「煙が目にしみる」というタイトルからすぐにメロディーが浮かぶのは、たぶん人生の後半を過ぎた人だろう。黒人歌手の少しかすれた歌声が印象的だった。歌声を聞いて、まだ経験したことのない恋のときめきと、それを失った悲哀と、その両方の感情にひたっていたように思う。ちゃんと聞き取れた歌詞はSmoke gets in your eyesだけだったけれど。
この曲は1933年「ロバータ」というミュージカルのために作曲され、1946年にナット・キングコールがカヴァーし、1958年またプラターズがカヴァーしている。私はナット・キングコールの歌声を聞いていたと思っていたのだが、プラターズのほうだったかもしれない。『ライ麦畑でつかまえて』の最後、フィービーが回転木馬に乗る場面でこの「煙が目にしみる」が流れる。
回転木馬と「煙が目にしみる」のとりあわせがミスマッチのような気もするが、「とてもジャズっぽい、おかしな演奏のしかただったな」と書かれているので、行進曲風にアレンジしたのだろう。ちょっと不思議なのは、この前にホールデンとフィービーが回転木馬の方に近づいて行くときに「いつもやってる間が抜けたみたいな音楽が聞こえだしたんだな。曲は『おお、マリー!』だった」とホールデンが言っていることである。? 回転木馬の所で演奏されていたのはどちらだ?さらに不思議なのは、これに続くホールデンの言葉である。「今から五十年も前になるが、僕の子供の時にも、あの歌をやってたもんさ。これが回転木馬のいいとこなんだ。いつも同じ歌をやってるってところが。」(アンダーラインは筆者)いったいホールデンは何歳なのだ?
そもそも「煙が目にしみる」も「おお、マリー!」もれっきとした大人のラヴ・ソングである。だが、回転木馬は八歳のフィービーが「あたしじゃ大きすぎるわ」というくらい小さな子供向けの乗り物なのだ。ラヴ・ソングが演奏に使われることがあるものだろうか。「おお!マリー」と「煙が目にしみる」の歌詞を書き出してみる。
「おお、マリー」
Here she comes, she's all dressed up in daises
Half the time, you'd swear that she is crazy
Flowered drinks and low-cut dress
That's the way I know her best
She says she's lonely, how could she be?
Every night she's got company
[Chorus]
Oh Marie,
I sure hope you're happy
Oh Marie,
What about me, Marie
She likes the way she looks in her Camaro
She likes lingerie but he prefers the sombrero
She's so famous on the block
She stumbles home around four o'clock
She claims the guys are hard to please
She wears teen perfume behind her knees
[Chorus]
All day long she fills me up with dogma
She's all magazines and benzedrine and vodka
There was one man she truly loved
He took everything but her bear-skin rug
And now and then it's clear to me
That need is love and love is need
[Chorus]
Always an open door
What are you looking for
「煙が目にしみる」
They asked me how I knew
My true love was true
I of course replied
something here inside
Cannot be denied
They said someday you'll
find
All who love are blind
When your heart's on fire you must
realize
Smoke gets in your eyes
So I chaffed them and I gaily
laughed
To think they would doubt our love
And yet today my love has gone
away
I am without my love
Now laughing friends deride
Tears I
cannot hide
So I smile and say when a lovely flame dies
Smoke gets in your
eyes
どちらもれっきとしたラヴ・ソングだが、かなり趣きが異なっている。「おお、マリー」のほうは子供向けにはいかがなものかと思われるが、ここでは「煙が目にしみる」の歌詞に注目したい。「煙が目にしみる」とは、失恋の悲涙で目がくもる、ということではないのだ。(今まで、私はそう思っていたのだが)「恋は盲目」の意なのだ。偽りの愛を真実だと信じたのは「煙が目にしみ」たからなのだ。
「煙が目にしみる」の演奏とともに、フィービーは回転木馬に乗ってぐるぐる回る。すると、突然降りだした土砂降りの雨がホールデンをずぶ濡れにする。だが、フィービーがかぶせてくれた赤いハンチングをかぶったホールデンは、濡れながらフィービーの回り続ける姿を見て「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになるのだ。「ただ、フィービーが、ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐるぐるぐる、回りつづけてる姿が、無性にきれいに見えただけだ。全く、あれは君にも見せたかったよ。」と語って、ホールデンは物語を閉じるである。グッバイ、フィービー_____
フィービーについて語ることはあまりにも多く、そして、それを書くことは『ライ麦畑でつかまえて』の核心に触れることになるので、いまはここまでにしておきたい。いつかまた、フィービーの好きな映画のことや、彼女の書く探偵小説のこと、それからダンスが上手で、深夜ホールデンとダンスを踊ったことなどについても書いてみたい。それまでもう少し時間がほしいと思っている。
今日も拙い文章を読んでくださって、ありがとうございます。
2013年7月3日水曜日
2013年4月3日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』____アントリーニ先生とは何か
黒衣の美女サリー・ヘイズとの惨憺たるデイトのあと、ホールデンはかつてフートンの先輩だったカール・ルースと会う。なぜか夜十時という時間に現れてさっさと帰ってしまったこのルースのことも、それから順序は前後するが、グランド・セントラル・ステーションでホールデンと朝食をともにしながらシェークスピアの話をした尼さんのこと、またペンシーの学友二人アクリーとストラドレーターについても書かなければならないのだが、いまはまず、アントリーニ先生について考えてみたい。ホールデンは三日間の逃避行?の最初と最後に「先生」と名のつく人に会うのである。
妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。
アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。
先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。
さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。
出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。
ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?
アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。
もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。
それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。
アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。
アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。
アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。
先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。
さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。
出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。
ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?
アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。
もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。
それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。
アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。
アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年3月6日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』___サリー・ヘイズとは何か
ジェーン・ギャラハーとならぶこの小説の重要人物であるサリー・ヘイズについて、なかなか書けませんでした。書くことがないわけではなかったのですが、相変わらずの身辺雑事に追われていた、というのは言い訳で、サリー・ヘイズに関しては、スペンサー先生やジェーン・ギャラハーに比べてもう一つ魅力的な謎が見出せなかったからかもしれません。謎がないわけではないのですが、何故かどうしても書きたいと突っ込んでいく動機づけが自分自身のなかで作り出せなかった。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ひとつには、サリー・ヘイズがあまりにも見事に、具体的に描写されていて、彼女とのからみの部分はごく普通の通俗小説として読めてしまうからかもしれません。もしかしたら、というよりたぶんそれがサリンジャーの巧妙に隠されたねらいだったのでしょう。
ペンシーを脱け出したホールデンはいかがわしいホテルでサニーという若い娼婦を買うことになるのだが、うまく事が果たせない。それどころか、たった五ドルを惜しんだために、エレベーターボーイで客引きのモーリスという男に痛めつけられてしまう。一夜を散々な目にあって過ごしたホールデンは、サリー・ヘイズという少女に電話してデイトの約束をする。彼女から二週間前に手紙をもらっていたという。サリーのことは「あまり好きじゃないんだけど、何年も前からのつき合い」で「舞台や戯曲や文学やなんかのことをすごくいっぱい知ってた」ので頭のいい娘だと思っていたが、どうもそうではないらしい。
約束の時刻より十分遅れてサリーはやってきた。黒のオーバーに黒のベレーという黒づくめの服装で現れたサリーを見て、ホールデンは一瞬彼女との結婚を考えてしまう。彼女はとびきりの美人なのである。そして、そのことを彼女自身よく知っている。美人で家はお金持ちで知識だけは詰め込んでくれる学校に行っている女の子が通俗的でなかったら天と地がひっくり返ってしまう。だから、最初はタクシーのなかで「盛大な抱擁」を交わした二人だったけれど、ほんとうに心が通い合うはずもなかった。ホールデン自身それを望んでいたわけでもなかったと思われるのだが。
「どちらかといえば、つまんないみたい」な芝居を見ていた二人だったが、幕間にサリーが以前パーティで会ったという男を見つけて、彼と会話を始めたあたりから雰囲気は次第に険悪になる。インテリぶってエリート意識丸出しの男の風体も話し方もホールデンは気に入らない。まぁ、どんな男だろうがデイトに割り込んできた男を気に入るはずはないが。いやホールデンが気に入らないのは、次から次へ共通の知人と土地の名前をくりだして男との会話に夢中のサリーのほうだったかもしれない。
「二ブロックほども僕たちについて歩いて」きた男だったが、最後は二人と別れた。ホールデンはサリーをそのまま家に送るつもりだったが、彼女の提案でラジオ・シテイにアイス・スケートをしに行くことにする。サリーは、ラジオ・シテイで貸してくれるスケート用の短いスカートをはいた姿を見せびらかしたかったのだ。それはたしかに魅力的なスタイルだったが、悲劇的だったのは、二人ともスケートが際立って下手で、他のお客のさらしものになってしまったことである。滑るのはやめてバーで休むことにした二人だったが、ここでの会話が二人の間に横たわる溝を決定的にしてしまう。
「何もかもたくさんだっていう気持ち」「こっちでなんか手を打たないと、何もかもつまんなくなってしまいそうだだっていう、そんな不安」を訴えるホールデンにたいして、サリーは通り一遍の受け答えしかしない。自らをとりまく現実のすべてを嫌悪するホールデンは、サリーに一緒にニュー・ヨークから脱出しようと誘う。いますぐ、とび出して「小川が流れてたりなんかするところに住」んで、冬は自分で薪割りをするような生活をしようと語るホールデンだが、サリーは一顧だにしない。ごく常識的に、そういう生活は大学を出てからすればいい、と言うのだ。ついにホールデンは「正直いって僕は、君と会ってるとケツがむずむずするんだ」というセリフをはいて、彼女を泣かせてしまう。さらに悪いことに、泣きだした彼女に必死で謝っていたホールデンだったが、突然大声で笑いだしてしまったのである。もう、こうなっては万事休す、だ。デートは最悪の結果に終わったのである。
そもそもサリーはホールデンが嫌悪するような生活を嫌がるどころか大好きな人間のように見える。ホールデンも彼女がそういう人間であることをよく知っていた。それなのに、どうしてデイトに誘ったのだろう。というより、そんな彼女と何年間もつき合ってきたのはどんな事情があるのだろうか。ホールデンはサリーの父親と知りあいのようだから、家族ぐるみのつき合いだろうか。サリーがホールデンにクリスマス・イヴにツリーの飾りつけに来てくれるかどうかを突然聞き出すくだりがある。二週間前に彼女が書いた手紙というのも、そのことに関するものだったのかもしれない。それにたいしてホールデンも手紙を書いて行くと返事をしたと言っている。いったんサリーと別れた後、酔っ払ったホールデンは深夜彼女の家に電話して、しつこいほどイヴに飾りつけに行くと繰り返す。クリスマス・イヴにツリーの飾りつけをするため他所の家を訪問することにどんな意味があるのだろうか。
喧嘩別れになったけれど、ホールデンはまたサリーに会うのだろう。何年もそうやってつき合ってきたのだろうから。なんだか十代の少年少女の他愛ない恋愛ごっこというよりも大人の男女のくされ縁といった趣があるのも不思議なことである。
出来事の上っ面をなぞっただけの不出来な文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2013年1月14日月曜日
サリンジャーと雪
身辺雑事はだいぶかたづいたのですが、原文講読も書くことも遅々としてはかどりません。能力の限界を感じています。と泣き言を言っても何もならないし、たまたま今日は雪が降っているので、本筋とあまり関係がないかもしれないのですが、「サリンジャーと雪」について少しだけ書いてみたいと思います。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。
ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。
『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。
サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。
書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年12月3日月曜日
「ライ麦畑でつかまえて」____ジェーン・ギャラハーとは何か
久々の更新です。やっとものが書ける環境になりつつあります。だいぶ感覚がなまってしまったようで、少し不安ですが。今回は「ライ麦畑でつかまえて」の影の主人公ともいえるジェーン・ギャラハーについての覚書です。箇条書きに近いまさにnaoko_noteですが。
「ライ麦畑でつかまえて」には主人公ホールデンの他にも何人かの個性的なキャラクタが登場する。冒頭では前回少し触れたスペンサー先生、それからルームメイトのアクリーとストラドレーター、そしてストラドレーターがデイトしたジェーン・ギャラハーの四人は小説前半の重要人物である。ただしジェーン・ギャラハーはホールデンとストラドレーターとの会話およびホールデンの回想の中で触れられるが、直接ストーリーの展開の中に姿を現すことはない。だが、ホールデンは、というよりサリンジャーは執拗にジェーン・ギャラハーについて言及する。そもそもホールデンが、どのみち放校になるにせよ、予定より早くペンシーを出たのは、彼がストラドレーターにジェーン・ギャラハーを「やったのか」どうかについて訊ねたのに対し、、ストラドレーターが「それは職業上の秘密という奴でしてね」とはぐらかしたことが直接のひきがねになったのだ。
「やったのかよ?」というホールデンの言葉は原文ではGive her the time?となっている。日本語でも「やった」という言葉は、様々な漢字が当てられて複雑な意味をもつ。Give the timeを「やった」と訳したのは訳者の野崎孝さんの名訳だと思うのだが、原文も日本語訳もその意味するところは深い。
ホールデンとジェーンはどんな関係だったのだろう。二年前の夏、メイン州にあった彼女の家のドーベルマンが隣のホールデンの家の庭に排泄したことがきっかけで二人は友達になったという。ひと夏を二人は一緒にスポーツを楽しみ、ゲームをしたり、ときには(ホールデンが嫌いなはずの)映画を見に行ったりもした。アメリカ中産階級の子女の典型的なひと夏の体験が語られるのだが、中でも印象的なのが、二人がチェッカーをしていたときのエピソードである。
ジェーン・ギャラハーという少女はまず「(チェッカーをするとき)自分のキングを絶対に動かさない」人物として紹介される。そのことは何回も繰り返して記述される。ある土曜日の午後二人はそうやってチェッカーをしていたのだが、突然土砂降りの雨が降り出す。すると、ヴェランダでゲームをしていた二人の前に彼女の母親の再婚相手の「カダヒさん」という男が現れて「家のどこかに煙草はないか」と彼女に聞く。ところが彼女はまったく答えない。男はあきらめて家の中に戻ったが、その後ホールデンの問いかけにも彼女は口をとざしたままである。そして、チェッカ-盤の赤い桝目上に涙を一滴こぼして、それを指ですりこんでしまう。それを見たホールデンは泣き出した彼女の顔一面に接吻する。口以外のすべてに。
その後ジェーンはいったん家の中に入っていって「赤と白のセーターを着て来」て、二人は映画に行く。事件の顛末はこれだけなのだが、ホールデンは彼女のどこにそんなに惹かれたのだろう。ジェーンの容姿は「厳密な意味では美人といえないと思うけどね、でもイカしたな」と語られる。ちょっと不思議なのは、「口が、唇から何から、五十くらいの方向に動くんだよ」というホールデンの描写である。?縦横斜めくらいは私も動かそうと思えば動かせるかもしれないが、「五十くらいの方向」は?まぁ、何より彼女がホールデンにとって魅力的だったのは、彼と同じセンスの持ち主だったからだろう。彼女は「いつも何かを読んでた」し「しかも、とてもよい本を読んでる」と語られ、ホールデンは彼女に「アリーの野球のミットを、そこに書いてある詩から何からそっくり見せてやった」のだ。そしてそうしたのは「うちの者たちを除けば、彼女だけだった」のである。
「ライ麦畑でつかまえて」に登場する人物はかなりの数になるのだが、実はそれぞれの人物が絡み合うことはほとんどなく、すべてホールデンとの出会いの場面で登場するだけである。逆にいえば、この小説はホールデンの目を通してそれぞれの人物を描いたものと言えるのではないか、とさえ考えられる。その中で、このジェーン・ギャラハーを除けば、ホールデンが価値観を共有するのは、死んでしまった弟のアリーと小さな妹のフィービーだけである。ホールデンはフィービーに再三電話しようと思うのだが、結局電話できないまま最後に直接彼女のところに忍び込む。ジェーンとも電話はつながらない。大事な人間には最後まで電話できないのだ。それにしてもジェーンはストラドレーターとデイトした後無事に家に戻ったのだろうか。
まだまだ読み込みがたりなくて、こなれていない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「ライ麦畑でつかまえて」には主人公ホールデンの他にも何人かの個性的なキャラクタが登場する。冒頭では前回少し触れたスペンサー先生、それからルームメイトのアクリーとストラドレーター、そしてストラドレーターがデイトしたジェーン・ギャラハーの四人は小説前半の重要人物である。ただしジェーン・ギャラハーはホールデンとストラドレーターとの会話およびホールデンの回想の中で触れられるが、直接ストーリーの展開の中に姿を現すことはない。だが、ホールデンは、というよりサリンジャーは執拗にジェーン・ギャラハーについて言及する。そもそもホールデンが、どのみち放校になるにせよ、予定より早くペンシーを出たのは、彼がストラドレーターにジェーン・ギャラハーを「やったのか」どうかについて訊ねたのに対し、、ストラドレーターが「それは職業上の秘密という奴でしてね」とはぐらかしたことが直接のひきがねになったのだ。
「やったのかよ?」というホールデンの言葉は原文ではGive her the time?となっている。日本語でも「やった」という言葉は、様々な漢字が当てられて複雑な意味をもつ。Give the timeを「やった」と訳したのは訳者の野崎孝さんの名訳だと思うのだが、原文も日本語訳もその意味するところは深い。
ホールデンとジェーンはどんな関係だったのだろう。二年前の夏、メイン州にあった彼女の家のドーベルマンが隣のホールデンの家の庭に排泄したことがきっかけで二人は友達になったという。ひと夏を二人は一緒にスポーツを楽しみ、ゲームをしたり、ときには(ホールデンが嫌いなはずの)映画を見に行ったりもした。アメリカ中産階級の子女の典型的なひと夏の体験が語られるのだが、中でも印象的なのが、二人がチェッカーをしていたときのエピソードである。
ジェーン・ギャラハーという少女はまず「(チェッカーをするとき)自分のキングを絶対に動かさない」人物として紹介される。そのことは何回も繰り返して記述される。ある土曜日の午後二人はそうやってチェッカーをしていたのだが、突然土砂降りの雨が降り出す。すると、ヴェランダでゲームをしていた二人の前に彼女の母親の再婚相手の「カダヒさん」という男が現れて「家のどこかに煙草はないか」と彼女に聞く。ところが彼女はまったく答えない。男はあきらめて家の中に戻ったが、その後ホールデンの問いかけにも彼女は口をとざしたままである。そして、チェッカ-盤の赤い桝目上に涙を一滴こぼして、それを指ですりこんでしまう。それを見たホールデンは泣き出した彼女の顔一面に接吻する。口以外のすべてに。
その後ジェーンはいったん家の中に入っていって「赤と白のセーターを着て来」て、二人は映画に行く。事件の顛末はこれだけなのだが、ホールデンは彼女のどこにそんなに惹かれたのだろう。ジェーンの容姿は「厳密な意味では美人といえないと思うけどね、でもイカしたな」と語られる。ちょっと不思議なのは、「口が、唇から何から、五十くらいの方向に動くんだよ」というホールデンの描写である。?縦横斜めくらいは私も動かそうと思えば動かせるかもしれないが、「五十くらいの方向」は?まぁ、何より彼女がホールデンにとって魅力的だったのは、彼と同じセンスの持ち主だったからだろう。彼女は「いつも何かを読んでた」し「しかも、とてもよい本を読んでる」と語られ、ホールデンは彼女に「アリーの野球のミットを、そこに書いてある詩から何からそっくり見せてやった」のだ。そしてそうしたのは「うちの者たちを除けば、彼女だけだった」のである。
「ライ麦畑でつかまえて」に登場する人物はかなりの数になるのだが、実はそれぞれの人物が絡み合うことはほとんどなく、すべてホールデンとの出会いの場面で登場するだけである。逆にいえば、この小説はホールデンの目を通してそれぞれの人物を描いたものと言えるのではないか、とさえ考えられる。その中で、このジェーン・ギャラハーを除けば、ホールデンが価値観を共有するのは、死んでしまった弟のアリーと小さな妹のフィービーだけである。ホールデンはフィービーに再三電話しようと思うのだが、結局電話できないまま最後に直接彼女のところに忍び込む。ジェーンとも電話はつながらない。大事な人間には最後まで電話できないのだ。それにしてもジェーンはストラドレーターとデイトした後無事に家に戻ったのだろうか。
まだまだ読み込みがたりなくて、こなれていない文章です。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年10月31日水曜日
「ライ麦畑でつかまえて」___「スペンサー先生とは何か」
ここ二ヶ月余り雑事に追われて、まったく更新できない日々が続いております。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。
そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot your noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。
二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。
「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。
スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。
今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
まとまったことは書けないのですが、書くことを忘れないための覚書として、「ライ麦畑でつかまえて」の冒頭部分ホールデンがスペンサー先生の家を訪問する場面に関するささやかな疑問についていくつか考えてみたいと思います。
そもそもホールデンがスペンサー先生の家を訪問したのは何が目的だったのだろう。先生の家でかわされた二人のかみ合わない会話をいくら読んでもわからない。ここで少し気になるのは、ホールデンは先生から退学の前に自宅にこないかという「手紙」を貰った、と言う記述があるのだが、原文はgot your noteとなっている。noteと「手紙」は微妙にちがうことばのような気がするのだが。
二人の会話は、出来の悪い生徒をたしなめながら諭そうとする老教師と礼は尽くしながら本心は別のことを考えている生徒のそれのように続いていく。興味を覚えるのは、ホールデンは退学になるペンシーをふくめて「四つ」の学校を出ることになり、ペンシーの今学期では「四課目」落としたと書かれていて、「四」と言う数字が共通することである。そして「四つ」の学校のうち「ペンシー」と「フートン」「エレクトン・ヒルズ」はその名が明記され、以後もたびたび言及されるのだが、もう一つは最後まで明かされない。またペンシーで「落とした」4課目が何かはスペンサー先生の教える「歴史」以外は明かされないのにたいして、「ちゃんと通った」「英語」の内容については「ベーオウルフとかロードランデルなんていうのは、フートン・スクールに行ってたときに、みんな習ったんです」とホールデンに言わせている。たいした問題ではないかもしれないが、「ベーオウルフ」「ロードランダル」など、(少なくとも私には)あまり馴染みのない固有名詞が出てくることに違和感を覚えてしまう。
「人生は競技だ」Life is a game(何故かLifeはいつも大文字 のLで書かれている)というペンシーの校長のことばを皮切りにスペンサー先生の説教が始まり、ホールデンは聞いているようなふりをしながら別の事を考えている。《セントラルパーク》の池の家鴨は池が凍ったらどこへ行くのか、ということである。ホールデンの頭の中に浮かんだこの疑問は、面前のスペンサー先生ではなく、後に何故か二人のタクシーの運転手に向けられる。《セントラルパーク》の池の家鴨と、ホールデンのかぶる「赤いハンチング」はこの小説の最も重要なキーワードだと思うのだが、それについて書くのははまたの機会にしようと思う。注目したいのは、スペンサー先生もホールデンもboyもしくはBoyと言い合っていることである。日本語訳ではスペンサー先生のことばとしては「坊や」と訳され、ホールデンのことばとしては「チェッ!」と訳されるので、原文で読まなければわからないのだが。
スペンサー先生とホールデンのやりとりについては、十一月四日から十二月二日の間に勉強したという「エジプト人」とは何か、と言う重大な疑問が残っている。まだ納得できる回答を見出せないでいる疑問であり、その他にもこまかな固有名詞について検討しなければいけない部分が多いが、今回はとりあえずの覚書として書き出してみた。あくまで覚書でしかないまとまりのない文章で、恥ずかしい限りだが、ここで取り上げたいくつかの疑問にたいする考察はこの作品を読み解くための原点になるのではないか。なるべく早く身辺雑事をかたづけて、読むことに集中できる時間をつくりたいと思っている。
今日も出来の悪い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年4月4日水曜日
『ライ麦畑でつかまえて』と『悪霊』___ホールデンとスタヴローギン
私はドストエフスキーのよい読者ではない。どころか、何度読んでも、登場人物の名前がなかなか覚えられず、途中で投げ出したくなる。『罪と罰』は比較的単純なストーリーで、わかったような気になったが、どれほどわかったのか怪しいものである。『白痴』は、なんだかわからないが、主人公の「キリスト公爵」と呼ばれるムイシュキンが、キリストどころか、かえって周囲を不幸に陥れる役割を演じてしまうのが、何を意味するのかわからないなりに面白かった。『悪霊』は、「超人スタヴローギン」が、最後になぜ自殺するのか、そもそも「スタヴローギン」とは何か、その謎はいまでもわからない。また、ドストエフスキーが、小説の本筋に関係のない「スタヴローギンの告白」を挿入することにこだわったのも謎である。
ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。
イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。
『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。
聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。
まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。
毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
ところで、『悪霊』の冒頭に、墓場に住んで自分の体を石で傷つけている男をイエスが癒す話が掲げられている(マルコ5章、マタイ8章ルカ8章。マタイでは二人の狂暴な男の話になっている)。話の要旨は以下のようになっている。
イエスの一行がゲラサという地方に着くと、墓場に住みついてあたりを叫び回り、石で自分の体を打ちつけている男がやってきて、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、後生だから苦しめないでくれ」と叫んだ。イエスが「汚れた霊、この人から出ていけ」と命じたからである。名を「レギオン」と名のった悪霊は、近くでえさをあさっていた豚の大群の中に乗り移らせてくれ、とイエスに願いその許しを得た。悪霊が乗り移った二千匹の豚は、崖を下って湖になだれこみ、皆おぼれ死んでしまった。豚飼いたちは逃げ出し、町や村の人々にこのことを知らせた。人々が見に来ると、悪霊に取りつかれていた人が服を着て正気になっていた。この成り行きを見ていた人たちは、悪霊につかれていた人の身の上に起こったことと豚のことを人々に語った。
『ライ麦畑でつかまえて』14章で、「僕は無神論者みたいなもんさ」というホールデンが、「聖書の中でイエスの次に好きな人物」として、この悪霊につかれた男をあげている。悪霊につかれた「気違い」で「かわいそうな奴」が「使徒なんかより十倍も好きだ」というホールデンは、その後、イエスを裏切ったユダをイエスは地獄に送り込むかどうか、という議論を始めるのだが、その議論についての検討は別の機会にしようと思う。その議論もまた、この作品の、というよりむしろサリンジャーの文学の重要な、あまりにも重要なテーマではあると思われるのだが。だが、いまは、この悪霊につかれた男を「かわいそうな奴」というホールデンと『悪霊』のスタヴローギンの意外な近さに注目したい。ホールデンとスタヴローギンと、そして、シーモア・グラースとの近さに。
聖書の記述は、悪霊につかれた男そのものより、男についていた悪霊をイエスが追い出して、豚の群れに乗り移らせて、豚がおぼれ死んだ、という一連の出来事に重点がある。イエスがそのような「奇跡」を行って男を癒した、ということと、周囲の人々が、そのことでイエスを怖れ、町から出て行ってほしいと頼んだことを、福音書の記者たちは伝えている。だが、サリンジャーは「石で体を傷つけている」男そのものに関心があり、ドストエフスキーは「悪霊が、墓場に住み着いた男から豚の群れに乗り移って、おぼれ死んだ」出来事に関心があるのだ。どちらも、イエスの奇跡そのものに関心があるのではない。そしてどちらも、「悪」は「人」そのものではなく、「悪霊」が「人」についている「状態」なのだという認識である。
まわりくどい言い方になったが、この世に絶対的な「悪人」という存在はなく、人に「悪」が乗り移った「状態」が存在するという認識がある。それにしても、二千匹の豚に乗り移って、死に至らしめる「レギオン」と呼ばれる悪霊はすさまじいものがある。ドストエフスキーは「革命」という「狂想」にとりつかれた人間たちの中に「悪霊」を見たのだが、サリンジャーは、それよりはるかに怖ろしい悪を見たのかもしれない。繰り返すが、ホールデンは決して「やせっぽちで弱虫のアンチ・ヒーロー」ではないのだ。「バナナ魚には理想的な日」のシーモア・グラースもまた、美しい記憶とともに語りつがれる「繊細で神経を病んだ青年」ではないだろう。
毎日英語漬けの日を送っていると、無性に日本語で書きたくなります。相変わらず、出来の悪い文章ですが、最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年3月17日土曜日
「ライ麦畑でつかまえて」___サリンジャーについてもう何も書きたくない
竹内康浩先生の「ライ麦畑についてもう何も言いたくない」のもじりではない。竹内先生の本は大変興味深く読んだ。先生とは「1946年7月18日」の日付にかんしては、ニアミスくらいに意見の接近があったのだが、でもとても遠く離れてしまった。サリンジャーについて、言いたいことはたくさんあるような気がするが、それは書かないで「読書の楽しみ」として私のなかであたためておこうと思っている。少なくともいまは。
ただ、何も書かなくなる前に、もう一度「サリンジャー現象」について考えてみたい。前回私は、文学をあのようなかたちで「消費」してしまっていいのだろうか、と疑問を呈した。文学を受容するとき、どのようなしかたが一番「正しい」のか、ということである。それは人それぞれだろう、という答えがすぐに聞こえてくるような気がする。だが、ほんとうにそうなのか。つきつめれば、「文学とは何か」という根源的な問いになる。
坪内逍遥が「小説の主脳は人情にあり。世態風俗これに次ぐ」と、意識的にミスリードして以来、この国の近代文学の受容は、ずいぶん偏ったありかたになってしまったのではないか。文学は心理学や精神分析学ではない。いうまでもなくオカルトでもない。もちろん社会学でもないけれど、つねに、それが生み出された時代__「時」との緊張関係においてとらえられるべきだ。私自身はまったく社交的な人間ではなく、ひとりでいることが大好きだが、それでも地球上で決して一人では生存できない「ヒト」が「人間」であるために、「ひと」は必ず「社会」の一員として生きなければならない。どのように生きたか、あるいは生きるための葛藤があったか、を書かずにいられないのが文学者だろう。人間が社会的存在でないならば、文学も言葉も何の必要もない。
revealと言う言葉がある。隠されていたことがあきらかになる、あきらかにする、と言う意味で、自動詞にも他動詞にも使う。自然にあきらかになれば「啓示」であろうし、努力してあきらかにすれば「啓蒙」であろう。「暴露」という意味もあるが。あきらかにしようとしてあきらかになる、ということが必ずしもhappyとは限らない。無明の闇に沈んだままがよかった、ということもある。ホールデンが西部の町で、唖でつんぼのまねをして森のはずれに小屋を建て住みたいと願ったように、時間も空間も区別のない無明の闇の平和を願う自分が、私のどこかに存在するのではないかと思ったりもする。
最後に、それでも、やはり、このブログを読んでくださっている方たちに、二つだけ一緒に考えていただきたいと思う。「赤いハンチング」とは何か。「セントラルパークの池の家鴨(と魚)」とは何か。それから、『ナイン・ストーリーズ』の諸作品について、とくに「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」については、もっと考えなくてはいけないことがあるのに気づいた。『ライ麦畑でつかまえて」』と『ナイン・ストーリーズ』は相互補完的な関係にあると思う。サリンジャーの表現はつねに両義的なのだ。
でも、また書きたくなるかもしれません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ただ、何も書かなくなる前に、もう一度「サリンジャー現象」について考えてみたい。前回私は、文学をあのようなかたちで「消費」してしまっていいのだろうか、と疑問を呈した。文学を受容するとき、どのようなしかたが一番「正しい」のか、ということである。それは人それぞれだろう、という答えがすぐに聞こえてくるような気がする。だが、ほんとうにそうなのか。つきつめれば、「文学とは何か」という根源的な問いになる。
坪内逍遥が「小説の主脳は人情にあり。世態風俗これに次ぐ」と、意識的にミスリードして以来、この国の近代文学の受容は、ずいぶん偏ったありかたになってしまったのではないか。文学は心理学や精神分析学ではない。いうまでもなくオカルトでもない。もちろん社会学でもないけれど、つねに、それが生み出された時代__「時」との緊張関係においてとらえられるべきだ。私自身はまったく社交的な人間ではなく、ひとりでいることが大好きだが、それでも地球上で決して一人では生存できない「ヒト」が「人間」であるために、「ひと」は必ず「社会」の一員として生きなければならない。どのように生きたか、あるいは生きるための葛藤があったか、を書かずにいられないのが文学者だろう。人間が社会的存在でないならば、文学も言葉も何の必要もない。
revealと言う言葉がある。隠されていたことがあきらかになる、あきらかにする、と言う意味で、自動詞にも他動詞にも使う。自然にあきらかになれば「啓示」であろうし、努力してあきらかにすれば「啓蒙」であろう。「暴露」という意味もあるが。あきらかにしようとしてあきらかになる、ということが必ずしもhappyとは限らない。無明の闇に沈んだままがよかった、ということもある。ホールデンが西部の町で、唖でつんぼのまねをして森のはずれに小屋を建て住みたいと願ったように、時間も空間も区別のない無明の闇の平和を願う自分が、私のどこかに存在するのではないかと思ったりもする。
最後に、それでも、やはり、このブログを読んでくださっている方たちに、二つだけ一緒に考えていただきたいと思う。「赤いハンチング」とは何か。「セントラルパークの池の家鴨(と魚)」とは何か。それから、『ナイン・ストーリーズ』の諸作品について、とくに「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」については、もっと考えなくてはいけないことがあるのに気づいた。『ライ麦畑でつかまえて」』と『ナイン・ストーリーズ』は相互補完的な関係にあると思う。サリンジャーの表現はつねに両義的なのだ。
でも、また書きたくなるかもしれません。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
2012年3月15日木曜日
「ライ麦畑でつかまえて」___戦争の影
前回ペンシー・プレップの創立を「一八八八年」と書いた。野崎孝さんの訳ではそうなっているのだが、講談社英語文庫版では「一八八六年」となっている。おそらくこちらが正しいと思う。サリンジャーが年号や固有名詞を使うときは必ず意味がある。一八八六年はアメリカ独立宣言から百年後で、自由の女神が完成した年であり、アパッチ族が最終的に降伏した年でもある。「イカシタ子がさ、馬に乗ってからに、障害を跳び越えてる写真なんか出しちゃって」る広告を「千ばかしの雑誌に」出している「ペンシー」は、この年に創立されたのだ。
ホールデンの回想はペンシーが「サクソン・ホール」という高校とフットボールの試合をやった土曜日から始まる。この試合をホールデンは「トムソン・ヒル」の「独立戦争なんかに使ったイカレタ大砲のそばに立って」見ていた。。「サクソン・ホールとの対抗試合はね、ペンシーじゃ重大事件ということになって」いるので、「もしもペンシーが負けたら首でもくくらなきゃならないみたい」なのだ。たんなるフットボールの対抗戦というよりもっと重い響きがあるような書き方である。
だが、ホールデンはこの試合を「競技場へ降りていかないで」「トムソン・ヒルのてっぺんなんかに突っ立って」見ていた。ゲームに参加することはおろか、観客にすらならないで傍観していたのである。そもそも、自分がフェンシングのチームのマネージャをしていたにもかかわらず、対抗試合に出かける途中の地下鉄の中に用具一式を忘れてしまったので、試合が中止になっったという経緯がある。自分が闘うのが苦手なだけでなく、他人を闘わせることもできないのだ。当然のこととして、帰りの列車の中で村八分にされる。ホールデンは、「ペンシー」という共同体からも、自分がマネージャをしていたフェンシング・チームという共同体からも疎外されるのだ。
ホールデンの回想は、 戦闘行為を想起させるフットボールの試合の場面から始まったが、小説の後半18章では、直接戦争について述べられる。18章では、ホールデンは誰とも会わず、ラジオ・シティの映画館で、クリスマスのステージ・ショーを見た後、戦争中記憶を失った男の映画を見る。それから、戦争について考え始めるのだが、彼は戦地で死ぬことより、「軍隊」に入って生活することが耐えられない、と思う。特に「前の奴の首筋を見て歩く」行軍がいやで、いっそ射撃部隊の前に立たせてもらったほうがいいと言うのだ。そしてこの章の最後では、原子爆弾が発明されてうれしい、と言い、今度戦争があったら、「原子爆弾のてっぺんに乗っかってやる」と「誓ってもいいや」と言うのだ。
「原子爆弾のてっぺんに乗っかって」という言葉は強烈で、しかも複雑である。ホールデンの弟アリーが「白血病」で死んだのは一九四六年七月十八日と明記されているが、この2日前アメリカは「クロスロード作戦」と呼ばれるビキニでの原爆実験を行っている。そしてアリーが死ぬと、ホールデンが(なぜか)ガレージで寝て、「拳で窓をみんなぶっこわしてやった」とある。「拳で窓をみんなぶっこわす」「原子爆弾のてっぺんに乗っか」るという行為は、たんに自己破壊を意味するだけのものだろうか。とくに後者は、いうまでもなくハルマゲドンを想起させるものだが、同時に「雲の上に乗ったイエス」____イエスの再臨__のイメージをも喚起するのではないか。
そう考えると、ホールデンがニューヨークで買った「赤いハンチング」とは何か。これは「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちまったことに気がついたすぐ後」買ったものだ。「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちま」う____これは「武器よさらば」ではないか。第18章でホールデンは「武器よさらば」のことを「あんなインチキ本」と言っているが、それでもD・Bに「読ませられた」とある。しかしホールデンは、フェンシングの剣は失くしたが、それに代わる「人間を射つ」もの(これは武器だろう)としてハンチングをかぶるのだ、とアクリーに説明している。小説の最後のほうで、ホールデンがフィービーに赤いハンチングを投げつけられ「死にそうになった」と言う場面があるが、「死にそう」はたんなる比喩だろうか。
ホールデンが「死にそう」になるのは、この他二か所あって、いずれも「首の骨を折りそう」になる場面だ。それについても考えてみたいのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
ホールデンの回想はペンシーが「サクソン・ホール」という高校とフットボールの試合をやった土曜日から始まる。この試合をホールデンは「トムソン・ヒル」の「独立戦争なんかに使ったイカレタ大砲のそばに立って」見ていた。。「サクソン・ホールとの対抗試合はね、ペンシーじゃ重大事件ということになって」いるので、「もしもペンシーが負けたら首でもくくらなきゃならないみたい」なのだ。たんなるフットボールの対抗戦というよりもっと重い響きがあるような書き方である。
だが、ホールデンはこの試合を「競技場へ降りていかないで」「トムソン・ヒルのてっぺんなんかに突っ立って」見ていた。ゲームに参加することはおろか、観客にすらならないで傍観していたのである。そもそも、自分がフェンシングのチームのマネージャをしていたにもかかわらず、対抗試合に出かける途中の地下鉄の中に用具一式を忘れてしまったので、試合が中止になっったという経緯がある。自分が闘うのが苦手なだけでなく、他人を闘わせることもできないのだ。当然のこととして、帰りの列車の中で村八分にされる。ホールデンは、「ペンシー」という共同体からも、自分がマネージャをしていたフェンシング・チームという共同体からも疎外されるのだ。
ホールデンの回想は、 戦闘行為を想起させるフットボールの試合の場面から始まったが、小説の後半18章では、直接戦争について述べられる。18章では、ホールデンは誰とも会わず、ラジオ・シティの映画館で、クリスマスのステージ・ショーを見た後、戦争中記憶を失った男の映画を見る。それから、戦争について考え始めるのだが、彼は戦地で死ぬことより、「軍隊」に入って生活することが耐えられない、と思う。特に「前の奴の首筋を見て歩く」行軍がいやで、いっそ射撃部隊の前に立たせてもらったほうがいいと言うのだ。そしてこの章の最後では、原子爆弾が発明されてうれしい、と言い、今度戦争があったら、「原子爆弾のてっぺんに乗っかってやる」と「誓ってもいいや」と言うのだ。
「原子爆弾のてっぺんに乗っかって」という言葉は強烈で、しかも複雑である。ホールデンの弟アリーが「白血病」で死んだのは一九四六年七月十八日と明記されているが、この2日前アメリカは「クロスロード作戦」と呼ばれるビキニでの原爆実験を行っている。そしてアリーが死ぬと、ホールデンが(なぜか)ガレージで寝て、「拳で窓をみんなぶっこわしてやった」とある。「拳で窓をみんなぶっこわす」「原子爆弾のてっぺんに乗っか」るという行為は、たんに自己破壊を意味するだけのものだろうか。とくに後者は、いうまでもなくハルマゲドンを想起させるものだが、同時に「雲の上に乗ったイエス」____イエスの再臨__のイメージをも喚起するのではないか。
そう考えると、ホールデンがニューヨークで買った「赤いハンチング」とは何か。これは「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちまったことに気がついたすぐ後」買ったものだ。「フェンシングの剣やなんかをみんな失くしちま」う____これは「武器よさらば」ではないか。第18章でホールデンは「武器よさらば」のことを「あんなインチキ本」と言っているが、それでもD・Bに「読ませられた」とある。しかしホールデンは、フェンシングの剣は失くしたが、それに代わる「人間を射つ」もの(これは武器だろう)としてハンチングをかぶるのだ、とアクリーに説明している。小説の最後のほうで、ホールデンがフィービーに赤いハンチングを投げつけられ「死にそうになった」と言う場面があるが、「死にそう」はたんなる比喩だろうか。
ホールデンが「死にそう」になるのは、この他二か所あって、いずれも「首の骨を折りそう」になる場面だ。それについても考えてみたいのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。
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2012年3月13日火曜日
「ライ麦畑でつかまえて」____死への誘惑
いまさらあらすじを書く必要もないと思われるくらい有名な小説である。こんな難しい作品がどうしてそんなに読まれたのか、というより流行ったのか不思議なのだけれど。過去何回か起きた「ライ麦畑でつかまえて」現象というものを振り返ると、文学作品の受容ということについて考えざるを得ない。文学はあのようなかたちで「消費」されていいのだろうか。これはサリンジャーの問題ではなく、私たちの問題なのだが。
「母に捧ぐ」と冒頭に掲げられたこの小説は「去年のクリスマスの頃にへばっちゃって」「西部の町なんかに来て静養」中だという「僕」が「兄貴のD・Bに話したことの焼き直し」を話し始めるという書き出しで始まる。主人公の「僕」十六歳のホールデンは「一八八八年の創立以来、常に頭脳明晰にして優秀なる青年を養成してきた」ペンシーというプレップスクールを退学になる。クリスマス休暇を目前に寮を脱け出した「僕」は、ニューヨークのあちこちを遍歴し、最後に自宅にしのび込み、妹のフィービーに会う。妹にお金を借りて、いったんはかつての高校の教師のもとで夜を明かそうとするが、そこにも居られず、結局は家に戻ることになる。
例によってサリンジャーはさまざまな「罠」を仕掛けているので、あらすじを紹介してもあまり意味がないかもしれない。余談だが、この小説を読んでいて、『ナイン・ストーリーズ』の中の「エズミに捧ぐ」の謎が一つ解けたような気がする。あるいは、謎が一つ増えた、といおうか。それはともかく、というかそれと関連して、というか、この小説の隠されたプロットの一つで、たぶん一番大きなものは「子殺し」_死への誘惑だろう。サリンジャーは、主人公のホールデンが「パパに殺される!」とフィービーに何度も言わせている。ホールデン自身同部屋のストラドレーターに殴られて血まみれの姿で寮を脱け出すのだが、その寮はストラドレーターに「ここはまるで死体置場みたいじゃないか」と言われる場所である。葬儀屋をしている卒業生が多額の寄付をして建設され、その名がついた棟なのだ。そしてストラドレーターの吹く口笛は『十番街の虐殺』である。小説の最後の部分、精神に異常をきたし始めたホールデンが行きずりの子どもを案内していった先が博物館のミイラのある場所だった。「そこはなにしろ落ちついて静かで、気持ちがよかった」のだ。
雪が降って、白一色の「死体置場」から、血まみれの主人公は赤いハンチングをかぶって脱出する。隣の部屋のアクリーに「おれの郷里のほうじゃな、そんな帽子は鹿射ちにかぶるんだぜ」といわれて「こいつは人間射ちの帽子さ」と答えた赤いハンチングは何の象徴だろうか。いったんはフィービーに渡したその赤いハンチングをかぶって、降りだした雨にずぶ濡れになりながら、「僕」はフィービーが回転木馬に乗ってぐるぐる回りつづけるのを見て、「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになる。「ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、まわり続けてる姿が、無性にきれいに見えた」____はたして死は克服できたのだろうか。
主人公ホールデンの象徴性に満ちた個々の遍歴のエピソードおよびフィービーの存在と役割についてはまた触れるとして、最後に、これは「誰に向けて語られたのか」という問題を提起したい。小説の最後の部分で「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とある。「大勢の人」とは誰なのか。何のために「大勢の人」に話したのか。「誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」というラストの言葉は、語られた事柄がはるか昔の別世界の出来事のように響いてくるのだが。
これもまた未整理のnoteです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
「母に捧ぐ」と冒頭に掲げられたこの小説は「去年のクリスマスの頃にへばっちゃって」「西部の町なんかに来て静養」中だという「僕」が「兄貴のD・Bに話したことの焼き直し」を話し始めるという書き出しで始まる。主人公の「僕」十六歳のホールデンは「一八八八年の創立以来、常に頭脳明晰にして優秀なる青年を養成してきた」ペンシーというプレップスクールを退学になる。クリスマス休暇を目前に寮を脱け出した「僕」は、ニューヨークのあちこちを遍歴し、最後に自宅にしのび込み、妹のフィービーに会う。妹にお金を借りて、いったんはかつての高校の教師のもとで夜を明かそうとするが、そこにも居られず、結局は家に戻ることになる。
例によってサリンジャーはさまざまな「罠」を仕掛けているので、あらすじを紹介してもあまり意味がないかもしれない。余談だが、この小説を読んでいて、『ナイン・ストーリーズ』の中の「エズミに捧ぐ」の謎が一つ解けたような気がする。あるいは、謎が一つ増えた、といおうか。それはともかく、というかそれと関連して、というか、この小説の隠されたプロットの一つで、たぶん一番大きなものは「子殺し」_死への誘惑だろう。サリンジャーは、主人公のホールデンが「パパに殺される!」とフィービーに何度も言わせている。ホールデン自身同部屋のストラドレーターに殴られて血まみれの姿で寮を脱け出すのだが、その寮はストラドレーターに「ここはまるで死体置場みたいじゃないか」と言われる場所である。葬儀屋をしている卒業生が多額の寄付をして建設され、その名がついた棟なのだ。そしてストラドレーターの吹く口笛は『十番街の虐殺』である。小説の最後の部分、精神に異常をきたし始めたホールデンが行きずりの子どもを案内していった先が博物館のミイラのある場所だった。「そこはなにしろ落ちついて静かで、気持ちがよかった」のだ。
雪が降って、白一色の「死体置場」から、血まみれの主人公は赤いハンチングをかぶって脱出する。隣の部屋のアクリーに「おれの郷里のほうじゃな、そんな帽子は鹿射ちにかぶるんだぜ」といわれて「こいつは人間射ちの帽子さ」と答えた赤いハンチングは何の象徴だろうか。いったんはフィービーに渡したその赤いハンチングをかぶって、降りだした雨にずぶ濡れになりながら、「僕」はフィービーが回転木馬に乗ってぐるぐる回りつづけるのを見て、「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになる。「ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、まわり続けてる姿が、無性にきれいに見えた」____はたして死は克服できたのだろうか。
主人公ホールデンの象徴性に満ちた個々の遍歴のエピソードおよびフィービーの存在と役割についてはまた触れるとして、最後に、これは「誰に向けて語られたのか」という問題を提起したい。小説の最後の部分で「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とある。「大勢の人」とは誰なのか。何のために「大勢の人」に話したのか。「誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」というラストの言葉は、語られた事柄がはるか昔の別世界の出来事のように響いてくるのだが。
これもまた未整理のnoteです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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