『注文の多い料理店』中「からすの北斗七星」に次いで五番目の作品で、春間近の北国を襲う雪嵐を描いた短編である。
「雪婆んごは遠くへ出かけておりました。」と始まるこの童話は擬人法で語られている。雪婆んごとその指揮下にある四人の雪童子、雪童子の手下となって獅子奮迅の働きをする十一匹の雪狼、これらが雪嵐を起こすのだが、「猫のような耳をもち、ぼやぼやした灰色の髪をした」雪婆んごの存在は特異である。「きょうはここらは水仙月の四日だよ。さあしっかりさ。ひゅう。」と檄を飛ばし、縦横無尽に空をかけめぐる雪婆んごの命令は絶対で、雪童子も雪狼も極度に緊張して動き回る。
雪婆んごが「西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲をこえて、遠くへ出かけて」しばし不在のとき、この物語は始まる。子どもが一人「大きな象の頭の形をした、雪丘のすそを」歩いている。子どもは「赤い毛布(けっと)にくるまって、しきりにカリメラのことを考えながら」家に急いでいる。あたりの光景は、
「お日さまは、空のずうっと遠くのすきとおったつめたいとこで、まばゆい白い火をどしどしおたきなさいます。
その光はまっすぐ四方に発射し、下の方に落ちてきては、ひっそりした台地の雪を、いちめんまばゆい雪花石膏の板にしました。」
と書かれ、絵画のように美しい描写である。ここに「白くまの毛皮の三角ぼうしをあみだにかぶり、顔をりんごのようにかがやかし」たひとりの雪童子が登場して、物語は展開するのだが、この雪童子とは何者なのか。「象の頭のかたちをした雪丘」、「四方に発射された」太陽の光、「雪花石膏の板になった台地」という表現とともにあらわれる「童子」は、たんに雪婆んごの命令の執行者ではないだろう。ある宗教的存在を暗喩していると思われる。
「象の頭のかたちをした、雪丘」を、雪狼のうしろから歩いていた雪童子は、空を見上げて呪文のような言葉をさけぶ。
「カシオピイヤ、
もう水仙が咲き出すぞ
おまえのガラスの水車
きっきとまわせ」
「アンドロメダ、
アザミの花がもうさくぞ、
おまえのラムプのアルコオル、
しゅうしゅとふかせ。」
カシオペア座とアンドロメダ座という二つの星座(それらはいまは見えない星々なのだが)への叫びの意味するものについては、「熱機関概念の拡張とネゲントロピー〈宮沢賢治の物理学〉」という論文で元近畿大学理工学部の伊藤仁之氏が解析しておられる。物理学はおろか、自然科学一般について知識と素養の乏しい私は、残念ながら、伊藤氏の論を十分理解できたとは言い難く、したがって、うまく要約、紹介することができない。興味のある方は上記のタイトルでPDFになっているものを読んでいただきたい。
伊藤氏の論文に助けられながら、私なりに考察すると、賢治はこの二つの星座が連携し合って行う運行と、カリメラ≒電気菓子の装置をある相似形のものとしてとらえたのではないか。どちらも、熱と回転の作用で、星座の運行は吹雪を、カリメラ≒電気菓子の装置は綿菓子をつくる。伊藤氏はこの作品を
「電気菓子と吹雪の機構を同一視する賢治の洞察は、物理学的には、相変化もアウトプットとするような熱機関概念の一般化へと止揚されるであろう。さらにこの類推は大気の大循環にまでひろげることもできる。じつは「水仙月の四日」は局地的な吹雪の物語にとどまるものではなく、この大循環を下敷きに、宇宙原理(文学的な)にいたろうという壮大な童話なのである。天の星座に水車とランプがかくされており、ランプの熱と水車の回転の結果が森羅万象なのである。」
と総括しておられる。作品の自然科学的理解としてほぼ完璧だと思われるのだが、私にももう少し言うべきことが残されているような気がするので、そのことを書いてみたい。ひとつは、雪童子が子どもになげつけたやどりぎについてである。
象の形の丘にのぼった雪童子は、その頂上に一本の大きなくりの木が、黄金いろのやどりぎのまりを付けて立っているのを見つける。雪童子は雪狼の一匹にいいつけて、それを取ってこさせる。雪狼がかじりとったやどりぎを拾いながら、雪に覆われた下の町をながめた雪童子は、赤毛布を着た子どもが家路を急いでいるのを見る。「あいつはきのう、木炭のそりを押して行った。砂糖を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」と、雪童子はわらいながらやどりぎの枝を子どもにむかってなげつける。
いきなり目の前にやどりぎの枝が落ちてきて、子どもはびっくりするが、枝をひろってあたりを見まわす。そこで、雪童子が革むちをひとつならすと、一片の雲もない真っ青な空から、さぎの毛のような真っ白な雪が一面におちてくる。
「それは下の平原の雪や、ビールいろの日光、茶いろのひのきでできあがった、しずかなきれいな日曜日をいっそう美しくしたのです。」
と書かれる光景は、東北の寒村というより、どこかユーラシア大陸の北の農村のように思われるのだが。
雪童子はなぜやどりぎのまりを雪狼に取ってこさせたのだろう。ここにこの童話を読み解く重要な鍵があるのかもしれないが、いまの私には解けない謎である。
それに比べれば、雪童子がやどりぎを赤毛布を着た子どもに投げた理由はわかりやすい。子どもの頭をいっぱいにしているカリメラとやどりぎのかたちが似ているからである。糸状にした砂糖が綿のようにかたまったカリメラと、細い枝が交叉してまりのようになったやどりぎは、カシオペアとアンドロメダの二つの星座の連携と綿菓子の製造装置が相似形であるように、菓子と半寄生の生物の違いはあれ、かたちは相似形といえるのではないか。「ほら、カリメラをやるよ。」くらいの親近感とユーモアで雪童子は子どもにやどりぎを投げた、とひとまず解釈しておきたい。
子どもはやどりぎの枝をもって歩きだすが、その後雪嵐が襲ってくる。雪婆んごが戻ってきたのだ。擬人化された雪婆んごの脅威は絶大で、その到来の予兆だけで雪童子も雪狼も緊張の極に達する。灰色の雪ときりさくような風の中から雪婆んごの声が聞こえると、りんごのようにかがやいていた雪童子の顔は青ざめ、くちびるはかたくむすばれる。「ひゅうひゅう、ひゅひゅう、ふらすんだよ、飛ばすんだよ。」「さあ、しっかりやっておくれ。きょうはここらは水仙月の四日だよ。」と、雪婆んごは檄をとばしつづけるのだが、「水仙月の四日」とは何か。
「ここらは」水仙月の四日、ということは、「ここら」以外は「水仙月の四日」ではない。「水仙月の四日」とは、暦の上の特定の日ではなく、特別なイベントなのだろう。北の雪嵐作戦、とでもいうような。二十年くらい前、アメリカがイラクに攻め込んだとき「砂漠の砂嵐作戦」と名付けていたような気がする。作品と関係ないことで、うろ覚えだが。
突然襲ってきた雪嵐の中、赤毛布の子は歩くことが出来なくなって、倒れてしまう。雪童子は、子どもに、毛布をかぶってうつむけになるよう声をかけるが、子どもにはただの風の声としか聞こえず、立ち上がろうともがいて泣いている。その声を聞いた雪婆んごは、「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。水仙月の四日だもの、ひとりやふたりとったっていいんだよ。」という。雪童子は、子どもにわざとひどくぶつかり、雪婆んごに聞こえるように「ええ、そうです。さあ、死んでしまえ。」と言うが、子どもには、倒れたままで動くなと指示する。そしてもういちどひどくぶつかって、もう起き上がれない子どもに毛布をかけてやり、こごえないように、その上にたくさんの雪をかぶせたのである。
この後、雪婆んごは「きょうは夜の二時までやすみなしだよ。ここらは水仙月の四日なんだから、やすんじゃいけない。」とさけぶ。そして、日が暮れ、夜を徹して雪がふったのだった。夜あけに近くなって、ようやく雪婆んごは、これから海のほうへ行くという。「ああ、まあいいあんばいだった。水仙月の四日がうまくすんで。」と東の方へかけていったのである。北の雪嵐作戦無事終了、といったところだろうか。雪婆んごは恐怖の総司令官であり有能な任務遂行者だが、作戦執行を命じる側の存在ではない。ヒエラルキーのトップは天のどこかにいるのだろう。
雪婆んごが去ると、空は晴れ、いちめんの星座がまたたきだす。雪婆んごが連れてきた三人の雪童子とやどりぎを子どもに投げた雪童子は、はじめて挨拶を交わす。今年中にあと二回くらい会うだろう、と言って雪童子たちは別れ、朝になる。丘も野原もあたらしい雪でいっぱいで、雪狼はぐったりしているが、雪童子は雪にすわってわらっている。「そのほおはりんごのよう、その息はゆりのようにかおりました。」とあって、ふたたび宗教的存在を暗喩する表現となっている。
太陽がのぼると、雪童子は雪に埋もれた子どもを起こしに行く。雪狼に命じて、雪をけちらし、赤い毛布の端がみえるようにする。村のほうから、かんじきをはき毛皮をきた子どもの父親らしき人がいそいでやってくる。「お父さんがきたよ。もう目をおさまし。」と雪童子がよびかける。「子どもはちらっとうごいたようでした。そして、毛皮の人は一生けん命走ってきました。」と結ばれる。
はたして、子どもは助かったのだろうか。
子どもの生死を考えるとき、雪童子が投げかけたやどりぎについてもう一度検討する必要があると思われる。「あしたの朝まで、カリメラのゆめをみておいで。」と子どもにいって、雪をかぶせた雪童子は
「「あの子どもは、ぼくのやったやどりぎをもっていた。」
とちょっと泣くようにしました。」
と書かれている。
やどりぎは、冬になって、宿主の木が葉を落としても枯れないことから強い生命力の象徴とされ、神が宿る木とされる。雪童子は、カリメラとのかたちの相似から子どもにやどりぎを投げかけたのだろうが、作者は、物語の要素として、死と再生の象徴をやどりぎに託したのではないか。だからといって、子どもが助かったかどうかは、不明だが。
やどりぎについて、最後にまた、蛇足をひとつ。十九世紀後半から二十世紀前半にかけて出版され、日本でも多くの学者に読まれたフレイザーの『金枝篇』という大作がある。世界各地の神話、民俗の研究書であるが、誰も折ってはならないとされる金枝を折ることができるのは逃亡奴隷だけで、金枝を折った者は森の王を殺さなければならない、というイタリアのネーミに伝わる神話から始まる。この金枝がやどりぎのことである、といわれている。
賢治が『金枝篇』を読んでいたかどうかはわからない。だが、賢治より少し年長だが、ほぼ同時代の折口信夫が『金枝篇』について言及しているので、博覧強記の賢治の目に触れる機会があった可能性もある。であれば、やどりぎは、死と再生の象徴以上のものとして作品に登場したのではないか。雪童子がそれを雪狼に取ってこさせ、さらに、赤い毛布を着た子どもに投げた、という行為の意味をもう一度考えなければならない。
雪童子については「りんごのようなほお」と「ゆりのようにかおる息」という表現が暗喩する宗教的存在を語らなければならないと思うのだが、仏教の素養が乏しい私の力の及ぶところではない。たぶん、菩薩と呼ばれるものだろうと思う。いっぽう「白くまの毛皮の三角ぼうしをあみだにかぶり」と書かれているのは、また別の表徴である。雪童子とは何か、雪童子が救おうとした赤い毛布を着た子どもは、なぜ、一人で雪道を家に向かっていたのだろう、とまたもや物語の原点に戻って、私は謎と向き合っている。
緊張感にみちた美しい叙景詩ともいうべきこの作品に、無用の解析を試みてしまったような気がしています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。