エスキモー戦争の前夜」(続き)____もう一つの隠されたプロットとサリンジャーの命名法

今日はサリンジャーの小説の登場人物の名前について考えることで、難解極まりない「対エスキモー戦争の前夜」を読んでみたい。サリンジャーの小説は「ミュリエル」「シビル・カーペンター」「エロイーズ」そしてもちろん「シーモア・グラース」と、作中の役割を象徴する名前がつけられている。

 まず、主人公の少女「ジニー・マノックス」。ジニーはいうまでもなくヴァージニアの愛称であるが、マノックスとは何か。これはエスペラント語で「手」を意味する「MANO]とラテン語で「絆」の意の「NEXUS」だそうである。それから、セリーヌの兄「フランクリン」_これはファーストネームだろうか。作中この名で呼ばれるのは、彼を訪れたエリックが「フランクリンを見かけなかった?」と聞く場面だけである。その他は、常に「セリーヌの兄」と呼ばれる。おそらくこの「フランクリン」は北大西洋航路を探検したジョン・フランクリンを連想させる役割をもつものだろう。ジニーの姉が「ジョーン」というのは偶然だろうか。この小説の隠されたもうひとつのプロットは、フランクリン隊の北大西洋航路の探検ではないだろうか。

 「指の野郎を切っちまってさ」と部屋にとびこんできたフランクリンはジニーに彼女も指を切ったことがあるかとたずねる。その様子は「まるで前人未踏の境地に一人踏み込んで行く孤独から、彼女の同伴を得て救われたいと願っているようだ」と書かれる。また、「おれ、出血多量で死にそうなんだ。君、その辺にいてくれよ。輸血してもらわなきゃなんないかも」という彼の言葉は、フランクリン隊の隊員の多くが壊血病にかかって死んでいったことを連想させる。オハイオの飛行機工場で働いていた「三十七ヵ月」は、フランクリンの第一回の探検が1819年から1822年の3年間だったことに対応しているようだ。この探検で隊員八人が餓死、一件の殺人、人肉食も指摘されているという事実が、彼の「おれは彼女(ジョーン)に八遍も手紙を書いた。八遍だぜ。なのに彼女は一遍だって返事をよこさなかった」という言葉に関係があるのだろうか。彼の様子を見まもっていたジニーが突然「触っちゃダメ」と叫ぶのはどんな場面が生じたからか。 

 「さて、着替えでもするか。・・・チェッ!ベルが鳴りやがった。じゃあな」と言って「姿を消した」フランクリンと入れ替わりに部屋に入ってきたエリックもまた飛行機工場で「何年も何年も」働いていた。エリックは、なぜ軍隊に行かなかったのか。「エリック」という名前は何を意味するのか。

まだ解けない謎はいくつもあって、そもそも題名の「対エスキモー戦争の前夜」とは何か。それから、最後の「数年前、復活祭の贈り物にもらったひよこが、屑籠の底に敷いた鋸屑の上で死んでいるのを見つけたときにも、捨てるのに三日もかかったジニーであった」という怖ろしい一文をどう読めばいいのか。疑問はつきないのですが、今日はひとまず、ここまでにします。

 というのは、今朝の新聞で光市の母子殺人事件の死刑が確定した、という報道を読んで、心が波立って、続きをまとめることができなさそうだからです。。「罪なき者まず石を打て」でも触れたように、法の厳罰化、とくに少年法のそれがすすんでいることを憂えてきました。報道によれば、犯行時少年だった被告に死刑が適用されるのは、永山則夫以来六人目だそうです。今回は実名報道もされました。賛否両論ある今回の判決確定だと思いますが、私は「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである」というマタイによる福音書7章冒頭の一節を、自戒の言葉としてかみしめたいと思います。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月19日日曜日

「対エスキモー戦争の前夜」___善きサマリア人は誰か

表題は『ナイン・ストーリーズ』第三作である。これは難解です。作中にすんなり感情移入できる人物がなかなか見つからない、ということが、テーマを分かりにくくしている原因のひとつかもしれない.

 十五歳の少女ジニーはクラスメートのセリーヌと毎土曜日の午前中テニスをしている。いつも自分が全額負担してる帰りのタクシー代を彼女にも払わせようと、彼女の自宅までついて行く。肺炎で寝ているという母親のもとにいったん引き下がったセリーヌの代わりに、兄のフランクリンがジニーの前に現れる。彼は「屑籠に手をつっこんで」指を怪我している。フランクリンは「骨のとこまでぐさっと」切って、「出血多量で死にそうなんだ」というわりには、ジニーと話しこんでいる。どうやらフランクリンは、かつてジニーの姉とつきあっていて、ふられたらしい。姉は海軍少佐の男と婚約しているのだ。さえない容貌で体も弱いらしいフランクリンは八遍も手紙を書いて一度も返事がもらえなかったと言う。戦争中オハイオの飛行機工場で働いていたというフランクリンは、窓の下を通る人々を「あの阿呆ども」と呼ぶ。今度はエスキモーと戦争するので、「六十ぐらいの奴」がみんな戦争に行くのだと言う。彼は昨夜デリカテッセンで買ったというサンドイッチの残り半分を持ってきて、ジニーにすすめる。ジニーがようやく一口飲みこんだところで「ベルが鳴っ」て、フランクリンは姿を消す。

 フランクリンと入れ替わって部屋に入ってきたのはエリックとフランクリンが呼んだ男で、フランクリンとは正反対の非のうちどころない容姿である。彼は初対面のジニーに、いきなり「善きサマリア人」をやろうとした自分が裏切られたという話を始める。餓死寸前の「作家だか何だか知らない」男を引き取って面倒をみていたが、その男が「手の届くかぎりのもの」をもちだして出て行ってしまったというのだ。話し終えて、ジニーのコートに目をとめたエリックは、彼女の名前をたずねるが、ジニーは教えない。エリックは、今上映されているコクトーの『美女と野獣』は素晴らしい映画で、もう八遍見たが、いまからフランクリン、セリーヌと一緒に見に行くのだという。

 セリーヌがドレスに着替えて部屋に入ってきたのを見たジニーはエリックがまだ喋っているのをさえぎって、彼女のところに行き、タクシー代はもう要らない、と言う。そして、晩御飯の後で電話して、遊びに来るかもしれない、と言って、セリーヌを驚かせる。ジニーは、帰りのバス亭まで歩く途中で食べ残しのサンドイッチを捨てようとして、やはり捨てずにポケットにしまいこんだ。

 この小説の隠されたプロットは二つある。「善きサマリア人」と「美女と野獣」である。

今日はパソコンの調子が悪く、下書きが消えてしまうトラブルが続くので、続きはまた明日にします。
途中までよんでくださってありがとうございました。