2012年2月13日月曜日

「バナナ魚には理想的な日」___喪失からの出発

初めてサリンジャーの作品を読んだのは「バナナ魚には理想的な日」だった。これもまた『ニューヨーカー短編集』に掲載されているものを読んだ。日本で『ニューヨーカー短編集』が発行されたのは1969年だったが、作品自体は1948年に発表されている。私にとっては、当時も今も難解な作品である。

 「ミュリエル」という名の若い女性が、旅先のフロリダのホテルから母親に長距離電話をかけている。新婚の夫と旅行にきたのだが、夫のシーモアという男は精神異常者だというので、母親は心配でならないのだ。だが、夫から「一九四八年のミス精神的浮浪者(スピリチュアル・トランプ)」と呼ばれている若い女性は、いっこうに気にしている様子はない。長距離電話の順番を待っている間に『セックスは快楽か___それとも地獄』という雑誌を読んだり、爪にマニキュアを塗ったりしている。

 同じホテルの砂浜でシビル・カーペンターという小さな女の子が母親に陽やけどめ油をぬってもらっている。母親がホテルに上がって、解放された少女は、砂浜で寝ころんでいるシーモアのところに走っていく。明日父親がホテルに来るという少女を浮き袋にのせて、シーモアは海に入る。そこで、バナナのある穴に入り込んで、たべすぎて出られなくなって死んでしまう「バナナ魚」を探そうと言う。浮き袋の上で波乗りに成功した女の子は「バナナ魚」を一匹見つけたとシーモアに報告する。シーモアは女の子の足に接吻して海から上がる。女の子は走ってホテルに戻り、シーモアも自分の部屋に戻って、妻の眠っているベッドの隣で拳銃自殺する。

  謎に満ちたこの作品は、サリンジャーのいわゆる「グラース・サーガ」の第一作である。おそらく「グラース」という一家の姓も、新約聖書のコリント人への手紙13章「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」を暗示するものだろう。ミュリエル、シビル「カーペンター(大工の意。イエスの職業は大工であったといわれる)」という名前も聖書からの出自を直接示すのだろう。だが、この作品の中では、なぜシーモアが精神異常になったのか、俗物で平凡なミュリエルを妻にしたのか、そして自殺しなければならなかったのか、いっさい語られることはない。また、作中引用される「ちびくろサンボ」の虎の数は、実際は4匹なのに、なぜ「6匹」とシビルにいわせているのか。シビルが見つけたバナナ魚がくわえていたバナナの数もまた「6本」だったことにはどんな意味があるのか。シーモアの「足」にたいするこだわりはなぜか。などなど、謎は謎としてただ呈示されているだけである。

 作中、シーモアが妻のミュリエルを「一九四八年の精神浮浪者(スピリチュアルトランプ)」と年号を冠して呼んだのは何か意味があるのだろうか。1948年はイスラエルの建国、同時に第一次中東戦争が勃発した年でもあった。この小説の中で「ロウとオリーブ」が好きな女の子シビルは、オリーブの好きな大学生のフラニーに成長するのだろうか。「シャロン」という美しい名で呼ばれる三歳半の女の子とは何か。さまざまな謎をはらんで、「1948年」シーモアは死ぬ。そして「シーモア神話」が誕生する。イエスが死んで、福音書が書かれたように。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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