2021年5月27日木曜日

三島由紀夫『天人五衰』_近代的自我の崩壊とその先にあるもの_安永透の至福

 三島文学の総決算ともいうべきこの作品を前にして、いつまでも立ち止まっている。格調高く、象徴的で謎と寓意に満ちた文章は、あまりにも完璧で、つけいる隙がない。語られている内容は、十六歳の自尊心の強い少年が、金持ちの弁護士の養子となるが、最後に、自らのプライドを保つために自殺を計り、失明する、というそんなに珍しくもないストーリーである。実話小説風プロットの展開と、緊張感漂う文章との落差が大きいのだが、その落差が不自然に見えないのも不思議だ。

 『豊穣の海』最終巻『天人五衰』は昭和四十五年五月二日の駿河湾の描写から始まる。

 「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。五月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。」

これ以降、刻々と様相を変える海と空が、時間の推移とともに具体的かつ象徴的に叙述される。海と太陽と雲と船を描写しながら、存在と生起にについて語る冒頭数ページは『豊饒の海』の主題のすべてが含まれている、といってよいと思われるのだが、これを見ているのは作者三島ではない。本編の主人公安永透が、倍率三十倍の望遠鏡を覗いているのである。だから、

 「三羽の鳥が空の高みを、ずっと近づき合ったかと思ふと、また不規則に隔たって飛んでゆく。その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、われわれの心の中に時たま現れる似たやうな三つの思念も?」

 「沖に一瞬、一箇所だけ、白い翼のやうに白波が躍り上がって消える。あれは何の意味があるのだらう。崇高な氣まぐれでなければ、きわめて重要な合圖でなければならないもの。そのどちらでもないといふことがありうるだらうか?」

 「一つの存在。船でなくともよい。いつ現れたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに足りる。

午後三時半。駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だった。」

という箇所の三羽の鳥と白波と夏蜜柑を見たのは透だったのだ。

 安永透は十六歳。貨物船の船長をしていた父が海で死に、その後間もなく母が死んで、孤児となった。伯父のもとにひきとられた後、中学を卒業して働いている。清水港に入港してくる船を確認して、関係機関に連絡する仕事である。望遠鏡を覗くことが透の仕事だった。その透にとって、「見る」ことは、たんに存在するものを「認識する」ことではなかった。

 「見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になって、誰も見たことのない領域へまで透を連れてゆく筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものがある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自體で透明になる領域がきっとある筈だ。」

 五月の駿河湾に、翼のように躍り上がって消えた白波と、波間にふと現れてみるみる東のほうへ遠ざかった一顆の夏蜜柑の向こうに、透は何を見ただろうか。

 翌朝勤務に就いていた透は、日の出前の美しい空を眺める。朝ぼらけの雲が山脈の連なりのように見える。その上に薔薇いろの横雲が流れ、下には薄鼠色の雲が海のように堆積して、山裾には人家の点在まで想像される。

 「そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の出現を透は見た。あそこから自分は来たのだ、と透は思った。夜明けの空がたまたま垣間見せるあの国から。」

だが、薔薇いろの国土は太陽の出現を前に消える。日の出の時刻を少し過ぎて「洋紅色の、夕日のやうなメランコリックな」太陽が現れる。

 「雲の御簾ごしのその太陽は、上下を隠されて、あたかも光る唇のやうな形をしていた。洋紅の口紅を刷いた薄い皮肉な唇の冷笑が、しばらく雲間に泛んだ。唇はますますほのかになり、あるかなきかの冷笑を残して消えた。」

 透が見た「薔薇いろの幻の国土」と「御簾越しの唇の冷笑」とは何か。

 一方、本編のもう一人の主人公本多繁邦は七十六歳になっている。妻を亡くしてから一人旅に出ることが多く、日本平から三保の松原を見物した際に、海辺を逍遥して、透の仕事場の建物に目を惹かれる。そして、透が船を見張っている頃、帰宅した本多は本郷の自宅で夢を見ていた。透は決して夢を見ないが、本多はよく夢をみるのである。

 三保の松原の空に、何人もの天人が群れを成して飛んでいる。手をとりあうだけで、お互いに心に想い合うだけ、見つめ合うだけ、語り合うだけで情を遂げることができるという天人たちの交会の集いのようである。たえず白い曼陀羅華が降る中、波打ち際近くまで舞い下りてまた舞い上がる天人たちの顔に、清顕や、勲、ジン・ジャンの面影もある。とめどもない遊行の流動がしまいにはうるさく感じられ、本多の自意識を呼び覚ます。クラクションの音に脅えた屈辱の公園の覗き見を思い出したのだ。本多は夢を削ぎ落して目をさました。

 「自分はいつも見ている。もっとも神聖なものも、もっとも汚穢なものも、同じやうに。見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。」

 梅雨が始まった。本多は女友だちの久松慶子を伴って、再び三保の松原を訪れる。本多は、錦蛇のブラウスにパンタロンといういでたちの奔放な慶子にふりまわされしまうが、最後に、前回興味を覚えた透の仕事場に立ち寄る。そこで偶然、透の左脇腹に三つの黒子があるのを見つけてしまう。本多は躊躇なく透を養子にすることを決意し、タクシーの中で慶子にそれを告げる。その後、宿泊先のホテルで、清顕から始まる輪廻転生のいきさつを慶子に話した後、本多はまたしても夢を見る。いままで一度も見なかった試験の夢だった。

 本多は、清顕が背後の席にいると意識しながら、落ち着いて試験に臨んでいた。焦燥感は全くなかった。彼は目を覚ましてから、誰がこんな夢を見させたのだろう、と考え、誰かが自分を見張っていて、何事かを強いていると思った。

 「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。」

 透を養子にしようとするのは、はたして本多の主体的意志そのものだったのか。

 夏になった。八月十日の朝、透の仕事場に絹江という狂女が訪れる。絹江はいつも花を髪に挿して来たが、その容貌は「萬人が見て感じる醜さ」で「その醜さは一つの天稟」だった。そして「たえず自分の美しさを嘆いてゐた」のだった。

 狂気の原因は、失恋によるもので、失恋の相手が彼女の醜さを嘲ったのである。絹江は半年間精神病院に入っていて、退院してからは、自分が絶世の美人と決めて落ち着いた。狂気によって、自分を苦しめていた鏡を破壊し、この世の現実の見たいものだけを見、見たくないものは見ないという放れ業をやってのけたのである。彼女は、あらたに造り出した自意識を作動させ、誰も犯すことのできない「金剛不壊」の世界を築いたのだ。

 美しさ故の不安や脅えを口実に透の仕事場を訪れていた絹江だったが、今回は「透が狙われている」という。透のことをあれこれ尋ねる男が絹江の前に現れたのは今回で二度目だった。絹江と透の中が疑われていて、透を抹殺しようとしている。おそろしい力のある大金持ちの蝦蟇のやうに醜い男が狙っているのだという絹江の話をひきとって、透はそれを論理化し、補強してやる。

 自分たち純粋で美しい者を滅ぼそうと狙っている強力な存在がある。それに打ち勝つには、相手方の差し出す踏絵を踏まなければならない。服従したふりをして油断させ、相手の弱点を突き、反撃する。そのためには堅固な自尊心を保たなければならない。

 本多が「おそろしい力のある大金持ちで蝦蟇のやうに醜い男」かどうかは別として、物語の後半、透はたしかに「無抵抗に服従するふりをして、何でもいいなりになってやる」「甘い男」を演じ切ることになる。はたして、その結果絹江のいうように「あなたと私とが手をつなげば、人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすっかり晒して漂白してしまへる」ことになっただろうか。

 絹江が帰った後、透は望遠鏡で波打ち際の海を眺める。複雑、微妙に変身して砕ける波の様子を追っていたレンズが天頂へ、水平線へ、ひろい海面へ向けられた時、一瞬、一滴の波しぶきが上がる。天にも届かんばかりの「至高の断片」。何を意味するのだろうか。

 夕方五時。透は再びレンズを波打ち際に向け直す。そのとき、砕ける波に死のあらわな具現を見ていた透の望遠鏡は「見るべからざるもの」を見たのである。顎をひらいて苦しむ波の口の裡に透が見たもの、それは海中の微生物が描いた模様のようなもの、あるいは波の腹に巻き込まれながら躍っていた幾多の海綿であったかもしれない。だが、波の口腔の暗い奥に閃光が走り、別の世界が開顕されて、透はそれを、確かに一度見た場所だと思ったのである。

 透は時間を異にする世界を見たのだろうか。

 八月下旬、透は残暑の夕景を見ている。本多の養子になることが決まって、仕事場で見る最後の夏である。美しい空だった。遠近法を以って沖に連なる横雲の向こうに、白く輝く積乱雲が神のように佇んでいた。だが、その横雲が、遠近法でだんだん低くなっているのではなく、白い埴輪の兵士の群が並んでいるように見えてきて、気がつくと、積乱雲の色は健やかさを失い、神の顔は灰色の死相になった。

 『天人五衰』の象徴詩のような前半は、ここで終わる。「凍ったやうに青白い美しい顔」で「心は冷たく、愛もなく、涙もなかった」と造型される透の幸福は、存在の極限まで「見る」ことだった。「自意識」によって自分のすべてが統御されていると考えている透にとって、「見る」こと以上の自己放棄はなかったのである。透が、五月から八月へかけて、駿河湾の海と空と船の向こうに見たもの、あるいは見させられたものは何だったのか。

 夢を見ない透が見たもの、それは未生の過去に経験した出来事を示唆するものであり、また、自分の半身が属していると信じる「濃藍の領域」が告げる運命だったのではないだろうか。試験の夢から覚めた本多が覚えた感覚_「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なもの」が本多を動かしたかもしれないように、存在の向こうの「濃藍の領域」が透に働きかけていた、と言ってもよいのではないだろうか。それは、みずからのすべてが完全に自意識の支配下にあると考える透の論理を破綻させるものだが。

 世界を認識の「対象」として「認識」し、自分を世界と別個の存在として「自意識」の絶対性を確保することが近代的自我の確立であるとするなら、安永透は近代的自我を極限まで拡張させた人間として登場する。狂女の絹江は透の鏡像である。透は現実そのものの中に自我を拡張させようとしたが、絹江は現実の方を変えて透よりさらに堅牢な自我の城を築いたのだ。そして、透の自我は崩壊し、絹江の自我はすべてを手に入れたのである。

 失明した透は「見る」ことから解放され、堅牢な自我の王国の女王となった絹江の花婿となる。文字通り絹江の飾り立てる花を髪に挿して。萎えた花が散乱する室内に、やがて次の生命も誕生するという。着たきりの浴衣に垢と膩と体臭を漂わせ、頭上の華も萎れて、五衰の天人の様相を呈しながら、透は黙って座っている。

 こんなに時間が経ったのに、結局あらすじをなぞることしかできませんでした。もう少し小説的な興味を覚える後半についても書きたいと思っています。透の家庭教師の青年が語る「猫と鼠」のたとえ話と、透を自殺に追いやる久松慶子という「錦蛇のパンタロン」の女性の役割を考えてみたいと思っています。まだ時間がかかるかもしれませんが。

 今日も大変不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。