2025年6月24日火曜日

大江健三郎『日常生活の冒険』___早すぎたレクレイムとゴッホとハタンキョウ

  『晩年様式集』を読み直す過程で『日常生活の冒険』にふれなければいけないといいつつ、何をどう書くかまとまらないでいる。書くべきことはたくさんあるが、軸が定まらない。主人公のモデルがあまりにもあからさまなので、現実とフィクションの齟齬に関心がむかいがちで、作品の主題を見失いそうになってしまう。主人公斎木犀吉のモデルである伊丹十三は1997年12月20日に64歳で死んでいる。だが1964年に書かれた『日常生活の冒険』は主人公斎木犀吉が25歳で自殺するところから始まるのである。

 伊丹十三がビルの屋上から「墜落死」してほぼ二年半後の2000年にに出版された『取り換え子』に先立つこと三十六年前に『日常生活の冒険』は出版されている。冒頭

 「あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かとも思えるほど遠い、見知らぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?」

こういう言葉で大江健三郎は、当時働き盛りで活躍中だった伊丹十三の死を悼んでいる。この小説は現実の伊丹の死の33年前に書かれたレクレイムである。なぜこんな奇妙な作品が書かれなければならなかったのか。

 『日常生活の冒険』が出版された1964年、大江健三郎は『個人的な体験』という作品も出版している。今日では、あるいは当時でもこちらの方が評価が高いようである。大江自身はこの小説を「技法、人物のとらえ方など、小説の基本レヴェルを満たしていない」として、『日常生活の冒険』を自身の選集に入れていない。 

 だが、、「鳥(バード)」と呼ばれる語り手の「個人的な体験」__はじめての子が障碍をもって生まれ、紆余曲折ありながら、その事実をうけいれ、「親」として生きる決意を表明するにいたるまでの過程を描いた作品とくらべて、『日常生活の冒険』が上記の「小説の基本レヴェル」において劣っているとは、少なくとも私は思えない。

 『日常生活の冒険』は、個性的な登場人物が波乱万丈のストーリーの展開とともに描かれ、みずみずしい感性が描写のすみずみにみなぎっている。あの時代の記念碑というべき魅力的な青春小説を読んだという思いがある。だが、小説の発表から数十年を経て選集の作品を選ぶとき、おそらく、モデルとなった人物、すなわち当時存命だった伊丹十三および作品に登場するその周囲の人物にたいする配慮から、目立つことはできるだけ避けたかったというのが作者大江の本意だったのだと思う。

 先に引用した冒頭の文章に明らかなように、物語の出発点で主人公は死んでいる。サリンジャーの『ナインストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」のシーモアがそうであるように。『ナインストーリーズ』は、シーモアの死から始まって、一見脈絡のない短編を紡ぎながら、最後に「テディ」でとじられ、じつはまた「バナナ魚には理想的な日」に戻るのである。『ナインストーリーズ』の時間はメビウスの輪のように閉じられ、循環し、直線ではない。

 一方、『日常生活の冒険』は、『ナインストーリーズ』のように閉じられた時間の中で継起した出来事を寓意という手段をもちいて語ろうとしたものではない。主人公の死という「喪失からの出発」は共通しているが、サリンジャーがアレゴリーという武器をもちいて「出来事」を記したかったのに対し、大江健三郎は「斎木犀吉」という「人間」を記憶し続けたかったのである。

  死者を死せりと思うなかれ
  生者あらん限り死者は生けり
  死者は生きん 死者は生きん

 この詩はゴッホが、彼の従妹の夫が亡くなった時に「モーヴの思い出のために」と書き込んで《花咲ける木》という絵を描き、絵ともに従妹に贈ったものである。その絵の複製が若い犀吉の「壁際に書物がつみ重ねられたほかはまったく何もない五畳ほどの素裸の部屋」の壁に画鋲でとめてあり、絵を見ている「ぼく」に犀吉自身がこの詩を朗誦して教えてくれたのだった。

 「生者あらん限り死者は生けり 死者は生きん 死者は生きん」

 「ぼく」は生きている限り「斎木犀吉」を記憶し続け、書き続けようとしたのだ。なぜなら、彼ほど死をおそれた人間はいなかったから。耐えきれぬ苦痛の果ての無残な死はもちろん恐怖だが、死によって存在の痕跡が完全に無になることはもっと救いがない。犀吉は五畳の部屋のゴッホのハタンキョウの絵の前で「ぼく」にこう言ったのだ。

 「おれにとっての生者はきみひとりだったのさ。きみのあらん限り、おれは生きん、おれは生きん、そのおれ風の進軍歌をうたって、おれは死の恐怖に対抗してきたんだよ。」

 斎木犀吉とは何だろう。ナセル義勇兵の集会で「頬にも顎にも一本のひげも生えていない」少年として「ぼく」と出会い、徹底したモラリスト_道徳家という意味ではない。すべて自分自身の内側から考察するという意味の_として颯爽と生き、そして最後に「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。おれはなにひとつやれなかったなあ。……………おれはいま恐ろしいんだよ、喉からしたいっぱいに不安と恐怖をつめこまれたみたいだ…」と「ぼく」に訴え、「おれはヨーロッパについたら、今度はすぐにアルルに行ってみるよ、おれは花の咲いたハタンキョウの木が見たいんだがもう季節をすぎたかね?」と言って「ぼく」と空港で別れた「斎木犀吉」とは。

 ところで、この「花咲ける木」の絵について、私のなかで少しとまどいがある。「モーヴの思い出のために」と書き込まれたこの絵は有名で、ネット上でもたくさんの複製の写真がみられるが、これは桃の木を描いたものなのだ。「ハタンキョウ」の花を描いたものは「アーモンドの木の枝」として検索される。こちらは弟テオに子どもが生まれたことを祝福して描いたもののようだ。桃もすももも「ハタンキョウ」と呼ばれることがあるようだから、あまりこだわる必要はないかもしれないが。それでも「桃_もも」と「ハタンキョウ」では語感も字面もかなりちがうので、作者大江は意図的に「ハタンキョウ」という硬質の語感をもつ言葉を選んだのだろう。

 桃の木を描いた絵もアーモンドの木の枝を描いたものも、どちらも非常に美しい絵だと思うが、死者を悼む前者が春のおとづれを告げるように満開の花をつけた木を描いて華やかな印象を受けるのにたいして、新しい命の誕生を祝福する後者は、青い背景に白っぽく見える(経年変化で褪色したのかもしれないが)花をつけた枝が縁取りで描かれ、何か澄明な趣である。こちらはゴッホの最晩年にプロヴァンスの精神病院で制作したもののようである。  

 犀吉の五畳の部屋に画鋲で止めてあったのは、まちがいなく(日本でいう)桃あるいはすももの花の絵だったと思われる。画面右側に黄色っぽい柵のようなものが描かれ、中央に満開の花をつけた大きな木が立っている。後方に小さく同じような木が列をなして続いているようなので、これは果樹園の桃の木なのだろう。そして、さらによく見ると、中央の木はじつは二本あるようだ。二本の木が寄り添うように立っていて、後ろの木が前の木の二股に分かれた間から枝を差し入れているように見える。

 『日常生活の冒険』は、ナセル義勇軍の集いでの「ぼく」と犀吉の出会いから空港での別れまで、さまざまなエピソードが綴られるが、ゴッホの絵に言及される場面はその中でもとりわけ印象的である。モラリスト犀吉はいつも論理の鎧でタフネスをよそおっているが、この「花咲ける木」を前にして脆いほど素直に真情を吐露する。「ぼく」はそれを受けて「センチメンタル」になってしまう。最後の空港の別れの場面など「ぼく」は犀吉への憐憫の情で涙ぐんでしまいそうになった、と書かれる。「モーヴの思い出のために」と書き込まれた絵の中の二本の木が、死者とそれに寄り添う生者の象徴だとしたら、それはまた犀吉と「ぼく」の象徴でもあると想像することは不可能だろうか。

 ゴッホが「モーヴの思い出のために」と書き込んで二本の桃の木を描いてモーヴを悼んだように、大江健三郎は『日常生活の冒険』という「斎木犀吉」へのレクレイムをうたったのだ。「頬にも顎にも一本の髭も生えていない」十八歳の少年が、憔悴して、「惨めな苦力のように」よろめいて「ぼく」の前から姿を消すまでの七年間は、決して実際の大江健三郎と伊丹十三の人生と重なり合うものではない。大江が大学在学中から作家として注目されていたのはほぼ実生活と重なるかもしれないが、伊丹十三もまた多才な人で、「なにひとつやりとげなかった」どころか、エッセイストであり、努力して外国語を習得し、すでに国際俳優として活躍していた。この小説に描かれる斎木犀吉は、伊丹十三に身をかりた、大江の歌う「青春挽歌」の主人公である。

 同年に出版され、この小説とまったく作風の異なる『個人的な体験』との関係についても書きたかったのですが、力及ばずでした。故意か偶然か、というよりたぶん意図的に『日常生活の冒険』の魅力的な少女妻「卑弥子」と『個人的な体験』の成熟したヒロイン「火見子」は同じ「ひみこ」で、どちらも愛するひとに裏切られます。斎木犀吉は卑弥子を裏切って、ある意味当然の報いを受ける結果となりますが、「鳥(バード)」は火見子を捨てて、「親」となって社会復帰します。障碍をもつ子との「共生」というテーマで『個人的な体験』の方が評価が高い風潮は、個人的には納得できない気がするのですが。

 今日もまとまりのない文章を読んでくださってありがとうございます。

2025年2月11日火曜日

深沢七郎『楢山節考』__おりんのりんは倫理のりん__歌がつらぬく共同体の掟

  昔「深沢七郎の小説は構成が完璧」といったら、「「あたりまえさ。彼はギタリストだもの。」と応じた飲んだくれがいた。彼は深沢と同じ山梨県出身で、ギタリストではなく美大でゲバ棒をふるっていた。私と知り合ったときは動物愛護活動家ということをしていて、十年ほど前に死んでしまった。ギタリストだと、どうして完璧な構成の小説が書けると思ったのか、もう少し詳しく聞いておけばよかった。

 『銀河鉄道の夜』を読む時間がかなり長く続いている。この間、私の中で、何とも言えない重苦しい、いらだちに似た焦燥感があって、それをうまくことばに出来ないもどかしさがある。賢治は、詩を書くときは、あんなにのびやかに情念をことばに乗せることができるのに、散文を書くとき、とくに『銀河鉄道の夜』のそれは、どうしてこんなにぎごちなく不自然なのだろう。『オツペルと象』、『北守将軍と三人の兄弟医者』のように、独特のリズミカルな文体で書かれていて、最後まで一気呵成に読ませてしまう例外的な作品もあるのだが。

 それで、文字を追いかけていけばすらすら内容が頭に入ってしまう深沢七郎が読みたくなって、何年ぶりかで『楢山節考』を読んでしまった。懐かしく恐ろしい、日常を装った非日常の世界がここにある。

 物語は主人公おりんが楢山祭りの歌を聞くところから始まる。

 「楢山祭りが三度くりぁよ 
     栗の種から花が咲く」

時間の推移が自然を変移させるというあたり前の文句のようだが、来年正月が来れば七十になるおりんには、特別の意味をもっていた。七十になったら「楢山まいり」をするのが村の掟で、そのときが近づいていることを知らせる歌だからである。

 山々に囲まれているこの村だが、神が住むという「楢山」は特別な山だった。「楢山祭り」は陰暦七月十二日盆の前夜に行う夜祭で、山の幸だけでなくこの村では貴重な白米を炊いて食べ、どぶろくをつくって夜中御馳走を食べる。村で祭りといえば「楢山祭り」しかないようになってしまったのだが、白米を食べどぶろくを飲む機会はもうひとつあって、それは「楢山まいり」をする前夜の儀式だった。「楢山まいり」をする前夜は、すでに「楢山まいり」の「お供」をすませた近所の人だけをよんで、白米とどぶろくをふるまうのである。

 おりんはそのときのために、白米とどぶろくはもう用意してあって、気構えと準備は十分できていたが、寡夫になった息子の辰平が気懸りだった。だが、この日、おりんは、楢山祭りの歌を聞くと同時に、もうひとつの声を聞いた。むこう村のおりんの実家から、村に後家ができたと知らせてきたのである。年齢も辰平と同じ四十五で年恰好が合う。これでもう、辰平の嫁の心配はなくなった。

 楢山祭りの朝に、むこう村から玉やんという嫁がやって来た。「おばあやんがいい人だから早く行けって」いわれて、玉やんは朝飯を食べずに来たのだった。何度も「おばあやんがいい人だから」と玉やんが繰りかえすので、おりんはうれしくなって、勇気を奮って、石臼のかどに歯をぶつけて前歯を二本欠いてしまう。おりんの丈夫な歯は、孫のけさ吉さえも嘲って、

 「おらんのおばあやん納戸の隅で
     鬼の歯を三十三本揃えた」

と笑いものにされていたのである。

 食料が極端に不足しているこの村では、何でも食べられる丈夫な歯と旺盛な生殖能力は決して賛美ではなく、辱めの対象だった。おりんは、「楢山まいりに行くときは辰平のしょう背板に乗って、歯も抜けたきれいな年寄りになっていきたかった」。だから、いままでもこっそりと火打石で叩いてこわそうとしていたのだった。念願かなって歯を欠いたおりんは、その姿を見せびらかしたくて、楢山祭りの祭り場に行く。だが、愛想のつもりで血まみれの顎を突き出したおりんを見て、集まっていた人たちはみんな逃げ出してしまう。おりんは「きれいな年寄り」どころか、「根っこの鬼ばばあ」と陰口をたたかれるようになってしまった。

 ためらっている辰平の背中を押して、おりんが楢山まいりをしようと急ぐ理由が二つあった。一つは、まだ十六の孫のけさ吉が同じ村の松やんという少女をはらませてしまったことである。妊娠しているためもあってか、大食いの松やんは自分の家を追い出されて、おりん一家に入り込んできてしまった。けさ吉と松やんは夫婦気取りで仲良くしているが、このままではおりんは「ねずみっ子」を見ることになってしまう。

 「かやの木ぎんやんひきずり女
     せがれ孫からねずみっ子抱いた」

 村で一番大きいかやの木がある家のぎんやんという女の人は、息子、孫、ねずみっ子と呼ばれる曾孫まで抱いたといって歌にうたわれた。早熟、多産は辱めの対象で、ぎんやんは「ひきずり女」という最大の蔑称を受けなければならなかった。歯を欠いてまで共同体の倫理に準じようというおりんにとって、「ひきずり女」という蔑称は耐え難いものだった。

 もう一つは、冬を越すのに食料が足らなくなるおそれがあるからである。大食いの松やんが子を生んだら、ただでさえ足りない食糧がさらに不足してしまう。 

 「三十すぎてもおそくはねえぞ
     一人ふえれば倍になる」

 晩婚が奨励される村だが、十六のけさ吉が松やんをはらませてしまったのだ。思ってもいなかったことをけさ吉から聞かされて、当初おりんはその衝撃からけさ吉に箸を投げつけ「バカヤロー、めしを食うな!」と怒鳴ったのだが、その後、「これこそ物わかりのわるい年寄りのあさましいことにちがいないのだ」と思うようになる。けさ吉も松やんも一人前の大人になったのに、そこまで察していなかったことに申しわけない、とさえ思ってしまう。

 「おばあやんはいつ山へ行くでえ?」と何度も問うけさ吉に「来年になったらすぐ行くさ」と苦笑いしながら答えていたおりんだった。「楢山まいり」の前夜にふるまう御馳走はたっぷり準備してある。おりんが山へ行った翌朝、家のみんなが飛びついて食べ、びっくりするだろう。その時自分は、「新しい筵の上に、きれいな根性で座っているのだ。」とおりんは「楢山まいり」のことばかり考えていた。

 その山行きをさらに急き立てられる出来事が起こる。「楢山さんに謝るぞ!」という叫び声が起こり、「雨屋」という屋号の家が村総出で襲われる。雨屋の亭主が隣の家の豆のかますを盗み出したところを見つかって、家の者に袋だたきにされたのである。この村で食料を盗むものは極悪人で、「楢山さんに謝る」という最も重い制裁を受ける。村中が喧嘩支度で盗みをはたらいた家に駆けつけ、その家の食糧を奪い取って、みんなで分けてしまうのである。嫁に来た玉やんも末の子を背中にしばりつけるようにおぶって出て、太い棒を握って青い顔でかけだしていた。おりんが布団から這い出したときは、家中みんな飛び出した後だった。

 「家探し」された雨屋の家の縁の下から、一坪くらいになるほどの芋が出て来る。こんなに一軒の家で芋がとれるわけはないので、これは畑にあった時から村中の芋を掘り出したにちがいない。雨屋は先代も「楢山さんに謝った」家なので、「泥棒の血統だから、うち中の奴を根だやしにしなけりゃ」と囁かれるようになる。 

 雨屋の家族は十二人でおりんの家は八人だが、育ち盛りの子が多いので、食料の困窮は似たようなものだった。隣の銭屋の倅がやってきて、雨屋がよその家の種芋まで盗んでいたことがわかったので、どこの家でも仕事もしないで雨屋を根だやしにすることを考えている、という。からすが啼いて、「今夜あたり、葬式がでるかも知れんぞ」といって銭屋が出て行った後、みんな黙ってしまう。そうして、突然、寝ころんでいた辰平が「おばあやん、来年は山へ行くかなあ」といったのだ。再びの沈黙の後、

 けさ吉が

 「お父っちゃん出て見ろ枯れ木ゃ茂る
     行かざなるまい、しょこしょって」

と唄い出して三日後の夜、大勢の足音がおりんの家の前を通って行った。翌朝雨屋の一家は村から消えてしまったのだった。

 十二月になって白い小さい虫が舞って、子供たちが「雪ばんばァが舞ってきた」と騒ぐ。雪の降る前にはこの虫が舞うといわれていた。おりんは「おれが山へ行くときゃァきっと雪が降るぞ」と力んだ。

 「塩屋のおとりさん運がよい
     山へ行く日にゃ雪が降る」

楢山祭りのときに唄い出されていたこの歌は、山へ行く「時」を指定する歌だった。楢山は雪が降り積もれば行けない遠い山なので、雪のない道を上って、到着したら雪が降るのが運がよいとされ、そのような条件の「時」に行け、といっているのである。

 松やんが臨月に入ったことは誰の目にも明らかになった。あと四日で正月になるという日、おりんは、辰平に明日楢山まいりを決行することを告げる。その晩、渋る辰平を厳然と威圧して、お供をして山へ行った人たちを呼んでどぶろくを振る舞い、作法通りの教示を受ける。そして、次の夜おりんと辰平は楢山まいりの途についたのだった。

  ここからは、楢山に分け入る辰平とおりんの道行となる。二つ、三つと山の裾野を回り、四つ目の山は上に登って頂上に立つと、地獄へ落ちるかと思わせるような谷に隔てられて、向うに楢山が見える。奈落の底のような深い谷を廻って進む辰平は、もう人心地もなかった。楢山を見たときから、神の召使いのようになってしまったのである。

 七谷という七曲りの道を通り越すと、道はあっても道はないといわれた楢の木ばかりの楢山に来た。無言のおりんを背負って、辰平はとうとう頂上らしい所まで来る。すると、どの岩影にも死体があった。両手を握って、合掌しているような死人、バラバラになった白骨、からすに食べられて空洞になった腹がからすの巣となった死体、進むほどからすが多くなり、死骸もますます多く転がっていて、白骨も雪がふったようにころがっている。辰平は、白骨の中に木のお椀がころがっているのを見て呆然とする。

 楢山に分け入ってからは、リアルで鬼気迫る情景描写が続く。戦場か処刑場の跡のようで、様々な死が累積している。さすがにもう、歌は唄い出されない。死骸のない岩かげにおりんを降ろすと、不動の形で立ったおりんに力いっぱい背中を押され、辰平は今来た方に歩き出す。おりんの顔はすでに死人の相だった。

 生きながら菩薩の形となったおりんの姿を描いて、「楢山節」考はこれで終わってよかったのだが、深沢は止めなかった。開高健のいう「世話物の甘い呻吟」がこれに続くのである。

 「十歩ばかり行って辰平はおりんの乗っていないうしろの背板を天に突き出して大粒の涙をぽろぽろと落とした。酔っぱらいのようによろよろと下っていった。」

 これはもう「世話物の甘い呻吟」などではなく、慟哭というべきだろう。登場人物にたいしてつねに一定の距離を保ち、その内面に入り込むことをしない深沢の、ほとんど唯一の例外がここにあるように思う。

 辰平が山の中程まで下りてきた時に雪が降りだす。おりんが「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになった。辰平は掟を破って、今降りて来た山を猛然と登りだす。辰平は、本当に雪が降ったなあ!、と言いたかった。物を言ってはならないという誓いを破ってまでも、ひとこと言いたかったのだ。

 辰平がさっきの岩のところまで戻ると、雪に覆われて白狐のような姿になったおりんが、一点を見つめながら念仏をとなえている。

 「おっかあ、雪が降ってきたよう」
 「おっかあ、寒いだろうなあ」
 「おっかあ、雪が降って運がいいなあ」
 「山へ行く日に」

 辰平が呼びかけるが、おりんは無言で辰平の声のする方へ手を出して帰れ、帰れと振るばかりだった。
 「おっかあ、ふんとに雪が降ったなァ」
辰平は叫び終わると脱兎のごとく山を降った。 

 山を降りる途中、辰平は隣の銭屋の倅が父親の又やんを谷底に突き落とすのを目撃する。又やんは昨夜逃げ出そうとしたので、今度は雁字搦みに縛られていた。そして、芋俵のように転がされ、それでも必死にすがる又やんを、倅は腹を蹴とばして突き落としたのである。又やんがころがり落ちていくと、谷底から竜巻のようにからすの大群が舞い上がって、そしてまた舞い降りていった。倅もからすの群れを見て飛ぶように駆け出していた。

 家に戻って、戸の外から中の様子をうかがうと、次男が末の子に歌を唄って遊ばせていた。

 「お姥捨てるか裏山へ
     裏じゃ蟹でも這ってくる」
 「這って来たとて戸で入れぬ
     蟹は夜泣くとりじゃない」

子供たちはもうおりんが帰ってこないことを知っているのだ。松やんとけさ吉はおりんの衣類を身につけ、けさ吉はどぶろくの残りを飲んで陶然としていた。

 「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」

 「なんぼ寒いとって綿入れを
     山へ行くにゃ着せられぬ」

おりんが生きていたら、雪をかぶって綿入れの歌を、きっと考ええているだろうと、辰平は思った。

 あらすじを追いかけるだけで、相当な量の字数を費やしてしまった。全編通じて存在するのは、圧倒的な村=共同体の論理である。村=共同体の「倫理」、といってもいいかもしれない。人間は村=共同体に生れ落ちてから、いや生まれる前から、それに逆らうことはできない。けさ吉が松やんにはらませてしまった子も、生まれたら裏山に捨てられる運命だったのである。辰平の嫁の玉やんも、けさ吉も、はらんでいる松やん自身までもが、こぞってそれを実行しようしていた。人口の調節は村=共同体の至上の命題だった。そうしなければ、絶対に飢えるからである。

 おりんはこの共同体倫理を生きた。生き抜いた。おりんの人生は共同体倫理の内側にあった、というより倫理そのものだったかもしれない。善悪、当為の判断は個人の意志や感情の介入する余地はまったくない。だから、おりんは雨屋の制裁にも当然積極的に参加し、健康な歯を自ら砕いて死を迎え入れる自分の姿をアピールしたのである。私は、おりんの「りん」は共同体倫理の「倫」である、と勝手にに妄想している。

 そして、もう一つ、切ないまでに滲み出てくるのが、おりんの息子辰平の思いである。愛するひとを死出の途へいざなうことを強制する、あらがいようがない絶対の共同体論理の禁を犯して、辰平がおりんのもとに戻るくだりはこの小説の白眉である。

 もっとも恐ろしいのは、この村=共同体には支配者がいないことである。絶対的に食料の不足するこの村=共同体には支配ー被支配の関係が存在しない。誰もが平等で、平等な権力をもっている。支配者が存在して、それを打倒することができれば共同体の論理は変わる。だが、誰もが平等な社会に革命は起こらない。そのような社会は歴史上存在しただろうか。あるいは、そのような「空間」は、いつでも、どこでも、「日常」に存在し続けているのだろうか。

 最後に、この共同体論理を透徹させる「歌」の意味についても語らなければならないのだが、すでにかなりの長文になってしまったので、これについてはまた、回を改めて考えたいと思う。歌が共同体論理とどのように別れ、散文が成立したのかということの考察を始めたのが、私の文章を書く出発点だったのだが。

 長いばかりで尻切れとんぼの文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。