洗礼を受けたクリスチャンではないのに、讃美歌を歌うのが好きだ。中学、高校と6年間クリスチャンスクールに通って、毎日毎日礼拝の度に讃美歌を歌う生活をしてきた。説教とお祈りはほぼすべて忘れてしまったけれど、讃美歌はほとんど覚えている。旋律があるということは、記憶の維持に絶大な効果があるのだろう。そういえば、「主の祈り」は覚えているが、これは文語体で覚えさせられたからだろう。文語はいうまでもなく話し言葉ではないので、意味よりも音声で記憶する部分が大きいのだと思われる。
讃美歌も一人で歌うより何人かの人と、できればコーラスで歌うほうが好きだ。だから、先日ホームや教会や近隣の方たちとクリスマスの讃美歌を歌うことができて、ほんとうに幸せだった。無心に旋律そのものが導く感情に身をゆだねていると、魂が洗われていくような気がした。生きる勇気がわいてくるようにも思えた。
けれども、同時に私の中のどこかで「お前は歌うな」という中野重治の詩の一節が聞こえてくる。歌うな、「語れ」。何を?・・・・・・
十数年前、私は「平安女流文学における散文成立の一考察_蜻蛉日記の歌の別れを中心に」という論文を書いた。当代一の和歌の名手といわれた作者道綱母が、なぜ、散文を書いたか、書かなければならなかったか、そして書かれた散文が到達した地点はどのようなものであったか、をテキストに即して通時的に考察したものである。いま、私は、道綱母でなく私自身が、なぜ「歌わずに」書き続けなければならないのかを自問している。
まだ書かなければならないことはたくさんあるのですが、というより何も書けていないのですが、もうすぐ日付が変わってしまうので、続きはまたにします。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2011年12月30日金曜日
2011年12月29日木曜日
D・Hローレンス『チャタレイ夫人の恋人』___矮小化されてしまった人類再生の希望
今日は、ハードボイルドよりもっとハードなイギリスの作家D.Hローレンスです。
最初にローレンスの作品に触れたのは、30歳を過ぎて始めた大学の通信教育の教材だった。ローレンスの自伝ともいえる『息子と恋人』から抜粋した文章がイギリス文学の教材として使用されていた。いわゆる「チャタレイ裁判」がいまほど風化していない時代だったから、これを選択した教授の見識にあらためて敬意を表したい。テキストの文章は、ダイナミックで、しかも流麗という印象があった。もちろん、つねに辞書を引きながら悪戦苦闘して読み進んだのだが。
比較的短い生涯に、驚くほど多作だったローレンスが、死の2年前に完成させた作品が『チャタレイ夫人の恋人』である。この作品のテーマが、その性描写をめぐって「猥褻か否か」という問題に矮小化され、矛盾を顕在化させていた資本主義への批判とその超克、というおそらく死を予感しつつあったローレンスが最も訴えたかった核心の部分が、いまだ議論の対象になっていないことを、ずっと憂えている。というより、憤っている。権力はいつも核心に触れられることを避けるために、問題を矮小化する。俗情におもねるのは、そのために最も有効な手段である。
作品の主題は冒頭にあきらかである。作者は、直截すぎるほど直截に、こう書きだす。「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである。大災害はすでに襲来した」(伊藤整訳)
産業資本家で貴族の夫が戦争で不能になり、若くして寡婦のような生活を強いられていた主人公の女性が、領地の森番の男を愛し、彼の子どもをみごもり、決然と二人の生活を確立しようと歩き出す、というストーリーは、あまりにも図式的である、といわれてもしかたがないかもしれない。しかし、どの人物も、けっしてステロタイプの操り人形ではなく、生き生きと個性的である。敵役の夫クリフォドさえも。随所に挿入されるみずみずしい自然描写もすばらしく、かなりの長編小説であるにもかかわらず、読み始めたら一気に読了してしまう。読了して誰もがローレンスがこの小説にこめたメッセージを受け取るはずなのだ。人間を抹殺する現代文明への批判と、性愛によるその超克と人類の再生、という希望のメッセージを。
ここに冒頭書き出しの文章に続く部分を転記するので、興味をもたれた方は、どうか作品全部を読み通していただきたい。そしてローレンスによって提起された問題がいまだなに一つ解決されていないばかりでなく、隠蔽されつづけていることについて考えていただきたいと思う。
「われわれは廃墟のまっただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来に向かって進むなだらかな道は一つもない。しかしわれわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害がふりかかろうともわれわれは生きなければならないのだ」
今日も最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
最初にローレンスの作品に触れたのは、30歳を過ぎて始めた大学の通信教育の教材だった。ローレンスの自伝ともいえる『息子と恋人』から抜粋した文章がイギリス文学の教材として使用されていた。いわゆる「チャタレイ裁判」がいまほど風化していない時代だったから、これを選択した教授の見識にあらためて敬意を表したい。テキストの文章は、ダイナミックで、しかも流麗という印象があった。もちろん、つねに辞書を引きながら悪戦苦闘して読み進んだのだが。
比較的短い生涯に、驚くほど多作だったローレンスが、死の2年前に完成させた作品が『チャタレイ夫人の恋人』である。この作品のテーマが、その性描写をめぐって「猥褻か否か」という問題に矮小化され、矛盾を顕在化させていた資本主義への批判とその超克、というおそらく死を予感しつつあったローレンスが最も訴えたかった核心の部分が、いまだ議論の対象になっていないことを、ずっと憂えている。というより、憤っている。権力はいつも核心に触れられることを避けるために、問題を矮小化する。俗情におもねるのは、そのために最も有効な手段である。
作品の主題は冒頭にあきらかである。作者は、直截すぎるほど直截に、こう書きだす。「現代は本質的に悲劇の時代である。だからこそわれわれは、この時代を悲劇的なものとして受け入れたがらないのである。大災害はすでに襲来した」(伊藤整訳)
産業資本家で貴族の夫が戦争で不能になり、若くして寡婦のような生活を強いられていた主人公の女性が、領地の森番の男を愛し、彼の子どもをみごもり、決然と二人の生活を確立しようと歩き出す、というストーリーは、あまりにも図式的である、といわれてもしかたがないかもしれない。しかし、どの人物も、けっしてステロタイプの操り人形ではなく、生き生きと個性的である。敵役の夫クリフォドさえも。随所に挿入されるみずみずしい自然描写もすばらしく、かなりの長編小説であるにもかかわらず、読み始めたら一気に読了してしまう。読了して誰もがローレンスがこの小説にこめたメッセージを受け取るはずなのだ。人間を抹殺する現代文明への批判と、性愛によるその超克と人類の再生、という希望のメッセージを。
ここに冒頭書き出しの文章に続く部分を転記するので、興味をもたれた方は、どうか作品全部を読み通していただきたい。そしてローレンスによって提起された問題がいまだなに一つ解決されていないばかりでなく、隠蔽されつづけていることについて考えていただきたいと思う。
「われわれは廃墟のまっただなかにあって、新しいささやかな棲息地を作り、新しいささやかな希望をいだこうとしている。それはかなり困難な仕事である。未来に向かって進むなだらかな道は一つもない。しかしわれわれは、遠まわりをしたり、障害物を越えて這いあがったりする。いかなる災害がふりかかろうともわれわれは生きなければならないのだ」
今日も最後まで読んでくださって、ほんとうにありがとうございます。
2011年12月28日水曜日
「もう、あげるものは何もないのだよ、レティシャ」____ハードボイルド文学論試論
昨日は魂を洗われるような童話だったけれど、今日はちょっと辛口の60年代ハードボイルドを取り上げてみたいと思います。今日も常体の文章でいきます。
私の青春の文学はアメリカのハードボイルドと呼ばれるミステリー小説だった。フランスやイギリスの作家のものも読んだけれど、なんてったって、お気に入りは、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの御三家で、とりわけレイモンド・チャンドラーの作品が好きだった。「寝てはレイモンド、覚めてはチャンドラー」の毎日が続いた。でも、今日取り上げるのは、一番遅れて登場したロス・マクドナルドの最高傑作「さむけ」の衝撃的なラストのセリフ「もう、あげるものは何もないのだよ、レティシャ」
推理小説のあらすじを、とくに結末を語るのはルール違反である。なので、くわしい説明はできないのだが、これは、主人公(というより作品のなかで、コマ回しの役割を果たす)の探偵リュウ・アーチャーが、息子と偽って生活を共にしてきた年下の恋人を拳銃で撃って殺してしまった富豪の老婦人にたいしてかけた言葉なのだ。恋人が少年のころから、彼を愛し、庇護し、生活を支え、そして彼から愛されてきた一人の女性が、恋人を独占するために殺人を重ね、最後には誤って恋人を殺してしまう。拳銃を手に、茫然と立ちすくむ老婦人に「もう、拳銃はいけない」とさとし、冒頭のセリフを投げかけて小説は幕を閉じる。
「もっと、もっと、もっと」ほしがって、手に入れて、それでもほしがって、最後には、命までも奪って、恋人のすべてを手に入れたレティシャ。手に入れた瞬間に、彼女はすべてを失ったのだ。ロス・マクドナルドは、なんと愚かで、そしてなんと魅力的な主人公を造形したのだろう。この作品は1964年アメリカがベトナム戦争に介入し始めた頃に書かれている。製造業を中心とするアメリカ資本主義がまさに成熟期を迎える時代だ。だが、すでに、頽廃の影がしのびよっている。レティシャは、そんなアメリカを象徴するようだ。
不況の30年代に芽生え、おそらくは50年代が絶頂期だったと思われるアメリカのハードボイルド小説は、勃興してきた資本主義へのアンチ・テーゼであるとする中田耕治氏の論がある。私もそう思う。そのことを、この「さむけ」を題材に考えてみようと思ったが、今日はこれまで。もう少し精読しないと書けないことが多すぎるので、愚娘に貸してあるテキストを返してもらいます。今日も、こんなまとまりのない文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
私の青春の文学はアメリカのハードボイルドと呼ばれるミステリー小説だった。フランスやイギリスの作家のものも読んだけれど、なんてったって、お気に入りは、ハメット、チャンドラー、マクドナルドの御三家で、とりわけレイモンド・チャンドラーの作品が好きだった。「寝てはレイモンド、覚めてはチャンドラー」の毎日が続いた。でも、今日取り上げるのは、一番遅れて登場したロス・マクドナルドの最高傑作「さむけ」の衝撃的なラストのセリフ「もう、あげるものは何もないのだよ、レティシャ」
推理小説のあらすじを、とくに結末を語るのはルール違反である。なので、くわしい説明はできないのだが、これは、主人公(というより作品のなかで、コマ回しの役割を果たす)の探偵リュウ・アーチャーが、息子と偽って生活を共にしてきた年下の恋人を拳銃で撃って殺してしまった富豪の老婦人にたいしてかけた言葉なのだ。恋人が少年のころから、彼を愛し、庇護し、生活を支え、そして彼から愛されてきた一人の女性が、恋人を独占するために殺人を重ね、最後には誤って恋人を殺してしまう。拳銃を手に、茫然と立ちすくむ老婦人に「もう、拳銃はいけない」とさとし、冒頭のセリフを投げかけて小説は幕を閉じる。
「もっと、もっと、もっと」ほしがって、手に入れて、それでもほしがって、最後には、命までも奪って、恋人のすべてを手に入れたレティシャ。手に入れた瞬間に、彼女はすべてを失ったのだ。ロス・マクドナルドは、なんと愚かで、そしてなんと魅力的な主人公を造形したのだろう。この作品は1964年アメリカがベトナム戦争に介入し始めた頃に書かれている。製造業を中心とするアメリカ資本主義がまさに成熟期を迎える時代だ。だが、すでに、頽廃の影がしのびよっている。レティシャは、そんなアメリカを象徴するようだ。
不況の30年代に芽生え、おそらくは50年代が絶頂期だったと思われるアメリカのハードボイルド小説は、勃興してきた資本主義へのアンチ・テーゼであるとする中田耕治氏の論がある。私もそう思う。そのことを、この「さむけ」を題材に考えてみようと思ったが、今日はこれまで。もう少し精読しないと書けないことが多すぎるので、愚娘に貸してあるテキストを返してもらいます。今日も、こんなまとまりのない文章を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
2011年12月27日火曜日
『子うさぎましろの話』の話
今日もクリスマスの話。これじゃ、気分はいつもクリスマスですね。で、今日は読書感想文なので、常体の文章でいきます。
遥かな昔、子どもたちに読んできかせた美しい絵本がある。『子うさぎましろの話』で、佐々木たづさんという作家の比較的初期の作品だったように思う。
クリスマスの日に、サンタさんからもらったケーキをペロリと食べてしまった子うさぎのましろがもっとほしくなって、「まだプレゼントをもらっていない」と嘘をついてサンタさんにせがむ。困ったサンタさんが「もう残っているのはこれだけだから」とモミの種をましろにくれる。そうすると、ましろは、自分が嘘をついたことが恥ずかしくなり、モミの種をサンタさんに返そうとするが、返せなくなってしまったので「そうだ、これは神様にお返ししよう。神様からもらったものだから」と雪を掘って、地面の中に埋める。翌年、雪がとけてモミの種は芽生え、何年かすると、立派な木になりましたという童話である。
いまこの童話を思い返して(読み返してではない。記憶を頼りにストーリーを反芻している)、しずかに感動している。ここには、「一粒の麦地において死なずんば…」の壮烈な意志も、宮沢賢治の禁欲的な献身もない。素朴で自然な反省と行為があるだけだ。おいしいものはもっとほしい。でも、「もっと」はもらえない。ほしいからって、嘘をつくのは恥ずかしいことなのだ。それでも神様は「ほしがった」ものとは違うけれど、さらにプレゼントをくださった。だから、それを、自分のために使うのではなくて、「神様にお返ししよう」と、ましろは思うことができたのだ。
作者の佐々木たづさんが、高校時代に失明し『ロバータさあ歩きましょう』という随筆でエッセイストクラブ賞をもらったという経歴をつけ加えるのは、まったくの蛇足である。珠玉のような童話をいくつも紡ぎだしたのは、彼女の失明という体験によるのではなく、状況の中で耳を澄ませて自分の生きる道しるべを求め続けたほんとうの「信仰」のたまものだったのだろう。
それでも、人は、もちろん私も含めて「もっと、もっと」ほしがるのだ。あるいは「ほしい」気にさせられてしまうのだ。なぜか?そしてどうすればいいのか?・・・・・・
と、いうようなことを、試行錯誤、寄り道しながら、このブログで考えていこうと思っています。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
遥かな昔、子どもたちに読んできかせた美しい絵本がある。『子うさぎましろの話』で、佐々木たづさんという作家の比較的初期の作品だったように思う。
クリスマスの日に、サンタさんからもらったケーキをペロリと食べてしまった子うさぎのましろがもっとほしくなって、「まだプレゼントをもらっていない」と嘘をついてサンタさんにせがむ。困ったサンタさんが「もう残っているのはこれだけだから」とモミの種をましろにくれる。そうすると、ましろは、自分が嘘をついたことが恥ずかしくなり、モミの種をサンタさんに返そうとするが、返せなくなってしまったので「そうだ、これは神様にお返ししよう。神様からもらったものだから」と雪を掘って、地面の中に埋める。翌年、雪がとけてモミの種は芽生え、何年かすると、立派な木になりましたという童話である。
いまこの童話を思い返して(読み返してではない。記憶を頼りにストーリーを反芻している)、しずかに感動している。ここには、「一粒の麦地において死なずんば…」の壮烈な意志も、宮沢賢治の禁欲的な献身もない。素朴で自然な反省と行為があるだけだ。おいしいものはもっとほしい。でも、「もっと」はもらえない。ほしいからって、嘘をつくのは恥ずかしいことなのだ。それでも神様は「ほしがった」ものとは違うけれど、さらにプレゼントをくださった。だから、それを、自分のために使うのではなくて、「神様にお返ししよう」と、ましろは思うことができたのだ。
作者の佐々木たづさんが、高校時代に失明し『ロバータさあ歩きましょう』という随筆でエッセイストクラブ賞をもらったという経歴をつけ加えるのは、まったくの蛇足である。珠玉のような童話をいくつも紡ぎだしたのは、彼女の失明という体験によるのではなく、状況の中で耳を澄ませて自分の生きる道しるべを求め続けたほんとうの「信仰」のたまものだったのだろう。
それでも、人は、もちろん私も含めて「もっと、もっと」ほしがるのだ。あるいは「ほしい」気にさせられてしまうのだ。なぜか?そしてどうすればいいのか?・・・・・・
と、いうようなことを、試行錯誤、寄り道しながら、このブログで考えていこうと思っています。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
2011年12月26日月曜日
イエスさまを信じる人もそうでない人も
昨日は、一緒にクリスマスをお祝いしました。
自宅を借りていただいているホームの方たちと、訪問してくださった地域の教会の方たちと、そして飛び入りで参加した私たちが、数十分のあいだ一緒にクリスマスの讃美歌を歌いました。
ただそれだけで、決して平易ではない日常を、また来年も乗り越えていこうという思いがわいてきました。
なので、1日遅れですが、それでもやはり、メリー・クリスマス!
自宅を借りていただいているホームの方たちと、訪問してくださった地域の教会の方たちと、そして飛び入りで参加した私たちが、数十分のあいだ一緒にクリスマスの讃美歌を歌いました。
ただそれだけで、決して平易ではない日常を、また来年も乗り越えていこうという思いがわいてきました。
なので、1日遅れですが、それでもやはり、メリー・クリスマス!
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