いまさらあらすじを書く必要もないと思われるくらい有名な小説である。こんな難しい作品がどうしてそんなに読まれたのか、というより流行ったのか不思議なのだけれど。過去何回か起きた「ライ麦畑でつかまえて」現象というものを振り返ると、文学作品の受容ということについて考えざるを得ない。文学はあのようなかたちで「消費」されていいのだろうか。これはサリンジャーの問題ではなく、私たちの問題なのだが。
「母に捧ぐ」と冒頭に掲げられたこの小説は「去年のクリスマスの頃にへばっちゃって」「西部の町なんかに来て静養」中だという「僕」が「兄貴のD・Bに話したことの焼き直し」を話し始めるという書き出しで始まる。主人公の「僕」十六歳のホールデンは「一八八八年の創立以来、常に頭脳明晰にして優秀なる青年を養成してきた」ペンシーというプレップスクールを退学になる。クリスマス休暇を目前に寮を脱け出した「僕」は、ニューヨークのあちこちを遍歴し、最後に自宅にしのび込み、妹のフィービーに会う。妹にお金を借りて、いったんはかつての高校の教師のもとで夜を明かそうとするが、そこにも居られず、結局は家に戻ることになる。
例によってサリンジャーはさまざまな「罠」を仕掛けているので、あらすじを紹介してもあまり意味がないかもしれない。余談だが、この小説を読んでいて、『ナイン・ストーリーズ』の中の「エズミに捧ぐ」の謎が一つ解けたような気がする。あるいは、謎が一つ増えた、といおうか。それはともかく、というかそれと関連して、というか、この小説の隠されたプロットの一つで、たぶん一番大きなものは「子殺し」_死への誘惑だろう。サリンジャーは、主人公のホールデンが「パパに殺される!」とフィービーに何度も言わせている。ホールデン自身同部屋のストラドレーターに殴られて血まみれの姿で寮を脱け出すのだが、その寮はストラドレーターに「ここはまるで死体置場みたいじゃないか」と言われる場所である。葬儀屋をしている卒業生が多額の寄付をして建設され、その名がついた棟なのだ。そしてストラドレーターの吹く口笛は『十番街の虐殺』である。小説の最後の部分、精神に異常をきたし始めたホールデンが行きずりの子どもを案内していった先が博物館のミイラのある場所だった。「そこはなにしろ落ちついて静かで、気持ちがよかった」のだ。
雪が降って、白一色の「死体置場」から、血まみれの主人公は赤いハンチングをかぶって脱出する。隣の部屋のアクリーに「おれの郷里のほうじゃな、そんな帽子は鹿射ちにかぶるんだぜ」といわれて「こいつは人間射ちの帽子さ」と答えた赤いハンチングは何の象徴だろうか。いったんはフィービーに渡したその赤いハンチングをかぶって、降りだした雨にずぶ濡れになりながら、「僕」はフィービーが回転木馬に乗ってぐるぐる回りつづけるのを見て、「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになる。「ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、まわり続けてる姿が、無性にきれいに見えた」____はたして死は克服できたのだろうか。
主人公ホールデンの象徴性に満ちた個々の遍歴のエピソードおよびフィービーの存在と役割についてはまた触れるとして、最後に、これは「誰に向けて語られたのか」という問題を提起したい。小説の最後の部分で「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とある。「大勢の人」とは誰なのか。何のために「大勢の人」に話したのか。「誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」というラストの言葉は、語られた事柄がはるか昔の別世界の出来事のように響いてくるのだが。
これもまた未整理のnoteです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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