私が生まれて育ったのは東京郊外の町だった。純農村地帯だったのが、戦後まもなく大企業の工場誘致をして、周囲に住宅が増え、比較的早い時期に新興住宅地に変わっていった。だから言葉は標準語と呼ばれるものに近かったが、それでも、土地に住みついていた人たち独特の言い回しがあって、町を流れる川の向こうとこっちで「言葉が違う」ともいわれていた。だが、私は小、中、高校と地域の学校に通わなかったので、土地ことばが使えない。「故郷の訛りなつかし」という感覚を知らない。日本人なら、いつでも、どこでも、だれとでも通用する「標準語」しか話せない、ということがある種のコンプレックスになっているような気がする。私が深沢七郎を愛読するのは、その甲州弁だか石和弁だかが懐かしいからかもしれない。
「甲州子守唄」は1964年_昭和39年に発表された。笛吹川の橋のたもとに住む「徳次郎」とその母親「オカア」の一家の物語である。不思議なことに深沢の小説の登場人物には苗字がない者が多い。それどころか、固有名詞さえ与えられていない場合もある。この小説でも、徳次郎とならぶもう一人の主人公「オカア」の名前は最後まで記されない。名前などなくても、物語はどんどん進む。さらさらと、それこそ「川の流れのように」深沢は「エンサイクロペディア・イサワーナ」とでも呼びたいような世界を語るのだ。
物語は、明治の終わり、徳次郎が「アメリカさん」とよばれる移民になって、出稼ぎに行くところから始まる。オカアは、徳次郎がアメリカに行って稼いで20年もすれば「俺家(おらん)でもお蚕を飼ったり」田畑も買える。家も建てられると夢を抱く。徳次郎も、1万円は稼いできて、世話になった母親の妹にも「百円ぐれえは」やろうと思っている。「おばさんだものを」義理は欠くことができないと思っているのだ。「しっかりやっておいでなって」と村の人が叫ぶ中、徳次郎は石和の駅を出発する。
「10年たったら、帰(けぇ)ってこう、きっと、嫁をきめておくから」と徳次郎に約束してオカアは心待ちにしていた。渡航費用の借金をひと月で返してきた徳次郎は、10年後、砂糖とシャボンと横浜で買ってきた餅マンジュウを土産に戻ってきた。だが、肝心の嫁が決まらない。「アメリカなんかへ行けばうちの人とは生き別れのようなもんさよ」と誰も相手にしてくれないのだ。それになんだか、徳次郎の様子がよそよそしくなっている。アメリカでいくら貯めてきたかをオカアにも教えないのだ。やっと決まった嫁は、乞食の「オクレやん」という女が世話した「狐ッ付きみたいに口がとがっている」不器量のため嫁ぎそびれていたチヨという娘だった。10日ばかりいて、徳次郎はチヨを連れてまたアメリカに戻った。
さらに10年後、徳次郎はアメリカで生まれた三人の子とチヨの一家五人で帰国した。金は貯めてきて横浜の銀行に預けて利息だけでも相当な収入になるのだが、アメリカに行く前は「百円ぐれえは」やろうと思っていた母親の妹が「20円あればトタン屋根にしたり、湯殿がつくれるけんど」と頼みに来ると、徳次郎は「ゼニを貸してくりォというようなつもりだったらおばさんとは思っちゃいんからね。いますぐ縁を切ってもらいてえ」と怒る。アメリカに行って「ヒトが変わって、薄情に(すっちょなく)な」ってしまったのだ。
徳次郎が「アメリカさん」になってせっかくためたお金は、戦争になって物が足りなくなるとインフレでどんどん目減りしてしまう。徳次郎が最初に送ってきたお金でささやかな商いを始めていたオカアは、闇の物々交換に手を出すようになる。したたかに闇商売で儲けたオカアだったが、戦争が終わる頃には「髪の毛も白いし顔も頭も胸も白い象のような皺になって」座ってばかりいる。徳次郎が、闇で商うサッカリンにうどん粉をまぜているのを知っても「(いい人間(ひと)で終わってしまうことなんか出来んさ)」と開き直り、「(いいさ、いいさ、、恥をかいてもしかたがねえさ)」とひとりごとを言うのだった。
「甲州子守唄」は徳次郎とオカアの物語を軸に、石和近辺の風俗と人情の変遷を描く。40年あまりの出来事を一気に読み下せるのは、なにより登場人物の使う石和弁が面白いからである。作者は、いいことも悪いことも、なんでも区別せずに、さらさらと書いていく。作中、もっとも印象的だった石和弁は、戦争中、「ボコに乳(うんま)をやっていた」女のひとが機銃掃射で撃たれて言った「あれ、わしァ困るよう、死ぐじゃアねぇらか」ということばと、それを教えてくれた人の「場即(ばそく)だそうでごいす」ということばである。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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