きわめて根本的な問題提起である。「バナナ魚」とは何か。「サリンジャー」とは何か、という問題提起であり、「サリンジャー現象」とは何か、という問題提起でもある。
私のサリンジャー体験は『フラニーとゾーイ』から始まった。そのことがサリンジャーの作品に対して、かなりバイアスのかかった受容を余儀なくさせてしまったように思う。作品の中で語られる一見宗教的、哲学的な話題を、作品の主題のように受けとめてしまった。だが、繰り返すが、小説は「世態、風俗」をこそ読むべきなのである。「物に即して物を語る」のでなければ、小説を書く意味はないだろう。
だから、「バナナ魚」は、あくまで「バナナ魚」であって、「あくなき物欲」とか「捨て切れないエゴ」などの抽象的な概念ではない。「バナナを食べる魚」なのである。作品中にそう書かれている。「バナナを食べて、食べ過ぎて穴から出られなくなってしまう」という「悲劇的な運命」をたどる「物」である。シーモアはシビルを連れて海に出て、シビルがそれを見つけたから、ホテルに戻って、自分の部屋で、眠るミュリエルの隣のベッドで「七・六五ミリ口径のオルトギース自動拳銃」を取り出し、「自分の右のこめかみを撃ち抜いた」のだ。
それでは、シビルが見つけた「バナナ魚」という「物」は何の「物」か?これが何か、ををつきとめるのは、実は日本語に訳されたものを読んでいる限り、かなり困難、というか絶望に近いのではないか。日本語の限界なのか、翻訳というものの限界なのか、はたまた翻訳家の問題なのか、私にはわからない。外国語を一対一の対応で日本語に置き換えるという作業は成り立つのだろうか、とさえ思ってしまう。
たとえば、バナナ魚を見つけたシビルにシーモアが接吻する場面、野崎孝さんの訳は、「こら!」とシビルが叫ぶ。シーモアも「そっちこそ、こらだ!」となっている。橋本福夫さんは「いやだわ!」「こっちこそいやだわ、だ!」と訳している。原文は
"Hey!" "Hey,yourself"なのである。私だったら、「やったね!」「そっちこそ、やったよ!」くらいに訳したい。野崎さん、橋本さんは、シーモアがシビルの足に接吻したことに対してのシビルの反応として「いやだわ!」や「こら!」という訳をつけたのだろう。だが、ここは「バナナ魚を見つけた!」という喜びと驚きのニュアンスを大事にしたいところだと思う。
それから、小説の前半、全体の半分以上の分量を占めるミュリエルと母親の会話も、日本語の訳ではたんに通俗的な母親が、繊細な神経をもった青年と結婚した娘を心配している日常的なもののように感じられる。原文でもそうなのだが、それでもどこかニュアンスが違う。そう訳すしかない、とは思うものの、でも、なんとかならないものか、という訳がついている部分が何箇所もある。でも、それは翻訳の問題というより、サリンジャー自身が仕掛けた罠なのだろう。「サリンジャ―」とは何者なのか?
サリンジャーとは何か、はひとまず置いて、「サリンジャー現象」については、はっきりしている。『ナイン・ストーリーズ』の裏カバーに「九つの『ケッ作』」という表記がされていることに明らかなように、体制に批判的な若者の青春をユーモラスに描いた「アンチ・ヒーロー」の物語であり、純真な子供、ないし子供時代への共感の物語として彼の作品を受け止め、それにたいする讃歌である。だが、ほんとうにそうなのか。『ライ麦畑でつかまえて』の主人公ホールデンは「やせっぽちで、弱虫で、平和主義者」だと自称しているが、同時に「僕は嘘つきで、いくらだって嘘がつけるんだ」とも言っている。私が見る限り、ホールデンは「アンチ・ヒーロー」どころか、まぎれもないヒーローだ。カッコいい、カッコよ過ぎるヒーローなのである。そして、シーモアもまた、まぎれもないヒーローなのだと思う。戦争で神経を病んだ、繊細な若者ではなく。
おそらく、サリンジャーは、文字の表面だけを追いかけていたら、必ず彼の仕掛けた罠に嵌まるように、書いたのだろう。特に「日本語」で訳した場合に。そして日本語になった自分の小説が、どのように読まれるか、ずっと関心をもちつづけていたに違いない。彼の「日本」への理解と関心は、たんなる東洋趣味という範疇のものではないように思われる。
今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
2012年3月28日水曜日
2012年3月21日水曜日
「バナナ魚には理想的な日」三度______「鏡の中に見るごとく」___サリンジャーとは何か
もうしばらく書かないと言ったのに、また書いてしまう軽挙妄動の私です。でも、このままだと、ブログを読んでくださっている方たちを、半ばミスリードした状態のような気がします。もう少し書いておきたいと思います。
「グラース・サーガ」と呼ばれる一連の小説を書くにあたって、サリンジャーが拠り所にしたのは、以前にも書いたようにコリント信徒への手紙一の13章いわゆる「愛の讃歌」だと思われる。その中でも特に11節から12節「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」
少し長くなったが、サリンジャーの方法論はここにあると思う。「鏡の中に見るごとく」は有名な言葉だが、その意味するところは深い。「シーモア・グラース」の「グラース」はもちろん「鏡」を意味する。私たちは作品を読むとき「シーモアという鏡」の中に事象を見るのである。鏡の中に見る事象はどのように見えるか。
ところで、平均的な日本人である私は、表題の作品に限らず、サリンジャーの作品すべてを、最初は日本語に訳されたかたちで読む。橋本福夫さんも野崎孝さんもすばらしい訳をつけてくださっているのだが、やはり原文を読まないとどうしても理解できない箇所はいくつかある。だから、私たちは「鏡の中の事象」をさらに「日本語というフィルター」をかけて見ていることになる。せめてそのフィルターだけでもいったん外してみると、「おぼろに映ったもの」はいくらかでも、はっきり見えるようになる。
それでもきっと私たちは「今は一部しか知らない」のだろう。なんだか聖書の講釈をしているようだが、そうではない。サリンジャーの作品世界の話である。「バナナ魚には理想的な日」に限らず、サリンジャーの小説は三通りの読み方がある。三通りの次元、といったほうがいいのかもしれない。文字で書かれた現実の次元、その下層にある神話的次元(いままでの私の読解はここまでだった)、もっとも深層にある歴史的次元の三つである。私たちがサリンジャーの作品を理解しようと思うなら、目を皿のようにして一字一句見逃さずに文字を追い、そこに神話的次元のメタファーを読み取り、それを媒介にして歴史的次元の事実を見つけ出さなければならない。「もっとグラスを見る」。この小説の中でシビルが最初につぶやく言葉はSee more glassであり、Did you see more glass?なのである。Seymourではなく。
もう一度コリント信徒への手紙一の13章に戻ろう。続く13節はこうである。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」_____果たして、サリンジャーは愛を語ったのか?
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「グラース・サーガ」と呼ばれる一連の小説を書くにあたって、サリンジャーが拠り所にしたのは、以前にも書いたようにコリント信徒への手紙一の13章いわゆる「愛の讃歌」だと思われる。その中でも特に11節から12節「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」
少し長くなったが、サリンジャーの方法論はここにあると思う。「鏡の中に見るごとく」は有名な言葉だが、その意味するところは深い。「シーモア・グラース」の「グラース」はもちろん「鏡」を意味する。私たちは作品を読むとき「シーモアという鏡」の中に事象を見るのである。鏡の中に見る事象はどのように見えるか。
ところで、平均的な日本人である私は、表題の作品に限らず、サリンジャーの作品すべてを、最初は日本語に訳されたかたちで読む。橋本福夫さんも野崎孝さんもすばらしい訳をつけてくださっているのだが、やはり原文を読まないとどうしても理解できない箇所はいくつかある。だから、私たちは「鏡の中の事象」をさらに「日本語というフィルター」をかけて見ていることになる。せめてそのフィルターだけでもいったん外してみると、「おぼろに映ったもの」はいくらかでも、はっきり見えるようになる。
それでもきっと私たちは「今は一部しか知らない」のだろう。なんだか聖書の講釈をしているようだが、そうではない。サリンジャーの作品世界の話である。「バナナ魚には理想的な日」に限らず、サリンジャーの小説は三通りの読み方がある。三通りの次元、といったほうがいいのかもしれない。文字で書かれた現実の次元、その下層にある神話的次元(いままでの私の読解はここまでだった)、もっとも深層にある歴史的次元の三つである。私たちがサリンジャーの作品を理解しようと思うなら、目を皿のようにして一字一句見逃さずに文字を追い、そこに神話的次元のメタファーを読み取り、それを媒介にして歴史的次元の事実を見つけ出さなければならない。「もっとグラスを見る」。この小説の中でシビルが最初につぶやく言葉はSee more glassであり、Did you see more glass?なのである。Seymourではなく。
もう一度コリント信徒への手紙一の13章に戻ろう。続く13節はこうである。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」_____果たして、サリンジャーは愛を語ったのか?
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月17日金曜日
「バナナ魚には理想的な日」再び___「スノビズムといこうぜ」
表題の小説を今回野崎孝さんの訳で読んでいて、気がついたことがある。シーモアがシビル・カーペンターを浮き袋に乗せて、波乗りをする場面だ。不安そうに「波が来た」というシビルに「波なんか無視しちまおう」とシーモアはこたえるのだが、問題はその後の彼の言葉だ。『ニューヨーカー短編集』の橋本福夫訳では『お上品ぶった二人づれというわけさ」となっているが、野崎訳では「スノビズムといこうぜ」となっている。こちらが原文の直訳だろう。これは「眼から鱗」だった。シーモアの死はまさに、「スノビズムといってしまった」のだ。
スノッブ、スノビズムという言葉を、私はたんに「知ったかぶり」とか「知識のひけらかし」くらいの意味にとらえていた。だが、コジェーブという哲学者の定義によれば、スノビズムとは「「与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、『形式的な価値に基づいて』それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機がなかったとしても、スノッブはあえてそれを否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ、愛でる」ことである。コジェーヴは日本の切腹をその例に挙げている。名誉、義理などの形式的な価値のために、実質的に死ぬ理由がないにもかかわらず、死を選ぶことが、スノビズムだという。
シーモアが生を否定した「形式的な価値」とは何だろうか。それは、シビルが「バナナ魚を見つけた」と言った言葉のうちにある。「バナナをくわえてた?」というシーモアの問いにシビルは「ええ、6本」と答える。するとシーモアはシビルの足を持ち上げて、その土踏まずの部分に接吻する。そして、「もうひきあげることにする。きみもじゅうぶんだろう?」と波乗りをやめてしまう。うまく波乗りが成功して恐怖と背中合わせの歓喜に満たされたシビルは、シーモアの愛を受け入れたのだ。だからシーモアは彼女の足に接吻した。そして、それで、儀式は完了した。この世で最も崇高な存在との結合。シャロン・リプシュッツという美しい空想上の名前をもつシビル・カーペンター。それはSibyl_Sybil Carpenter イエスの誕生と復活を予言するシュビラ=巫女であり、イエスそのものである。そもそも、波乗りという行為はバプテスマのメタファーだろう。シーモアはみずからを「イエスの履物のひもを解く値打ちもない」とするバプテスマのヨハネになぞらえたのか。
ホテルに戻ったシーモアは、妻のミュリエルが眠る傍らで、拳銃自殺する。「部屋には仔牛皮の新しいトランク類やマニキュアの除光液の臭いが漂っていた」とある。「ミュリエル」という名もまた、ギリシャ神話の「没薬をつかさどる香の女神」である。そしてシビル_シュビラは冥界への案内をする巫女だともいわれている。
これは、たんに謎解きをしただけで、何を言っていることにもなっていません。まさにnoteです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
スノッブ、スノビズムという言葉を、私はたんに「知ったかぶり」とか「知識のひけらかし」くらいの意味にとらえていた。だが、コジェーブという哲学者の定義によれば、スノビズムとは「「与えられた環境を否定する実質的理由がないにもかかわらず、『形式的な価値に基づいて』それを否定する行動様式である。スノッブは環境と調和しない。たとえそこに否定の契機がなかったとしても、スノッブはあえてそれを否定し、形式的な対立を作り出し、その対立を楽しみ、愛でる」ことである。コジェーヴは日本の切腹をその例に挙げている。名誉、義理などの形式的な価値のために、実質的に死ぬ理由がないにもかかわらず、死を選ぶことが、スノビズムだという。
シーモアが生を否定した「形式的な価値」とは何だろうか。それは、シビルが「バナナ魚を見つけた」と言った言葉のうちにある。「バナナをくわえてた?」というシーモアの問いにシビルは「ええ、6本」と答える。するとシーモアはシビルの足を持ち上げて、その土踏まずの部分に接吻する。そして、「もうひきあげることにする。きみもじゅうぶんだろう?」と波乗りをやめてしまう。うまく波乗りが成功して恐怖と背中合わせの歓喜に満たされたシビルは、シーモアの愛を受け入れたのだ。だからシーモアは彼女の足に接吻した。そして、それで、儀式は完了した。この世で最も崇高な存在との結合。シャロン・リプシュッツという美しい空想上の名前をもつシビル・カーペンター。それはSibyl_Sybil Carpenter イエスの誕生と復活を予言するシュビラ=巫女であり、イエスそのものである。そもそも、波乗りという行為はバプテスマのメタファーだろう。シーモアはみずからを「イエスの履物のひもを解く値打ちもない」とするバプテスマのヨハネになぞらえたのか。
ホテルに戻ったシーモアは、妻のミュリエルが眠る傍らで、拳銃自殺する。「部屋には仔牛皮の新しいトランク類やマニキュアの除光液の臭いが漂っていた」とある。「ミュリエル」という名もまた、ギリシャ神話の「没薬をつかさどる香の女神」である。そしてシビル_シュビラは冥界への案内をする巫女だともいわれている。
これは、たんに謎解きをしただけで、何を言っていることにもなっていません。まさにnoteです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年2月13日月曜日
「バナナ魚には理想的な日」___喪失からの出発
初めてサリンジャーの作品を読んだのは「バナナ魚には理想的な日」だった。これもまた『ニューヨーカー短編集』に掲載されているものを読んだ。日本で『ニューヨーカー短編集』が発行されたのは1969年だったが、作品自体は1948年に発表されている。私にとっては、当時も今も難解な作品である。
「ミュリエル」という名の若い女性が、旅先のフロリダのホテルから母親に長距離電話をかけている。新婚の夫と旅行にきたのだが、夫のシーモアという男は精神異常者だというので、母親は心配でならないのだ。だが、夫から「一九四八年のミス精神的浮浪者(スピリチュアル・トランプ)」と呼ばれている若い女性は、いっこうに気にしている様子はない。長距離電話の順番を待っている間に『セックスは快楽か___それとも地獄』という雑誌を読んだり、爪にマニキュアを塗ったりしている。
同じホテルの砂浜でシビル・カーペンターという小さな女の子が母親に陽やけどめ油をぬってもらっている。母親がホテルに上がって、解放された少女は、砂浜で寝ころんでいるシーモアのところに走っていく。明日父親がホテルに来るという少女を浮き袋にのせて、シーモアは海に入る。そこで、バナナのある穴に入り込んで、たべすぎて出られなくなって死んでしまう「バナナ魚」を探そうと言う。浮き袋の上で波乗りに成功した女の子は「バナナ魚」を一匹見つけたとシーモアに報告する。シーモアは女の子の足に接吻して海から上がる。女の子は走ってホテルに戻り、シーモアも自分の部屋に戻って、妻の眠っているベッドの隣で拳銃自殺する。
謎に満ちたこの作品は、サリンジャーのいわゆる「グラース・サーガ」の第一作である。おそらく「グラース」という一家の姓も、新約聖書のコリント人への手紙13章「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」を暗示するものだろう。ミュリエル、シビル「カーペンター(大工の意。イエスの職業は大工であったといわれる)」という名前も聖書からの出自を直接示すのだろう。だが、この作品の中では、なぜシーモアが精神異常になったのか、俗物で平凡なミュリエルを妻にしたのか、そして自殺しなければならなかったのか、いっさい語られることはない。また、作中引用される「ちびくろサンボ」の虎の数は、実際は4匹なのに、なぜ「6匹」とシビルにいわせているのか。シビルが見つけたバナナ魚がくわえていたバナナの数もまた「6本」だったことにはどんな意味があるのか。シーモアの「足」にたいするこだわりはなぜか。などなど、謎は謎としてただ呈示されているだけである。
作中、シーモアが妻のミュリエルを「一九四八年の精神浮浪者(スピリチュアルトランプ)」と年号を冠して呼んだのは何か意味があるのだろうか。1948年はイスラエルの建国、同時に第一次中東戦争が勃発した年でもあった。この小説の中で「ロウとオリーブ」が好きな女の子シビルは、オリーブの好きな大学生のフラニーに成長するのだろうか。「シャロン」という美しい名で呼ばれる三歳半の女の子とは何か。さまざまな謎をはらんで、「1948年」シーモアは死ぬ。そして「シーモア神話」が誕生する。イエスが死んで、福音書が書かれたように。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「ミュリエル」という名の若い女性が、旅先のフロリダのホテルから母親に長距離電話をかけている。新婚の夫と旅行にきたのだが、夫のシーモアという男は精神異常者だというので、母親は心配でならないのだ。だが、夫から「一九四八年のミス精神的浮浪者(スピリチュアル・トランプ)」と呼ばれている若い女性は、いっこうに気にしている様子はない。長距離電話の順番を待っている間に『セックスは快楽か___それとも地獄』という雑誌を読んだり、爪にマニキュアを塗ったりしている。
同じホテルの砂浜でシビル・カーペンターという小さな女の子が母親に陽やけどめ油をぬってもらっている。母親がホテルに上がって、解放された少女は、砂浜で寝ころんでいるシーモアのところに走っていく。明日父親がホテルに来るという少女を浮き袋にのせて、シーモアは海に入る。そこで、バナナのある穴に入り込んで、たべすぎて出られなくなって死んでしまう「バナナ魚」を探そうと言う。浮き袋の上で波乗りに成功した女の子は「バナナ魚」を一匹見つけたとシーモアに報告する。シーモアは女の子の足に接吻して海から上がる。女の子は走ってホテルに戻り、シーモアも自分の部屋に戻って、妻の眠っているベッドの隣で拳銃自殺する。
謎に満ちたこの作品は、サリンジャーのいわゆる「グラース・サーガ」の第一作である。おそらく「グラース」という一家の姓も、新約聖書のコリント人への手紙13章「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」を暗示するものだろう。ミュリエル、シビル「カーペンター(大工の意。イエスの職業は大工であったといわれる)」という名前も聖書からの出自を直接示すのだろう。だが、この作品の中では、なぜシーモアが精神異常になったのか、俗物で平凡なミュリエルを妻にしたのか、そして自殺しなければならなかったのか、いっさい語られることはない。また、作中引用される「ちびくろサンボ」の虎の数は、実際は4匹なのに、なぜ「6匹」とシビルにいわせているのか。シビルが見つけたバナナ魚がくわえていたバナナの数もまた「6本」だったことにはどんな意味があるのか。シーモアの「足」にたいするこだわりはなぜか。などなど、謎は謎としてただ呈示されているだけである。
作中、シーモアが妻のミュリエルを「一九四八年の精神浮浪者(スピリチュアルトランプ)」と年号を冠して呼んだのは何か意味があるのだろうか。1948年はイスラエルの建国、同時に第一次中東戦争が勃発した年でもあった。この小説の中で「ロウとオリーブ」が好きな女の子シビルは、オリーブの好きな大学生のフラニーに成長するのだろうか。「シャロン」という美しい名で呼ばれる三歳半の女の子とは何か。さまざまな謎をはらんで、「1948年」シーモアは死ぬ。そして「シーモア神話」が誕生する。イエスが死んで、福音書が書かれたように。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年1月31日火曜日
「罪なき者まず石を打て」___法の内面化
「酒鬼薔薇」と名のる少年の事件が起こったのは十数年前のことだった。衝撃的な事実が報道され、非常に特殊な事件だったにもかかわらず、当時子どもをもつ親だけでなく、多くの人がこの事件を自分のこととして受け止めた。一人事件を起こした少年だけでなく、私たちが築き上げ、それなりの成熟度に達した日本の社会の側にも問題があるのではないかという議論が起こりつつあったと思う。
だが、少年法の規定で裁判が公開されなかったこともあって、事件にたいする関心は次第に薄れていった。その後も少年による犯罪は相次いだのだが、興味本位な報道が多く、事件の核心に迫ろうという姿勢はほとんど見られなかった。気がつけば、世の中の風潮が、少年法だけでなく、一般に刑法というものの厳罰化に向かっているように思われる。それでよいのだろうか。「罪なき者まず石を打て」ではなかったか。
「罪なき者まず石を打て」はヨハネによる福音書だけが伝えるエピソードである。朝早くイエスが神殿で民衆に教えていると、ユダヤ人指導者たちが、イエスを陥れようとして、姦淫した女を連れて来た。そして「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じているが」とイエスに問いかけた。だが、イエスは無言で、地面に指で何か書き続けているだけだった。再三の問いかけにイエスは答える。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていった。一人残った女にイエスは言う。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」
旧約聖書の伝える「律法」の規定は、具体的かつ厳格である。それはけっして体系的、概念的な「法律」ではない。少なくとも近代的な「法」ではなく、「刑罰の定め」という印象を受ける。非常に細かく複雑な刑罰で、しかも現代の私たちの感覚ではきわめて過酷である。独裁者の恣意で罰せられるのではなく、きちんと成文化した規定で罰せられるのだから、合理的であるとはいえようが。ユダヤ人指導者たちは、イエスに「(この過酷な)律法に従って、この女を殺せ、と命じるのか。命じなければ、法を破る、すなわち神に逆らうことになる」と迫った。律法の形式的な厳格性を利用して、自分たちは手を洗って高みの見物のまま、イエスの判断の言葉尻をとらえようとしたのだ。イエスは答えなかった。そして、問題を彼らユダヤ人指導者たちに投げ返したのだった。あなたたち自身は裁くことができるのか、と。
このエピソードはヨハネだけが伝えている。マタイによる福音書には、同じく姦淫の罪について「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」というイエスの言葉がある。とても、同じ人物の言葉とは思えない。このエピソードはヨハネが創作したものだろうか。それとも、マタイの方が創作なのだろうか。いずれにしろヨハネの描くイエス像は四福音書の中で非常に個性的である。イエスは、真理そのものでありながら、真理を説いて、人々を真理に導く教師として描かれているように思われる。イエスに問う人に、イエスは問い返す。「あなたはどうするのか」と。問いかけて、立ち止まらせて、その問いが自分に向けられたものだということに気づかせるのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
だが、少年法の規定で裁判が公開されなかったこともあって、事件にたいする関心は次第に薄れていった。その後も少年による犯罪は相次いだのだが、興味本位な報道が多く、事件の核心に迫ろうという姿勢はほとんど見られなかった。気がつけば、世の中の風潮が、少年法だけでなく、一般に刑法というものの厳罰化に向かっているように思われる。それでよいのだろうか。「罪なき者まず石を打て」ではなかったか。
「罪なき者まず石を打て」はヨハネによる福音書だけが伝えるエピソードである。朝早くイエスが神殿で民衆に教えていると、ユダヤ人指導者たちが、イエスを陥れようとして、姦淫した女を連れて来た。そして「律法では、こういう女は石で打ち殺せと命じているが」とイエスに問いかけた。だが、イエスは無言で、地面に指で何か書き続けているだけだった。再三の問いかけにイエスは答える。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉に、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていった。一人残った女にイエスは言う。「私もあなたを罪に定めない。これからは、もう罪を犯してはならない。」
旧約聖書の伝える「律法」の規定は、具体的かつ厳格である。それはけっして体系的、概念的な「法律」ではない。少なくとも近代的な「法」ではなく、「刑罰の定め」という印象を受ける。非常に細かく複雑な刑罰で、しかも現代の私たちの感覚ではきわめて過酷である。独裁者の恣意で罰せられるのではなく、きちんと成文化した規定で罰せられるのだから、合理的であるとはいえようが。ユダヤ人指導者たちは、イエスに「(この過酷な)律法に従って、この女を殺せ、と命じるのか。命じなければ、法を破る、すなわち神に逆らうことになる」と迫った。律法の形式的な厳格性を利用して、自分たちは手を洗って高みの見物のまま、イエスの判断の言葉尻をとらえようとしたのだ。イエスは答えなかった。そして、問題を彼らユダヤ人指導者たちに投げ返したのだった。あなたたち自身は裁くことができるのか、と。
このエピソードはヨハネだけが伝えている。マタイによる福音書には、同じく姦淫の罪について「みだらな思いで他人の妻を見る者は誰でも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたを躓かせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」というイエスの言葉がある。とても、同じ人物の言葉とは思えない。このエピソードはヨハネが創作したものだろうか。それとも、マタイの方が創作なのだろうか。いずれにしろヨハネの描くイエス像は四福音書の中で非常に個性的である。イエスは、真理そのものでありながら、真理を説いて、人々を真理に導く教師として描かれているように思われる。イエスに問う人に、イエスは問い返す。「あなたはどうするのか」と。問いかけて、立ち止まらせて、その問いが自分に向けられたものだということに気づかせるのだ。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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