2019年3月30日土曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__ケンタウルス_牛殺し_生の軛

 『銀河鉄道の夜』については、多くの分析や論評がなされていて、いま私のような賢治初心者があらたにいうこともないのだが、初心者なりに気が付いたことを少しだけ書いてみたい。

 この作品も生前活字になったものではないので、決定稿がないのだが、物語が始まるのは、主人公ジョバンニの町の「ケンタウル祭」の夜である。「ケンタウル祭」とは何か。

 「ケンタウル」という言葉はあきらかに「ケンタウルス」という星座名に由来するのだろう。ケンタウルスとは半牛半人の怪獣である。半馬半人や半獅子半人として描かれている絵画もあるようだが、元来は牛の下半身と人間の上半身が合体したものである。ギリシャ語で「タウルス」は「牛」であり、「ケンタウルス」は「牛殺し」の意だそうである。

 賢治は巧妙に「ケンタウルス祭」と呼ばずに「ケンタウル祭」としているが、祭りの夜子どもたちは「ケンタウルス、露をふらせ」と叫ぶ。また、物語の最後近く、難破した船と運命をともにして、銀河鉄道に乗り込んできた「タダシ」と呼ばれる男の子も、突然「ケンタウルス、露をふらせ」と叫ぶのだ。「ケンタウル祭」とは何か。主人公ジョバンニは何故ケンタウル祭から疎外されるのか。

 ここで、少し脇道にそれるようだが、ジョバンニと、ジョバンニの同伴者カムパネルラについて触れてみたい。ジョバンニという名の由来はあきらかにヨハネである。新約聖書には、ヨハネという名は福音書の作者として、書簡の著者として、また黙示録の作者としてその名が記載されている。だが、この作品のジョバンニ_ヨハネは、福音書の中で、イエスの前に登場して、荒野で悔い改めを説く洗礼者ヨハネだろう。あるいはイエスの弟子となったヨハネかもしれない。イエスその人ではなく。

 カムパネルラについては、十六世紀後半から十七世紀前半イタリアルネッサンスの時代に生きた修道士トマソ・カンパネッラに由来するといわれている。この作品中のカンパネルラにトマソ・カンパネッラの実像がどれほど投影されているのか疑問だが、自然哲学者、科学者そして魔術者でもあったトマソ・カンパネッラの事跡は賢治の文学と人生に大きな影響を与えたと思われる。カンパネッラの主著「太陽の都」は賢治の『ポラーノの広場』のモデルともいわれている。

 「ケンタウル祭」が何か、ジョバンニは何故「ケンタウル祭」から疎外されているのかを考えることは『銀河鉄道の夜』という作品の最も大きな主題を探ることになると思う。それは、人間が、生きるために食べる、食べるために殺す、ということの絶対的な不条理を考えることである。原罪、という言葉を使うとどうしてもキリスト教の世界を呼び寄せてしまうような気がするので、あえて、不条理といっておきたい。

 ジョバンニは病気の母親のために、配達されなかった牛乳をもらいに行く。だが、牛乳はもらえなかった。物語の最後で種明かしのように明らかになるのだが、牛乳屋の主人が目を離した隙に、仔牛が親牛のところに行って、乳を飲んでしまったからである。

 仔牛が親牛の乳を飲むのは自然の摂理である。人間がそこに介入して、仔牛を疎外してしまう。仔牛の食べ物を人間が略奪しているのである。病気の母親のために必要だからという理由で略奪が赦されるのか。略奪という言葉もまだ欺瞞で、人間の生、食は他の生物の命の収奪である。

 ケンタウルス_牛殺しは神話ではなく、太陽神ミトラスを主神とするミトラ教の秘儀である。牛は古くから家畜として人間の生を養う存在だった。『銀河鉄道の夜』でも、ジョバンニとカムパネレラが「ボス」と呼ばれる牛の祖先の骨を発掘調査している大学士に出会っている。ミトラ教が牛を聖牛として崇め、屠る儀式は、やがてその「血で贖う」というモチーフがキリスト教の救済の教義と結びついていった、という説があるのだが、いまは、この秘儀が生命力の解放と豊穣をもたらすと信じられていたことを確認しておきたい。

 生=食=殺というジレンマが賢治の実生活を苦しめたことはよく知られている。どうにかしてこのジレンマから逃れるすべはないか。この世に生きている限り逃れるすべのないジレンマの、ありうべき解決のベクトルとして、賢治が提示してみせたのが、最初に銀河鉄道に乗り込んできた「鳥を捕る人」だったのではないか。

 鳥捕りは両手を広げていれば、舞いおりてくる鳥を何の苦もなく捕まえることができ、鳥は鳥捕りの袋のなかで「しばらく青くぺかぺか光ったり消えたりしていましたが、おしまいとうとう、みんなぼんやり白くなって、目をつぶるのでした」という最後を迎える。そしてつかまる鳥よりつかまらない鳥のほうがはるかに多くて、それらは無事天の川に降りると「二、三度明るくなったり暗くなったりしているうちに、もうすっかりまわりと同じいろになってしまうのでした。」と書かれる。

 生物が自然の死を迎える直前に捕獲して、そのまま食物とする。しかも「ああせいせいした。どうもからだにちょうど合うほどかせいでいるくらい、いいことはありませんな。」と、必要なだけしか捕獲しない。これがシステムとして成り立てば、生=食=殺の軛から逃れることができる。

 ジョバンニは鳥捕りにすすめられて、押し葉になった雁を食べてみる。それはチョコレートよりもおいしいお菓子の味だった。一緒に食べていたカムパネルラも「こいつは雁じゃない。ただのお菓子でしょう」という。二人が食べたのは雁だったのか、それとも「ただのお菓子」だったのか。「ただのお菓子」は雁ではないのか。ここには賢治の巧妙な欺瞞があるような気がするのだが。

 「茶いろの少しぼろぼろの外套を着て」「赤髯の背中のかがんだ人」と描写される鳥捕りとは何か。ジョバンニはその人を見て「なにか大へんさびしいような悲しいような気」がする。赤ひげの人も「なにかなつかしそうにわらいながら」ジョバンニやカムパネルラのようすを見ている。鳥捕りの正体は謎に満ちているが、注目すべきは、ジョバンニは最初から鳥捕りを悲哀の目でみつめ、同情をよせていることである。

 もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持っているものでも食べるものでもなんでもやってしまいたい、もうこの人のほんとうの幸いになるなら自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいというような気がして、どうしてももう黙っていられなくなりました。

 ジョバンニは、なぜこれほど異様なまでの感情の昂ぶりをあらわにするのか。「この人のほんとうの幸いになるなら」__幸いは「この人」のものであって、けっして「私の」幸いではないことに注意したい。「あなたのほんとうにほしいもの」は何か、ジョバンニが鳥捕りに聞こうとして後ろを振りかえると、鳥捕りの姿は消えていた。「この人のほんとうの幸い」」_絶対利他の到達点をもとめて、ジョバンニの旅は始まる。

 ケンタウルスの主題に戻ろう。ケンタウルスという言葉が再び登場するのは、汽車が蠍の火が燃え盛る天の川の野原を過ぎたときである。蠍の火については、賢治がほとんど同じ主題で「よだかの星」という有名な作品を残している。『銀河鉄道の夜』では、難破船から乗り込んできた女の子がカムパネルラと、食物連鎖から逃れようとした蠍の話をする。他者に自分をたべさせ、他者の生を養うことから逃げ回り、最後は井戸で溺れ死にそうになる蠍の祈りが語られる。この次はむなしく命をすてずに、まことのみんなの幸いのために自分のからだを使ってください、という蠍の願いが聞き入れられ、まっ赤なうつくしい火となって天上で燃え続けている、と女の子は語る。

 蠍の火から遠ざかるにつれて、町のお祭りのような気配がしてくる。突然、ここで、いままで睡っていたタダシという男の子が「ケンタウルス露を降らせ。」と叫ぶ。この後「ああ、そうだ、今夜ケンタウル祭だねぇ。」「ああ、ここはケンタウルの村だよ。」というやり取りがある。それまで天上を走っていた汽車が、突然日常世界に戻るのも不思議だが、難破船から乗り込んできた男の子が「ケンタウルス露をふらせ」と叫ぶのもわからない。

 この後、サウザンクロスで多くの人々が下り、ジョバンニはカムパネルラとどこまでも一緒に行こうと誓いをかわす。だが、そのカムパネルラが「あ、あすこ、石炭袋だよ。そらの孔だよ。」と暗闇を見つける。さらに「ああ、あすこの野原はなんてきれいなんだろう。みんな集まっているねぇ。あすこがほんとうの天上なんだ。あっ、あすこにいるのはぼくのお母さんだよ。」と叫んで消えてしまう。

 最初に書いたように、『銀河鉄道の夜』は決定稿がないが、第四次稿とされるものには、カムパネルラが級友のザネリを助けるために溺れ死んだことが示唆されている。カムパネルラが姿を消す前に蠍の火のモチーフが詳しく語られ、夜空に燃えさかるうつくしい火が描写されるのは、カムパネルラの死の意味を伝えるためだろう。

 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
                  ヨハネによる福音書15-13

カムパネルラの死の意味をいうとき、まずこの聖句が思い浮かぶだろう。それでいい、と思うし、そう考えなければいけない、とも思うのだが、カムパネルラの死は「自己犠牲」という言葉で終わらせてはならない、という誘惑にかられるのだ。それは「自己犠牲」ではなく「犠牲」の死だった。カムパネルラは「ケンタウルス、露をふらせ。」の叫びに答えたのだ、と。

 思いつきの走り書きです。複雑で底知れない深さの作品に、ほんのちょっとかぶりついてみて、自分の非力に茫然としています。この作品の隠されたテーマと思われる母と子の関係、後半突如として登場する空の工兵大隊と「星とつるはしを書いた旗」のことなど考えてみたいことはたくさんあるのですが、いったんは『ポラーノの広場』に戻りたいと思います。

 今日も不出来な文章に最後までつきあってくださってありがとうございます。
 

2019年3月20日水曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』その2__和解と祈り__宮沢賢治のキリスト教

 この作品は、おそらく作者の最晩年に現存のかたちにまとめ上げられたものと思われる。これは、作者の実生活での葛藤、相克を経て、最後に至り着いたしずかな「祈り」であり、現実との「和解」である。そしてその「祈り」は、作者が熱心な信徒だったという法華経の世界よりもキリスト教のそれに近いように思われる。近いということは必ずしも一致しているということではないのだが。

 宮沢賢治とキリスト教については『銀河鉄道の夜』が取り上げられることが多い。讃美歌が流れ、光が散りばめられた十字架と「神々しい白いきものの人」が登場するこの作品はキリスト教のイメージが色濃く漂っている。作中主人公のジョバンハニが「たったひとりのほんとうの神さま」について、難破した船に乗っていた女の子やその家庭教師の青年と議論する。天上に行くために次ぎの駅で下りるという女の子にジョバンニは言う。

 「天上なんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなきゃぁいけないって僕の先生が言ったよ。」
 「だっておっかさんも行ってらっしゃるし、それに神さまがおっしゃるんだわ。」
 「そんな神さまうその神さまだい。」
 「あなたの神さまうその神さまよ。」
 「そうじゃないよ。」
 「あなたの神さまってどんな神さまですか。」
青年は笑いながら言いました。
 「ぼくほんとうはよく知りません。けれどもそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。
 「ほんとうの神さまはもちろんたった一人です。」
 「ああ、そんなんでなしに、たったひとりのほんとうの神さまです。」
 「だからそうじゃありませんか。わたくしはあなたがたがいまにほんとうの神さまの前に、わたくしたちとお会いになることを祈ります」
青年はつつましく両手を組みました。

 この部分は『銀河鉄道の夜』の核心だろう。救命ボートに乗り込まずに、難破した船と運命をともにし、いま天上に向かう女の子と青年が信じる「神さま」と、ジョバンニの「たったひとりのほんとうの神さま」は違う神さまなのか。

 女の子と青年にとって、神さまは、最初から彼らの中にある。神さまの存在は自明の理なのだ。むしろ「始めに神ありき」といったほうがいいかもしれない。それに対してジョバンニの神さまは「ぼくほんとうはよく知りません。けれどそんなんでなしに、ほんとうのたった一人の神さまです。」という神さまなのである。それは「天上よりももっといいとこをこさえる」実践の旅の過程で「よく知らない。けれど」、きっと出会う神さまだろう。

 光り輝く十字架とその前にひざまずく女の子や青年たち、手をのばしてこっちに来る「ひとりの神々しい白いきものの人」を後にのこして汽車は過ぎて行く。ジョバンニの旅はサザンクロスで終わるわけにはいかなかったのだ。終末はもう近いのだが。

 さて、『ポラーノの広場』は主人公の前十七等官等官レオーノキューストが遁げた山羊を探す場面からはじまる。山羊が何の寓意であるかはひとまず置いて、レオーノキューストが、「教会の鐘」の音で目を覚ましたということ、山羊を探しに外に出たら「黒い着物に白いきれをかぶった百姓のおかみさんたち」に出会い、おかみさんたちが「教会へ行くところらしくバイブルも持っていた」という記述に注目したい。ここは明らかに、共同体の中心に教会がある場所なのだ。それにしても、「黒い着物に白いきれをかぶった」女たちの登場は異様である。

 遁げた山羊を連れて来てレオーノキューストに渡してくれたのは、ファゼーロという農夫の少年だった。レオーノキューストとファゼーロ、それから羊飼いのミーロという若者の三人は、つめ草の花を頼りに、歌と祭りがあるという伝説のポラーノの広場を探し始める。

 この作品の「つめくさ」は「小さな円いぼんぼりのような白いつめくさくさ」とあるので「白つめくさ」__クローバーのことらしい。いまはもう、ほとんど見かけなくなってしまったが、昔の農村はれんげの薄紅とクローバーの白で田起こし前の田んぼが覆われていた。夢のように美しい光景だった。蛇がいることがあったが、草むらの中で春の長い日が暮れるまでよく遊んでいた。だが、れんげもクローバーも観賞用ではなく、重要な土壌改良剤だった。とくにクローバーは、酸性土壌の改良剤としてアメリカから輸入したもので、賢治が「つめくさ」に托す思いは深かったのだろう。物語のいたるところで、つめ草は「あかしをともす」という象徴的な表現とともに姿をあらわす。

 探しあてたポラーノの広場では山猫博士の酒宴が開かれていた。ポラーノの広場は山猫博士のもので、県会議員である山猫博士は、そこで次の選挙のための酒宴を開いていたという。酒盛りの場で水をくれというレオーノキューストたちと、酔った山猫博士の間で諍いが起こり、ファゼーロと山猫博士は決闘することになる。本気なのか酔狂なのかよくわからない決闘は、山猫博士が一方的に降参して終わるが、勝ったファゼーロは親方の制裁を怖れる。テーモという親方は山猫博士の手下で、酒盛りに参加していたからである。

 この後、山猫博士とファゼーロは二人とも失踪してしまう。ちょっと不思議なのは、ここまでの出来事の時系列が混乱していることである。遁げた山羊を追ってレオーノキューストとファゼーロが出会った日が「五月の終わりの日曜日」で、それから十五日後にポラーノの広場」でファゼーロと山猫博士が決闘し、その「次の次の日」にキューストが警察から呼び出される。ところが警部はキューストに「おまえは(五月)二十七日の晩ファゼーロと連れだって村の園遊会にちん入したなあ」と言っており、キューストもそのことばを否定していないのだ。そして警察からの召喚状の日付は「一九二七年六月廿九日」となっている。

 キューストは必至にファゼーロを探すがどうしても見つからない。八月になって、キューストは「イーハトーヴォ海岸で海産鳥類の卵を採集」するために出張する。彼はモリーオ市の博物局の職員なのである。出張も終わりに近づいた時に、キューストは偶然に山猫博士を見つけ、ファゼーロの行方を尋ねるが、山猫博士も知らないという。彼は林の中に木材の乾溜会社を立てたが、薬品価格の変動で経営が行き詰まり、工場を密造酒の醸造に使っていた。そのことで部下に脅迫され、広場に株主が集まっていた。ファゼーロと決闘したあの晩はやけっぱちになっていたのだという。いまは零落して収入の道もない、という山猫博士に同情してキューストは彼のもとを去る。

 九月一日、出張から帰ってきたレオーノキューストの家にファゼーロが姿を現す。ファゼーロはあの晩どうしても家に入ることができなくて、ずっと離れたところまで歩いて行って座り込んでいたら、革の仲買人が車に乗せてたべものをくれた。それからファゼーロは革をなめしたり着色したりする技術を身につけてセンダードへ行った。八月十日にモリーオに帰ってきたファゼーロは、山猫博士が残した工場で村の人と共同で酢酸をつくっていたという。

 キューストとファゼーロはポラーノの広場のちょっと向こうにあるという工場に行く。そこでファゼーロやミーロは村の老人たちと酢酸をつくったり、革をなめしたり、ハムをこしらえるだけでなく、ここにむかしのほんとうのポラーノの広場、「そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えばもう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢いがよくて面白いようなそういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。」と決意する。
ファゼーロが音頭をとって、「水を呑んで」新しいポラーノの広場の開場式が行われる。

 『ポラーノの広場』の物語はほぼここで終わっている。それから三年後、キューストは仕事の都合でモリーオ市を離れたが、ファゼーロたちの工場は立派な産業組合となり、みんなでつくったハムと皮類と酢酸とオートミールがひろく出回るようになった。最後はレオーノキューストが郵便で受けとった「ポラーノの広場の歌」が記され、作品も閉じられる。

 作品のあらすじを追うだけで、キリスト教とのかかわりについてはふれることがほとんどできなかったが、長くなるので、それについてはまた回を改めたい。キューストたちを導いて、読者ともにポラーノの広場にいざなうつめくさの花のモチーフを中心に書いてみたいと思う。

 書いては消し、書いては消し、いくら繰り返しても、まとまったものができないので、もう一度同じテーマでチャレンジしてみたいと思います。ひとえに私の能力と経験の不足です。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2019年3月7日木曜日

宮沢賢治『ポラーノの広場』__革命の希求と涜神の怖れ

 二十世紀は革命と戦争の時代だった。「宮沢賢治と革命」という命題の立て方は唐突のように思われるかもしれないが、賢治は童話のジャンルでは寓意的に、詩の中では直接に「革命」について言及している。

 サキノハカという黒い花といっしょに
 革命がやがてやってくる
 ブルジョワジーでもプロレタリアートでも
 おほよそ卑怯な下等なやつらは
 みんなひとりで日向へ出た茸のやうに
 潰れて流れるその日が来る
 (略)
 はがねを鍛えるやうに新しい時代は新しい人間を鍛える
 紺色した山地の稜をも砕け
 銀河をつかって発電所もつくれ

 サキノハカという言葉が何を意味するものか諸説あって、わからないそうだが、もうひとつ「生徒諸君に寄せる」と題した詩のなかにもこの言葉が出てくる。賢治が花巻農学校の教師を辞するときの詩である。

 諸君よ 紺色の地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はその中に没することを欲するか
 じつに諸君はその地平線に於る
 あらゆる形の山岳でなければならぬ
 サキノハカ〔以下空白〕
 〔約九字分空白〕来る
 諸君はこの時代に強ひられひ率ゐられて
 奴隷のやうに忍従することを欲するか
 むしろ諸君よ 更にあらたな正しい時代をつくれ
 宙宇は絶えずわれらによって変化する
 潮汐や風、
 あらゆる自然の力を用ゐ尽くすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ 

 これは「グスコーブドリの伝記」の志向するところとほぼ一致するような内容である。この後さらに賢治は

 新しい時代のコペルニクスよ
 ・・・・・・・・
 新しい時代のダーウィンよ
 ・・・・・・・・
 新たな詩人よ
 ・・・・・・・・
 新たな時代のマルクスよ
 ・・・・・・・・
と農学校の生徒たちに呼びかけ、鼓舞する。ここに見られる賢治の「革命」は二〇世紀初頭に現実に起こった二つの革命とも、理念としての階級闘争とも異なっていて、むしろよりラディカルな、狂想ともいえるようなスケールのものである。だが、しかし、複雑なのは、「紺色した山地の稜をも砕け」と言い、「新たな自然を形成するに努めねばならぬ」と断言しながら、一方で

 祀られざるも神には神の身土があると
 あざけるようなうつろな声で
 さう云ったのはいったい誰だ 席をわたったそれは誰だ

と始まる「産業組合青年会」と題する詩が存在するのである。

 まことの道は
 誰が云ったの行ったの
 さういふ風のものでない
 祭祀の有無を是非するならば
 卑賎の神のその名にさへもふさわぬと
 応えたものはいったい何だ いきまき応えたそれは何だ
 (略)
 部落部落の省組合が
 ハムをつくり羊毛を織り医薬を頒ち
 村ごとのまたその聯合の大きなものが
 山地の肩をひととこ砕いて
 石灰岩末の幾千車かを 
 酸えた野原にそそいだり
 ゴムから靴を鋳たりもしよう
 (略)
 しかもこれら熱誠有為な村々の処士会同の夜半
 祀られざるも神には神の身土があると
 老いて呟くそれは誰だ

そしてこの詩のすぐ後に

 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるへている

という詩が続く。「サキノハカ「という黒い花」と「暗い業の花」は同じものだろうか。賢治は、自然の改変という「革命」をこの世にもたらすことをほんとうに望んだのか。
「神々の名を録」す涜神の怖れに堪えることができると考えたのだろうか。


 前置きが長くなってしまったが、そもそも標題の『ポラーノの広場』の意味するところが複雑なのである。賢治が演出して花巻農学校の生徒に上演させた劇の台本として『ポランの広場』と題した草稿が残っているそうである。「ポラン」から「ポラーノ」への変化もまた謎だが、「ポラーノ」の由来も諸説ある。おおむね「ポール」から派生して「北極星」あるいは「北」の意を含む言葉としているようだが、ポーランド語で「薪」を意味するという説も捨てがたい。作品の末尾で、「私」のもとに郵便で「ポラーノのうた」が楽譜とともに届くのだが、その二番の歌詞に

 まさしきねがいに いさかうとも
 銀河のかなたに ともにわらい
 なべてのなやみを たきぎともしつ
 はえある世界をともにつくらん

とある。

 ポラーノの語義として最も有力なのはエスペラント語の「花粉」だと思われるが、またしても独断と偏見の持ち主である私はロシア語の「森の中の草地」説(これはトルストイの生地の地名でもあるようだ)も捨てがたい。「広場」というとすぐに「赤の広場」を連想してしまう私の想像力の貧困が恥ずかしいのだが、元来ロシア語の「赤」は「美しい」という意味だったそうなので、そんなに突飛な連想でもないと思う。

 「革命」の詩の解釈と「ポラーノ」の語義を調べることでかなりの字数をついやしてしまった。「前十七等官 レオーノキュースト誌 宮沢賢治訳述」と記された『ポラーノの広場』の内容については、次回また書くことにしたい。賢治自身が「少年小説」とメモしたというこの作品は、苦渋に満ちた、しかしある種の諦観に到達した作者の自伝小説のように思われる。「革命」はここでは、「フェビアン協会」のような「社会改良主義」といったほうがよいかもしれないのだが。

 なかなか本題に入れずここまできてしまいました。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。