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2014年7月31日木曜日

たとえば薔薇___コクトー、三島、そして大江健三郎

 大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。

 『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。

 おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。

 でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。

 
 以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。

 コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。

 ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。

 なんて余計な話です。

脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。

2012年5月2日水曜日

「笑い男」再び___「笑い男」とは何か

前回私は、「笑い男___その用心深い入れこ構造と表現の重層性」の中で、「笑い男」と「コマンチ団」の「団長」をアメリカインディアンのメタファーとして解釈した。その解釈は間違っていないと思うが、それは「サリンジャーの読み方」の第二層目としてそうも読める、というべきで、これはやはりもう一層下の歴史的次元の事実を踏まえて解釈しなければならない。それでは、「笑い男」と「コマンチ団」、そして「団長」とは何か?

『ナイン・ストーリーズ』の九つの連作の中で、この「笑い男」とこれに続く「エズミに捧ぐ」は、もっとも中心的な部分であると思う。作品の長さといい、構造の複雑さといい、サリンジャーが渾身の力を注いで書いたものではないか。そもそも「笑い男」の「原義」は何か?この小説の入り組んだ謎をとく鍵はそこにある。それはまた「エズミに捧ぐ」の謎を解く鍵でもあるのだが。 

「用心深い入れこ構造」のなかで、「笑い男」にかんする描写は、あまりにも現実離れしている。「金持ちの宣教師夫妻の一人息子」で、「中国の山賊どもに誘拐された」が、夫妻が身代金を払うことを拒んだために「万力で頭を挟んで、右のほうへ何回かねじった」ために、大人になると「ヒッコリーの実のような形の顔をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いている」顔を「芥子の花びらで作った薄紅色の仮面」で包み、「阿片の匂いをふりまいて歩いた」とある。荒唐無稽とは、このような表現をいうのだろう。何故このような荒唐無稽な表現をしなければならなかったのか。その底に、サリンジャーはどんな真実を潜ませたのだろうか。

孤独のうちに、深い森の動物たちとひそかに交流しながら、笑い男は成長した。山賊たちのノウハウを身につけたばかりか、それを遥かに超える方式で、世界中で富を収奪し、世界一の資産家になった。これは、アメリカ・インディアンのメタファーではないだろう。文字で記された彼らの歴史には、そのような記述はない。その資産の大部分を「ドイツの警察犬を育てることに一生をささげたつつましやかな修道僧」に寄付し、残りはダイヤモンドに換えて、エメラルド色の金庫に収め、黒海に沈めてしまった、と語られる「笑い男」とは、何を意味するのか?その「笑い男」の一代記を語る「団長」とは何か?「団長」の荒唐無稽な話を胸をときめかせて聞く「私」をはじめとする「コマンチ団」とは何か?

「団長」については、「笑い男」の息の仕方を「言葉で説明するより、むしろ実演してみせた」とあることから、「笑い男」と同じカテゴリーに属する存在、というよりほぼ「笑い男」そのもの、といえるかもしれない。そして、「私」をはじめとする「コマンチ団」のメンバー二十五人は、みな「自分を笑い男の直系の子孫と考えていた」だけでなく、「自分の本当の素性を名乗り出ようと、その機会をうかがっていた」し、ひそかに行動に出る準備もしていたのである。つまり、「笑い男」と「団長」と「私」は、複雑にねじれあった構造の中で直接に結びついていたのだ。だから、メアリ・ハドソンとの破局が決定的になったとき、「笑い男」の最期は必然となり、それはまた、「私」をはじめとする「コマンチ団」の恐ろしい運命をも決定することになったのである。

このところ身辺雑事あいついで、読むことも書くこともままならない日が続いています。以前書いたものの大幅な修正をしたいのですが、もう少し時間がかかりそうです。
今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年2月15日水曜日

「笑い男」___サリンジャーその用心深い「入れこ構造」とテキストの重層化

このところサリンジャーに嵌まっております。深沢七郎を書くためにちょっと寄り道、のつもりが、こちらがメインロードになりそうです。でも、本格的にサリンジャーを書くためには、やはり原文にあたる必要があって、テキストがそろうかなぁ、とためらっています。なぜはまったかというと、たぶん、ミステリを読むのに近い感覚があるからだと思う。一つの謎が解けると、次の謎にチャレンジしたくなる。これって純文学の読み方として正しいのだろうか、など反省しながら、乱読しています。今日は、前回と同じく『ナイン・ストーリーズ』の中から「笑い男」について。 

 物語は1928年、当時九歳だった「私」が回想する形式で始まる。「私」は男子児童二十五人からなる「コマンチ団」という団体の一員で、日曜以外は「団長(チーフ)」の引率のもとで、自由な時間を集団競技のスポーツ、キャンプ、あるいは博物館めぐりなどで過ごす。団員の結束は固く、団長への信頼は絶大なものがあった。この「団長(チーフ)」が「コマンチ団」の少年たちを「囚人護送車にも似た」バスで送迎するときに「笑い男」の話をして聞かせる。つまり、この小説は、いまは大人になった「私」の回想の中に、ジョン・ゲダツキーという名の「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話が入り込む、という形になっている。

 笑い男は、金持ちの「宣教師」夫妻のひとり息子だったが、幼児のとき中国の山賊に誘拐され、身代金を払ってもらえなかったために、「ヒッコリーの実のような形の頭をして、髪の毛がなく、鼻の下には口の代わりに大きな楕円形の穴が開いているといった顔」にされてしまった。だが、芥子の花びらで作った仮面で顔を包まれ、生き延びた笑い男は、山賊のノウハウを手に入れると、逆に山賊を「地下深いところにありながら内部には気持よい装飾が施されている廟」に閉じ込め、国境を越えて活躍して、世界一の資産家になる。資産の大部分を寄付したり、ダイヤモンドに換えた上で海に沈めてしまった笑い男は、チベット国境の小屋の中で「米を食い、鷲の血を啜りながら」ブラックウイングという斑狼、オンバという小人、白人に舌を焼き切られたホングという蒙古人の大男、欧亜混血で笑い男に思いを寄せる娘の4人の仲間と共に生きていた。

 ここまで「笑い男の話」が進んだ後、「メアリ・ハドソン」という名の団長のガールフレンドが出現する。「ビーヴァのコートを脱ぎ、こげ茶のドレスで」コマンチ団の少年たちにまじって、初めて球を打ったらしいメアリは、大当たりで、それから一か月の間、彼らと一緒に野球をする。「笑い男の話」が、男の破滅に向かって急展開するのは、メアリがいつもの時間にバスに乗り込まなかったときのことだった。

 笑い男の親友の斑狼ブラックウイングが、宿敵デュファルジュ父娘に捕われてしまう。ブラックウイングの釈放と引き換えに、笑い男は自分の身を、みずからすすんで父娘に差し出す。だが、父娘は笑い男を欺いて、ブラックウイングのかわりに「左足を白く染めた」狼を鎖でつないでおく。「その身を有刺鉄線で一本の立木に縛り付けられた」笑い男は、「アルマン」というその狼から「自分はブラックウイングではない」という事実を告げられ、欺かれたのを知って、仮面の下の素顔を父娘にさらしてみせる。娘は気絶したが、父親は笑い男を拳銃で撃ち続ける。

 団長は笑い男の話を、ここでいったん終え、メアリを待つのをやめて、セントラルパークに向かう。少年たちがいつものように野球を始めて、しばらくして、メアリがパークに現れる。「乳母車をひいた二人の子守に両側から挟まれたような恰好で」座っていたが、メアリは少年たちにまじってゲームに参加することも、「私」の自宅への招待に応じることもなかった。「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落したということは、私には分かりすぎるほど分っていた」のだ。

 帰りのバスの中で、笑い男の最後が語られる。拳銃で撃ち殺されたはずの笑い男は、なんと弾丸全部を吐き出して、デュファルジュ父娘に「恐ろしい笑いを笑っ」て彼らをショック死させてしまう。有刺鉄線で立木に縛りつけられた笑い男は、とめどなく血を流すにまかせていたが、あるとき森の動物たちに救いを求め、小人のオンバを連れてくるように頼む。瀕死の笑い男のもとに到着したオンバは鷲の血を差し出すが、笑い男はそれを飲まず、ブラックウイングの名を呼ぶ。ブラックウイングがすでに殺されてしまったことをオンバから告げられた笑い男は、鷲の血の入った瓶を握りつぶし、みずからの仮面を剥ぎ取って死ぬ。「そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである。」笑い男の話がここで終わると、コマンチ団の少年たちは、いちように恐怖に襲われる。バスを降りて、一枚の赤いティッシュペーパーが風にはためいているのが「芥子の花びらで作った誰かの仮面のように」見えた「私」は「歯の根も合わぬ」ほどふるえ、帰宅すると「すぐに床に入るように言われたのである。」

 この小説の中で、「コマンチ団」の少年たちに「笑い男」の話を語る「団長」の容姿は、低い身長、ずんぐりした胴長の体型、黒い髪、大きな鼻など、明らかにアメリカインディアンの特徴をそなえている。バスの運転席に「後ろ向きに跨いで腰をかけ」る姿勢で語るのだが、それは、まさに「馬乗り」のポーズだ。「私」が回想する話の中で「笑い男」は「団長(チーフ)」のメタファーであり、「笑い男」の話は、ホースインディアンと呼ばれた「馬盗人」「コマンチ族」の物語のメタファーなのだ。(おそらく、白人の母とインディアンの父の混血で、最後の酋長(チーフ)といわれた「クアナ・パーカー」が「笑い男」のモデルだと思われる)「鬱蒼と茂る深い森の中に入って」動物たちと仲良しになり、そこでは仮面を脱いで、「動物たちの言葉」を使いながら「美しい優しい声で彼らに話かけたのだ」と述べられる笑い男の姿は、自然と一体になって生きるインディアンそのものではないか。

では、メアリ・ハドソンとは何か。「団長(チーフ)」の「ガールフレンド」として出現し、いっときはコマンチ団と交わりながら、「乳母車をひいた二人の女にはさまれ」団長に別れを告げなければならなかったのはなぜか。
「メアリ・ハドソンがコマンチのラインナップから永遠に脱落した」と信じてしまった「私」が「蜜柑を握りしめながら」「後ろ向きに歩いて行くのは常にもまして危険を孕み、・・・いやというほど「乳母車」にぶつかってしまっ。」た、とあるのは何を意味するのか。「乳母車」とは何か。「蜜柑」とは?

 メアリ・ハドソンとは、たぶん「白人」のメタファだろう。彼女が「自分もゲームに加わりたい」と言いだすと、それまで「ただ彼女の『女性』らしさを単に見つめるだけだったわれらコマンチどもの目つきが、今度は睨みつけるように変わった」とあるのは、インデアンに近づこうとした白人への彼らの警戒感の暗示だろう。あるいは、作者は特定の個人をモデルにしているのかもしれない。インディアンとアメリカの白人の歴史に詳しくない私がわからないだけで、すぐに思い浮かぶような人物がいるのかもしれない。「後ろ向きに歩」くとは、後退または撤退作戦を意味し、「乳母車」は「幌馬車隊」か。「蜜柑」とはインディアンの武器だろう。

 いずれにしろ、メアリ・ハドソンが泣きながら走り去っていった後、笑い男の悲惨な、しかし従容として死んでいく様子が「団長」の口から語られる。これもインディアンの滅亡のメタファであることは間違いないと思われるのだが、ここに至って、悲劇はもう一つのイメージを喚起する。「有刺鉄線で『立木』に縛りつけられ、血を流して死んでいく」「弱々しい声で愛するウイングの名を呼んだ」が、もはやウイングが存在しないことを知って「胸を引き裂くような最後の悲しみの喘ぎが笑い男の口からもれた」「それが彼の最後だった。そしてその顔が、血に染まった地面に向ってうつむいたのである」という叙述は、まさに十字架上のイエスのそれではないか。福音書の伝えるイエスの死は「午後三時過ぎ」とあるが、コマンチ少年団は「学校のある日には、いつも『午後の三時に』」団長の車が迎えに来てくれるのだった。そして、笑い男の最後を語る団長がバスに乗り込んできたのは「ある四月の、ひどく肌寒い日」「五時十五分の黄昏が落ちかけていた」ときだった。イエスの死は午後三時過ぎ「太陽が光りを失っていた」ときだった。

この小説は、コマンチ団」の一員だった「私」の回想という構造の中に、「団長(チーフ)」の語る「笑い男」の話という構造が入れ込み、それぞれの登場人物が、別の次元の存在のメタファーであり、しかも、それが重層的である。非常に複雑な入り組んだ構造で、細部に私が解き明かしていないメタファーもいくつかあるだろう。そしてこれは「インディアン」というアメリカ社会のマイノリティーのメタファーであると同時に、もう一つのマイノリティーである作者サリンジャーの属するユダヤ民族のメタファーなのではないか。小説の最後で、当時「九歳(サリンジャーの実年齢)」だった「私」は、帰宅と同時に倒れ込んでしまうほど恐怖にふるえた。自分だけが「現存する笑い男の嫡出の子孫」である、つまりインディアンの嫡出の子孫である「私」は救いようのない悲惨な最後をむかえる笑い男の運命と自分を重ね合わせたのだ。それはまた、作者サリンジャーが、けっして直接には語らない、けれど、終生自分の存在の根の部分で意識せざるを得なかった「宿命」ではなかったか。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。