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2025年9月30日火曜日

大江健三郎『日常生活の冒険』_斎木犀吉からギー兄さんへ___『懐かしい年への手紙』の再読解にむけて

 『日常生活の冒険』について、前回よりもう少しまとまったことを書こうと思って、なかなか果たせないままの日が続いている。ひとつには身辺雑事あいついで、物理的に時間がとれないこともあるが、いつまでたっても、どこから書き始めるか、定まらないのだ。なぜか、と原因を探ってみると、たぶん、この小説が面白すぎるからではないか。以前三島由紀夫の『仮面の告白』について、「面白すぎる純文学」というタイトルで投稿したが、この『日常生活の冒険』も同様で、むしろ、こちらの方が「純文学」の重苦しいくびきから自由であるように思われる。

 面白すぎる理由の一つが、登場する人物がそれぞれ魅力的であることだと思う。冒頭死んでしまう「ぼく」の親友斎木犀吉、その最初の妻卑弥子、卑弥子から犀吉を奪った鷹子、犀吉が献身的にサポートした朝鮮人ボクサーの金泰、泣き虫から抜け目ないビジネスマンに変身した雉子彦、原爆症の発症に脅え不審死を遂げる暁、暁を殺したと信じて犀吉をつけ狙う暁の母などがリアルに生き生きと描かれる。物語の展開がスピーディで、なにより、作者が言葉を繰り出すことが楽しくてたまらない、といった趣があるのだ。もちろん、無から有をうみだす創作の苦しみは無視できないし、作者の大江自身がこの作品執筆中にある深刻な状況におかれ、身動きもできない日々が続いた、と記しているのだけれども。

 犀吉と「ぼく」の出会いは、二人が「スエズ義勇軍」に参加して、カイロに渡航しようとするところから始まる。スエズ義勇軍!そのような軍隊はほんとうに存在したのだろうか?東京の大学二年生の「ぼく」も関西の私立高校三年生の犀吉も軍隊の経験がないのはもちろんだが、渡航費用もないので、費用を無心に四国の山奥に「ぼく」の祖父を四国の山奥にたずねる。

 「頬にも顎にも一本の毛も生えていない」のに、「年寄りは若いうちに殺せ」とフランスの格言?をひいてうそぶいていた犀吉だが、実際に祖父と会うと、「あれは、長老だなあ」と感嘆し、祖父もまた犀吉を「マンホールに落ちても考えつづけている真の哲学者だ」と評価して、二人はたちまち議論に熱中する。年齢差をこえた二人の友情は祖父が愛犬南洲号の死に気落ちして亡くなるまで続くのである。

 首尾よく渡航費用は用立ててもらえたのだが、「ぼく」がハシカにかかってしまい、土蔵で隔離されている間に、二人分の旅費十万円を受け取って、犀吉だけが出発してしまう。カイロ行き義勇軍の話は中断されたので、貨物船にたのみこんで、どこか遠方の国へ、単独で。

 それから二年間、どうやら犀吉はかなり「非」日常的な冒険をしたようである。犀吉が乗り込んだのは海賊船の宝探しに行く船だったが、何者かに撃沈されて漂流した後、彼は香港の巡視船に救助される。それから九竜キャンプに収容されたが、同性愛のドイツ人によって救いだされる。ドイツ人の求愛をこばむためにずいぶん乱暴な手段をとって、何とか日本に帰ってきた犀吉だったが、もう彼から「戦争の虫」はおちていた。初夏の香港で、きれいに整えられた楽園のような庭に遊ぶ英国人の子供たちと、その傍らでぐったりと絶望している中国人の若い浮浪者を見て、自分はスエズ戦争について「跳ぶよりまえに考えたり見たりしているということに気がついていたわけなんだ」と悟ったのだ。

 ようやく「ぼく」と再会した犀吉だが、間もなく彼は姿をくらましてしまう。「セックスという命題に自分自身の意見のカードをもう一枚ふやしたかった」という理由づけで、犀吉よりさらに年少の少年と二人で一人の「ビグネーム」の女優の相手をして、その後その女優から「十万円」強請ったのだ。女優がそれを取り返すべくプロの地まわりに頼んだので、犀吉は逃げなければならなくなったのである。そして、彼は、ただ逃げだしたのではなく、香港から連れて来た「歯医者」という猫を「ぼく」に押しつけていった。彼が「長老」と仰ぐ四国の祖父に飼ってもらうためである。そうして、「ぼく」の原稿料の残りでウイスキーを睡眠薬と一緒にのんで、死の恐怖心を克服し、ボクシング仕込みの拳で地まわりを半殺しにして逃げたのだった。

 さらにまた二年がたって、犀吉は「拾ってきた」シトロエンに乗って「ぼく」の前に現れる。運転していたのは彼と一週間前に結婚した「卑弥子」という十八歳の少女だが、独断と偏見でいえば、卑弥子ほど魅力的な女性をほかの大江健三郎の小説で見たことがない。大江は彼女を語るのに、スタンダールやヘンリー・ミラーの言葉を引用しているが、そんなものは不必要に思われる。出自も来歴も明らかにされないが、たん的に卑弥子は、知的で情熱的で、やさしくて感受性に富み、誇り高く、料理が好きで上手い。何よりその小さな体のすべてで犀吉を愛し、尊敬しているのだ。犀吉と「ぼく」は「ぼく」が借りていた下宿に落ち着いたが、卑弥子は盗んできたシトロエンを棄てるために、寒空の中、「ぼく」の町を通る私鉄の終点まで走り、そこで車を乗り捨て、暖房設備のない待合室で酷寒の夜をすごして、始発の電車に乗り、なかば凍てついて戻ってきたのである。

 暖かい部屋にもどってきた卑弥子が、氷がないので生のままのウイスキーを「西部劇のジョン.ウエインみたいに一息に」飲んで、ひとしきり泣いた後眠ってしまうと、犀吉の果てしない饒舌が復活する。彼は、この二年間の間に四国の谷間の「ぼく」の祖父をたずねて、いまはもう半ば野生化した彼の猫にも会ってきた話をして「ぼく」を驚かせる。だが、犀吉が「タクシー代がないから」シトロエンを「拾って」までして、「ぼく」のまえに現れたのは、そんな回顧談をするためではない。「直截にいえば、「ぼく」が「自己欺瞞」をしはじめている」ので、それを破壊したいのだというのである。

 「ぼく」は大学在学中から小説を書きはじめていた。二年間の間にかなり多くの小説を書いて、文学賞をもらい、大学の友人の妹と結婚することもきめていた。安定的な、いってみればぬるま湯のような作家生活(そんなものが存在するかどうかわからないが)の路線が見えていたが、あるときそれは一変する。「ぼく」が書いた「政治的な残酷物語」によって、「ぼく」は日夜脅迫の電話や手紙の攻勢にさらされる。孤独においつめられた「ぼく」は一種のヒコポンデリアにかかり、大食と知的怠惰の極みの生活を送るようになっていた。

 そんな「ぼく」について、谷間の祖父は「左にしろ右にしろ、翼のついた人間とかかわるつもりなら自分もまた跳ぶつもりにならねばならん」といったのだが、犀吉はまさに、「ぼく」のヒコポンデリアの原因が「自己欺瞞」にあると喝破して、それを破壊すべく、日常生活から「ぼく」を「跳び」たたせるために「ぼく」のまえにあらわれたのである。

 「ぼく」は、「ゴッホのハタンキョウの絵」がかる犀吉の部屋での大晩餐会の後、夜警をする犀吉につきあって、ビルの屋上から東京の夜明けの瞬間に出会う。「ぼく」は夜明けの東京に「人間の魂を搾木でしめつけて死にものぐるいにおののかせるもの」とともに、「様ざまの奇怪な予感におびえながら、しかも荒々しい冒険心の恍惚を感じ」、《さあ行こう、どこへ行こう》という若い詩人の詩と同じように、行く先さだかではないが、日常生活から跳び立つ決断をしたのだった。
  
 ここで、横道にそれるようだが、斎木犀吉のモデルとされる伊丹十三と大江健三郎の関係について、というより、大江健三郎の作品との関係について考えてみたい。むしろ、このテーマを考えるために今回のブログを書き始めたのだが、なかなか本題に入れないでいる。
 
 いうまでもなく、『日常生活の冒険』に描かれる斎木犀吉は伊丹十三の実像とは異なっている。当時伊丹十三はすでに評価の定まった俳優であり、「北京の55日」や「ロードジム」という外国映画で、チャールトン・ヘストンやピーター・オトゥールと共演して重要な役を演じている。文筆家としても、軽妙だが才気あふれ、しかもきちんと筋の通った姿勢がうかがわれる文章が残されている。その他、商業デザイナーなど彼のマルチな才能については若い日の私の記憶にいまでも鮮やかである。要するに当時の彼は、「壁に画鋲で止めたゴッホの複製だけが存在する五帖」の「いつのまにか二階と三階とが解けあっている、その非ユークリッド幾何学的な接合点の歪んだ部屋」を住居とするような生活はしていなかったのだ。

 だが、私の関心の中心は、実際の伊丹十三と斎木犀吉との齟齬にあるのではない。モデルと実像との間に距離があるのは当たり前である。問題は、犀吉が「ぼく」に向ける執拗な「否」のベクトルである。物語りのなかで、語り手に最も近い位置に存在する重要人物が語り手に「否」を突きつけ、語り手を追いつめるという主題は大江健三郎の後の作品に繰り返されるのだ。

 特に重要な作品が『懐かしい年への手紙』で、ここで斎木犀吉は、かなり飛躍した乱暴な解釈かもしれないが、主人公のKちゃんの師匠(大江の呼び方でいえば「パトロン」)的存在の「ギー兄さん」に昇華して登場する。「ギー」という呼称は『万延元年のフットボール』に登場する「森の隠遁者ギー」を経て、『懐かしい年への手紙』の「ギー兄さん」となる。さらに「ギー兄さん」は『燃え上がる緑の木』の主人公となり、『宙返り』にも少年の「ギー」が登場するのだが、主人公に明確に「否」を突きつけるのは『懐かしい年への手紙』のギー兄さんである。

 作品としては『個人的な体験』から出発した大江健三郎≒Kちゃんの創作活動に対して、事故とも事件とも不明瞭な殺人の罪を自ら引き受けて、それを償い終えてKちゃんのもとに現れたギー兄さんはこう言うのだ。

 「・・・・・・・Kちゃんが自己の回心の・死と再生の物語をめざしていることはあきらかだよ。しかし、それには時がある。Kちゃんよ、きみのなかで自己の回心の・死と再生の物語を書く時は熟しているかい?」

 『懐かしい年への手紙』のギー兄さんの言葉は、『日常生活の冒険』の斎木犀吉とは比較にならないほどの重さがあって、大江の分身として設定されている「Kちゃん」は、長い時間をかけて書いてきた草稿を燃やしてしまう。それが、どれほど大変なことであったかということが、『晩年様式集』でもう一度言及されるのだが、これについては、また回を改めて考えてみたい。そもそも『晩年様式集』は『懐かしい年への手紙』を読み直す、というか『懐かしい年への手紙』という作品をものした作者の真意ともいうべきメッセージを伝えるために、非常に慎重に、工夫をこらして構成されたもののように思われる。

 一九八七年に出版された『懐かしい年への手紙』と一九六四年の『日常生活の冒険』をくらべてみると、二十三年の間に大江健三郎の作品世界がまったくと言っていいほど変わってしまったことに気づく。『日常生活の冒険』は、登場人物ひとりひとりが私たちと同じ日常の時間、空間に存在する血の通った人間なのだ。斎木犀吉も卑弥子も「ぼく」も、その他の誰もが、当たり前に呼吸し、生きている。だが、『懐かしい年への手紙』のギー兄さんをはじめとするさまざまな人物は、それなりに作品のなかでリアリティをもちながら、何らかの寓意性をひそめて存在している。いわば、小説のプロットとは別次元の、さらに上位のシナリオを演じている役者のように思われるのだ。

 日常生活から跳びたつ決心をした「ぼく」が実行したことは、「アームストロング」という外国製の中古車を買うことだった。フランス人と国際結婚した日本の女優が乗っていたものだったというが、「アームストロング」という車は実在したのだろうか?

 「ぼく」は犀吉たちとアームストロングに乗って、冒険の旅に出ようとしたのだが、それはかなわなかった。犀吉の生活が一変してしまったからである。卑弥子を捨てて、大富豪の娘と結婚した犀吉は、憧れだった「ゴージャスな」生活を享受し、モラリストとして培ってきた経験と才能を生かす機会にめぐまれながら、結局「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。」と言って、「ぼく」の前から姿を消して破綻していく。その過程もきちんと追わなければならないが、これもまた、いずれ時間の余裕があれば試みてみたい。

 作品に集中的に向かい合う時間をとることができなかったこともあって、書き始めと終わりの整合性が足りませんでした。自分の能力の限界を思い知らされると同時に『晩年様式集』を書いたときの大江健三郎の年齢が七九歳だったという事実に驚嘆しています。ひとなみ優れた物語作家だった彼が、みずからつくった物語を解体し、新しい「晩年様式」をつくりあげたという事実に。

 今日も未整理な文章を読んでくださってありがとうございました。

2025年6月24日火曜日

大江健三郎『日常生活の冒険』___早すぎたレクレイムとゴッホとハタンキョウ

  『晩年様式集』を読み直す過程で『日常生活の冒険』にふれなければいけないといいつつ、何をどう書くかまとまらないでいる。書くべきことはたくさんあるが、軸が定まらない。主人公のモデルがあまりにもあからさまなので、現実とフィクションの齟齬に関心がむかいがちで、作品の主題を見失いそうになってしまう。主人公斎木犀吉のモデルである伊丹十三は1997年12月20日に64歳で死んでいる。だが1964年に書かれた『日常生活の冒険』は主人公斎木犀吉が25歳で自殺するところから始まるのである。

 伊丹十三がビルの屋上から「墜落死」してほぼ二年半後の2000年にに出版された『取り換え子』に先立つこと三十六年前に『日常生活の冒険』は出版されている。冒頭

 「あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かとも思えるほど遠い、見知らぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?」

こういう言葉で大江健三郎は、当時働き盛りで活躍中だった伊丹十三の死を悼んでいる。この小説は現実の伊丹の死の33年前に書かれたレクレイムである。なぜこんな奇妙な作品が書かれなければならなかったのか。

 『日常生活の冒険』が出版された1964年、大江健三郎は『個人的な体験』という作品も出版している。今日では、あるいは当時でもこちらの方が評価が高いようである。大江自身はこの小説を「技法、人物のとらえ方など、小説の基本レヴェルを満たしていない」として、『日常生活の冒険』を自身の選集に入れていない。 

 だが、、「鳥(バード)」と呼ばれる語り手の「個人的な体験」__はじめての子が障碍をもって生まれ、紆余曲折ありながら、その事実をうけいれ、「親」として生きる決意を表明するにいたるまでの過程を描いた作品とくらべて、『日常生活の冒険』が上記の「小説の基本レヴェル」において劣っているとは、少なくとも私は思えない。

 『日常生活の冒険』は、個性的な登場人物が波乱万丈のストーリーの展開とともに描かれ、みずみずしい感性が描写のすみずみにみなぎっている。あの時代の記念碑というべき魅力的な青春小説を読んだという思いがある。だが、小説の発表から数十年を経て選集の作品を選ぶとき、おそらく、モデルとなった人物、すなわち当時存命だった伊丹十三および作品に登場するその周囲の人物にたいする配慮から、目立つことはできるだけ避けたかったというのが作者大江の本意だったのだと思う。

 先に引用した冒頭の文章に明らかなように、物語の出発点で主人公は死んでいる。サリンジャーの『ナインストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」のシーモアがそうであるように。『ナインストーリーズ』は、シーモアの死から始まって、一見脈絡のない短編を紡ぎながら、最後に「テディ」でとじられ、じつはまた「バナナ魚には理想的な日」に戻るのである。『ナインストーリーズ』の時間はメビウスの輪のように閉じられ、循環し、直線ではない。

 一方、『日常生活の冒険』は、『ナインストーリーズ』のように閉じられた時間の中で継起した出来事を寓意という手段をもちいて語ろうとしたものではない。主人公の死という「喪失からの出発」は共通しているが、サリンジャーがアレゴリーという武器をもちいて「出来事」を記したかったのに対し、大江健三郎は「斎木犀吉」という「人間」を記憶し続けたかったのである。

  死者を死せりと思うなかれ
  生者あらん限り死者は生けり
  死者は生きん 死者は生きん

 この詩はゴッホが、彼の従妹の夫が亡くなった時に「モーヴの思い出のために」と書き込んで《花咲ける木》という絵を描き、絵ともに従妹に贈ったものである。その絵の複製が若い犀吉の「壁際に書物がつみ重ねられたほかはまったく何もない五畳ほどの素裸の部屋」の壁に画鋲でとめてあり、絵を見ている「ぼく」に犀吉自身がこの詩を朗誦して教えてくれたのだった。

 「生者あらん限り死者は生けり 死者は生きん 死者は生きん」

 「ぼく」は生きている限り「斎木犀吉」を記憶し続け、書き続けようとしたのだ。なぜなら、彼ほど死をおそれた人間はいなかったから。耐えきれぬ苦痛の果ての無残な死はもちろん恐怖だが、死によって存在の痕跡が完全に無になることはもっと救いがない。犀吉は五畳の部屋のゴッホのハタンキョウの絵の前で「ぼく」にこう言ったのだ。

 「おれにとっての生者はきみひとりだったのさ。きみのあらん限り、おれは生きん、おれは生きん、そのおれ風の進軍歌をうたって、おれは死の恐怖に対抗してきたんだよ。」

 斎木犀吉とは何だろう。ナセル義勇兵の集会で「頬にも顎にも一本のひげも生えていない」少年として「ぼく」と出会い、徹底したモラリスト_道徳家という意味ではない。すべて自分自身の内側から考察するという意味の_として颯爽と生き、そして最後に「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。おれはなにひとつやれなかったなあ。……………おれはいま恐ろしいんだよ、喉からしたいっぱいに不安と恐怖をつめこまれたみたいだ…」と「ぼく」に訴え、「おれはヨーロッパについたら、今度はすぐにアルルに行ってみるよ、おれは花の咲いたハタンキョウの木が見たいんだがもう季節をすぎたかね?」と言って「ぼく」と空港で別れた「斎木犀吉」とは。

 ところで、この「花咲ける木」の絵について、私のなかで少しとまどいがある。「モーヴの思い出のために」と書き込まれたこの絵は有名で、ネット上でもたくさんの複製の写真がみられるが、これは桃の木を描いたものなのだ。「ハタンキョウ」の花を描いたものは「アーモンドの木の枝」として検索される。こちらは弟テオに子どもが生まれたことを祝福して描いたもののようだ。桃もすももも「ハタンキョウ」と呼ばれることがあるようだから、あまりこだわる必要はないかもしれないが。それでも「桃_もも」と「ハタンキョウ」では語感も字面もかなりちがうので、作者大江は意図的に「ハタンキョウ」という硬質の語感をもつ言葉を選んだのだろう。

 桃の木を描いた絵もアーモンドの木の枝を描いたものも、どちらも非常に美しい絵だと思うが、死者を悼む前者が春のおとづれを告げるように満開の花をつけた木を描いて華やかな印象を受けるのにたいして、新しい命の誕生を祝福する後者は、青い背景に白っぽく見える(経年変化で褪色したのかもしれないが)花をつけた枝が縁取りで描かれ、何か澄明な趣である。こちらはゴッホの最晩年にプロヴァンスの精神病院で制作したもののようである。  

 犀吉の五畳の部屋に画鋲で止めてあったのは、まちがいなく(日本でいう)桃あるいはすももの花の絵だったと思われる。画面右側に黄色っぽい柵のようなものが描かれ、中央に満開の花をつけた大きな木が立っている。後方に小さく同じような木が列をなして続いているようなので、これは果樹園の桃の木なのだろう。そして、さらによく見ると、中央の木はじつは二本あるようだ。二本の木が寄り添うように立っていて、後ろの木が前の木の二股に分かれた間から枝を差し入れているように見える。

 『日常生活の冒険』は、ナセル義勇軍の集いでの「ぼく」と犀吉の出会いから空港での別れまで、さまざまなエピソードが綴られるが、ゴッホの絵に言及される場面はその中でもとりわけ印象的である。モラリスト犀吉はいつも論理の鎧でタフネスをよそおっているが、この「花咲ける木」を前にして脆いほど素直に真情を吐露する。「ぼく」はそれを受けて「センチメンタル」になってしまう。最後の空港の別れの場面など「ぼく」は犀吉への憐憫の情で涙ぐんでしまいそうになった、と書かれる。「モーヴの思い出のために」と書き込まれた絵の中の二本の木が、死者とそれに寄り添う生者の象徴だとしたら、それはまた犀吉と「ぼく」の象徴でもあると想像することは不可能だろうか。

 ゴッホが「モーヴの思い出のために」と書き込んで二本の桃の木を描いてモーヴを悼んだように、大江健三郎は『日常生活の冒険』という「斎木犀吉」へのレクレイムをうたったのだ。「頬にも顎にも一本の髭も生えていない」十八歳の少年が、憔悴して、「惨めな苦力のように」よろめいて「ぼく」の前から姿を消すまでの七年間は、決して実際の大江健三郎と伊丹十三の人生と重なり合うものではない。大江が大学在学中から作家として注目されていたのはほぼ実生活と重なるかもしれないが、伊丹十三もまた多才な人で、「なにひとつやりとげなかった」どころか、エッセイストであり、努力して外国語を習得し、すでに国際俳優として活躍していた。この小説に描かれる斎木犀吉は、伊丹十三に身をかりた、大江の歌う「青春挽歌」の主人公である。

 同年に出版され、この小説とまったく作風の異なる『個人的な体験』との関係についても書きたかったのですが、力及ばずでした。故意か偶然か、というよりたぶん意図的に『日常生活の冒険』の魅力的な少女妻「卑弥子」と『個人的な体験』の成熟したヒロイン「火見子」は同じ「ひみこ」で、どちらも愛するひとに裏切られます。斎木犀吉は卑弥子を裏切って、ある意味当然の報いを受ける結果となりますが、「鳥(バード)」は火見子を捨てて、「親」となって社会復帰します。障碍をもつ子との「共生」というテーマで『個人的な体験』の方が評価が高い風潮は、個人的には納得できない気がするのですが。

 今日もまとまりのない文章を読んでくださってありがとうございます。

2018年1月1日月曜日

大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか

 非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書かなければならないことをひとつだけ挙げておこう。『晩年様式集』の結びの部分にある
 
 私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。

という詞章について、私はどうしても受け入れられないのだ。

 敗戦の日、玉音放送の後、小学校の校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだ。それに対して作者の母親が述べた言葉が上記の詞章である。作者はこの言葉を『形見の歌』と名付けた詩集のなかの一編に引用し、その一編の結びの詞章ともしている。ことわっておくが、この詩は作者が七十歳のとき、つまり三・一一以前の詩である。生まれたばかりの初孫に一瞬自分の似姿を見た作者が、その子の生きてゆく歳月の過酷さを思い、老境にある自らの窮状をみつめつつも、最後にこう結ぶ。

 否定性の確立とは、
 なまなかの希望に対してはもとより、
 いかなる絶望にも
 同調せぬことだ・・・・・・
 ここにいる一歳の 無垢なるものは、
 すべてにおいて 新しく、
 盛んに
 手探りしている

 私のなかで
 母親の言葉が、
 はじめて 謎でなくなる。
 小さなものらに、老人は答えたい、
 私は生き直すことができない。しかし
 私らは生き直すことができる。

 否定の確立が絶望の肯定ではない、という命題に異論はない。キルケゴールのいうように「絶望は罪である」だろう。だが、そのことと、この世に生を受けて間もない存在を登場させ、「私らは生き直すことができる。」と結んでいいのか。一連の詞章の流れから、この結句がすんなりとおさまってしまいそうなのが、危険である。

 「私らは」の語感は複雑である。ささいなことにこだわるようだが、「ら」という接尾語は一般には相手にたいして自らを卑下するときに使われることが多いように思う。
 憶良はいまは罷からむ 子泣くらむ そもその母も吾を待つらむぞ
という万葉集の歌がある。現代語でも、謙遜というより卑下のニュアンスがつきまとう。それがある種の開き直りにつながり、そこから作中アサのいう「母には校長さんに対して覚悟を決めているところがあって」という態度につながるのだろう。

 「大君の辺にこそ死なめ」と歌わせた校長が「私らが生き直すことはできない!」と叫んだとき、作者の母親が「私は生き直すことができない」としながら「私らは生き直すことができる」と言ったのは母親の果敢な抵抗精神である。「私ら」には「私」が含まれるのだ。校長のような偉いさんはどうでも、庶民の「私」「ら」は生き直す、と。それに対して、『形見の歌』の「私ら」はどうだろう。七十歳の「私」は「盛んに手探りする」初孫_次世代に「私ら」の内容を託そうとしているのではないか。

 話は少しそれるが、大江健三郎は伊丹十三の死をあつかった『取り換え子』の最後にも、ナイジェリアの作家ウオーレ・ショインカの戯曲『死と王の先導者』から

 __もう死んでしまった者らのことは忘れよう。生きている者らのことすらも。あなた方の心を、まだ生まれて来ない者たちにだけ向けておくれ。

という結びの台詞を引用している。ウオーレ・ショインカという作家は一九三四年生まれで一九八六年にノーベル文学賞を受賞している。だが、不思議なことに、ノーベル賞大好きの日本の出版界がショインカの作品を翻訳出版していないようなので、『死と王の先導者』について詳しく知ることはできない。(作中の訳は大江健三郎がつけたもので、「死んでしまった者ら」、「生きている者ら」の「ら」と「あなた方」の「方」、「まだ生まれて来ない者たち」の「たち」と複数形を使い分けていることにも注意してほしい)ウィキペディアによると、王に殉死するはずだった馬番が、英国人の行政官夫妻の善意で、儀式の際中に逮捕、監禁される。英国に留学中だった馬番の長男が帰国し後継者になるが、憤った民衆に殺されてしまう。馬番は女族長に罵倒され、汚辱の中に死ぬ、というあらすじのようである。上記の台詞は最後に女族長が投げかけた言葉である。

 戯曲が発表されたのが一九五九年で、ナイジェリアが独立する前、ショインカは二五歳である。この後、ナイジェリアは長い内戦状態になるのだが、若きショインカは過去と訣別の宣言をしたのだ。この台詞を、大江健三郎は『取り換え子』の最後で、塙吾良の最後の恋人とされる浦シマの出産に立ち会うためドイツに出発する千樫にむけた餞の言葉として小説を結ぶ。吾良は死んだ。だが、その吾良が最後に愛した浦シマが、吾良の子ではないが、孕んでいる。千樫は吾良の妹として、また古義人の妻として、浦シマを支えるべく日本から出国する。

 ストーリーの流れから、すんなり読めて納得してしまいそうになるのだが、私は最初から微かな、だが確実な違和感、もっといえば不快感を覚えていた。これは、ふつうの言葉でいえば、ご都合主義ということになるのではないか。ショインカの戯曲の女族長の台詞を、そのベクトルの向きを正反対にして、換骨奪胎して使ったのではないか。

 「私は生き直すことができない。しかし私らは生き直すことができる。」美しい言葉である。しかし、この言葉は死への誘惑__「私」の死と「私らの生」とを肯定する方向を向いていないか。「私」が生き直すことができないで、「私ら」は生き直すことができるのか。できる、という発想は「大君の辺にこそ死なめ」に再びつながらないといえるのか。少なくとも文学は、それがプロパガンダでないなら、「私は生き直すことができない」から出発し、その原点を離れることなく現実を撃つのではないだろうか。

 大江健三郎という存在は何なのか。

 大江健三郎という存在を考えるにあたって、一九六四年に発表された二つの小説『個人的な体験』と『日常生活の冒険』をとりあげてみたかったのですが、まだ力不足のようです。大江は『日常生活の冒険』の中で、早々に伊丹十三(作品中では斎木犀吉)を死なせてしまっています。一方『個人的な体験』では、障害をもった子の父親として現実生活を担う決意を宣言します。伊丹十三はその後魅力的なマルチタレント(ほんとうに才気あふれるという意味でのタレント)として活躍し、大江は職業作家としてつねに時代の第一人者となります。その意味で一九六四年という年とこの二つの作風のまったく異なる小説は重要だと思うのですが、いくらかでもまとまったことを書くにはもう少し時間がほしいと思っています。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2017年10月13日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三

 前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件の経緯が、普通の感覚では容易に受け入れがたいことが、さらに大きな理由なのかもしれない。

 塙吾良の死の解明に関して作者は、彼の最後の恋人(と呼んでいいかどうか迷うのだが)シマ浦という女性をドイツから召喚する。ギー兄さんの死に関して彼の息子のギー・ジュニアをアメリカから召喚したように。かつて『取り換え子』のなかで十八歳の初々しい大柄な娘だったシマ浦は、いま「ルイズ・ブルックスのブローチの面影」と形容される成熟した女性となって長江古義人の前に現れたのだった。

 吾良とシマ浦はヨーロッパの各地で八年間にわたって逢曳を重ねた。『取り換え子』では吾良がドイツに滞在した一時期の交流だった、とされているが、この小説では、シマ浦が人妻となった後も、「宗教上の理由もあって」(これは何のことかわからない)「性器の侵入を許さない」情事を重ねる。最後の密会はジュネーヴだったという。

 大江健三郎はなぜか、「性器の侵入を許さない」行為というモチーフにこだわっているようで、『﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ』の主人公の女優サクラさんと、彼女を保護し、後に夫となった米軍の情報将校との間でも同じ行為が繰り返されていたことが暗示されている。

 シマ浦が長江の家を訪れたのは、吾良との最後の逢曳のとき、吾良が描いたスケッチが人目にさらされることを危惧したからだった。千樫が「本当に良い絵」だというそのスケッチは、あお向けになって両肢を開いた裸婦が描かれていて、シマ浦がモデルだった。吾良はその両肢の間の「女性の身体の部分」を表現したいと言って、シマ浦をモデルに構想していた映画のカメラマンと決裂した、という。

 カメラマンとの決裂の夜、吾良は古義人のもとを訪れ、例のスケッチを見せる。そして「映像として示すことのできない一瞬の持続(なんだかT・Sエリオットの詩のようだが)の内容」を「皮膚のある部分の微妙な動きの描写でなく、それそのものが実体である言葉」として表現してほしい、と古義人に要求する。だが、古義人はその要求にこたえることはできなかった。それ以降吾良と古義人の関係は断たれたのだった。

 以上、塙吾良に関する記述は、シマ浦さんの回想と古義人の記録、千樫の証言などを織り交ぜながら続いたのだが、娘の真木に突然ノーを突きつけられる。「もう、時間がない」。こんなことを書いていていいのか、と。妹のアサからも、反原発集会の中野重治の文章の引用を例に出して、古義人はザツだ、と批判される。女たちから、このように、喫緊のことを、精確に書け、という要請を受けたという設定になっているが、おそらく長江古義人の、というより大江健三郎の内部の声の発するものだろう。

 小説の後半、妻の千樫、娘の真木、妹のアサ、そしてシマ浦を交えて、古義人に対するギー・ジュニアのインタヴューが行われる。ここで、塙吾良の死についてのあらたな事実が記録される。そのひとつは、少なくとも古義人は、吾良の死を自殺だと思っていない、ということである。これは「事故」である、と。妻の千樫も同じように考えている、というのである。『取り換え子』冒頭の録音テープに記録されたドシン(という音)は、若い頃から自殺をほのめかし続けた吾良と古義人との間の永年のゲームだった、という。「たまたま」ゲームと「事故」がシンクロしてしまった、と。死の直前の吾良の行動を、古義人はこのように説明するのである。

 強い酒を飲んで、ひとつの思いに取りつかれ、ビルの屋上から飛び降りる。・・・・・・・・・・・・・・・・・
 そこで、ふっとひとつの翳りが頭にさして、消えずにいる間に、プロダクション事務所の自室のドアを開けばエレベーターがあって、すぐが屋上でそこに鍵がかかっていなかったとすれば、二、三歩歩いて飛び降りる。思い詰めて、というのじゃなくそういうことをしうる人間にとって、これは「自殺」ではなくて「事故」だ、と僕は考えます。

 この論理を理解できるのは『晩年様式集』の登場人物以外にいないのではないか。にもかかわらず、作者は長江古義人にこう言わせなければならなかった。

 塙吾良の死についてのもうひとつのあらたな問題は、吾良の死亡日時についての解けない謎である。ギー・ジュニアのインタヴューの席で、千樫は古義人の母が吾良の死を悼んでこう言ったというのである。

 お兄さんが痛ましいことでした。・・・・・・・・・・
 コギーはあのように親しくしていただいておりながら、吾良さんが亡くなられるのをそのまま見殺しにしたのでしょう?コギーは恩知らずですから・・・・・・申し訳ないことです。

 吾良が死んだのは一九九七年の十二月二十日、古義人の母が亡くなったのは同じ年の十二月五日のことで、先に亡くなった古義人の母が吾良の死を悼むことはありえない。だが、千樫は自分の記憶にある古義人の母の言葉を思い違いとしたくない、と言うのだ。

 ちなみに『憂い顔の童子』では、古義人の母は病院の待合室で一年前のことを蒸し返した週刊誌を見て、吾良の死を知ったことになっている。つまり、先に亡くなったのは吾良で、古義人の母は吾良の死後、少なくとも一年は生きていたことになる。また、『憂い顔の童子』では、古義人に向かって母は「吾良さんが自害されたそうですな」と、はっきり「自害」と言っている。

 それに対して、この小説では、吾良の死は「痛ましい」と悔やまれているが、「自殺」という表現は使われていない。さらに、古義人の母は、コギーは吾良が亡くなるのを見殺しにした恩知らずだと言っているのだ。古義人の母の言葉は、吾良の死に古義人が無関係ではないことを含んでいる。それは具体的にどんなことを意味するのだろう。

 古義人自身は、千樫の言葉に続いて、「僕への批判としてであれ、そしてまだ吾良が生きていたのであれ、ギー兄さんと塙吾良を結んで思い出す母親の頭は、ボケていなかったと思うよ」と言っている。(下線は筆者)「ギー兄さんと塙吾良を結ぶ」とはどういうことか?古義人の母のなかで、ギー兄さんと塙吾良は同一の存在だったのか?

 ギー兄さんと塙吾良の親縁性は、ギー・ジュニアが最初に古義人の家を訪れたときに、古義人の息子アカリのブレザーを着て現れたエピソードに示されている。真木が、ギー・ジュニアとアカリがよく似ていることを、古義人に見せるつもりでそうさせたのだという。アカリは古義人の息子だが、吾良の甥であり、ブレザーは吾良がアカリに(意図的かどうかわからないが)残したものだった。「それを着ると、アカリに吾良の面影がある」「かれ(アカリ)のために仕立てたよう」とも書かれている。ブレザーをなかだちに、吾良、アカリ、ギー・ジュニアの親縁性が展開され、さらに「長江さんと僕の父は、骨格も身ぶりも似てた、兄弟のようだったとアサさんがいっています」というギー・ジュニアの言葉もある。

  塙吾良の死についての究明を試みるつもりが、いつまでたってもその糸口さえ明らかにできない。長江古義人が、吾良の死を無茶苦茶な論理で「自殺でなく事故」だと「いいはる」のはなぜか?さらに、もっと無茶苦茶なのが、まだ死んでいない吾良を悼む言葉を死の直前の古義人の母が述べたと千樫が「いいはって」いることである。謎を解くカギは「ギー兄さんと塙吾良を結んで」という古義人の言葉にあるのだろうが、これについて、作者はこれ以上何の解説もしない。「ウソの山のアリジゴクの穴から」二枚の紙を差し出したから、真実は読者がそこから炙り出せ、といわんばかりである。

 この作品以降いまに至るまで、大江健三郎はあらたな創作は発表していないようである。『晩年様式集』は「イン・レイト・スタイル」であって「イン・ラスト・スタイル」ではないのだから、また「ウソの山」にもう一枚のウソを積み重ねてほしい、と切望している。カタストロフィーは一回的なものではないのだから。生きることはつねにカタストロフィーなのではないか。

 読み直し、書き直し、生き直す、ということ、私らが生き直す、ということについて、まだたくさん書かなければならないことはあるのですが、今回はこれが私の能力の限界のようです。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2016年12月30日金曜日

大江健三郎『晩年様式集』___『懐かしい年への手紙』を読み直す___ギー兄さん、塙吾良、伊丹十三

 少し体調を崩していたこともあって、『晩年様式集』についていつまでも書けないでいる。ひとつには、これが大江健三郎の「最新」の作品なので、それについて書くことが私の大江健三郎論の総括、のようになってしまうことを怖れる意識がはたらくのかもしれない。

 『晩年様式集』というタイトルからうかがわれるように、この小説は一見小説らしくない構成をとっている。冒頭「前口上として」と、序文のような文章が置かれているが、そこには、大江健三郎とも「長江古義人」ともさだかでない「私」が登場して、これから読まれる文章が、「私」と「私」に「一面的な描き方で小説に書かれたことに不満を抱いている」三人の女たち__古義人の妹アサ、妻の千樫、娘の真木合計四人の「ノート」であり、私家版の雑誌である、と書かれている。この小説には語り手が、というより書き手が四人いることになる。もちろん、そんなはずはなく、すべて作者大江健三郎が書いているのだが、書かれている事柄の時系列が錯綜することもあって、かなり読みにくい。何故こんな「様式」にしたのか。

 実はもう一人、語り手、というか狂言廻しというか、プロットの展開を進める上で重要な人物がいる。一九八七年に書かれた『懐かしい年への手紙』の主人公ギー兄さんの遺児ギー・ジュニアである。『懐かしい年への手紙』については、以前「Kちゃんによる福音書あるいは黙示録」というサブタイトルで投稿しているので、ご参照いただければありがたい。作品中でギー兄さんに子供は生まれていない。オセッチャンという若い妻が、ギー兄さんが手術で生殖能力を失う前にKちゃん(「僕」)を巻き込んで子供をつくろうとするところまでが描かれている。

 その後発表された『燃え上がる緑の木』では、オセッチャンは生まれた子供を連れて屋敷を去り、大阪で子供と生活していた、と書かれている。ところが、『晩年様式集』ではギー・ジュニアは幼いころ「森のへり」で暮らし、その後資産(ギー兄さんの遺産)を処分した母親とともにアメリカに渡った、とされている。複数の外国語に堪能で有能なプロデューサーに成長した彼は3・11の取材を機会に日本を訪れる。そして長江と『懐かしい年への手紙』と『万延元年のフットボール』をつき合わせて、ギー兄さんの人生を検証することになる。____ここまで書いて、どうしても『燃え上がる緑の木』に登場するオセッチャンの連れ子「真木雄」」のことが気になってしまう。オセッチャンの子は「真木雄」ではなかったのか?「真木雄」=「ギー・ジュニア」という等式は成り立つのか?

 『晩年様式集』という作品のメイン・テーマは『懐かしい年への手紙』の読み直しだろう。森の中に自給自足を目指す生活共同体=「根拠地」を作り、最後は神学的観照の世界に生きた、半ば神話化された、それでいて卑俗なエピソードに満ちたギー兄さんのこれまで語れなかった姿を語り、それによって「僕」とギー兄さんの関係を語りなおす。ギー兄さんの遺児であり、知的探求心が旺盛でかつ経済的基盤と実行力をもつギ-・ジュニアがインタビュアーとして「僕」の前に現れる。ギー・ジュニアとの数回にわたるインタビューの中で、「僕」は必ずしも彼の質問に的確な回答をしているとは思えないのだが、回を重ねるうちに、ギー兄さんと「僕」の知られざる関係があかるみにでることになる。それは『懐かしい年への手紙』に記されている「師匠(パトロン)」と弟子の関係を逸脱するものだった。

 ギー兄さんの直接のモデルは伊丹十三だろう。ウィキペディアには伊丹十三の本名は池内義弘で、池内家の通名は「義」であることから、祖父の強い意向により「義弘」と命名された、とある。また、『取り換え子』には、長江古義人の妻の千樫が『懐かしい年への手紙』に兄の塙吾良が出てくるので、それ以降古義人の作品を読まなくなった、と書かれている。ギー兄さん、塙吾良、そして伊丹十三は虚実入り混じった複雑なトライアングルを形成している。『晩年様式集』では、塙吾良の晩年の恋人まで登場するのだが、果たして作者大江健三郎は複雑なトライアングルを解体しようとしたのか。それともより複雑で堅固なものにしようとしたのか。

 そもそも何故この小説が「3・11フクシマ」の後に、それまで書いていた長編小説を破棄して書かれなければならなかったのか。大江健三郎の小説は、細部の描写はしつこいくらいリアルだが、まちがってもリアリズムの小説ではない。個性的な人物が登場するが、作品は彼らの「人生」を描くものではない。作品世界の中で彼らは生き生きと動き回るが、その行動は与えられた役割を逸脱することはない。『晩年様式集』においてもそれは同じように思われるのだが。

 足踏みばかりしていて、結局出来の悪い読書感想文しか書けませんでした。最後まで読んでくださってありがとうございます。
   

2016年6月23日木曜日

映画『静かな生活』伊丹十三と大江健三郎____『晩年様式集』読解の助走として

  『晩年様式集』についていつまでも考えている。

 『日常生活の冒険』の斎木犀吉、『懐かしい年への手紙』のギー兄さん、そして『取り換え子』から『晩年様式集』にいたるまでの塙吾郎、それらのモデルはあからさまに伊丹十三である。『晩年様式集』では、その三者をもう一度作品中に呼び戻し、しかもそれらの人物と長江古義人あるいはKちゃん、いや大江健三郎その人かもしれない人物との関係を「ちゃぶ台返し」にしているように見える。

 何故、3.11フクシマの後、この作品が書かれなければならなかったのか。大江健三郎はそれまで書いていた長編小説を中絶してこの小説にとりかかった、としている。3.11と『晩年様式集』との関係を探るために、ここでは、伊丹十三をモデルとする人物は作品中に登場せず、伊丹十三本人が監督、制作した映画『静かな生活』と、原作となった大江健三郎の短編集『静かな生活』を比べながら、「ちゃぶ台返し」の意味について考えてみたい。探索の手がかりをつかめる確信はないのだが。

 映画『静かな生活』は、原作の短編集をほぼ忠実になぞっているように見える。世界的に有名な作家の家族の物語である。作家の父が外国の大学に招かれ、母も同行する。脳に障害をもって生まれたイーヨーと姉のマーちゃん、弟のオーちゃんの三人が、子供たちだけで生活する。子供たちといっても、一番年下のオーちゃんが浪人生、という設定なので、イーヨーもマーちゃんもすでに成人である。

 小説も映画もイーヨーの性の目覚めが周囲に微妙な波紋を投げかけることから始まっている。性の目覚め、といっても、原作ではイーヨーは性的な話題から潔癖に遠ざかる人物として描かれ、もっぱら機能的に成熟した、というように記されている。それに対して映画では、原作にないお天気お姉さんが登場し、イーヨーは彼女にひそかに思いを寄せ、淡い失恋の痛みを味わうことを思わせる場面がある。

 映画と原作とのささいな差異は、そもそも、作家の父が招かれた大学が、原作では米カリフォルニアにあるのに対し、映画ではオーストラリアのシドニーとなっていることである。そんなに大した違いとは思われないが、なぜ、カリフォルニアではいけなかったのか。どちらも作家の「ピンチ」をのりこえるために必要な樹木のある避難場所とされているのだが。オーストラリアは、地図で見るとかたちが作家の郷里である四国に似ているからだろうか。

  それから、これも大した意味はないかもしれないが、子供たち三人が暮らす家が、映画では海が見える閑静な住宅街にある。原作は、はっきりと「成城学園前」と駅名を記しているが、「成城学園前」付近で海の見える場所はないだろう。小説もフィクションだが、映画はさらに小説をフィクショナイズしたものである、ということを象徴したのだろうか。

 映画の中で起こる出来事はおおむね原作と同じである。家に毎日水を届けに来る得体のしれない狂信者めいた男が、実は幼女を襲う連続事件の痴漢だったこと。幼女を襲っているのがイーヨーかもしれない、というマーちゃんの心配が杞憂だったこと。イーヨーが「すてご」というタイトルの曲をつくったことから、マーちゃんやKの親友でイーヨーの作曲の先生の「重藤さん」(これも映画ではなぜか「だんとうさん」となっている)が子供たちを置いて外国に行った作家のKに憤慨すること。

 その他、重藤さんの奥さんが、ポーランドの作家や詩人への弾圧に抗議するビラを来日したポーランド国家評議会議長のヤルゼンスキ氏に手渡そうとして、パニックに陥った警官に突きとばされれ、鎖骨を折る怪我をしたこと。ビラは、動けない奥さんのかわりに重藤さんとイーヨー、マーちゃん、オーちゃんの四人でレセプションのパーティ会場から退出する代表団の一行にもれなく配ったこと。満員電車の中でイーヨーが発作を起こし、女子中学生に「おちこぼれ」と罵られたこと、など。だが、ここでは、「すてご」というタイトルでイーヨーが作曲したことについて考えてみたい。

 イーヨーは、自分たち姉弟が両親から棄ててられた、という思いで「すてご」というタイトルをつけたのではなかった。マーちゃんや重藤さんはそう思ったのだが、福祉作業所の仲間が(映画ではイーヨー本人になっているが)公園清掃のとき棄てられた赤ん坊を見つけ、保護したことがイーヨーの記憶にあり、「すてごを救ける」曲をつくったのだった。その経緯を聞き出したのはイーヨーのお祖母ちゃんだった。四国の谷間の村でKちゃんの兄の葬儀があり、マーちゃんと一緒に参列したイーヨーはお祖母ちゃんとと作曲の話をしたのだ。

 この部分は原作をほぼ忠実に映像化している。お祖母ちゃんがイーヨーと話しているときに、マーちゃんはフサ叔母さん(Kちゃんの妹)から、Kちゃんが小さい頃、アシジのフランチェスコが水車小屋に現れて、すぐさま自分を連れていくのではないかと惧れた話を聞いているところも同じだ。だが、原作にあって、映画が省いたフサ叔母さんの一言が、映画と原作の決定的な違いを明らかにしている。「すてご」の由来を聞いてフサ叔母さんはこう言ったのだ。「もしこの惑星の人間みなが棄て子だったとすれば、イーヨーの作曲のあらわしているものは、なんだか壮大な規模だわねぇ!」

 映画にはイーヨー(本人)が棄て子を見つけ抱き上げているシーンがある。そのシーンの後にフサ叔母さんの前述のセリフがあったら、イーヨーは「この惑星の人間みな」を救う「壮大な規模」のヒーロー(もしくはアンチ・ヒーロー)になってしまう。伊丹十三はそういう「壮大な規模」の作品にしたくなかったのだ。

 連作短編集『静かな生活』の中で、作者の大江がかなりの頁をさいてこだわっているのが、「キリスト」、というよりむしろ「アンチ・キリスト」の問題である。映画『案内人(ストーカー)』(原作はストロガツスキー兄弟の『道傍のピクニック』)、エンデの『モモ』、『はてしない物語』、セリーヌの『リゴドン』、そしてブレイクの詩が縦横に引用される。『静かな生活』のテーマは、これ以降の作品で「魂のこと」として明確に主題としてあつかわれる「救い」__現実の日常生活の中で「救い」はどのようにもたらされるか、ではないだろうか。そして「救い」をもたらす存在は、決して誰の目にもそれとわかるヒーローではありえないということ。

 満員電車の中でイーヨーが発作を起こすシーンについていえば、映画では発作を起こしたイーヨーは一方的に庇われる存在として描かれているが、原作では、発作を起こして苦しみながらイーヨーは、マーちゃんを守ろうとして庇ったのだった。それから起こったマーちゃんの思いを大江健三郎はこのように書いている。

 そのうち、私の胸のなかに、___もしかしたらイーヨーはアンチ・キリストのように邪悪な力をひそめているかも知れない。たとえそうだったとしても、私はイーヨーについてどこまでも行こう、という不思議な決心が湧いてきたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それでも私の躰をつらぬいて光が放射されるように、続けて起こって来るのはあきらかに邪悪な強い歓喜で__私はこの世界の人間のうちもう兄と自分自身のことしか考えなかったから__ひとつ向こうのフォームから出ていく特急のレールの音にまじって、ベートーベンの第九とはくらべることもできないが、やはり一種の「歓喜の歌」が聞こえるのを、自分の頭のすぐ上にあるイーヨーのふっくらした耳と一緒に、私は勇気にあふれて受けとめるようであったのだ。

 これは明らかに、『燃え上がる緑の木』のサッチャンの原型だろう。

 後半イーヨーの水泳のコーチとして登場する新井君は、『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』中の「泳ぐ男___水のなかの雨の木(レイン・ツリー)」の玉利君だろう。保険金殺人で多額の金を手にした疑いをもたれている新井君がマーちゃんを強姦しようとする。原作はその行為を、慎重に、(あるいは巧妙に?)「どこか本気か冗談かわからない、それでいて・またはそれゆえに、過剰な露骨さに誇張されたものだった」とするが、映画では新井君はあきらかに「悪い人」である。新井君にいいように嬲られているマーちゃんをイーヨーが救う。

 映画ではイーヨーとマーちゃんが力を合わせて新井君をやっつける。新井君のマンションから裸足で飛び出したマーちゃんが土砂降りの雨のなかマンションの駐車場で泣き崩れ、イーヨーがマーちゃんを支えて抱擁する。そこへ新井君がマーちゃんの帽子やバッグ、靴などを持って現れ、それらを投げ出して駆け足で戻るのだ。アンチではなくて、颯爽としたヒーロー・イーヨーの誕生である。観客は「脳に障害をもちながらも」音楽の天分に恵まれ、悪漢新井君をやっつけるイーヨーと、イーヨーに助けられたマーちゃんに感情移入してカタルシスを味わう。折からオーストラリアの母から国際電話があって、「パパがピンチを乗り越えた」という報告を受ける。メデタシ、メデタシの予定調和の世界である。

 原作はもう少し複雑である。マーちゃんは一人でマンションから飛び出し、大声で泣いた後、イーヨーを凶暴な新井君のもとに置き去りにしてしまったことに気が付いて、水泳クラブのメンバーに助けを求めに戻る。「アンズのかたちの目をした」女の子と見まがうような顔の新井君は、「マーちゃんに近づくな」と警告した重藤さんに蹴りを入れて肋骨を折ってしまう(この部分は映画と原作は同じ)ほど、徹底的にやる人なのだ。ところがそこに、イーヨーが、マーちゃんの残した荷物と傘を持った新井君に「つきそわれて」歩いて来るのだ。「大丈夫ですか?マーちゃん!私は戦いました!」とマーちゃんに声をかけるイーヨーと新井君の間には微妙な親和性がほのめかされている。

 連作短編集『静かな生活』文庫版の解説を伊丹十三が『「静かな生活」映画化について』と題して書いている。「話すように書」いたこの文章は、自己嘲弄と韜晦に満ちていて、私にとって読むのがつらいものがあった。伊丹十三は何より大江の文学の深い理解者である。饒舌をよそおった書きぶりを裏切って誠実なメッセージが直につたわってくる。

 伊丹十三は、大江がこの作品以降テーマとする「魂のこと」としてこれを映画化しなかった。映画『静かな生活』のナラティブは映画の定型を敢えて外した、と伊丹十三は書いているが、立派に定型を完成している。「この世で一番美しい魂を持ったイーヨーと、一生イーヨーに寄り添って生きて行こうと決心した二人の波瀾万丈の体験の物語』として。「品が良くて、毒があって、美しくて、見終わったときに生きるための静かな力が湧いてくるような映画」__大衆に消費されるエンターテインメントとして十分である。原作にまったくない「お天気お姉さん」まで登場させるサービス精神だ。

 私は独断と偏見の持ち主だから山田洋二の「寅さんシリーズ」が大嫌いである。だが、映画『静かな生活』はそれよりも好きになれない。私は『静かな生活』以外の伊丹十三の映画を見たことがないのだが、いったい彼は監督として何がしたかったのか。
 
 ところで、DVDを何回か見直すうちに、この映画の登場人物は、痴漢騒ぎの野次馬のおじさんまでも、ほとんどチェックの服を着ていることに気づいた。マーちゃん、重藤さん、その奥さん、オーちゃん、パパも、タータンチェック、マドラスチェック、グレンチェック、ギンガム、ダイヤ柄など、さまざまなチェックが登場する。チェックを着ないのはママと新井君だけである。イーヨーは横縞を着ていることが多いが一回だけチェックの服を着て出てくることがあったと思う。服だけでなく帽子、バッグ、水着、カーテン、クッションまでもチェックである。なんとなく気分に触ってくるものがある。

 それから、これもささいなことなのだが、映画の中で市松模様(これもチェックの一種だろうが)が、奇妙なところに使われているのに気がついた。海が見える道路のガードレールと新井君のマンションの駐車場の舗装(?)である。ガードレールは水色と白で、マンションの駐車場は黒と白である。おそらく特殊撮影なのだろうが、なぜこんなところに市松模様を使うのか。

 というわけで『晩年様式集』読解の助走どころか、準備体操にもなっていないありさまです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。