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2025年6月24日火曜日

大江健三郎『日常生活の冒険』___早すぎたレクレイムとゴッホとハタンキョウ

  『晩年様式集』を読み直す過程で『日常生活の冒険』にふれなければいけないといいつつ、何をどう書くかまとまらないでいる。書くべきことはたくさんあるが、軸が定まらない。主人公のモデルがあまりにもあからさまなので、現実とフィクションの齟齬に関心がむかいがちで、作品の主題を見失いそうになってしまう。主人公斎木犀吉のモデルである伊丹十三は1997年12月20日に64歳で死んでいる。だが1964年に書かれた『日常生活の冒険』は主人公斎木犀吉が25歳で自殺するところから始まるのである。

 伊丹十三がビルの屋上から「墜落死」してほぼ二年半後の2000年にに出版された『取り換え子』に先立つこと三十六年前に『日常生活の冒険』は出版されている。冒頭

 「あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かとも思えるほど遠い、見知らぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?」

こういう言葉で大江健三郎は、当時働き盛りで活躍中だった伊丹十三の死を悼んでいる。この小説は現実の伊丹の死の33年前に書かれたレクレイムである。なぜこんな奇妙な作品が書かれなければならなかったのか。

 『日常生活の冒険』が出版された1964年、大江健三郎は『個人的な体験』という作品も出版している。今日では、あるいは当時でもこちらの方が評価が高いようである。大江自身はこの小説を「技法、人物のとらえ方など、小説の基本レヴェルを満たしていない」として、『日常生活の冒険』を自身の選集に入れていない。 

 だが、、「鳥(バード)」と呼ばれる語り手の「個人的な体験」__はじめての子が障碍をもって生まれ、紆余曲折ありながら、その事実をうけいれ、「親」として生きる決意を表明するにいたるまでの過程を描いた作品とくらべて、『日常生活の冒険』が上記の「小説の基本レヴェル」において劣っているとは、少なくとも私は思えない。

 『日常生活の冒険』は、個性的な登場人物が波乱万丈のストーリーの展開とともに描かれ、みずみずしい感性が描写のすみずみにみなぎっている。あの時代の記念碑というべき魅力的な青春小説を読んだという思いがある。だが、小説の発表から数十年を経て選集の作品を選ぶとき、おそらく、モデルとなった人物、すなわち当時存命だった伊丹十三および作品に登場するその周囲の人物にたいする配慮から、目立つことはできるだけ避けたかったというのが作者大江の本意だったのだと思う。

 先に引用した冒頭の文章に明らかなように、物語の出発点で主人公は死んでいる。サリンジャーの『ナインストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」のシーモアがそうであるように。『ナインストーリーズ』は、シーモアの死から始まって、一見脈絡のない短編を紡ぎながら、最後に「テディ」でとじられ、じつはまた「バナナ魚には理想的な日」に戻るのである。『ナインストーリーズ』の時間はメビウスの輪のように閉じられ、循環し、直線ではない。

 一方、『日常生活の冒険』は、『ナインストーリーズ』のように閉じられた時間の中で継起した出来事を寓意という手段をもちいて語ろうとしたものではない。主人公の死という「喪失からの出発」は共通しているが、サリンジャーがアレゴリーという武器をもちいて「出来事」を記したかったのに対し、大江健三郎は「斎木犀吉」という「人間」を記憶し続けたかったのである。

  死者を死せりと思うなかれ
  生者あらん限り死者は生けり
  死者は生きん 死者は生きん

 この詩はゴッホが、彼の従妹の夫が亡くなった時に「モーヴの思い出のために」と書き込んで《花咲ける木》という絵を描き、絵ともに従妹に贈ったものである。その絵の複製が若い犀吉の「壁際に書物がつみ重ねられたほかはまったく何もない五畳ほどの素裸の部屋」の壁に画鋲でとめてあり、絵を見ている「ぼく」に犀吉自身がこの詩を朗誦して教えてくれたのだった。

 「生者あらん限り死者は生けり 死者は生きん 死者は生きん」

 「ぼく」は生きている限り「斎木犀吉」を記憶し続け、書き続けようとしたのだ。なぜなら、彼ほど死をおそれた人間はいなかったから。耐えきれぬ苦痛の果ての無残な死はもちろん恐怖だが、死によって存在の痕跡が完全に無になることはもっと救いがない。犀吉は五畳の部屋のゴッホのハタンキョウの絵の前で「ぼく」にこう言ったのだ。

 「おれにとっての生者はきみひとりだったのさ。きみのあらん限り、おれは生きん、おれは生きん、そのおれ風の進軍歌をうたって、おれは死の恐怖に対抗してきたんだよ。」

 斎木犀吉とは何だろう。ナセル義勇兵の集会で「頬にも顎にも一本のひげも生えていない」少年として「ぼく」と出会い、徹底したモラリスト_道徳家という意味ではない。すべて自分自身の内側から考察するという意味の_として颯爽と生き、そして最後に「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。おれはなにひとつやれなかったなあ。……………おれはいま恐ろしいんだよ、喉からしたいっぱいに不安と恐怖をつめこまれたみたいだ…」と「ぼく」に訴え、「おれはヨーロッパについたら、今度はすぐにアルルに行ってみるよ、おれは花の咲いたハタンキョウの木が見たいんだがもう季節をすぎたかね?」と言って「ぼく」と空港で別れた「斎木犀吉」とは。

 ところで、この「花咲ける木」の絵について、私のなかで少しとまどいがある。「モーヴの思い出のために」と書き込まれたこの絵は有名で、ネット上でもたくさんの複製の写真がみられるが、これは桃の木を描いたものなのだ。「ハタンキョウ」の花を描いたものは「アーモンドの木の枝」として検索される。こちらは弟テオに子どもが生まれたことを祝福して描いたもののようだ。桃もすももも「ハタンキョウ」と呼ばれることがあるようだから、あまりこだわる必要はないかもしれないが。それでも「桃_もも」と「ハタンキョウ」では語感も字面もかなりちがうので、作者大江は意図的に「ハタンキョウ」という硬質の語感をもつ言葉を選んだのだろう。

 桃の木を描いた絵もアーモンドの木の枝を描いたものも、どちらも非常に美しい絵だと思うが、死者を悼む前者が春のおとづれを告げるように満開の花をつけた木を描いて華やかな印象を受けるのにたいして、新しい命の誕生を祝福する後者は、青い背景に白っぽく見える(経年変化で褪色したのかもしれないが)花をつけた枝が縁取りで描かれ、何か澄明な趣である。こちらはゴッホの最晩年にプロヴァンスの精神病院で制作したもののようである。  

 犀吉の五畳の部屋に画鋲で止めてあったのは、まちがいなく(日本でいう)桃あるいはすももの花の絵だったと思われる。画面右側に黄色っぽい柵のようなものが描かれ、中央に満開の花をつけた大きな木が立っている。後方に小さく同じような木が列をなして続いているようなので、これは果樹園の桃の木なのだろう。そして、さらによく見ると、中央の木はじつは二本あるようだ。二本の木が寄り添うように立っていて、後ろの木が前の木の二股に分かれた間から枝を差し入れているように見える。

 『日常生活の冒険』は、ナセル義勇軍の集いでの「ぼく」と犀吉の出会いから空港での別れまで、さまざまなエピソードが綴られるが、ゴッホの絵に言及される場面はその中でもとりわけ印象的である。モラリスト犀吉はいつも論理の鎧でタフネスをよそおっているが、この「花咲ける木」を前にして脆いほど素直に真情を吐露する。「ぼく」はそれを受けて「センチメンタル」になってしまう。最後の空港の別れの場面など「ぼく」は犀吉への憐憫の情で涙ぐんでしまいそうになった、と書かれる。「モーヴの思い出のために」と書き込まれた絵の中の二本の木が、死者とそれに寄り添う生者の象徴だとしたら、それはまた犀吉と「ぼく」の象徴でもあると想像することは不可能だろうか。

 ゴッホが「モーヴの思い出のために」と書き込んで二本の桃の木を描いてモーヴを悼んだように、大江健三郎は『日常生活の冒険』という「斎木犀吉」へのレクレイムをうたったのだ。「頬にも顎にも一本の髭も生えていない」十八歳の少年が、憔悴して、「惨めな苦力のように」よろめいて「ぼく」の前から姿を消すまでの七年間は、決して実際の大江健三郎と伊丹十三の人生と重なり合うものではない。大江が大学在学中から作家として注目されていたのはほぼ実生活と重なるかもしれないが、伊丹十三もまた多才な人で、「なにひとつやりとげなかった」どころか、エッセイストであり、努力して外国語を習得し、すでに国際俳優として活躍していた。この小説に描かれる斎木犀吉は、伊丹十三に身をかりた、大江の歌う「青春挽歌」の主人公である。

 同年に出版され、この小説とまったく作風の異なる『個人的な体験』との関係についても書きたかったのですが、力及ばずでした。故意か偶然か、というよりたぶん意図的に『日常生活の冒険』の魅力的な少女妻「卑弥子」と『個人的な体験』の成熟したヒロイン「火見子」は同じ「ひみこ」で、どちらも愛するひとに裏切られます。斎木犀吉は卑弥子を裏切って、ある意味当然の報いを受ける結果となりますが、「鳥(バード)」は火見子を捨てて、「親」となって社会復帰します。障碍をもつ子との「共生」というテーマで『個人的な体験』の方が評価が高い風潮は、個人的には納得できない気がするのですが。

 今日もまとまりのない文章を読んでくださってありがとうございます。

2018年1月1日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか

 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
 
 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。

という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。

 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている

 私のなかで
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。

 「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
 憶良はいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。

 「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。

 話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から

 __もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。

 戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。

 ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。

 「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。

 大江健三郎という存在は何なのか。

 大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2017年10月13日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三

 前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件の経緯が、普通の感覚では容易に受け入れがたいことが、さらに大きな理由なのかもしれない。

 塙吾良の死の解明に関して作者は、彼の最後の恋人(と呼んでいいかどうか迷うのだが)シマ浦という女性をドイツから召喚する。ギー兄さんの死に関して彼の息子のギー・ジュニアをアメリカから召喚したように。かつて『取り換え子』のなかで十八歳の初々しい大柄な娘だったシマ浦は、いま「ルイズ・ブルックスのブローチの面影」と形容される成熟した女性となって長江古義人の前に現れたのだった。

 吾良とシマ浦はヨーロッパの各地で八年間にわたって逢曳を重ねた。『取り換え子』では吾良がドイツに滞在した一時期の交流だった、とされているが、この小説では、シマ浦が人妻となった後も、「宗教上の理由もあって」(これは何のことかわからない)「性器の侵入を許さない」情事を重ねる。最後の密会はジュネーヴだったという。

 大江健三郎はなぜか、「性器の侵入を許さない」行為というモチーフにこだわっているようで、『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の女優サクラさんと、彼女を保護し、後に夫となった米軍の情報将校との間でも同じ行為が繰り返されていたことが暗示されている。

 シマ浦が長江の家を訪れたのは、吾良との最後の逢曳のとき、吾良が描いたスケッチが人目にさらされることを危惧したからだった。千樫が「本当に良い絵」だというそのスケッチは、あお向けになって両肢を開いた裸婦が描かれていて、シマ浦がモデルだった。吾良はその両肢の間の「女性の身体の部分」を表現したいと言って、シマ浦をモデルに構想していた映画のカメラマンと決裂した、という。

 カメラマンとの決裂の夜、吾良は古義人のもとを訪れ、例のスケッチを見せる。そして「映像として示すことのできない一瞬の持続(なんだかT・Sエリオットの詩のようだが)の内容」を「皮膚のある部分の微妙な動きの描写でなく、それそのものが実体である言葉」として表現してほしい、と古義人に要求する。だが、古義人はその要求にこたえることはできなかった。それ以降吾良と古義人の関係は断たれたのだった。

 以上、塙吾良に関する記述は、シマ浦さんの回想と古義人の記録、千樫の証言などを織り交ぜながら続いたのだが、娘の真木に突然ノーを突きつけられる。「もう、時間がない」。こんなことを書いていていいのか、と。妹のアサからも、反原発集会の中野重治の文章の引用を例に出して、古義人はザツだ、と批判される。女たちから、このように、喫緊のことを、精確に書け、という要請を受けたという設定になっているが、おそらく長江古義人の、というより大江健三郎の内部の声の発するものだろう。

 小説の後半、妻の千樫、娘の真木、妹のアサ、そしてシマ浦を交えて、古義人に対するギー・ジュニアのインタヴューが行われる。ここで、塙吾良の死についてのあらたな事実が記録される。そのひとつは、少なくとも古義人は、吾良の死を自殺だと思っていない、ということである。これは「事故」である、と。妻の千樫も同じように考えている、というのである。『取り換え子』冒頭の録音テープに記録されたドシン(という音)は、若い頃から自殺をほのめかし続けた吾良と古義人との間の永年のゲームだった、という。「たまたま」ゲームと「事故」がシンクロしてしまった、と。死の直前の吾良の行動を、古義人はこのように説明するのである。

 強い酒を飲んで、ひとつの思いに取りつかれ、ビルの屋上から飛び降りる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そこで、ふっとひとつの翳りが頭にさして、消えずにいる間に、プロダクション事務所の自室のドアを開けばエレベーターがあって、すぐが屋上でそこに鍵がかかっていなかったとすれば、二、三歩歩いて飛び降りる。思い詰めて、というのじゃなくそういうことをしうる人間にとって、これは「自殺」ではなくて「事故」だ、と僕は考えます。

 この論理を理解できるのは『晩年様式集』の登場人物以外にいないのではないか。にもかかわらず、作者は長江古義人にこう言わせなければならなかった。

 塙吾良の死についてのもうひとつのあらたな問題は、吾良の死亡日時についての解けない謎である。ギー・ジュニアのインタヴューの席で、千樫は古義人の母が吾良の死を悼んでこう言ったというのである。

 お兄さんが痛ましいことでした。・・・・・・・・・・
 コギーはあのように親しくしていただいておりながら、吾良さんが亡くなられるのをそのまま見殺しにしたのでしょう?コギーは恩知らずですから・・・・・・申し訳ないことです。

 吾良が死んだのは一九九七年の十二月二十日、古義人の母が亡くなったのは同じ年の十二月五日のことで、先に亡くなった古義人の母が吾良の死を悼むことはありえない。だが、千樫は自分の記憶にある古義人の母の言葉を思い違いとしたくない、と言うのだ。

 ちなみに『憂い顔の童子』では、古義人の母は病院の待合室で一年前のことを蒸し返した週刊誌を見て、吾良の死を知ったことになっている。つまり、先に亡くなったのは吾良で、古義人の母は吾良の死後、少なくとも一年は生きていたことになる。また、『憂い顔の童子』では、古義人に向かって母は「吾良さんが自害されたそうですな」と、はっきり「自害」と言っている。

 それに対して、この小説では、吾良の死は「痛ましい」と悔やまれているが、「自殺」という表現は使われていない。さらに、古義人の母は、コギーは吾良が亡くなるのを見殺しにした恩知らずだと言っているのだ。古義人の母の言葉は、吾良の死に古義人が無関係ではないことを含んでいる。それは具体的にどんなことを意味するのだろう。

 古義人自身は、千樫の言葉に続いて、「僕への批判としてであれ、そしてまだ吾良が生きていたのであれ、ギー兄さんと塙吾良を結んで思い出す母親の頭は、ボケていなかったと思うよ」と言っている。(下線は筆者)「ギー兄さんと塙吾良を結ぶ」とはどういうことか?古義人の母のなかで、ギー兄さんと塙吾良は同一の存在だったのか?

 ギー兄さんと塙吾良の親縁性は、ギー・ジュニアが最初に古義人の家を訪れたときに、古義人の息子アカリのブレザーを着て現れたエピソードに示されている。真木が、ギー・ジュニアとアカリがよく似ていることを、古義人に見せるつもりでそうさせたのだという。アカリは古義人の息子だが、吾良の甥であり、ブレザーは吾良がアカリに(意図的かどうかわからないが)残したものだった。「それを着ると、アカリに吾良の面影がある」「かれ(アカリ)のために仕立てたよう」とも書かれている。ブレザーをなかだちに、吾良、アカリ、ギー・ジュニアの親縁性が展開され、さらに「長江さんと僕の父は、骨格も身ぶりも似てた、兄弟のようだったとアサさんがいっています」というギー・ジュニアの言葉もある。

  塙吾良の死についての究明を試みるつもりが、いつまでたってもその糸口さえ明らかにできない。長江古義人が、吾良の死を無茶苦茶な論理で「自殺でなく事故」だと「いいはる」のはなぜか?さらに、もっと無茶苦茶なのが、まだ死んでいない吾良を悼む言葉を死の直前の古義人の母が述べたと千樫が「いいはって」いることである。謎を解くカギは「ギー兄さんと塙吾良を結んで」という古義人の言葉にあるのだろうが、これについて、作者はこれ以上何の解説もしない。「ウソの山のアリジゴクの穴から」二枚の紙を差し出したから、真実は読者がそこから炙り出せ、といわんばかりである。

 この作品以降いまに至るまで、大江健三郎はあらたな創作は発表していないようである。『晩年様式集』は「イン・レイト・スタイル」であって「イン・ラスト・スタイル」ではないのだから、また「ウソの山」にもう一枚のウソを積み重ねてほしい、と切望している。カタストロフィーは一回的なものではないのだから。生きることはつねにカタストロフィーなのではないか。

 読み直し、書き直し、生き直す、ということ、私らが生き直す、ということについて、まだたくさん書かなければならないことはあるのですが、今回はこれが私の能力の限界のようです。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2017年9月4日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__「ウソの山のアリジゴクの穴から」

 告発者アサの告発は二つある。一つは、作家の「私」の書いてきた作品のウソについて。もう一つはギー兄さんの死の真相について。この二つは方法論と中身の問題で、つきつめれば、「ギー兄さんの死」__「塙吾良の死」の究明が目的だと思われる。

 小説のウソと本当のことについて、『憂い顔の童子』冒頭で、大江健三郎は母親の言葉として、きわめて簡潔、明瞭に述べている。

 ・・・・・・小説はウソを書くものでしょう?ウソの世界を思い描くのでしょう。そうやないのですか?ホントウのことを書き記すのは、小説よりほかのものやと思いますが・・・・・・
 ……それではなぜ、本当にあったこと、あるものとまぎらわしいところを交ぜるのか、と御不審ですか?
 それはウソに力をあたえるためでしょうが!・・・・・・・・・・・・・
 倫理の問題がある、といわれますが、それこそは、私のような歳の者が、毎朝毎晩、考えておることですよ!いつ死んでもおかしゅうない歳になった者が、このまま死んでよいものか、と考えて・・・・・・そのうち気がついてみると、これまでさんざん書いてきたウソの山に埋もれそうになっておる、ということでしょうな!小説家もその歳になれば、このまま死んでよいものか、と考えるのでしょうな。
 ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せるのでしょうか?死ぬ歳になった小説家というものも、難儀なことですな!

 なんだか大江健三郎の弁明、というかアリバイ作りの文章のようで、身も蓋もない、という感があるのだが、『晩年様式集』という作品はまさに「死ぬ歳になった小説家」が「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、差し出された一枚の紙」だろう。ホントウのことを書くのに、さらにウソを交ぜて、語りを複雑にしなければならなかったのだが。

 アサの告発あるいは糾弾はまず、「『懐かしい年への手紙』は真実、書かれたのか、というものである。アサはこう言っている。

 ・・・死んだ(殺された?)ギー兄さんをこれ幸い、『懐かしい年の島」に送り込んでしまうと、少なくとも兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて真実の手紙を書き送る事はしなかったと思う。

 『懐かしい年への手紙』は一九八七年に出版されている。みずから造った人造湖「テン窪大池」に死体となって浮き上がったギー兄さんに呼びかけた小説の末尾の文章はこうなっている。

 《ギー兄さんよ、その懐かしい年のなかの、いつまでも循環する時に生きるわれわれへ向けて、僕は幾通も幾通も、手紙を書く。この手紙に始まり、それがあなたのいなくなった現世で、僕が生の終わりまで書きつづけていくはずの、これからの仕事となろう。》

 上に引用した文章とアサの糾弾の言葉が微妙に、だが確実にくいちがっていることに気がつくだろうか。『懐かしい年への手紙』の末尾では「いつまでも循環する時に生きるわれわれへむけて」手紙を書く、といっている。だが、アサは、たんに「兄は自分の小説ではただの一度も、本当に心を込めて、真実の手紙を書き送ることはしなかった」と非難しているだけだ。「誰に向けた」手紙かには触れていないのである。普通に読めば「「懐かしい年の島」に送り込まれた」ギー兄さんにむけたものだろう。些細な違いにみえるが、ここでも巧妙なすり替えが行われているように思われる。

 そもそも「僕」が「われわれへ向けて」手紙を書く、とはどういうことを意味するのか?

 アサの糾弾は「真実の」「手紙を書いたか」というところにとどまらない。アサは、ギー兄さんの死の真相について、より直截に具体的に言えば、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念をいだいているのだ。小説後半でアサは直接「僕」に問いただす。

 ギー兄さんの遺児ギー・ジュニアが「僕」にロング・インタヴューをする、という設定で小説後半の「僕」への追及は始まる。その中心は『懐かしい年への手紙』の読み直しである。小説の前半では、ギー・ジュニアは「僕」の創作態度への疑問を提出している。『懐かしい年への手紙』でギー兄さんが試みた奇妙な自殺(未遂)と強姦について、共通のものが、二〇年前に書かれた『万延元年のフットボール』ですでに起こってしまったそれとして描かれている、というものである。それに対してはアサが「僕」の側に立って経緯を説明し、ギー・ジュニアはその説明を受け入れている。

 余談だが、「胡瓜を肛門にさしこみ」「朱色の塗料で頭と顔を塗りつぶし」「首を吊る」という、およそ現実にはあり得ないスタイルでの自殺に大江健三郎はずっとこだわっている。『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』、『同時代ゲーム』にも、自殺ではないが登場人物が「胡瓜を肛門にさしこみ」「顔を赤く塗る」行為をする。強姦という行為に関しても同様なこだわりがあるようで、主人公は不必要かつ不自然な強姦を行って(敢えて)罪をかぶるのだ。作者は、これらの「ウソの山のアリジゴクから、」どのような「本当のこと」を差し出して見せようというのか?

 ロング・インタヴューの主導権を握るのはアサである。ギー兄さんのことを理解するには「小説ではあるけれど」と断ったうえで「唯一の本」として『懐かしい年への手紙』をたどっていく。

 土地に根差した新しい生活_根拠地の運動をすすめていたギー兄さんは、おりからの反・安保デモのさなか、かつて弟子だったKの身を案じて上京し、デモにまきこまれて大怪我をする。その混乱の中から彼を救い出した女性を連れて森のへりに帰ったギー兄さんは、彼女と演劇運動を始める。だが、結果として彼女を殺してしまう事態が起こる。殺人者となったギー兄さんは罪を償って十年間獄中で過ごす。監獄から出て、しばらく日本中を放浪した後、いまは作家となったKの家に現れる。

 Kの留守中にやってきたギー兄さんは、Kの長編の草稿を読み、かつてKのテューターだった時と同じように批評を始める。批評というより批判と言ったほうがいいかもしれない。Kが「自己(セルフ)の回心(コンヴァージョン)の・死と再生(リザレクション)の物語」を書く時は熟していない、と。生業のために作家を続けなければならない、ということなら、自分と一緒に森に帰って新生活を始めよう、と誘ったのである。

 ギー兄さんの言葉を聞いたKは、執筆中の草稿を暖炉で燃やしてしまう。Kのこの行為について、その意味を「僕」に問いかけ、「僕」の本音を引き出したのはギー・ジュニアだった。「書くこと」=「書き直すこと」である「僕」が草稿を燃やしてしまったのは、書き直しが不可能だと知ったからであるが、それであれば何故ギー兄さんと一緒に森へ帰って、彼と新生活を始めなかったのか?ギー・ジュニアの問いかけに「僕」はこう答えるのだ。

 ___こちらを追い詰めて、二つにひとつを選ばせるというのじゃない、ひとつしかない選択肢を、恩賜の態度で示すわけだ。もう四十を越えているという男に。僕は憎悪とでもいうものを感じた、それを思い出すよ。そのうえで拒否した・・・・・・いや、憎悪というほかないものを抱いた

 「僕」のこの告白に鋭敏に反応したのがアサだった。「わたしのなかで意識的に押さえていた変な思い付き」の「妄想」とことわったうえで、アサは、「僕」がギー兄さんを殺したのではないか、という疑念を口にする。ギー兄さんが川を堰き止めて作った「テン窪大池」は、ギー兄さんと町の人間との対立を先鋭的なものにしていた。間にたって和解への導きを期待されて森のへりに帰った「僕」だったが、何ひとつできず東京に戻った。だが、ひそかに再び森のへりにやってきて、ギー兄さんと昔遊んだ「プレイ・チキン」というゲームをする。水中でする我慢比べだが、自分が負けるのを知っている「僕」は隠し持った「メリケン」という凶器でギー兄さんの頭を一撃し、浮かび上がる。翌朝、ギー兄さんは大池に浮かぶ。・・・

 アサの「妄想」は「僕」が持ち出した「証拠品」によって完全に否定されたのだが、この後、娘の真木が、ロング・インタヴューのパート2を始める。そこで彼女は次のように続けるのである。

 ・・・テン窪大檜の島で警察の検視があって、ギー兄さんがお酒を飲んでいたことが重く見られた。水温の低い夜更けにギー兄さんが泳ぎに出たのも普通じゃないですが、ギー兄さんには精神的に健康でない状態が続いていた。それには幾人もの証言がありました。そこで、事故が起こったと見なされました。
 今度はギー・ジュニアが、かれの父親のことですからね、その事故死とされたことについて、また別の噂があったという話を、土地の人から集めました。そのうちギー兄さんは殺されたというものが出て来たんです。

 ここまで、アサと真木の発言にそって『懐かしい年への手紙』を読み直してきたが、発表された『懐かしい年への手紙』で語られているギー兄さんの死は彼女たちの言葉とは微妙に、というよりはっきりと異なっているのだ。小説の末尾近く、こう書かれているのだ。

 死の前夜、夜明けからの大雨の中、ギー兄さんは「テン窪大池」の造成工事反対派の人間と激しい議論を交わしていた。いったん引き下がったかに見えた連中が、今度は屋敷の電話線を切って侵入し、妻のオセッチャンの抵抗をさえぎって、むりやりギー兄さんを雨のなかへ連れ出した・・・

 つまり、原作では、ギー兄さんの死は、あきらかに「テン窪大池」造成反対派の仕業だと思わせるように書いてあるのだが、この小説では、「お酒を飲んで」「泳ぎに出た」ギー兄さんを「警察が事故死」と見なした、と書かれているのだ。だが、殺された、という「噂」もある、と。しかも、「僕」の妹のアサは「僕」が殺したのではないか、と懼れていたのだと。

 この後さらに真木は「ギー・ジュニアの本来の意図」は「ギー兄さん、塙吾良、そして私の父」という失敗した知識人の研究で、かれらの晩年に共通のカタストロフィーが見て取れる、という発想で出発した、という。「長江はまだ生きているけれど、私小説的な長編はみなカタストロフィーを予感している」というギー・ジュニアの言葉も紹介している。完全にフィクションの中の人物であるギー兄さん、フィクション中の人物でありながらモデルが明らかな塙吾良、実在の作家に最も近い「私の父」が「カタストロフィー」ということばで括られている。「カタストロフィー」ということばが、たんに概念的なものでなく、具体的な実在感をもって重く響いてくるような気がする。

 カタストロフィー委員会のもう一人の対象である塙吾良についても書かなければならないのだが、すでにかなりの長文となってしまったので、続きは次回にしたい。もう少し整理した文章が書きたかったのですが、力及ばず、メモ以下になってしまいました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2017年8月16日水曜日

大江健三郎『晩年様式集』_____終活ノートの告白その1_「三・一一」とは何か

 「イン・レイト・スタイル」とルビが振られたこの小説について、何か月も何も書けないでいる。ひとえに私が怠惰なためである。これを書こう、という意欲がどうしても湧きあがらないのだ。言い訳じみたことをいえば、読後感が散漫なのである。もっといえば、「物語」が語られないのだ。いくつかの、非常に重要な事柄は存在するが、それは「物語」になっていない。「事実の告白」として作品中に提示されているだけなのだ。だから、読者としての興味、関心は作品世界の中に見出すことができなくて、作品世界の外側にある事実に向かってしまう。それが作者のもくろみなのかもしれないが。

 読後感が散漫な印象を与える理由のひとつに、作中「書き手」(語り手ではない)が三人存在するということがあると思う。作家の「私」、妹の「アサ」、娘の「真木」がそれぞれの文章を書き、パソコンで活字化したものを綴じ合わせ編集し、私家版の雑誌として「晩年様式集」とタイトルをつけた、と「前口上」に書かれている。書かれている事柄の時系列が前後したり、書き手の感情がもつれたりして錯綜して、かなり読みにくい。妹のアサと娘の真木は総じて作家の「私」に批判的である。とくにアサの「告発」が私の「告白」を余儀なくさせる結果となる。前作『水死』では、フィクサー・アサの役割が際立っていたが、今回は「告発者・アサ」として、重要な役割を果たすことになる。

 アサのアシスタントとしてアメリカから召喚されるのが『懐かしい年への手紙』の主人公「ギー兄さん」の遺児ギー・ジュニアである。ギー・ジュニアは、ギー兄さんの不可解な死の後、その遺産を相続した母の「オセッチャン」とともに幼少時アメリカに渡り、そこで教育を受ける。長じてTVのプロデューサーとなった彼は「カタストロフィ委員会」なるものを立ち上げ、「三・一一」直後の日本を訪れるのである。

 ところで、素人の本読みとして、あえて言わせてもらえば、この作品におけるギー・ジュニア(それから母親のオセッチャンも)の生育歴とキャラクターは『燃え上がる緑の木』や『宙返り』のそれと矛盾するところが多すぎるのではないか。前二作の「ギー」は知能犯的悪童であり、不良少年である。その彼が、申し分ない知性と教養、語学力を持ち、「私」の家族をサポートする。そのことによって、「私」の告白を引き出す役割を果たす、という次第はプロットの展開に必要ではあっても、ご都合主義すぎるように思われるのだが。

 そもそも「三・一一」とは何だったのか。それはこの作品における「三・一一」の意味であるとか、作家の「私」にとっての転機であるとかをこえて、いまに続く決定的な出来事の意味を問うことである。日本にとっても、世界にとっても。作家の「私」は、「三・一一後」に、それまで書いていた長編小説に興味を失った、と記している。ところが、私には、作家の「私」にとって、「三・一一後」が何であるか、あるいはあったのか、わからないのである。

 小説の冒頭、「三・一一後」福島に急行したNHKの取材チームによる特集番組が紹介されている。避難指示が出ている村落に一軒だけ残っている家がある。出産間近の馬がいて避難するわけにはいかない。取材したチームのプロデューサーは、翌日仔馬が生まれたことを家の主人から聞く。だが、仔馬を草原で走らせてやることはできない、とも。放射能雨で汚染されているから。

 この映像を見て「私」は泣くのだ。ここまでは、自然な感情の流れとしてすんなり読むことができる。?となるのはその後ダンテの『神曲』「地獄篇」の一節を引用する部分からである。原文に続いて、寿岳文章の訳が記されている。少し長くなるが訳とそれに続く本文を引用してみたい。

 「よっておぬしには了解できよう。未来の扉がとざされるや否や、わしらの知識は悉く死物となりはててしまふことが」
 私はあの時、いま階段の踊り場で哀れな泣き声を自分にあげさせたものが(それはこれまで味わったことのない、新種の恐怖によっての、おいつめられた泣き声であって)、TVの画像という「言葉」で、いま現在の、そこの状態について、どんな物証もなく、知識もない私に告げられた真実によってだった、とさとった。もう私らの「未来の扉」はとざされたのだ、そして自分らの知識は(とくに私らの知識は何というほどのこともなかったが、ともかく)悉く死んでしまったのだ・・・・・・

 生まれた仔馬を草原で走らせてやることができない、という飼い主の言葉は仔馬のみならず、人間を含むあらゆる生物にとって、すこやかな生を脅かすとてつもないことが起こってしまったことを意味する。だが、「私」は直接的な生存の恐怖に対して、というよりむしろ「知識の死物化」に対して悲嘆にくれた、というのだ。どこか感情のボタンが掛けちがえられていないだろうか。

 放射能の汚染による生存の恐怖は障害をもつ息子のアカリの思いとして表現されている。「私」が若い時に書いた『空の怪物アグイー』という小説の中で殺された赤んぼうアグイーが、なぜかアカリにとって何より大事な存在として、再び登場する。アカリは空に浮かぶアグイーを放射能の汚染から何としても守らなければならないと思っているという設定になっている。「三・一一」とアグイーの再登場はどんな関係があるのだろうか。

 『晩年様式集』という小説中に召喚されるのは『空の怪物アグイー』だけではない。最も重要なものは『懐かしい年への手紙』の世界であり、その主人公のギー兄さんである。ギー兄さんとはどのような存在であったのか。そしてもう一人再登場するのが『取り換え子」の塙吾良だ。ギー兄さんについて、塙吾良について、『懐かしい年への手紙』、『取り換え子』の世界を承継しながら、最後はひっくりかえす、その作業をするためにこの小説は書かれたのではないかと思うのだが、長くなるので具体的な検討は次回にしたい。

 書かなければ読んだという事実さえないのと同じことになってしまうので、ともかくも書いてみました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。  

2017年2月20日月曜日

大江健三郎『ピンチランナー調書』___権力の「両建て構造」を暴露する__核と革命と天皇

 今世紀に入ってから「イデオロギー」という言葉は死語になったかの感がある。「左翼」「革新」も同様。「革新」は技術の分野で使われるが、「左翼」は使われるとすれば嘲弄の対象となることがほとんどである。それに対して、かつて「反動」の定冠詞であった「保守」は、いまは肯定的なニュアンスで使われる。時代は確実に変わってしまったのだ。

 おそらくその分岐点は一九六八年の「パリ五月革命」だろう。日本でも、学生に始まり労働者を巻き込んでピークに達した革命運動は、これ以降セクト間の対立が激化、闘争を繰り返して、一般民衆の支持を失っていく。テレビにくぎ付けで「あさま山荘」の銃撃戦を見ていた人々は、その後に明らかになった連合赤軍の酸鼻を極める実情に衝撃を受ける。「政治の季節」は急速に終息に向かった。

 この間一九六七年に『万延元年のフットボール』を発表してから、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』、『洪水はわが魂に及び』と、いわば正攻法で時代と向き合ってきた大江健三郎は、一九七六年一転スラップスティック・コメディ『ピンチランナー調書』を書き上げる。愉快、痛快、奇々怪々なこの小説は、しかし、スピーディな語り口とうらはらに、複雑で精妙な仕掛けがほどこされている。

 物語の語り手は作家の「僕」である。同時に、かつて原子力発電所の職員で核燃料輸送中に被爆した「もと技師」である。作家の「僕」は「幻の書き手(ゴースト・ライター)」として「もと技師」の「いいはる」言葉を書き付けるのだ。作家の「僕」と「もと技師」は、ともに「われわれの子供」と呼ばれる障害児の父で、出身大学も同じである。『さようなら、私の本よ』でいうスゥード・カップルなのだ。

  この小説にはもう一組のスウィード・カップルが存在する。「もと技師」と彼の子供「森」_moriである。小説の導入部以降「もと技師」は「森・父」と呼ばれるのだが、彼と「森」は物語の途中で、彼が二十歳若くなり、「森」が二十歳年をとるという「転換」が起こって、十八歳と二十八歳の「父・子」になった、と書かれている(そのように森・父がいいはっている)。そして、「転換」前は他者の「鸚鵡返し」の言葉のみ話していた森の肉声は一切記述されなくなり、森・父が彼の内奥の声を代弁する。

 一方、このように二重、三重に複雑化した話法とうらはらに、この作品で語られた内容は、大江のこれ以降の作品に比べると、よほどシンプルである。語りの複雑さ、それでいてスピーディで波乱に富んだプロットの展開は、内容の直截さをカモフラージュするための仕掛けではないかと思われるのだ。これは権力の支配構造を具体的かつ論理的に解き明かした小説である。権力はどのように民衆を支配するか。その根本は民衆を分断、対立させることにある。作中の言葉を使っていえば「右手のしていることを左手に知らせない」あるいはもっとグロテスクに「右手と左手を血みどろになるまで戦わせる」とも。

 プロットの展開にしたがえば、被爆したもと技師は、あるとき、八歳の息子を「教育のため」殴り続け、そのことをとがめた妻に頬を切られ、「眠っている自分の肉体を、まるごと表と裏、引っくり返すように過酷なことが仕掛けられる」という眠りを眠る。そして目覚めたら、8+20=28 38-20=18 という「転換」が起こっていたのである。

 「転換」して二十八歳になった森と十八歳になった森・父は、被爆して休職中の森・父に世界各地の核情報を提供させ報酬として原発の手当以上の金銭を与えた「大物A氏」を倒すべく立ち上がる。「大物A氏」こそ、革命派とそれに対立する反・革命派の両方に核爆弾をつくる資金を与え、核の恐怖によって民衆をコントロールしようとした権力だった。

 「大物A氏」は、『万延元年のフットボール』の「スーパーマーケットの天皇」、『洪水はわが魂に及び』の「怪(ケ)」の系譜に連なる存在で、モデルは誰でも容易に思いつくことができる人物だろう。興味のある方は以前に投稿した『万延元年のフットボール』の「「谷間の森とスーパーマーケットの天皇」でスーパーマーケットの天皇の容貌が描写された部分を参照されたい。この作品中では、森と森・父を「反・革命のゴロツキ集団」の暴力から救出した「ヤマメ軍団」の中年男のことばとして、「大物A氏」が敗戦直前の上海で軍の附属機関で中国の対知識人工作の役割をになっていたが、軍用機で上海から金、銀、ダイヤモンドを広島に運んで、原爆に遭い、仲間は全滅して資産と「大物A氏」だけが助かったという経歴が語られる。

 広島の原爆体験こそ、「大物A氏」の権力支配の原点となった。彼は原爆を倫理の問題としてとらえなかった。原爆がもたらす極限の状況とその流動化のプロセスを検証して、自らの権力把握のシュミレーションを何通りにも組み立てたのである。その上で、「革命」を軸に対立する集団の両方に原爆製造の資金を提供した。「ヤマメ軍団」までも「大物A氏」とはかかわりがあったのである。

 森の一撃で頭部に重傷を負った「大物A氏」_病室での描写では「親方(パトロン)と呼ばれる_は、末期の癌が見つかり死期が迫っている。彼は森・父と森父子を病室に招き入れ、彼らに五億円の現金を渡して原爆の完成を促す工作を依頼する。対立する党派をひとつにして、工場施設と核燃料を統合すれば四、五週のうちに原爆は完成するという。その段階で、公安と「大物A氏」の合同指揮で、原爆密造人たちは一網打尽、となる。こうして、核の恐怖から全都民と天皇ファミリーを救った「大物A氏」は孤独で醜悪な癌死ではなく、国家的ヒーローとして栄光の死を遂げる。日本人すべての「親方(パトロン)」となる。

 「大物A氏」の野望は、宇宙的使命を帯びて転換した(といいはられる)森・父と森の闘いで潰える。森は「親方(パトロン)」の頭を滅多撃ちに撃ってかち割り、五億円の入ったボストン・バッグを持って、折から燃え盛る山車の炎の中にダイビングする。

 余談だが、この小説が書かれてから三十五年後の日本に何が起こったのだろうか。日本に原爆が私有されているのと、日本で原発が爆発したのと、どちらが恐ろしいだろうか。「原爆が私有されていて、使用されていない」のと、「原発が爆発して、その結果どのような状況になっているかがわからない」のと。どのような状況になっているか、様々な情報があふれているが、私たちには判断するすべがないのである。私たちができることは、あの時メディアがどのような情報を流したか、あるいは流さなかったかを検証し続けることだけである。

 『ピンチ・ランナー調書』には、「革命という殺し合い」がどのような一見もっともらしい理論で組み立てられていくか、そして、その資金はどこから出てくるのか、極めてシンプルに語られている。シンプルすぎるくらいである。シンプルであるがゆえに、これは歴史の真理ではないかと思われてくる。洋の東西を問わず、「革命」は「戦争」より多くの人間を殺してきたのではなかったか。そうして、「革命」の後に出てきたものは何だったか。

 この小説には森父子と「大物A氏」のほかにも実に魅力的な人物が複数登場するのですが、力不足でそれらについて触れることができませんでした。それにしても、「大物A氏」のモデルと思われる人間がまだ存命中にこの作品が発表された、ということにブラック・ユーモア以上のものを感じてしまうのですが。

 今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2016年12月30日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』___『懐かしい年への手紙』を読み直す___ギー兄さん、塙吾良、伊丹十三

 少し体調を崩していたこともあって、『晩年様式集』についていつまでも書けないでいる。ひとつには、これが大江健三郎の「最新」の作品なので、それについて書くことが私の大江健三郎論の総括、のようになってしまうことを怖れる意識がはたらくのかもしれない。

 『晩年様式集』というタイトルからうかがわれるように、この小説は一見小説らしくない構成をとっている。冒頭「前口上として」と、序文のような文章が置かれているが、そこには、大江健三郎とも「長江古義人」ともさだかでない「私」が登場して、これから読まれる文章が、「私」と「私」に「一面的な描き方で小説に書かれたことに不満を抱いている」三人の女たち__古義人の妹アサ、妻の千樫、娘の真木合計四人の「ノート」であり、私家版の雑誌である、と書かれている。この小説には語り手が、というより書き手が四人いることになる。もちろん、そんなはずはなく、すべて作者大江健三郎が書いているのだが、書かれている事柄の時系列が錯綜することもあって、かなり読みにくい。何故こんな「様式」にしたのか。

 実はもう一人、語り手、というか狂言廻しというか、プロットの展開を進める上で重要な人物がいる。一九八七年に書かれた『懐かしい年への手紙』の主人公ギー兄さんの遺児ギー・ジュニアである。『懐かしい年への手紙』については、以前「Kちゃんによる福音書あるいは黙示録」というサブタイトルで投稿しているので、ご参照いただければありがたい。作品中でギー兄さんに子供は生まれていない。オセッチャンという若い妻が、ギー兄さんが手術で生殖能力を失う前にKちゃん(「僕」)を巻き込んで子供をつくろうとするところまでが描かれている。

 その後発表された『燃え上がる緑の木』では、オセッチャンは生まれた子供を連れて屋敷を去り、大阪で子供と生活していた、と書かれている。ところが、『晩年様式集』ではギー・ジュニアは幼いころ「森のへり」で暮らし、その後資産(ギー兄さんの遺産)を処分した母親とともにアメリカに渡った、とされている。複数の外国語に堪能で有能なプロデューサーに成長した彼は3・11の取材を機会に日本を訪れる。そして長江と『懐かしい年への手紙』と『万延元年のフットボール』をつき合わせて、ギー兄さんの人生を検証することになる。____ここまで書いて、どうしても『燃え上がる緑の木』に登場するオセッチャンの連れ子「真木雄」」のことが気になってしまう。オセッチャンの子は「真木雄」ではなかったのか?「真木雄」=「ギー・ジュニア」という等式は成り立つのか?

 『晩年様式集』という作品のメイン・テーマは『懐かしい年への手紙』の読み直しだろう。森の中に自給自足を目指す生活共同体=「根拠地」を作り、最後は神学的観照の世界に生きた、半ば神話化された、それでいて卑俗なエピソードに満ちたギー兄さんのこれまで語れなかった姿を語り、それによって「僕」とギー兄さんの関係を語りなおす。ギー兄さんの遺児であり、知的探求心が旺盛でかつ経済的基盤と実行力をもつギ-・ジュニアがインタビュアーとして「僕」の前に現れる。ギー・ジュニアとの数回にわたるインタビューの中で、「僕」は必ずしも彼の質問に的確な回答をしているとは思えないのだが、回を重ねるうちに、ギー兄さんと「僕」の知られざる関係があかるみにでることになる。それは『懐かしい年への手紙』に記されている「師匠(パトロン)」と弟子の関係を逸脱するものだった。

 ギー兄さんの直接のモデルは伊丹十三だろう。ウィキペディアには伊丹十三の本名は池内義弘で、池内家の通名は「義」であることから、祖父の強い意向により「義弘」と命名された、とある。また、『取り換え子』には、長江古義人の妻の千樫が『懐かしい年への手紙』に兄の塙吾良が出てくるので、それ以降古義人の作品を読まなくなった、と書かれている。ギー兄さん、塙吾良、そして伊丹十三は虚実入り混じった複雑なトライアングルを形成している。『晩年様式集』では、塙吾良の晩年の恋人まで登場するのだが、果たして作者大江健三郎は複雑なトライアングルを解体しようとしたのか。それともより複雑で堅固なものにしようとしたのか。

 そもそも何故この小説が「3・11フクシマ」の後に、それまで書いていた長編小説を破棄して書かれなければならなかったのか。大江健三郎の小説は、細部の描写はしつこいくらいリアルだが、まちがってもリアリズムの小説ではない。個性的な人物が登場するが、作品は彼らの「人生」を描くものではない。作品世界の中で彼らは生き生きと動き回るが、その行動は与えられた役割を逸脱することはない。『晩年様式集』においてもそれは同じように思われるのだが。

 足踏みばかりしていて、結局出来の悪い読書感想文しか書けませんでした。最後まで読んでくださってありがとうございます。
   

2016年11月9日水曜日

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー」を聴く女たち』「泳ぐ男__水のなかの「雨の木(レイン・ツリー」」___再び八十年代とは何だったか

 連作短篇集の最後の作品である。これまでの四作も不思議な小説だったが、この小説は、解釈、というより読解が拒まれているような気がする。たんに私の能力不足かもしれないが。

 年上の女が若い男を誘惑する。男はたぶん童貞で、女のあからさまな挑発と積極的な行動にひきずられて、危険な性的ゲームを続ける。作家の「僕」は、若い男のあて馬の役割を負わされ、彼と女との成り行きを見まもる。結末は、女は強姦され、扼殺される。だが、若い男は犯人ではない。犯人は「僕」と同じ大学出身の高校の英語教師だった。

 あらすじを紹介すると週刊誌の実話記事のようだが、とくに不自然ではない。人物の造型や細部の描写も、具体的でリアルである。外資系旅行会社のOLという設定の「猪之口さん」と呼ばれる女が、露悪的ともいいうるほどの挑発をしたあげく、「玉利君」という男に扼殺されるまでの経緯は委細を尽くして執拗に描写される。それはグロテスクだが、ありえないことではないだろう、と思う。問題は、「玉利君」が女を扼殺した(もしかしたらその時点では死んでいなかったのかもしれない、と思わせる記述があるのだが)後、「偶然」通りかかった「犯人」の行動と心理である。


 「犯人」は子供遊び場(なぜ「公園」という単語を使わないのか、微かな疑問を覚えるのだが)のベンチに下半身をさらけだして死んでいる(ように見える)女とその場を逃げ出した玉利君の様子から、強姦未遂であることをさとる。すると「犯人」の関心は、死んでいる女でなく、強姦未遂のまま逃げ出した玉利君に向けられるのである。このままでは玉利君は生涯を棒に振ってしまうことになる。自分は彼を救ってやろう。そのために、彼が未遂で終わった強姦を彼に代わって成就してやろう。そう思って「犯人」がそれを実行しているときに何人かの人間がやってきて懐中電灯で「犯人」を照らす。その瞬間死んだはずの女の躰が動く。「犯人」はやみくもに逃げ、追いつめられて鳩小屋によじ登り、ズボンからベルトを抜きとって首吊りジャンプをする。


 という「犯人」の行動と心理は、実は作家の「僕」の夢想とないまぜになった推測である。その推理を補強するのが、事件後初めて直接会話をかわすことになった玉利君の告白であり、「犯人」の妻である女教師のことばである。女教師は夫が露出趣味があったことを「僕」に告げるが、それよりも重要なのは、夫が「自己中心の思い込み」ではあるが、自分が犠牲になって誰かを救うことを一度決心したら、実際やり遂げる人間だったと語ったことである。

 大江健三郎の小説が不思議なのは、作品を読んでいるときは当たり前のこととして受け入れてしまう事柄が、現実に起こったら、決して受け入れられないだろう、ということである。酔って通りかかったら女が下半身剥き出しで縛られていた。身動きしないので、死んでいる、と思っただろう。そういう状態で性欲が湧くものだろうか。そんなにたやすく屍姦ができるのか。それは「犯人」の妻である女教師のいう夫の「猥褻行為」の範疇から逸脱している。

 だが、それよりも不思議なことは、屍姦という言葉にするだけでもおぞましい行為の動機が、自分が犠牲になって、強姦未遂を犯した若者を救うためである、とされていることである。そしてその行為は、「犯人」と同じ出身大学の作家の「僕」が夢想したことでもあるのだ。ここには、「犯人」と「僕」の親和性あるいは同一性がほのめかされているのだが、一方そういった親和性、同一性を打ち消すような記述もある。死の直前に「僕」の父親がいったとされることばである

 __おまえのために、他の人間が命を棄ててくれるはずはない。そういうことがありうると思ってはならない。きみが頭の良い子供だとチヤホヤされるうちに、誰かおまえよりほかの人間で、その人自身の命よりおまえの命が価値があると、そのように考えてくれる者が出てくるなどと、思ってはならない。それは人間のもっとも悪い堕落だ。・・・・・

 この父親の言葉がこの文脈で出てくることがさらに不思議である。「僕」が玉利君の身代わりになろうとしてできなかったことの説明にはまるでなっていないからだ。「僕」でなく「犯人」が身代わりになったことで玉利君は「人間のもっとも悪い堕落」に陥っていくことは確かだろうが。

 小説というものは何をどう書いてもいいのだろうが、大江健三郎の小説の書き方はどうしてもアンフェアだと思ってしまう。そもそもこの小説の冒頭にはかなりの分量で前置きがあって、「僕」がこれを書くに至った経緯が書かれているのだが、これを書いている「僕」は作家大江健三郎なのか、作品中の「僕」なのか。読み続けるうちに揺らいでくるのである。それも作者の計算通りなのだろうが。

 この作品から何を読み取ればいいのか、まるでわからない。「生き残っている者」にはdecenncyを守るくらいが関の山だと「僕」にいわれた玉利君は、「僕」に示唆されて「自分をコロス」トレーニングに集中する。玉利君はそうやってすべてを削ぎおとして、次の犯罪___猪之口さんで果たせなかった完全な強姦と扼殺にに向かって邁進している、と書いて作者は物語を閉じるのだ。この小説が「読売文学賞」なるものを受賞したという八十年代とは何だったのか。

 時間がかかった割には問題解決ができないままでした。それでもなんとか、一区切りつけて次は『晩年様式集』に向かいたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年9月20日火曜日

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー」)を聴く女たち』「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」___さかさまに立つ反核運動

 連作短篇集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第四作目。第二作「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」に登場したペニー(ペネロープ・シャオ=リン・タカヤス)が「僕」に宛てた手紙から始まる。

 亡くなった高安カッチャンが「高級コールガール」といって連れてきたペニーは、カッチャンの妻であり、なおかつ文学の研究者で、日本語が堪能な女性だった。彼女は「僕」の小説を日本語で読んで、そこに描かれた高安カッチャンがあまりに卑小で病的であるのがAWAREである、と抗議してきたのだった。高安カッチャンとペニーは、彼女の研究対象であるマルカム・ラウリーと妻のマージョリーが彼らの憧れの地であるブリッテシュ・コロンビアの漁村エリダナスでそうしたように、ハワイで至福と再生の生活をおくるはずだった。それを台無しにしたのは「僕」である、とも。

 《さようなら、私はもうあなたの友人ではないと思います。》と書いてきたペニーと「僕」はハワイで再会する。「僕」はハワイ大学の日本文学研究者が主催したシンポジウムにパネラーとして参加したのだが、日系アメリカ人と思われる聴衆に足元をすくわれるような批判を受けて立ち往生してしまった。するとそこに、ペニーが(前作と同じように)「スルリ」と現れ、理路整然と堂々たる英語で反論して「僕」の急場を救ってくれたのだ。

 その後、ペニーと「僕」は食事をともにする。彼女はカッチャンをミクロネシアの孤島に埋葬、というより散骨したことを報告し、さらに、ザッカリー・K・タカヤスというカッチャンの遺児の話をする。「ザッカリー」というファーストネームから読み取れるように、彼はカッチャンがユダヤ系の女性と結婚していた時期にもうけた息子であり、アメリカ人と再婚した母親のもとで育った。いま人気音楽グループのリーダーとなった彼は、ペニーのもとに残されていた父の膨大な草稿__それはほとんどマルカム・ラウリーの引用だった__からインスピレイションを受け、音楽を作り始める。

 お互いに一つの皿から分け合って食べる「夫婦のような」食べ方をした後、別れ際にペニーは「僕」にザッカリーのLPレコードを一枚くれる。そのジャケットの裏に書いてあったのは、「K・タカヤスのノートによる」という注釈がついていたが、ダグラス・デイのマルカム・ラウリー評伝の文章で、それ以外何もなかった。そして、ここから、ダグラス・デイの文章がほぼ二頁にわたって小説中に引用される。ダグラス・デイの文章そのものがパール・エプスタインの著書からの孫引きであるとことわっているのだが、これが、マルカム・ラウリーの作品、生涯の解説、というよりユダヤ教のカバラの解説なのである。

 以下、神の創造とセフィロト、あるいは生命の樹、その転倒である地獄機械、地獄機械によって転倒したセフィロトであるクリフォトなどの概念が説明されるのだが、ここで疑問に思うのは、この小説が発表された一九八一年の時点で、ダグラス・デイ、パール・エプスタインいやマルカム・ラウリーでさえ、一般の読者はどの程度知っていたのだろうか。私はそれらの人名はもとより、「カバラ」という固有名詞が何をあらわすのか知らず、セフィロトやクリフォトなどまったくちんぷんかんぷんであった。いまは、インターネットというものがあって、自宅である程度の検索ができるが、当時だったら、図書館に日参できる環境でなければ大江健三郎の作品を理解することはあきらめていただろう。大江健三郎はどのような読者を対象として小説を書いていたのだろうか。

 「生命の樹」の概念と地獄機械という発想はこの小説の根幹をなすものであり、マルカム・ラウリーという作家を登場させたのは、そのような形而上学的概念の具象化が目的だったのではないかと思われる。作者はこの後ハワイ在住の老婦人との交流を語り、彼女が意図した反核運動の挫折を記述する。それは同時に「僕」の挫折でもあって、その事態に対する憤怒から「僕」はワイキキの海でひたすら泳ぐことに没頭していたのだが、そこに再びペニーが現れる。日本にいるときからの計画にあったように、一緒に「雨の木(レイン・ツリー)」のある施設に行ってみようという「僕」の提案に対して、彼女は「死んだ人のことより、生きている人間のことをしよう」といって、彼女の友人のアパートに「僕」を誘う。

 友人のアパートに向かう道中、ペニーは___それは同時に死んだ高安カッチャンの言葉であったが___反核運動の無意味を語る。運動のレベルの程度にかかわらず、アメリカ人の反核運動は全て無意味で、アメリカ圏とソヴィエト圏すなわち現代文明の大半は核の大火に焼きつくされる。なぜなら、すでに地獄機械は動き始め、セフィロトの木は転倒してしまっているのだから。高安は、ニューズ・ウイークの表紙から切りぬいた原爆のキノコ雲の写真を、「転倒したセフィロトの木」と書きつけて、ラウリーの引用と一緒にノートに貼りつけていた、と。

 帰国して半年後、ペニーから写真を同封した手紙がくる。その写真には、真っ黒な基底部を残して無残に焼けつくした巨木を中央に、ペニーとアガーテ(「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」に登場するドイツ系アメリカ人)と思われる二人の女性が写っていた。手紙には、「僕」の雨の木(レイン・ツリー)」は燃えてしまった。まもなく文明圏は原爆の大火で燃えてしまうだろうが、それは世界が長年にわたって行ってきた自殺の"only a ratification"である、と書かれていた。また、自分自身は核の大火に焼かれなければならない人間だとは考えていない。核の爆弾をつくりだす文明に手を貸したことのない太平洋の島に移住して、そこに根付く「荷物(カーゴ)・カルト運動」を新しく始めるつもりだ。それは「原水爆荷物(カーゴ)・カルト運動」と呼ぶべきものである。文明圏が核の大火に焼かれれば、多くの物資が荷物(カーゴ)として太平洋に漂い出る。島の人びとはそれを拾い、何十年かして放射能が減少したら、カヌーに乗ってでかけていけばよい、とも。

 ここで述べられているペニーの思想は、作品制作時の作者大江の思想だろうか。そうであっても、なくても、いま、この時点で振り返れば、少なくとも二つの意味で、この思想は間違っていた、といわざるを得ない。「核の大火が文明圏を焼き尽くす」という黙示録的発想はわかりやすかったし、そう警鐘を鳴らすことで核戦争になにがしかの抑制力をもつと思われたかもしれない。しかし、現実には、全面的な核戦争は起こらなかった。ペニーが考えていたような二つの大きな文明圏の対立は、一方のソヴィエト圏が消滅してしまったことで、核戦争のトリガーたりえなくなった。いや、二つの大きな文明圏の対立というより端的にアメリカとソ連の冷戦構造だったが、それは権力の側の図式であって、「世界が長年にわたって行ってきた自殺の"only a ratification"」ではない。「世界」という表現で曖昧にされてしまっているが、文明圏の人々であろうが、太平洋の島々の人びとであろうが、権力の側でない庶民は「長年にわたって自殺」などしようとはしていないのだ。

しかし庶民は「長年にわたって殺されている」。全面的な核戦争は起こらなかったが、地球上のいたるところで、とくにいわゆる文明圏でない地域で、原爆より小規模な、しかし残忍な破壊力を持つ兵器によって、大量に人間は殺されている。殺された人間は、セフィロトの木に登ろうとして、掟を乱したから地獄機械のようにひっくり返ってしまい転落していったのではない。地獄機械、という言葉を使うのなら、それはあらゆる兵器を製造し、使用するように仕向ける体制そのものを指して使うべきだろう。

 いま私は小林正一という物理学者の言葉を思っている。

「神に依り頼まぬ者は必ず倒れるということを物理学者が明確に把握しなくてはいけないと思う。・・・・物理学者と技術者が国から何と言われようとも原爆の制作を拒否したら、どうしても原爆は存在しなくなるはずのものである。しかしそれには十字架を負う覚悟が必要である」
(『聖国への旅__小林正一・郁子遺稿追悼集』一九八六年九月)
『主に負われて百年___川西田鶴子文集』(二〇〇三年二月新教出版社)より

小林正一という物理学者は一九八三年九月大韓航空機撃墜事件で郁子夫人とともに亡くなったキリスト者である。

 今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年9月9日金曜日

大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー)」の首吊り男』___「自殺」という首吊りの方法

 連作短編集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第三作目で、第五作目「泳ぐ男__水の中の雨の木(レイン・ツリー)」に次ぐ長さの小説である。短編、というより短い中編といったほうがいいかもしれない。作家の「僕」が半年ほどメキシコに滞在して、当地の「学院(コレヒオ)」で客員教授をしていた時の体験に基づいて書かれている。

 内容は平易でわかりやすい。小説の発端は、帰国した「僕」が、カルロスという男が癌に冒されたという噂を聞いて、衝撃を受ける場面である。カルロスは学院で事務をとるかたわら「僕」の通訳をしてくれたペルー人で、メキシコに亡命してきた日本文学の研究者だった。彼は研究者といっても、アカデミズムよりは作家個人のゴシップに関心をよせる人物で、何より肉体的な苦痛を恐れていた。もしも癌に冒されることになったら、苦痛のきわみで苦しむよりは首を吊って死にたい、と言っていたのである。

 カルロスはまた、作家の「僕」に「首吊り」による自殺願望があることに関心を寄せていた。カルロスと「僕」は「首吊り」というキーワードでつながっていたのである。メキシコ・シティーを去るとき、「僕」はカルロスがHAIKUと呼ぶ次のような詩作を残したのだった。
 Without you,
   I would have hanged myself
   Under a bougainvillaea shrub.

 物語には、「僕」とカルロスを中心に、カルロスを脅かす彼の元妻セルラさん、大使館員を名告って「僕」の前に飄然と現れる山住さんが登場する。カルロスの共同研究者、というより実質的な研究はセルラさんが主体だったが、彼女は山住さんを使って「僕」を動かし、カルロスがセルラさんとよりを戻さなければ、亡命者の政治セクトに命を狙われる、と思い込ませようとしたのだ。だが、『僕」がカルロスとセルマさんの軋轢を心配している余裕はなくなった。日本に残してきた障害をもつ息子が、思春期の訪れにともなう失明、という事態に陥ったことがわかったのだ。

 太平洋を越えてはるか彼方の日本からかかってきた国際電話で息子の失明を知らされて、「僕」は何もできない、しない、という「退行現象」に陥ってしまう。アパートの先住者が残していった「カラヴェーラ」と呼ばれる骸骨人形に囲まれて、マンゴーだけを食べながら外の世界と隔絶して、四日間ベッドに横たわったままだった。

 「僕」と連絡がとれないのを不審に思った山住さんがアパートを訪れて、「僕」は現実に復帰したのだが、山住さんが仕切った酒宴の主人公に祭り上げられて正体もなく酔いつぶれてしまう。そればかりか、山住さんのトラブルに巻き込まれて黒服の日本人会社員の二人連れに痛めつけられ、挙句の果ては、いかがわしい曖昧宿に連れ込まれて、娼婦たちの嬲りものになる。

 というドタバタが語られ、結局「僕」は任期半ばで日本に帰ることになる。帰国にあたって学院で開いてくれたパーティの席で、カルロスは「僕」にフィチヨル・インディアンのつむぎ糸絵画を贈ってくれた。それは絵画の中央に大きな木が描かれ、なおかつ登場する人物のひとりが首を吊っているように見えるものだった。「僕」はその絵を見て、描かれている木をみずからが「雨の木(レイン・ツリー)」と呼ぶ宇宙樹としてとらえ、このような木の下で、絵に描かれているのと同じように、生涯の師匠(パトロン)の立ち合いのもとに首を吊ることができたら幸せであろう、という感想を述べた。

 それに呼応して、カルロスが言った言葉が前述のように、自分もまた同じようなことを考えている。肉体的な苦痛を何より嫌がる自分が、もし癌だとわかったら、インディアンから手にいれた、幸福感のうちに死にむかうことのできる薬草を噛んで、首を吊りたい。自殺を許さないカトリックの妻の監視を逃れて、首を吊るのによい木が生えているペルーまで同行してくれる人をさがしておきたい、というものだったのである。

 以上のように、この小説はストーリーが分かりやすく、起承転結が整っていて、よくまとまった中編小説のようにみえる。ある種の要領の良さはあるが、軽薄で享楽的な美男のカルロスと、学究的な能力は高いが容貌の醜い先妻のセルマさん、カルロスのファンクラブだが故国の体制にはっきりと批判的な亡命者の女たち、プロフェソールと呼ばれながら、事あるとエキセントリックで幼児的な対応しかできない「僕」、「オペラで不吉な情報を伝えるために舞台にあらわれる密偵めいた役どころを連想させる」山住さん、など魅力的な人物が登場する。ストーリーの展開が面白いので、すらすら読めるのだが、最後までいって、はて、この小説は何だろう?と思ってしまう。何が腑に落ちないのだろうか、と考えてみると、「僕」がカルロスに揶揄されるほど一貫して「首を吊る」ことにこだわった理由が私にはわからないのだ。

 敢えて乱暴な言い方をすれば、大江健三郎の文学のテーマは「首吊り」と「強姦」である。この二つのテーマのどちらかが取り上げられない作品はほとんどないのではないか。『万延元年のフットボール』のように、二つとも存在する作品ももちろんある。そして、とくに「首吊り」についていえば、作者の関心は、それを方法として選ぶ自殺の動機にあるのではなく、「首を吊る」という行為そのものにあるように思われる。強姦について、いま詳しく検討する余裕はないが、「不必要な強姦、あるいは不自然な強姦」がプロットの中に組み込まれることが多いように思われる。

 私は、大江健三郎が一貫して「首吊り」にこだわる理由がわからないので、後年彼が「魂のこと」にこだわり「救い主」にこだわる理由もまたわからない。「魂のこと」は小説の主題たりえるだろうか。「救い主」もまた然り。その中間の「アンチ・キリスト」なら小説の主題たりえるように思う。素人の独断と偏見だけれど。

 この小説は連作短篇集の中央に位置する作品だが、「雨の木(レインツリー)」は宇宙のメタファーというより、首吊りの木であり、前作との関連は薄いように思われる。前作に登場した高安カッチャンもペニーも登場しない。おそらくこれは、作者のメキシコ滞在の経験に基づく独立した短編(もしくは中編)を連作短篇集に組み込んだものではないか。だが、そのことが連作集にどのような意味をもつのかはよくわからない。次作「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」には再びペニーが登場し、高保カッチャンの遺児ザッカリー・K・タカヤスが人気音楽グループのリーダーとして紹介され、「雨の木(レイン・ツリー)」はセフィロトあるいはクリフォトという名の「生命の樹」としてイメージされる。

 もう少しまとまったことを書こうと思って悪戦苦闘したのですが、力及ばず、でした。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
   

2016年8月12日金曜日

大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」____「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___三角関係という宇宙モデル

 前作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」から一年十か月経って「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」が発表された。本作は、「僕」の「友人にして師匠(パトロン)というのがあっている」音楽家のTさん(これはあきらかに武満徹のことである)が作曲した「雨の木(レイン・ツリー)」の演奏を聴いて、「僕」が涙を流すところから始まる。「雨の木(レイン・ツリー)」の話を書きながら、その中では一言も触れなかった人物__高安カッチャンが常用したことばであり、、彼の存在そのものがそうであったような「悲嘆_griefとルビをふられた気分」から逃れられなかったのである。

 だが、高安カッチャンと彼の妻ペニー(正確にはペネロープ・シャオリン・タカヤス__この名前もまた様々な連想をよぶのだが)、そして「僕」の奇妙な「三角関係」がかたちづくるエピソードを語る前に、「僕」がその演奏を聴いて涙を流した「雨の木(レイン・ツリー」という曲及び「雨の木(レイン・ツリー)」そのものについて考えてみたい。

「雨の木(レイン・ツリー)」という曲は実際にユーチューブで聞くことができる。三本のトライアングルから始まり、1台のヴィブラフォンと2台のマリンバからなる演奏は、繊細にして霊妙、というほかない。この曲の楽譜のはじめに「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」中のアガーテのことばが引用されているので、直接にはその部分からインスピレーションを受けたのだと思われる。「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」では英文だが、ここでは「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」の日本語原文を書き出してみる。

  「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴を滴らせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。

 アガーテのことばは、実在する「雨の木」について説明しているようで、「僕」もそのようにうけとっているが、一方で狂人の幻想のようでもある。「雨の木(レイン・ツリー)」そのものも、前作では、ほんとうにパーティ会場となった精神病者の施設にあったかどうかも曖昧なまま小説は終わっていた。だが、本作では、アガーテのことばを媒介にして、「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」は作曲家のTと「僕」に「宇宙モデル」として共有されている。「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___私にはいまひとつ、わかった、といえないものがあるのだが、作者はこのように説明している。

 そして僕がこの小説で表現したかったものは、その「雨の木(レイン・ツリー)」の確かな幻であって、それはほかならぬこの僕にとっての、この宇宙の暗喩(メタファー)だと感じたのである。自分がそのなかにかこみこまれて存在しているあり方、そのありかた自体によって把握している、この宇宙。それがいまモデルとして、「雨の木(レイン・ツリー)」のかたちをとり、宙空にかかっているのだと。

 「確かな幻」という日本語にもどうしても異和感を覚えてしまうのだが、「この宇宙の暗喩(メタファー)」という「雨の木(レイン・ツリー」がこの後、「三角関係」に結びつけられる次第に絶句してしまう。作曲家自身が演奏の前に「僕は三角関係に興味を持っているんですよ」といったのは、演奏者が女ひとりと男二人であることの解説につながるものだったと思うが、「僕」は演奏を聴きながら、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩(メタファー)が三人の男女によって具体化されてもいると感じた、とある。三段論法的にいえば、宇宙_雨の木(レイン・ツリー)_三角関係、となる。? 「雨の木(レイン・ツリー)」という曲が「トライアングル」から始まるのも作曲のための必然だけではなかったのかもしれない。

 三角関係の一人であり、主役である高安カッチャンは「僕」の大学の同級生だった。ただの誇大妄想狂か天才か、もしかしたらその両方だったかもしれない。ハワイ大学のセミナーに参加した「僕」の前に現れた時、すでに彼は人生の敗残者のたたずまいだった。アルコールと薬物中毒で衰弱し、「外目にも見てとれる重たげな外套のような悲嘆をまといこんでいるのであった。」と書かれている。

 高安カッチャンをめぐる三角関係は二つ語られているのだが、そのどちらも「宇宙モデル」とは程遠いように思われる。ひとつは、高安カッチャンと「僕」の共通の友人であり、白血病で死んだ斎木と高安カッチャンと電鉄会社系大資本の一族の娘の話である。高安カッチャンを愛している大資本の娘を金主にして、斎木とカッチャンで大資本の「文化的前衛」として英・仏二国語の国際誌を出そうというものだった。彼はそれに「大河小説」を書いて掲載する予定でもあった。だが、高安カッチャンのいうところによれば、斎木が娘に熱中し、娘がそれをうるさがったため、計画は破綻した。次善の作として、彼と斎木と二人で娘を共有して事業を継続しようとした高安カッチャンの提案は受け入れられなかった。

 もうひとつの三角関係とは、「僕」と高安カッチャンと彼の妻ペニーの関係である。彼は泥酔してハワイの「僕」の宿舎を訪れる。妻のペニーを高級コールガールと偽って、三百ドルで「僕」に売る、という。「僕」にその気がないのを見てとった彼は、暗闇の中とはいえ、「僕」の目の前でペニーと性交しようとする。実際にしたのかもしれないが。そして、契約だから三百ドル払え、と難癖をつける。難癖をつけること自体が目的だったのかもしれない。「僕」はペニーに三百ドル渡し、高安カッチャンは、ペニーからかすめた三百ドルを最後に「僕」に返してきたのだが、それは「僕」に密輸の片棒をかつがせるというもので、「僕」を罠に嵌めたのであった。

 ハワイから帰国後ペニーから手紙がくる。ペニーは少女時代香港の空手映画の主演女優で、いまはハワイ大学の聴講生でマルカム・ラウリーの研究をしているという。アルコール症で自己破壊してしまったマルカム・ラウリーと妻のマージョリーとの関係を、自分と高安カッチャンの関係になぞらえるペニーは、日本語の文体に不安がある高安カッチャンと「僕」が合作して小説を書いてほしいと頼んできたのだった。ペニーの語る高安カッチャンの大河小説の構想とは、白血病で死んだ斎木がその妻にのみ語っていたものとまったく同じものだった。__現代世界の運命打開に責任のある秀れた男女たちが、宇宙のへりでの鷲の羽ばたきに感応して、地球上で行動をおこす、という・・・・・・

 「僕」が「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」を発表した後、ペニーから再び手紙がくる。高安カッチャンがアルコールと薬品を重ねたあげく、事故で死んだのだ。自分が彼の死に関して潔白であることを述べた上で、彼女は高安カッチャンのことばをつたえる。あの小説(「頭のいい雨の木(レインツリー)」)のアイデアは自分のものであり、「雨の木(レイン・ツリー)」の暗喩は自分のことを指すのだ、と。

 だが、ペニーは、小説中の巨大な樹木が単なる暗喩だとは思わない。実際にある「雨の木(レイン・ツリー)」の下で、その水滴の音を聞きながら、高安のことを考えていたいので、どの施設がモデルなのか教えてくれ、という。これからは、自分とプロフェッサー(と呼ばれる「僕」)だけが高安を記憶しつづけるだろう、とも書いて、「高安の小説」の鷲の羽ばたきの構想を「僕」が使うことを「許可」するのである。

 高安カッチャンをそれほどまでに信じるペニーとは何だろう。「この現代世界には私らのような女がいるのだ」というが、「私らのような女」とはどんな女なのか。狂気は高安カッチャンではなくてペニーなのか。語り手の「僕」は狂気でないのか。

 さて、この「奇妙に捩れたかたちの、いわばひずんだ球体に描いた三角形」の三角関係がいったい、どのようにして、「宇宙モデル」になるのか。「自分がそのなかにかこみこまれて存在しているありかた、そのありかた自体によって把握している、この宇宙」という「僕」の定義にしたがえば、ここに描かれている地球上の様々な、決して高尚とはいえない人間関係はそのまま「宇宙モデル」ということになろうか、とも思うのだけれど。

 思えば八十年代は「宇宙ブーム」の時代だった。すでに七十年代後半にアニメの分野で松本零士が「宇宙戦艦ヤマト」「キャプテン ハーロック」「銀河鉄道999」の連載を始め、TVドラマ化されていた。「機動戦士ガンダム」が始まったのも七九年だった。この「宇宙ブーム」についていうべきことはあるのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。ただこれらの作品が、「銀河鉄道999」を除いて、ほとんどがいわゆる「戦争もの」だったことは記憶しておきたい。

 八十年代とは何だったのか。

 相変わらず未整理な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

2016年8月4日木曜日

大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」__「80年代」とは何だったか?

 やはり今でも『晩年様式集』について書けなくて、あるいは書かないで、留保の状態を続けている。そしてもう一度、私が大江健三郎の作品を読むきっかけとなった『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』を読み直している。読み直しても、最初に読んでわからなかったことがわかるようになった、とはとてもいえないのだが。

 『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』は、五つの短編からなる連作短篇集である。昭和五五年一月号の《文學界》に「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」が発表された。以下《文學界》昭和五六年十一月号「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」、《新潮》昭和五七年一月号「雨の木(レイン・ツリー)の首吊り男」、《文學界》昭和五七年三月号「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」、《新潮》昭和五七年五月号「泳ぐ男__水のなかの「雨の木(レイン・ツリー)」とあわせて昭和五七年七月に『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』として新潮社から出版された。五つの短編は、「雨の木(レイン・ツリー)」という記号は共通しているが、その主題と方法は必ずしも同じではないようで、わかりにくさの一因はそこにあるのかもしれない。

 第一作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」は昭和五五年一月_一九八〇年の幕開けに発表された。この小説をいま、この時点で取り上げることに、何とも形容しがたい心地わるさを覚えるのだが、これは、精神病を病む人たちが起こしたミニ・クーデターの話なのである。主人公の「僕」はハワイ大学のセミナーに参加し、ある晩そのスポンサーが経営する精神病の民間治療施設で催されたパーティに招かれる。ホーキング博士を思わせる車椅子の建築家が登場し、客として招かれていたアメリカ人の詩人と論戦するのだが、実は建築家を含め、パーティの主催者側と思われていた人たちは、みな精神病の人たちだった。患者たちが看護婦と警備員を縛り、地下室に閉じ込めていたのである。暗闇の中で「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」を見に「僕」をつれ出した「アガーテ」と呼ばれるドイツ系アメリカ人もその一人だったのだ。

 「僕」が見たのはパーテイ会場の外に広がる闇を埋めつくすような巨木の板根だけだった。夜中に降った驟雨をその葉の窪みにためて、次の昼すぎまで滴らせるので「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」だとアガーテはいう。そういうことが可能な木があるのだろうか?アガーテは「雨の木(レイン・ツリー)」の板根の間に椅子を置いてそこから「馬上の少女(ア・ガール・オン・ホースバック)」と自ら題する幼女期__「本当に恐ろしい不幸なことは起こっていなかった頃」と彼女はいう___の肖像画を眺めることがあったらしいのだが。

 ここにさしだされる「雨の木(レイン・ツリー)」とは何か。次作「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」の中では「宙に架けるようにして提示した暗喩(メタファー)」としている。さらに四作目「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」では、ユダヤ教のカバラにいうセフィロトあるいはクリフォトの暗喩となるのだが、第一作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」が発表されてから二作目との間には一年十カ月の間隔がある。最初からそのような構想のもとに「雨の木(レイン・ツリー)」を提示したとは思えないのだ。

 確かなことは、「僕」が精神病の人たちが開いたパーテイ会場の「ニュー・イングランド風の古く大きい建物」__それは「はてしなく天上へ向けて上昇する構造をそなえた」と形容される__の外の暗闇が「巨きい樹木ひとつで埋められている」と思ったこと、そして、最後までその姿を見ることがなかった、と書かれていることである。それからもうひとつ、パーティの主催者が精神病の患者だったことがわかって、「僕」を含む客たちが一目散に逃げ出すときに、頭のいい「雨の木レイン・ツリー)」の方角から「およそ悲痛の情念に躰がうちがわから裂けるような、大きい叫びとしての女性の泣き声」を聞いたことである。

 大江健三郎は80年代の幕開けに、ハワイというアメリカ本土と異なる風土、歴史をもつ、しかし紛れもなくアメリカである島の狂人の家で起こった出来事を書いたのである。「雨の木(レイン・ツリー)」というより、この出来事自体が状況の「暗喩」だったのではないだろうか。パーティは島の狂人の家で開かれる。その家は「はてしなく天上へ向けて上昇する構造をそなえた」もので、住人(収容されている人)は各々個個の「位置」を割り当てられている。このことが意味する具体的な現実がどのようなものであるか、あるいはあったか、ということは未だに私のなかで揺らいだままなのだが。

 あまりに長い間書かないでいると、書くことがどうでもよくなってしまいそうで、苦しんでいます。何でもいいから書いてみた、の見本のような文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年6月23日木曜日

映画『静かな生活』伊丹十三と大江健三郎____『晩年様式集』読解の助走として

  『晩年様式集』についていつまでも考えている。

 『日常生活の冒険』の斎木犀吉、『懐かしい年への手紙』のギー兄さん、そして『取り換え子』から『晩年様式集』にいたるまでの塙吾郎、それらのモデルはあからさまに伊丹十三である。『晩年様式集』では、その三者をもう一度作品中に呼び戻し、しかもそれらの人物と長江古義人あるいはKちゃん、いや大江健三郎その人かもしれない人物との関係を「ちゃぶ台返し」にしているように見える。

 何故、3.11フクシマの後、この作品が書かれなければならなかったのか。大江健三郎はそれまで書いていた長編小説を中絶してこの小説にとりかかった、としている。3.11と『晩年様式集』との関係を探るために、ここでは、伊丹十三をモデルとする人物は作品中に登場せず、伊丹十三本人が監督、制作した映画『静かな生活』と、原作となった大江健三郎の短編集『静かな生活』を比べながら、「ちゃぶ台返し」の意味について考えてみたい。探索の手がかりをつかめる確信はないのだが。

 映画『静かな生活』は、原作の短編集をほぼ忠実になぞっているように見える。世界的に有名な作家の家族の物語である。作家の父が外国の大学に招かれ、母も同行する。脳に障害をもって生まれたイーヨーと姉のマーちゃん、弟のオーちゃんの三人が、子供たちだけで生活する。子供たちといっても、一番年下のオーちゃんが浪人生、という設定なので、イーヨーもマーちゃんもすでに成人である。

 小説も映画もイーヨーの性の目覚めが周囲に微妙な波紋を投げかけることから始まっている。性の目覚め、といっても、原作ではイーヨーは性的な話題から潔癖に遠ざかる人物として描かれ、もっぱら機能的に成熟した、というように記されている。それに対して映画では、原作にないお天気お姉さんが登場し、イーヨーは彼女にひそかに思いを寄せ、淡い失恋の痛みを味わうことを思わせる場面がある。

 映画と原作とのささいな差異は、そもそも、作家の父が招かれた大学が、原作では米カリフォルニアにあるのに対し、映画ではオーストラリアのシドニーとなっていることである。そんなに大した違いとは思われないが、なぜ、カリフォルニアではいけなかったのか。どちらも作家の「ピンチ」をのりこえるために必要な樹木のある避難場所とされているのだが。オーストラリアは、地図で見るとかたちが作家の郷里である四国に似ているからだろうか。

  それから、これも大した意味はないかもしれないが、子供たち三人が暮らす家が、映画では海が見える閑静な住宅街にある。原作は、はっきりと「成城学園前」と駅名を記しているが、「成城学園前」付近で海の見える場所はないだろう。小説もフィクションだが、映画はさらに小説をフィクショナイズしたものである、ということを象徴したのだろうか。

 映画の中で起こる出来事はおおむね原作と同じである。家に毎日水を届けに来る得体のしれない狂信者めいた男が、実は幼女を襲う連続事件の痴漢だったこと。幼女を襲っているのがイーヨーかもしれない、というマーちゃんの心配が杞憂だったこと。イーヨーが「すてご」というタイトルの曲をつくったことから、マーちゃんやKの親友でイーヨーの作曲の先生の「重藤さん」(これも映画ではなぜか「だんとうさん」となっている)が子供たちを置いて外国に行った作家のKに憤慨すること。

 その他、重藤さんの奥さんが、ポーランドの作家や詩人への弾圧に抗議するビラを来日したポーランド国家評議会議長のヤルゼンスキ氏に手渡そうとして、パニックに陥った警官に突きとばされれ、鎖骨を折る怪我をしたこと。ビラは、動けない奥さんのかわりに重藤さんとイーヨー、マーちゃん、オーちゃんの四人でレセプションのパーティ会場から退出する代表団の一行にもれなく配ったこと。満員電車の中でイーヨーが発作を起こし、女子中学生に「おちこぼれ」と罵られたこと、など。だが、ここでは、「すてご」というタイトルでイーヨーが作曲したことについて考えてみたい。

 イーヨーは、自分たち姉弟が両親から棄ててられた、という思いで「すてご」というタイトルをつけたのではなかった。マーちゃんや重藤さんはそう思ったのだが、福祉作業所の仲間が(映画ではイーヨー本人になっているが)公園清掃のとき棄てられた赤ん坊を見つけ、保護したことがイーヨーの記憶にあり、「すてごを救ける」曲をつくったのだった。その経緯を聞き出したのはイーヨーのお祖母ちゃんだった。四国の谷間の村でKちゃんの兄の葬儀があり、マーちゃんと一緒に参列したイーヨーはお祖母ちゃんとと作曲の話をしたのだ。

 この部分は原作をほぼ忠実に映像化している。お祖母ちゃんがイーヨーと話しているときに、マーちゃんはフサ叔母さん(Kちゃんの妹)から、Kちゃんが小さい頃、アシジのフランチェスコが水車小屋に現れて、すぐさま自分を連れていくのではないかと惧れた話を聞いているところも同じだ。だが、原作にあって、映画が省いたフサ叔母さんの一言が、映画と原作の決定的な違いを明らかにしている。「すてご」の由来を聞いてフサ叔母さんはこう言ったのだ。「もしこの惑星の人間みなが棄て子だったとすれば、イーヨーの作曲のあらわしているものは、なんだか壮大な規模だわねぇ!」

 映画にはイーヨー(本人)が棄て子を見つけ抱き上げているシーンがある。そのシーンの後にフサ叔母さんの前述のセリフがあったら、イーヨーは「この惑星の人間みな」を救う「壮大な規模」のヒーロー(もしくはアンチ・ヒーロー)になってしまう。伊丹十三はそういう「壮大な規模」の作品にしたくなかったのだ。

 連作短編集『静かな生活』の中で、作者の大江がかなりの頁をさいてこだわっているのが、「キリスト」、というよりむしろ「アンチ・キリスト」の問題である。映画『案内人(ストーカー)』(原作はストロガツスキー兄弟の『道傍のピクニック』)、エンデの『モモ』、『はてしない物語』、セリーヌの『リゴドン』、そしてブレイクの詩が縦横に引用される。『静かな生活』のテーマは、これ以降の作品で「魂のこと」として明確に主題としてあつかわれる「救い」__現実の日常生活の中で「救い」はどのようにもたらされるか、ではないだろうか。そして「救い」をもたらす存在は、決して誰の目にもそれとわかるヒーローではありえないということ。

 満員電車の中でイーヨーが発作を起こすシーンについていえば、映画では発作を起こしたイーヨーは一方的に庇われる存在として描かれているが、原作では、発作を起こして苦しみながらイーヨーは、マーちゃんを守ろうとして庇ったのだった。それから起こったマーちゃんの思いを大江健三郎はこのように書いている。

 そのうち、私の胸のなかに、___もしかしたらイーヨーはアンチ・キリストのように邪悪な力をひそめているかも知れない。たとえそうだったとしても、私はイーヨーについてどこまでも行こう、という不思議な決心が湧いてきたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでも私の躰をつらぬいて光が放射されるように、続けて起こって来るのはあきらかに邪悪な強い歓喜で__私はこの世界の人間のうちもう兄と自分自身のことしか考えなかったから__ひとつ向こうのフォームから出ていく特急のレールの音にまじって、ベートーベンの第九とはくらべることもできないが、やはり一種の「歓喜の歌」が聞こえるのを、自分の頭のすぐ上にあるイーヨーのふっくらした耳と一緒に、私は勇気にあふれて受けとめるようであったのだ。

 これは明らかに、『燃え上がる緑の木』のサッチャンの原型だろう。

 後半イーヨーの水泳のコーチとして登場する新井君は、『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』中の「泳ぐ男___水のなかの雨の木(レイン・ツリー)」の玉利君だろう。保険金殺人で多額の金を手にした疑いをもたれている新井君がマーちゃんを強姦しようとする。原作はその行為を、慎重に、(あるいは巧妙に?)「どこか本気か冗談かわからない、それでいて・またはそれゆえに、過剰な露骨さに誇張されたものだった」とするが、映画では新井君はあきらかに「悪い人」である。新井君にいいように嬲られているマーちゃんをイーヨーが救う。

 映画ではイーヨーとマーちゃんが力を合わせて新井君をやっつける。新井君のマンションから裸足で飛び出したマーちゃんが土砂降りの雨のなかマンションの駐車場で泣き崩れ、イーヨーがマーちゃんを支えて抱擁する。そこへ新井君がマーちゃんの帽子やバッグ、靴などを持って現れ、それらを投げ出して駆け足で戻るのだ。アンチではなくて、颯爽としたヒーロー・イーヨーの誕生である。観客は「脳に障害をもちながらも」音楽の天分に恵まれ、悪漢新井君をやっつけるイーヨーと、イーヨーに助けられたマーちゃんに感情移入してカタルシスを味わう。折からオーストラリアの母から国際電話があって、「パパがピンチを乗り越えた」という報告を受ける。メデタシ、メデタシの予定調和の世界である。

 原作はもう少し複雑である。マーちゃんは一人でマンションから飛び出し、大声で泣いた後、イーヨーを凶暴な新井君のもとに置き去りにしてしまったことに気が付いて、水泳クラブのメンバーに助けを求めに戻る。「アンズのかたちの目をした」女の子と見まがうような顔の新井君は、「マーちゃんに近づくな」と警告した重藤さんに蹴りを入れて肋骨を折ってしまう(この部分は映画と原作は同じ)ほど、徹底的にやる人なのだ。ところがそこに、イーヨーが、マーちゃんの残した荷物と傘を持った新井君に「つきそわれて」歩いて来るのだ。「大丈夫ですか?マーちゃん!私は戦いました!」とマーちゃんに声をかけるイーヨーと新井君の間には微妙な親和性がほのめかされている。

 連作短編集『静かな生活』文庫版の解説を伊丹十三が『「静かな生活」映画化について』と題して書いている。「話すように書」いたこの文章は、自己嘲弄と韜晦に満ちていて、私にとって読むのがつらいものがあった。伊丹十三は何より大江の文学の深い理解者である。饒舌をよそおった書きぶりを裏切って誠実なメッセージが直につたわってくる。

 伊丹十三は、大江がこの作品以降テーマとする「魂のこと」としてこれを映画化しなかった。映画『静かな生活』のナラティブは映画の定型を敢えて外した、と伊丹十三は書いているが、立派に定型を完成している。「この世で一番美しい魂を持ったイーヨーと、一生イーヨーに寄り添って生きて行こうと決心した二人の波瀾万丈の体験の物語』として。「品が良くて、毒があって、美しくて、見終わったときに生きるための静かな力が湧いてくるような映画」__大衆に消費されるエンターテインメントとして十分である。原作にまったくない「お天気お姉さん」まで登場させるサービス精神だ。

 私は独断と偏見の持ち主だから山田洋二の「寅さんシリーズ」が大嫌いである。だが、映画『静かな生活』はそれよりも好きになれない。私は『静かな生活』以外の伊丹十三の映画を見たことがないのだが、いったい彼は監督として何がしたかったのか。
 
 ところで、DVDを何回か見直すうちに、この映画の登場人物は、痴漢騒ぎの野次馬のおじさんまでも、ほとんどチェックの服を着ていることに気づいた。マーちゃん、重藤さん、その奥さん、オーちゃん、パパも、タータンチェック、マドラスチェック、グレンチェック、ギンガム、ダイヤ柄など、さまざまなチェックが登場する。チェックを着ないのはママと新井君だけである。イーヨーは横縞を着ていることが多いが一回だけチェックの服を着て出てくることがあったと思う。服だけでなく帽子、バッグ、水着、カーテン、クッションまでもチェックである。なんとなく気分に触ってくるものがある。

 それから、これもささいなことなのだが、映画の中で市松模様(これもチェックの一種だろうが)が、奇妙なところに使われているのに気がついた。海が見える道路のガードレールと新井君のマンションの駐車場の舗装(?)である。ガードレールは水色と白で、マンションの駐車場は黒と白である。おそらく特殊撮影なのだろうが、なぜこんなところに市松模様を使うのか。

 というわけで『晩年様式集』読解の助走どころか、準備体操にもなっていないありさまです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

2016年1月9日土曜日

大江健三郎『水死』___「をちかへり」考___「ウナイコという戦略」拾遺

 『水死』について、これ以上書くこともない、というか書けることもないのだが、一つだけ前回「ウナイコという戦略」で書き残したことを書いてみたい。『水死』のヒロイン、反・時代精神の女優ウナイコ「ウナイコ」が「ウナイコ」と呼ばれるようになったくだりで引用される古歌の解釈の問題である。

 郭公(ほととぎす)をちかへり鳴けうなゐこが打ち垂れ髪のさみだれの空   

 平安初期の三十六歌仙と呼ばれる凡河内躬恒の作。躬恒は古今集の撰者であるが、これは拾遺集に採られている。ホトトギスは、「時鳥」と書いて田植えの時を告げる鳥といわれる。梅雨の季節の到来に、今こそ鳴いて田の事を始めさせよ、の意だが、現代の語感では「をちかへり」がなかなか難解である。

 折口信夫は「若水の話」という論文の中で「をつ」について述べている。「をつ」は沖縄の言葉「すでる」と同意義であって、「すでる」が動物の変態をいう言葉だとする。蝶や鳥、蛇など胎生でない動物がいったん死んだようになって、姿を変えて活動を始める、その様子が「すでる」_「をつ」だという。古代の人はそこに「死と再生」をみた。「をつ」に「変若」という漢字をあてている論文もあったと思う。

 とすれば「郭公(ほととぎす)をちかへり鳴け」は死した郭公(ほととぎす)に生き返って鳴け、と呼ばわっているのではないか。もともと「ほととぎす」には中国の故事成語から「社宇」「蜀魂」「不如帰」などの漢字があてられることが多い。そこには田事と同時に死と再生、あるいは死者への招魂のイメージがつきまとう。大江健三郎は、その「ほととぎす」に「郭公_かっこう」の漢字を振って、「吾子、吾子」の鳴き声を連想させる。そこから「うなゐこが打ち垂れ髪の」につながっていくのだろうが、この「うなゐこが打ち垂れ髪の」がまた厄介なのだ。

「うなゐこ」が少女をいうことは確かだろうが、「うなゐ」とはどんな髪型だろう。髪をうなゐ_首すじのあたりで切ったものか、それとも首の後ろで結んだのか。大江は『水死』の作中では、首の後ろで結んだものとして書いているが、そうすると、「うなゐこが打ち垂れ髪の」がよくわからない。おそらくこの古歌では、切り下げ髪の少女をいっているのだろう。いずれにしろ「うなゐこが打ち垂れ髪の」は「さみだれの空」に懸かる序詞で意味は問わない、といえばそれまでだが、「ほととぎすをちかへり鳴け」が「うなゐこが打ち垂れ髪の」と呼応すると、死と再生、夭折した少女、のイメージが立ち昇るのだ。

 そうして、もうひとつ事を複雑にするのが、「うない」という言葉に、厳密にいえば表記は異なるが、「うなひおとめ_兎原乙女」を連想してしまうことである。「兎原乙女」は「真間の手児奈」と同じく各地にある処女塚伝説のヒロインである。美しい娘が二人の男に求愛され、どちらにも身をまかすことなく死んでしまう。処女塚伝説の系譜は大和物語から世阿弥の謡曲をへて、森鴎外の戯曲『生田川』まで続く。ここでも、「うなひおとめ」は夭折した_成女とならないで死んだ人間のイメージ、というより死者そのものなのである。

 「郭公(ほととぎす)をちかへり鳴け・・・・」の歌は複雑、重層的なイメージを喚起する。古義人の母が、孫の髪型に目をとめ、それからこの古歌に言及した、とする大江の記述は奥が深い。

 横道にそれるが、いままで私は大江の日本文学の古典に対する態度にうなづけないものがあった。和泉式部を「足の指が奇形でそのために特殊な足袋を履いていた」という伝承の主として紹介している記述を読んで、怒髪天を突いたことがあった。和泉式部こそは、平安朝といわず日本文学史上の最高の歌人、といってもよい、と私は評価している。高校時代に教科書に載っていた
        性空上人のもとへ、詠みて遣わしける
 暗きより暗き道にぞ入りぬべき はるかに照らせ山の端の月
という歌に出会ったときの衝撃はい今も忘れられない。和泉式部奇形伝説はどこの地方に存在するのか、大江に問い糾したい気持ちであった。

 「うなゐ」も「うなひ」も現代語表記では「うない_ウナイ」となるのも大江の戦略だったのだろうか。それともたんに私が深読みをしているだけなのだろうか。ともあれ、私自身が一度古典のおさらいをしてみたかったこともあって、「をちかへり」と「うない」について考えてみた。

 折口を読んで半世紀近く経つのに、昔と同じく悪戦苦闘しています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 

2015年12月21日月曜日

大江健三郎『水死』__コギーという記号とあらゆる手続きの演劇化

 大江健三郎の小説を読んで分かった、と思ったことは一度もない。分かった、と思うときがきたら、そのとき私は大江の読者でなくなるだろう。『水死』も分からない小説で、いろいろな分からなさがあるが、まずは「コギー」なる名称と存在が分からない。

 物語の始めに、古義人が賞をもらったときの記念碑に刻まれた詩(?)を紹介している。
 
 コギーを森に上らせる支度もせず
 川流れのように帰って来ない。
 雨のふらない季節の東京で、
 老年から 幼年時まで
 逆さまに 思い出している。

 最初の二行は古義人の母が作った俳句だという。まず、これからして不思議である。一九三五年生まれの古義人の母(当然母は古義人より少なくとも二十歳は年上)が息子を「コギー」と呼ぶだろうか。しかも、「コギー」は古義人のことであるが、また古義人の息子アカリのことだともいう。この後、妹のアサにも「コギー兄さん」と呼ばせているので、「コギー=古義人」を強調したかったのだろう。だが、アサはいつも古義人を「コギー兄さん」と呼ぶわけではない。

 次に「コギー」を議論の対象としたのは、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のリーダーで「長江の穴に住む人」との異名のある穴井マサオである。穴井は「コギー」を「長江さんの全小説を縦断的に脚色して、と考えている主題なんです」という。「穴井マサオ」とは、「コギー」を『水死』という小説のテーマにするために作者大江によって作品中に呼び出されたキャラクターのように思われる。「コギー』とは、穴井によれば、長江の作品中「幾つかの、別々の対象にあたえられている名前」である。それは、子供の時一緒に暮していた自分と瓜二つの子供であり、アグイーという名の死んだ赤ん坊であり、『懐かしい年への手紙』のラストに登場する幼く無垢なアカリである。

 長江が、長江だけがその実在を主張する「コギー」を「ぬいぐるみ」にして可視化し、「水死小説」に登場させようという穴井の計画は「水死小説」の破綻によって立ち消えになってしまった。「コギー」の代わりにぬいぐるみとして劇中に登場するのは、ウナイコの発案した「死んだ犬」(!)だが、これについてはまた後で検討したい。「コギー」は物語の後半、再び作品中に呼び出される。古義人の前に再び現れた穴井マサオは、古義人から去った「コギー」を取り戻す最後のチャンスが洪水下の父の出航だったという。現実には古義人は入り江に戻り、父について行くコギーを見送って、チャンスを逃してしまったのだが、彼は、古義人が「水死小説」を書くことで最後の逆転をはかると期待したのだ。

 ともにある人、癒す人、イノセントそのもの、としての「コギー」がついえて、最後に復活するのは「尸童(しどう)」、しかばねの童のモデルとして、である。谷間の森の円形劇場で「死んだ犬を投げる」公演を成功させたウナイコは東京の大劇場に出演する。そこで彼女は平家物語の建礼門院に取り憑く物の怪の「よりまし」_霊媒を演じる。ウナイコからその「よりまし」の話を聞いた古義人は「よりまし」に「尸童(しどう)」を見るが、ウナイコは「尸童(しどう)」のモデルが「コギー」だという。「コギー」はしかばねの童で、霊媒だったのか!______「水死小説」の、というより『水死』の結論はここにくるのか?

 「コギー」という「長江さんの全作品をつらぬく記号」(穴井マサオの言葉)が何を意味するのか、性急な結論はしばらく置くとして、もうひとつわからないことについて考えてみたい。それは、この作品の中で「演劇」の果たす役割は何か、ということである。ウナイコは漱石の『こころ』を題材に、観客を巻き込んだ討論劇の方法を取り入れ、討論の相手方にぬいぐるみの犬_「死んだ犬」と呼ばれる_を投げつけるという過激なパフォーマンスで喝采を浴びる。___だが、ほんとうにそんなことが、とくに中学、高校の「演劇授業」として許容されるのか?「死んだ犬を投げる」というパフォーマンスのヒントは、物語の冒頭、古義人がウナイコの質問に答えるかたちで、ラブレーの「パンタグリュエル」の説明をする中にあるのだろうが、「パンタグリュエル」ほどグロテスクかつ残酷でないにしても、どう考えても教育的でない。どころか許されない行為だろう。

 ところが、「死んだ犬を投げる」劇で成功したウナイコは、みずから企画した『メイスケ母出陣と受難』ではさらに過激な演出をする。前回のブログでも書いたが、『メイスケ母出陣』は国際的映画女優のサクラさんが直接古義人の母に取材して制作、主演した映画である。地域の一揆を指導した少年「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだ「メイスケ母」の伝承を映画化したもので、シナリオを古義人が書いた。今回はその演劇版だが、映画の最後で、サクラさんの「アー、アー」という声で暗示される強姦シーンを実際に舞台上で演じる、という。しかも、強姦されるのは、劇中のメイスケ母だけでなく、メイスケ母の衣裳を脱ぎ捨てたウナイコ自身である、という設定になっている。

 当然、このことは地域に波紋をまき起す。のみならず、かつてウナイコを強姦した元文部省の高級官僚小河を谷間の森に呼び寄せることになる。ウナイコ自身が舞台上で十七年前の強姦の場面をそのまま演じ、その相手もあきらかにされるからである。ウナイコは小河自身を舞台に引き出すことを考えていたが、出てこなければ、代役を相手に「死んだ犬を投げる」芝居をするつもりだった。小河を呼び寄せるのには、古義人も一役買っていた。ウナイコが強姦された際の血と体液のついた下着、堕胎させられた処理後の品物を、劇団「ザ・ケイヴ・マン(穴居人)」のスケ&カクが舞台上でふりかざすというコントのシナリオを書いたのは、いうまでもなく古義人だからである。

 谷間の森に呼び寄せられた元文部省の高級官僚小河は、配下の者にウナイコとアカリ、ウナイコの片腕でもある親友のリッチャンを拉致させ、大黄さんの錬成道場に軟禁する。アカリとリッチャンを人質にとって、古義人に立ち合わせ、ウナイコに上演を断念させようとしたのだ。だが、強姦ではなかった、と主張する小河は、本当にそうでなかったかどうか、十八年前の再現をしてみようというウナイコの挑発にのってしまう。ウナイコは「尸童(しどう)」_「よりまし」と化して、小河に致命的な一撃をあたえたのだ。情動にかられ再びウナイコを犯した小河は、リッチャンから報告を受けた大黄さんに銃弾二発で倒される。古義人はアサの処方した睡眠薬で深い眠りを眠り、目覚めたとき、すべては終わっていた。

 「記号」というもの、「演劇」と小説、あるいは現実との関係、について、私のなかで見えてくるものは、まだ、ほとんどない。いま、世界中でおこる出来事は瞬時に報道され、可視化される。そこでは固有名詞は記号ではないのか、出来事は地球という舞台で上演される演劇ではないのか、という妄想にかられることがある。唐突なようだが、大江健三郎は何のために小説を書くのか。「すでにあったこと」を書くのか。「これから起こること」を書くのか。『さようなら、私の本よ!』の最後で長江古義人は「徴候」を集めて残すのだ、と言っていたが。

 徹底的に能力不足、体力も不足していたのか、なんとも舌足らずな文章のままでした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年12月14日月曜日

大江健三郎『水死』___フィクサー・アサの役割と沈黙する古義人

 この小説ほど古義人の妹アサの活躍する作品はない。アサは、物語りの発端から終末まで事件の展開の節目節目に登場して、その主導権を握っていく。アサから古義人への手紙、というかたちで語り手としての役割も担っている。一方、古義人はなんら主体性なく沈黙がちで、結末の破局までなすすべもなかったようにみえる。本当になすすべもなく、何もしなかったのかはひとまず保留しておくが。

 古義人は、「赤革のトランク」を餌にアサに呼び寄せられて、四国の「森の家」に赴く。そして、古義人の作品を演劇化してきたという演劇集団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の活動と同時進行のかたちで「水死小説」の完成をめざすが、期待していた資料が得られず断念する。

 古義人の断念は十年前に亡くなった母とアサの連携プレーによるものだ。古義人の父が手のこんだ手段を用いて残した「赤革のトランク」には、古義人が「水死小説」を完成させる手がかりとなるものは何ひとつ残されていなかった。母が長い年月をかけてすべて処分してしまったのだ。母の傍らでそれを見ていたアサは、古義人が期待する資料が何も残されたいないのを知りながら、むしろ古義人に「水死小説」を断念させるために彼を「森の家」に呼び寄せたのである。

 しかし、たんに「水死小説」を断念させるのが目的ならば、母もアサも「赤革のトランク」ごと捨ててしまえばよかったのだ。そうしなかったのは、母が、穴井マサオのいう「(父を)斃れたヒーローとして書きたいもうひとつの昭和史」ではなくて、古義人が別の「水死小説」を_「あまり愚かでないお父さんのことを小説に書く日がくることを考えていた」からだ。母の遺志を実現するために、「不撓不屈」のアサはフィクサーとして八面六臂の活躍をする。

 そのうち最も重要なのが、ウナイコという反・時代精神の女優と連携し、彼女を徹頭徹尾支援することだった。ウナイコが「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」から自立して演劇活動をするために、アサは「森の家」の所有権を土地ぐるみウナイコに譲渡するよう古義人に要請し、古義人はそれを受けいれたのである。

 「水死小説」を断念した古義人は、穴井マサオに誘われて、父の水死した亀川で敗戦の日と同じように、ミョート岩の裂け目からウグイを見る。その後クロールで泳いだのが無理だったのか、古義人は大眩暈」の発作に襲われる。帰京してからもその発作は続き、さらに息子のアカリとも決定的な破局を迎えてしまう。古義人が大事にしている楽譜にアカリは好意で印にをつける。ところが、楽譜を汚されたことに激怒した古義人が、印をつけたアカリに「きみは、バカだ」と言ってしまったのだ。「水死小説」は挫折し、「斃れたヒーロー」としての父_子関係は破綻したのだが、現実の父_子の関係も破局を迎えてしまった。

 ウナイコ_アサ連合の活躍はめざましかった。ウナイコは漱石の「こころ」を朗読劇に仕立てて、中学、高校に出前授業をする。その演劇授業の集大成として谷間の中学校の円筒劇場で公演するという運びになったのは、ウナイコの実力もさることながら、「狭い谷間で、批判もいろいろある長江古義人の妹として永くやってきた」「政治的人間」のアサの根回しがあったからである。

 アサはまた、「重大な病気」が発見された古義人の妻千樫の依頼で、千樫に付き添うために上京する。アサと入れ替わるかたちで、古義人とアカリが四国の「森の家」に行くことになる。ここで重要なのは、アサが古義人を「元気づけるためのプラン」として、古義人の話し相手として「大黄さん」をさしむけたことである。

 「大黄さん」については前回「大黄さんに関する備忘録」でもふれたが、もう少し補足してみたい。本文中アサの言葉として、大黄さんとは「本来は黄さんだったのに子供としては柄が大きいので大黄さん、孤児の引揚者として作られた戸籍の名は大黄一郎、、それが気の毒だとお母さんが採集する、薬草の大黄が村での呼び名がギシギシなので、そういうておった人」と定義されている。この定義は以前『取り替え子』でも述べられていたが、何だかおかしくないだろうか。「大黄さん」より「ギシギシ」のほうが名前として「気の毒」でないか?どうでもいいことなのかもしれないが、やはり腑に落ちないのである。「ギシギシ」__「技師」「義士」あるいは「義子」__これこそ「空想」でなくて「妄想」なのだろうが。妄想ついでに「大黄さん」は「大王さん」?

 大黄さんと古義人の対話の主題はずばり「王殺し」である。古義人は「赤革のトランク」に残されていたフレイザーの『金枝篇』の講釈をする。『金枝篇』は「高知の先生」が古義人の父に貸したものだという。「高知の先生」は『金枝篇』のうち「王殺し」に関する三巻を古義人の父に貸して、政治教育をしたのである。共同体の豊饒と繁栄を失わないために、衰えの見え始めた王は倒され、倒した者が新たな王になる、という原始社会のセオリーを、古義人は「人間神を殺す」という言葉で語る。

 これに対して大黄さんは事実に即して古義人の父と古義人の行動を語る。大黄さんは、すべてを「見て」いたのだ。古義人の父が、取り巻きの将校たちの誰よりも「高知の先生」に傾倒し、本気で蹶起を考えていたこと、だが、谷間の「鞘」をそのために利用し、冒すことは断固として拒絶したこと、そして、大水の夜たった一人で転覆必至の舟で漕ぎ出していったこと、古義人は置き去りにされたこと、古義人の父の遺体を水底で発見したのも大黄さんだった。アサにみちびかれて古義人は大黄さんと向き合い、そうすることで事実と直面せざるを得なかったのである。

 アサはこの後、反・時代精神の女優ウナイコの『メイスケ母出陣』の演劇化をすすめる活動に協力して、古義人も巻き込む。『メイスケ母出陣』は『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の国際的女優サクラさんが制作、主演した映画だが、日本で公開されることはなかった。『メイスケ母出陣』の演劇化は成功するが、思いがけない(あるいは当然の)事件が起こり、事態は一挙に破局に向かう。ここでも、アサの行動は非常に重要なポイントとなる。そのことについては、古義人の状況も含めて、もう少し詳しく見ていきたいが、長くなるので、また回を改めたい。

 ここまでくるのに悪戦苦闘の連続でした。未整理な乱文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年12月5日土曜日

大江健三郎『水死』__「大黄さん」に関する備忘録

 『水死』はやはり不思議な小説である。この作品だけ読めば、起承転結整っていてスキがないようにみえるが、長江古義人シリーズの最新作としては、これまでの作品との破綻があちこちにあると思う。もちろん、これも作者大江の戦略なのだろうが。

 前回のブログ「ウナイコという戦略_『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を読み換える」でも指摘したように、『水死』は『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を確信犯的に読みかえるところから出発している。『みずから・・・』のあの人は一義的に「父」となり、語り手の「かれ」は十歳の少年となって、古義人自身と一体化している。ここまでは、重層的な作品世界の一元化、の範囲だと思うが、問題は蹶起」という事件の起こった「時」のズレである。『みずから・・・』では敗戦の翌日となっているが、『水死』では敗戦を目前にした時点、となっていて、戦争はまだ終わっていない。『みずから・・・』も『水死』もそれぞれ独立した作品なのだから、この程度のズレは問題にすべきでない、という考え方もあるだろうが、それにしても釈然としないものが残るのだ。

 水死した父の後を継いで超国家主義者の錬成道場のリーダーとなった大黄さんはこの小説で極めて重要な人物として登場するが、大黄さんとは何者か。大黄さんが初めて長江シリーズに登場したのは『取り替え子』だったと思うが、当時高校生の古義人より少なくとも五~十歳は年上で老獪、狡猾な大人として描かれていた。とすると、『水死』の時点では八十歳を超えているはずである。だが、この作品に登場する大黄さんは精悍かつ知的な老人で、八十をとうに超えた人とはどうしても思えないのだ。そもそも大黄さんは『取り替え子』では死んだことになっている。さすがに、この点にかんしては作者大江も気がひけたとみえて、道場解散に際して弟子たちが「生前葬」をして古義人にすっぽんを送った、ということにしているのだが。

 錬成道場そのもが、『憂い顔の童子』の時点で、松山の財閥に土地ごと買い取られて、あとかたもなくなったはずである。それをもう一度復活させて新たなキャラクターを大黄さんに与えたのは何故だろう。そもそも大黄さんは、古義人に、間歇的に「通風」というテロを行ってきた張本人なのである。古義人は何回も郷里の訛りのある複数の人間に押さえつけられ、足の親指に砲丸を落とされるという体験をしている。もちろん実行犯は配下の人間であるが。これは間違いなく脅迫で、その目的は、「アレ」をバラすな、ということだ。この「アレ」こそが『取り替え子』と『憂い顔の童子』の核心だった。

 『さようなら、私の本よ!』、『﨟たしアナベル・リー総毛立ち身まかりつ』にまったく登場しない大黄さんに新たなキャラクターを与えて復活させ、魅力的なヒーローとして一気に結末をつけさせたのは何故か。だが、結末、といっても、大黄さんが「赤革のトランク」でないもうひとつのやや大きなトランク_古義人の父の持ち物だった_から取り出して小河を撃った銃はどうやって入手したものか、という疑問が残されている。もしかして、それは塙吾良を囮に大黄さんの道場におびき寄せられたアメリカ兵ピーターの持っていたものではなかったのか。だとすると、問題の焦点はもう一度「アレ」に、1951・4・28の日米講和条約の時点に遡る。古義人の父の死を語る大黄さんの言葉も、それをうけて沈黙する古義人の態度も、その意味するところの揺らぎは私のなかで容易に解決されないのだ。

  今回ほど自分の非力を思い知らされたことはありませんでした。もう大江の作品について書くのはやめようかと思いましたが、まずは、書けることから書いてみよう、とメモをしたためました。最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年11月9日月曜日

大江健三郎『水死』__ウナイコという戦略__『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を読み替える

 『水死』は不思議な小説である。主人公は誰か?大江健三郎は何故この小説を書いたのか?

 十七歳の少女が強姦され堕胎をさせられる。十七年後女優になった彼女は強姦した男に復讐する。物語の縦糸はこれである。縦糸に絡む横糸として、作家長江古義人の「水死小説」がある。縦糸と横糸で織り成された作品は未完に終わった水死小説の「現実」による完成を遂げて終わる。

 さて、それで、この小説の主人公は誰か?古義人の娘真木の似姿として登場し、ウナイコとよばれる(本名はミツコ)女優、ウナイコを強姦した元文部省の高級官僚を銃殺する錬成道場の主宰者大黄さん、古義人の妹でウナイコの強力な支援者かつ隠然たるフィクサーのアサ、そして未完の水死小説を断念し、ウナイコのために「メイスケ母出陣」の脚本を書く古義人、そのいずれもそれぞれの物語を持って登場する。それぞれの物語がもつれながら絡みあい、放れ、そして最後に唐突に終わる。ここでは、小説の冒頭に颯爽と登場するウナイコについて考えてみたい。

 運河に沿った道路で転倒しかけた古義人を文字通りサポートしてくれた娘ウナイコとの出会いは、しかし偶然ではなかった。偶然にみえた出会いは、古義人の妹アサの助言により周到に準備されたものだった。以後、ウナイコと彼女の劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の仲間たちは、四国の「森の家」を根拠に古義人の「水死小説」の進行をリアルタイムで追いながら活動を始める。

 ウナイコという奇妙な名の由来はアサが語っている。古義人の娘真木が小さい頃古代の「うない(髪)」のような髪型をしていて、それがウナイコとよばれるようになった娘の髪型と同じだったこと、髪型だけでなく真木とウナイコは似ていること、そして劇団のリーダーの「穴井」_アナイとの発音も似ていることからウナイコ自身がウナイコと改名したのだという。古義人の母が教えたという古歌も引用されている。

 郭公(ほととぎす)をちかへり鳴けうなゐこが打ち垂れ髪のさみだれの空 躬恒 拾遺集

「うなゐこが打ち垂れ髪の」の部分の解釈が、私のなかでどうしても揺らぐのと、「郭公をちかへり」の「をちかへり」に、たんに「若返り」というような軽い語感におさまらないものがあって、複雑な思いがする。「をちかへる」という言葉については折口信夫がよく言及していたように記憶するのだが。

 小説の中でウナイコの果たす役割は何だろう。彼女は、穴井マサオとともに古義人の作品を演劇化する劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」のリーダーとして活動するが、次第に劇団から自立していく。その過程で、かつて古義人が書いた『みずから我が涙ぬぐいたまう日』が、ウナイコにとっても古義人にとっても読み直されていく、ということが起こる。これは非常に重要かつ複雑な転換である。

 古義人が「森の家」に帰ってまもなくの日曜日「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」が演劇版『みずから我が涙ぬぐいたまう日』のリハーサルを行う。ウナイコはベッドに横たわる(自称癌患者の)作家の幻影の少年を演じる。皇居爆撃のための飛行機を調達するために、少年の父を木車に載せ、トラックで地方都市へ向かう軍人たちは外国語の歌を合唱する。バッハのカンタータ(「マタイ受難曲」から)である。原文はドイツ語だが、少年の父はこのように訳して少年に説明する。
 
 天皇陛下ガ、オンミズカラノ手デ、ワタシノ涙ヲヌグッテクダサル、死ヨハヤク来イ、眠リノ兄弟ノ死ヨ、早ク来イ、天皇陛下ガミズカラソノ指デ、涙ヲヌグッテクダサル

 「天皇陛下、オンミズカラ」は実際は「Heiland selbst 救い主みずから」となっているのだが、ここでは、問題は訳語の違いではなく、ウナイコ扮するゴボー剣に戦闘帽の少年だけでなく、現実の古義人自身が観客席で歌い始めたことである。それも、一緒に見ていた妹のアサが「あんなに入れ込んで歌っているのを聴いたことはないよ」と言うほど熱心に。

 「ずっとずっと感性のなかに埋もれていた歌が、将校や兵隊たちに扮している「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の合唱を聴いているうちに……もしかしたら、コギー兄さんの魂のあたりによみがえったんじゃないの?」とアサは続ける。優れた音楽はある種の魔性があって、理性や経験をこえた情念で人間を囮にしてしまう。(賛美歌や聖歌を捨てきれない私はつくづくそう思う)自分自身も合唱に感動したアサは、古義人の情念が「水死小説」のベクトルとなることを恐れる。

 ウナイコもまた、実際に舞台で少年を演じながら、ドイツ語で歌う古義人を見て衝撃を受ける。そして、十七年前伯母と靖国神社に行って、日の丸と軍服軍帽に長剣をもった男を見ながら吐いてしまった、という体験を話す。実はこのとき彼女は妊娠していたのだが。

 この一連の文脈で『みずから我が涙ぬぐいたまう日』は、超国家主義者の父と父を慕う少年の物語として読まれている。だが、『みずから我が涙ぬぐいたまう日』はそのような一義的な小説だろうか。『みずから我が涙ぬぐいたまう日』については、以前「ハピィ・デイズという逆説」とサブタイトルをつけて書いているので、興味のある方はそちらを参照していただければありたい。少年の父はつねにあの人とゴシックで記され、「神話か歴史の中の、架空にちかい人物」のようだと書かれている。水中眼鏡とヘッドホーンに身をかためた主人公の作家は「かれ」と自称し、みずからの語りを「遺言代執行人」と呼ぶ妻に口述筆記させるのだが、これを叙述する文章もまた三人称なので地の文でも作家は「かれ」と呼ばれる。非常に入り組んだ複雑な構成なのだ。

 なので、当然のこととして、難解極まりない作品となっている。だが、この小説は、意表をついた出だしといい、生き生きとしたプロットの展開といい、謎だらけのまま一気呵成に最後まで読ませる魅力にあふれている。そして、私は独断と偏見で、ひそかに、この小説は、野次とヘリコプターの轟音の中で声を振り絞って演説し、死んでいった三島由紀夫へのレクレイムでありオマージュだと思っている。

 多面的重層的な『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を、超国家主義者の蹶起と殉死、そこに傾斜していく古義人の「戦後の改革を徹底して支持する教条主義とはまた別に、深くて暗いニッポン人感覚」という主題に一義化してしまった理由は、この後ウナイコが高校生対象の演劇で取り上げる漱石の「こころ」の主題と共通する要素に絞り込みたかったからだろう。時代精神と殉死、そして決して文字化されることなく語られる大逆事件___『水死』の中に突然登場する「高知の先生」が指し示す存在は何かについて考えなければならない。いうまでもないことだが、ウナイコはこれらの主題にたいして批判的である。演劇を討論の場とし、反対意見を述べる相手方に「死んだ犬を投げる」という奇妙、というよりグロテスクな方法は、彼女の批判の過激な実践の手段だった。

 ウナイコについては、これからが本論、といったところですが、長くなるので、続きはまた回を改めたいと思います。相変わらずの未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年8月20日木曜日

大江健三郎『﨟たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ』__「﨟たし」と「らうたし」のはざまに

 これは「M計画」というプロジェクトにかかわったサクラさんという国際的な映画女優と作家の「私」、そして「私」の東大の同期生で敏腕プロデュサーの「木守有(こもりたもつ)」の物語である。表題の「﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ」とは、特異な人生を生きたサクラさんを、エドガー・アラン・ポーの詩Annabel Lee にうたわれる夭折した美女のアナベル・リィになぞらえるところに由来する。物語は「私」とWhat! are you here? と呼びかける木守有との三十年ぶりの再会から始まる。以降、小説の大半は三十年前の出来事の回想である。

 「M計画」とは、実在した中世ドイツザクセンの商人ハンス・コールハースの反乱を題材に、十九世紀初頭に劇作家ハインリヒ・クライストが書いた『ミヒャエル・コールハースの運命』という作品をアメリカ、ドイツ、中南米、アジアの各国で映画化しようというものである。「M計画」の本部、という言葉が小説のなかにでてくるが、それがどのような実体をもつものかはあきらかにされない。アジア版『ミヒャエル・コールハースの運命』は韓国で制作されることになっていたが、シナリオを書く金芝河が逮捕され製作不可能となってしまう。アジア担当のプロデューサーである木守は善後策を講じるために主演女優のサクラさんと東京を訪れ、金芝河逮捕に抗議してハンスト中の「私」と東大在学以来の再会を果たす。

 サクラさんと「私」は、サクラさんが「私には本当に、本当に・・・・・・恐ろしいくらい懐かしい場所です」という松山で接点があった。「私」が高校時代出入りしていた松山のアメリカ文化センターが、サクラさんを保護していた占領軍の情報将校の職場となり、彼女も保護者とともに松山に移ってきたのである。そして「白い寛衣」を着たサクラさんは「お堀端」に横たわり、保護者の米軍情報将校が8ミリフィルムの映画「アナベル・リィ」を撮影したのだ。

 作中「アナベル・リィ」の詩は日夏耿之介の訳で引用される。だが、日夏訳はその内容、雰囲気がポーの原詩と微妙に異なっているように思われる。

 It was many and many a year ago,
     In a kingdom by the sea,
  That a maiden there lived whom you may know
    By the name of ANNABELL  LEE;
  And this maiden she lived with no other thought
     Than to love and be loved by me.

《在りし昔のことなれども
 わたの水阿(みさき)の里住みの
 あさ瀬をとめよそのよび名を
 アナベル・リィときこえしか。
 をとめひたすらこのわれと
 なまめきあひてよねんもなし》

一読して、英語圏の人でなくても初歩的な英語力があれば理解可能な原詩を、なぜこんなおどろおどろしい擬古文で訳さなければならなかったのか、素朴な疑問がわくのだが、ここでは次の二点を指摘しておきたい。

 その一は、In a kingdom by the sea というフレーズについて。このフレーズは各スタンザごとに執拗に繰り返され、この詩のキーワードであると思われるが、日夏耿之介はすべて「わたの水阿の里住みの」と訳している。In a kingdom by the sea は、「海のほとりの王国で」とkingdom をいかして訳さなければならないのではないか。

 もうひとつはshe lived with no other thought / Than to love and be loved by me を「をとめひたすらこのわれと/なまめきあひてよねんもなし」と訳すのは、もちろん誤訳ではないが、かなり脚色がある、といわざるを得ない。だが、むしろそれ故に、この詩を、そのタイトルごと頻繁に作中に引用する意味があるのかもしれない。「なまめきあひてよねんもなし」について、「私」がサクラさんの真の庇護者である柳夫人と論を交わす場面があるのだが、これはサクラさんと彼女の保護者であり、また夫となった米軍の情報将校との隠微で狡猾な関係をいっているのだと思われる。

 そもそもthe beautiful Annabel Lee を「﨟たしアナベル・リィ」と訳したのは日夏耿之助だが、「らうたし」に「﨟たし」と漢字を振ったことも日夏の戦略である(日夏以外にも使用例はあるようだが、明治以降のものである)。「らうたし」は「あどけない、いたいけな」というニュアンスの古語で、「﨟」という漢字を振られるとどうしても落ち着かないのである。そして、その落ち着きの悪さこそ、作者大江健三郎の意図したものではないか。大江は、いわば日夏の戦略に乗って、あるいは乗ったふりをして、をれを利用し尽くしたのだ。

 「﨟たけた」ということばがある。「﨟」は僧侶の出家後の年数、経験の深さを表すことばだそうで、「﨟たけた」は上品、優美などのニュアンスを含む成熟した女性の美をいうものだろう。それにたいして「らうたし」は、その使用例からみて、未熟な者、幼い者にたいする庇護の感情を含むことばのようである。「﨟たけた」美女として登場したサクラさんが、未遂に終わった「M計画」にかかわり、それが挫折する過程で、自分の存在の真実を発見する。幼くして孤児になった自分を、「らうたし」と保護してくれた米軍情報将校が、じつは残酷きわまる冒涜者だったこと、その人間との関係が彼が死ぬまで「平和に」続いていたこと、これらの真実を、なかば強制的に知らされて、サクラさんの自我は崩壊する。もともとサクラさんの自我は、精緻に構築された魔宮のなかに閉じ込められて成立していたのだが。

 三十年ぶりに日本を訪れたサクラさんは、みずから監督をつとめ、木守と「私」の三人だけで自主映画をつくる。それはもはやグローバルな「ミヒャエル・コールハースの運命」の映画化プロジェクトではなく、「私」の郷里の森に伝わる「メイスケさんの生まれ替わり」と「メイスケ母」の物語である。二度の一揆を成功に導いた「メイスケさん」と「メイスケさんの生まれ替わり」を生んだだけでなく、みずからが一揆を主導した「メイスケ母」の「口説き」は「私」の祖母が芝居に仕立て、戦後の苦境のさなかに興行した。サクラさんはその芝居を自分が座長となって「メイスケ母」を演じることで復元し、それをそのまま撮影する。郷里の森の「鞘」を舞台に、観客も演技者も女だけの野外劇場に「口説き」の果てのサクラさんの叫びがこだまする。____それは歓喜の叫びか、苦痛のそれか、それともその両方なのか。It's only movies,but movies it is! 「らうたし」アナベル・リィが「﨟たし」アナベル・リィとなった産声だろうか。

 この小説が戦後の日米関係を寓意しているのはあきらかなのだが、サクラさんと作家の「私」、そして「木守」の関係については、また回をあらためて考えてみたい。小説の最初の部分で老女となったサクラさんのいう「幼女から少女期の自分が何もわからずにやるようにいわれ・・・・・・それも恐ろしいアメリカの軍人から・・・・・・強制されて作られたもの」とは何だろう。最後の「口説き」芝居の映画化はそれへの「熟考した応答として老女の自分が企てる仕事」である、とサクラさんは言っているのだが。

 書くことも考えることも遅々として進まず、時間ばかり経ってしまいました。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2015年7月8日水曜日

陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__大江健三郎とは何か__「ミシマ問題」から炙りだされるもの

 大江健三郎の作品はどれも難解なのだが、それは、一部に言われているような文章のわかりにくさ、というような次元の問題ではない。ストーリーの起承転結が不自然で納得できない、というわけでもない。読んでいるときは立ち止まることもなく、すらすら進んで結末までいって、最後の大江節に単純な感動すら覚えてしまう。でも、それでいて、何が書かれていたか、つかめないのである。

 『さようなら!私の本よ』には何が書かれているのか?ドストエフスキーの『悪霊』、セリーヌの『夜の果てへの旅』というロバンソン小説なるテーマ、執拗に持ち出される「ミシマ」ないし「ミシマ問題」、『ゲロンチョン』および『四つの四重奏』の中から縦横に引用されるエリオットの詩、それらは一見作品の重要な要素をなすもののようでありながら、事実重要な要素なのだが、実は真相を覆い隠す、といえば言い過ぎならば、真相を複雑化するための仕組みなのではないか、という疑念をいだいている。

 そもそもこの小説が発表された二〇〇五年の時点で、何故「ミシマ」なのか。1970.11.25の三島由紀夫の死から三五年が経とうとしていた。だが、問題は過ぎ去った年月の長さではない。「楯の会」を組織して自決した三島を2001・9・11のテロと結び付けて語ることに無理があるのだ。だからこそ「ミシマ」、「タテの会」という表記が使われ、決して「三島」「楯の会」と書かれることはないのだけれど。

 作中「ミシマ」を、市谷の陸上自衛隊突入とその死という状況にしぼって登場させ、念の入ったことにその首までさらしだす。古義人と繁がミシマの異常に嫌ったという毛蟹の鍋で酒を酌み交わしているとき、アカリが二人の会話に割り込んで、「本当に背の低い人でしたよ、これくらいの人間でした。」と言って、蟹の肉片と三杯酢にまみれた掌で生首の高さを指し示す場面が挿入される。「ミシマ問題」を議論するのに、このような猟奇的な要素は必要だろうか。

 さらに、死んでしまったミシマにたいして生前「ミシマ=フォン・ゾーン計画」なるものが存在したという。これもミシマが同性愛者であるという前提のもとに夢想された計画で、地下の魔窟に集めた美少年の魅力で彼を政治的な活動から遠ざけることを目的にしたものであるとされている。「長江さんはミシマに対して、derisively に振る舞うことがある、ともシゲさんから聞いています・・・・・・」と清清が言っているが、「ミシマ問題」の取り上げ方自体がderisively であるように思われてならない。なぜ、このような取り上げ方をしなければならなかったのか。三島の政治思想が、長江古義人(必ずしも=大江健三郎ではない)とのそれと同様に「児戯に類する」という判断については、私も同感するところはあるのだが。

 ここで少し脇道にそれるようだが、市ヶ谷突入時に三島が残した檄文について考えてみたい。これを読んで、まず驚いたのが、その文章の凡庸さ、格調の低さである。これが、あの絢爛豪華な旧仮名遣いの文豪の書いたものとはにわかに信じ難い。内容も、要するに、国の腐敗、堕落は、自衛隊を「国軍」と成し得ない(アメリカの押し付けた)憲法が原因であり、前年の1969・10・21の首相訪米の際に「国軍」となる機会を失った自衛隊にクーデターを呼びかけ、みずからは死して憲法改正を成し遂げようというものである。檄文には「男の涙」、「武士の魂」、「日本の真姿」などの言葉がならぶが、これらはほんとうに「三島のことば」だろうか。軍歌を奏でて街宣車の上から市民を睥睨する人たちの文句とどこがちがうのか。

 これを、たとえば、2・26事件の青年将校の書いた「蹶起趣意書」とくらべれば、「蹶起趣意書」の、日本を取り巻く内外の危機的状況とその打開を訴えた簡潔明瞭にして緊迫感のある文章が際立ってみえる。「皇祖皇宗の神霊、冀くば照覧冥助を垂れ給はんことを。」という結語が大げさなものに感じられず、「陸軍歩兵大尉野中四郎 外 同志一同」と記された人たちのまさに死を賭した思いが伝わってくる。2・26事件の青年将校を蹶起にむけて押し出した状況の深さと拡がりは三島のそれと比較にならなかったのだろう。

 実在したかどうかわからない「ミシマの手紙」まで持ちだして死せる「ミシマ」を作品中に呼び戻し、再び1970・11・15の事件に関心を振り向ける。文学に関係のない人間でも、日本中の誰もが「三島由紀夫」に関心を集中させる原因となった「床に立った生首」を描写する。そうすることで、あの事件が何を意味するものだったのかをもう一度考えさせる。それは必ずしも一義的な正解を要求するものではない___という問題の立て方は、これまで大江健三郎が繰り返し行ってきたことである。明治維新、大逆事件、二・二六事件、1945・8・15、そして1951・4・28サンフランシスコ講和条約締結、1960・1970の安保闘争、これら日本の近現代史は大江の作品中で、何回も、ときには寓話の形で取り上げられ、その意味を問われ、また意味の再解釈がなされてきた。

 過去の出来事を、「歴史」というカテゴリーに押し込め、風化させてしまうのではなく、混沌とした事実の塊りを掘り起こして、謎は謎のまま、あるいは謎を作り出して、読者の関心を喚起する。それが大江健三郎の小説作法であるのはいうまでもないが、注意すべきは、その作業を行っているのは、これもまたいうまでもなく作者である大江健三郎であって、長江古義人ではない、ということである。『取り替え子』、「憂い顔の童子』、『さようなら、私の本よ』の三部作は、大江の作品のなかでもとりわけモデルが特定されやすく私小説風であるが、間違っても私小説ではない。「本当のこと」を書くために「ウソ」をまぜるのが私小説であるなら、「ウソ」に力をあたえるために「本当のこと」をまぜたものが大江健三郎の小説だろう。『憂い顔の童子』で古義人の母がいうように。

 だから「ミシマ」にたいして「derisivelyあるいはmockinglyに振る舞うことがある」のは「長江古義人」であって、大江健三郎ではない。三島が自死という形で完結してしまった1970・11・25のストーリーを、大江はもう一度掴みだして光をあてる。その上で、「ミシマ」の希求が絶望的に不可能であって、その不可能性が1970・11・25の時点だけでなく、いまにいたるまで不可能であり、未来永劫不可能であることを語るのだ。では、その語り部大江健三郎とは何か?何のために語るのか?語ることによって、読者をどこに導こうとするのか?これもまた『憂い顔の童子』で古義人の母が言っているのだが、「ウソの山のアリジゴクの穴から、これは本当のことやと、紙を一枚差し出して見せる」ことはあるのだろうか?

 未整理なまま投げ出してしまったような不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。