賢治の童話中数少ない完成された作品で、一九三一年雑誌「児童文学」に発表されたものである。この作品の初稿とみられる『三人兄弟の医者と北守将軍』という童話も活字化されていて、こちらはおそらく一九二〇年までに書かれたものだといわれている。岩波文庫版でわずか十頁の短編が、推敲を重ねられ完成まで十年を要したということが興味深い。七五調の韻文で軽快に語られる物語は、起承転結むだをそぎ落としてなおかつ余韻を残す珠玉の掌編となっている。
それだけに、どこから切り込んでいけるのか、とっかかりがつかめないのだ。あまりに完璧に作品化されて賢治の肉声を漏れ聞くことが容易でない、といったほうがいいかもしれない。
「むかしラユーという首都に、兄弟三人の医者がいた」と始まるこの童話の舞台はおそらく中国あるいはより広くユーラシア大陸のどこかであり、時代も現代ではないようである。作中晩唐の詩人張蠙の詩「過蕭關」にヒントを得たと推測されるエピソードが語られているので、千年ほど昔の時代設定かもしれない。
時も所も茫洋とした彼方の「ラユーという首都」を「九万人」という「雲霞の軍勢」がとり囲む。町中ざわめき緊張が走るが、この軍勢は実は「三十年という黄いろなむかし」に「この門をくぐって威張って行った」「十万の軍勢」が一割減って戻って来たものだった。しかし、なんとも異様な軍団だった。兵隊たちは「みな灰いろでぼさぼさして、なんだかけむりのよう」で、彼らをひきいるのが「するどい目をして、ひげが二いろまっ白な背中のまがった大将北守将軍ソンバーユ」である。
ソンバーユと兵隊たちは塞外の砂漠で三十年間いくさをしていたのである。だが、彼らは敵とたたかって勝って凱旋したのではない。兵隊たちは歌う
「みそかの晩とついたちは
砂漠に黒い月が立つ
西と南の風の夜は
月は冬でもまっ赤だよ
雁が高みを飛ぶときは
敵が遠くへ逃げるのだ
追おうと馬にまたがれば
にわかに雪がどしゃぶりだ」
「雪の降る日はひるまでも
そらはいちめんまっくらで
わずかに雁の行くみちが
ぼんやり白くみえるのだ
砂がこごえて飛んできて
枯れたよもぎをひっこぬく
抜けたよもぎは次々と
都の方へ飛んでいく」
荒涼として陰惨なのは砂漠の実景であると同時に兵士たちの心象であろう。ソン将軍と兵隊たちは、北の砂漠の厳しい自然とたたかい続けるうちに、たまたま敵が全員脚気で死んだので、故郷に戻ることができたのだ。敵は今年の夏の異常な湿気でダメージを受け、さらにこちらを追いかけて砂を走りすぎて脚気になったのだとソン将軍は歌う。敵も味方も過酷な自然とたたかいながら、追いつ追われつ砂漠をさすらった三十年だった。
そしてソン将軍は「凱旋」したのである。九万の兵隊たちをひき連れて。十万の兵士はたった一割しか減らなかった。まさに奇跡の生還で、ソン将軍は真の英雄である。
「三十年の間には たとえいくさに行かなくたって 一割ぐらいは死ぬんじゃないか」
平和なはずの日本の今はもっとたくさん死んでいるような気がするが、それはともかく、ラユーの町は歓喜でわきたった。王宮に知らせが行って、迎えの使者がやってくる。ところがここで大変なことが起きる。一礼して馬から降りようとしたソン将軍の両足が馬の鞍につき、鞍は馬の背中にくっついて、ソン将軍はどうしても馬から降りることができない。
作者は将軍のこの状態を
「ああこれこそじつに将軍が、三十年も、国境の乾いた砂漠のなかで、重いつとめを肩に負い、一度も馬をおりないために、馬とひとつになったのだ。」
と説明するが、そんな特殊な状況は「鮒よりひどい近眼」の迎いの大臣にわかるはずがない。馬から降りずにあわてて手をばたばたさせる将軍を見て、謀反を起こそうとしていると判断してひきあげてしまう。
茫然自失の将軍は、しばらくすると気を取り直し、軍師に向かって、鎧兜を脱いで将軍の刀と弓をもって王宮に行き、事情を説明するよう指示する。そのうえで自分は医者に行くと言う。もはや自力では 馬から降りることは不可能だと悟ったのだ。ソン将軍は馬に鞭うち、馬は最後の力をふりしぼって駆け、名医リンパー先生の病院に入る。
騎乗のまま病院に入り込んだソン将軍は、性急に診察を受けようとするが、相手にされない。怒ったソン将軍が鞭を上げると馬は跳ね、周りの病人たちは泣きだしてしまう。それでもリンパー先生は一顧だにしないが、先生の右手から黄の綾を着た娘が出てきて、花びんの花を一枝とって馬に食べさせる。ぱくっとかんだ馬は、大きな息をしたかと思うと足を折ってぐうぐう眠ってしまう。
馬が死んでしまうと思ったソン将軍は、なんとか生き返らせようと塩の袋をとりだすが、やっぱり馬はねむっている。三十年間生死をともにした馬だけはどうかみてほしい、と哀願する将軍に、はじめてリンパー先生は振り向いて、馬は、ソン将軍をみるためにすわらせたので、まもなくなおると言う。
リンパー先生の見立てでは、ソン将軍は「今でもまだ少し、砂漠のためにつかれている」のである。ソン将軍のいうことには、十万近い軍勢が、きつねにだまされ、「夜にたくさん火をともしたり、昼間砂漠の上に、大きな海をこしらえて、城や何かも出したりする」。また「砂こつ」という鳥が、馬のしっぽを抜いたり、目をねらったり、襲撃を試みる。「砂こつ」を見ると、馬は恐怖でふるえてあるけなくなってしまうというのだ。
こうした砂漠の生活で、ソン将軍は数の把握をくるわせ、実際よりも一割少ない数を認識してしまっている。そこでリンパー先生は、二種類の薬を使って、まずソン将軍の兜をはずし、次に頭を洗うと将軍の「熊より白い」白髪が輝いて、頭はすっきり正常になる。リンパー先生のいうには「つまり頭の目がふさがって、一割いけなかった」のである。
頭を正常にすることで、ソン将軍は武装解除された。だが、まだ馬から降りることはできなかった。「ずぼんが鞍につき、鞍がまた馬についたのをはなすというのは別」で、次は馬の武装解除をしなければならない。それは、リンパー先生の弟のリンプー先生の治療になる。
となりのけしの畑をふみつけてリンプー先生の建物に入って行ったソン将軍は、リンプー先生に馬の年齢を聞かれて「四捨五入してやっぱり三十九」だという。九歳から三十年間ソン将軍と一体で砂漠を駆けていた白馬に、リンプー先生が「赤い小さな餅」を食べさせると、馬はがたがたふるえながら、体中から汗とけむりを吹き出した。けむりが消えて、滝の汗がながれだすと、リンプー先生が両手を馬の鞍にあててゆさぶる。たちまち鞍は馬から外れ、将軍の体もすっかりはなれる。最後にリンプー先生が、ほうきのようなしっぽを持って引っぱると、尾の形をした塊が床に落ち、馬はかろやかに、毛だけになったしっぽをふっている。そしてぎちぎち膝を鳴らすこともなく、しずかに歩きだす。馬も軍務から解放されて、本来の馬にもどったのだ。
最後はリンポー先生が、将軍と兵隊たちの「顔や手や、まるで一面に生えた灰いろをしたふしぎなもの」の始末をした。この「灰いろをしたふしぎなもの」については、王敏という学者が『宮沢賢治、中国に翔る想い』という著書の中で卓見を述べておられる。
「支那を戦場に想定した『北守将軍と三人の兄弟医者』にある「灰いろ」は怨霊を潜ませた死の色であり、生存者の十字架であろう」
灰いろが「死の色であり、生存者の十字架」であるとはまさにその通りだが、きわめて抽象度の高い表現である。私見では「灰いろをしたふしぎなもの」とは、脚気で死んだという敵兵の昇華され得ない魂が、砂漠の中で唯一生気のあるところに住みついたものではないか。だとすると、三人の兄弟医者の中でもっとも簡略にかたられているポー先生の役割は、もしかしたら、もっとも重要なものだったのかもしれない。
ポー先生が「黄いろな粉」を将軍の顔から肩にふりかけて、うちわであおぐと、将軍の顔じゅうの毛がまっ赤にかわり、「ふしぎなもの」はみんなふわふわ飛び出して、将軍の顔はつるつるになった。このときはじめて将軍は三十年ぶりににっこりする。「からだもかるくなったでのう。」ソン将軍はうれしくなって、はやてのように飛び出して、兵隊たちの待つ広場へむかう。その後、ポー先生の弟子が六人、兵隊たちの毛をとるために薬とうちわを持って将軍のあとを追う。
広場で合流したソン将軍と九万の兵隊たちは、王宮へ粛々と行進する。馬をおりたソン将軍が壇上で叩頭すると、王はねぎらいのことばをかけ、さらに忠勤をはげんでくれという。だが、将軍は、自分はもはやその任に堪えないので、暇をもらって郷里に帰りたい、といって自分の代わりに四人の大将と三人の兄弟医者の名をあげる。さっそく王に許された将軍は、その場で鎧兜をぬいで、薄い麻の服を着る。
将軍は、それから故郷の村のス山のふもとへ帰って、粟をまいたり間引いたりしていたが、だんだんものを食べなくなり、それから水も飲まなくなった。ときどき空を見上げてしゃっくりみたいな形をしていたが、そのうち姿を消してしまう。みんなは将軍さまは仙人になった、とまつりあげるが、国守になったリンパー先生は否定する。「肺と胃の腑は同じでない。」つまりは自死したことを示唆したのである。
淡々と、軽妙にリズミカルな韻文形式で最後までかたりきって破綻のないこの作品を読了して、どうしてもここから「何か」をつかみだせなかった。前述の王敏氏は、漢文学に非常に造詣の深い方で、『宮沢賢治、中国に翔る想い』の中で、この作品に影響を与えた、もしくは読解のヒントとなる漢詩を随所に引用されている。大変参考にさせていただいたが、それでもなお、「何か」に逃げられているような気がして、ながいこと文章が書けなかった。
いまも同じ思いなのだが、あえてことばにしてみると、これはあまりにも美しいお伽話である。前回とりあげた『飢餓陣営』が「コミックオペレット」と表記して、戦場のリアルな悲惨を戯曲化したのにたいして、『北守将軍と三人の兄弟医者』は、現実にはありえない出来事を神話化した。敵が全員自滅したので、九割の兵力を保存して帰還する。しかも、「北の砂漠」という過酷な自然環境に三十年さらされながらの攻防である。これを奇跡と呼ばずにいられようか。
だが、私の関心はこの奇跡そのものにあるのではない。奇跡を成し遂げた英雄ソンバーユの最期である。故郷の「ス山」のふもとに帰って、自死した将軍のモデルはだれか。中国の歴史は絶え間ない異民族の侵入とのたたかいだったから、遠く辺境の地に赴いて、二度と故郷の土を踏むことができない人は数えきれないほど存在した。だが、生きて帰還して、そのあと自死したソン将軍のような軍人はいただろうか。しかも、みずから食を断つ、という自裁の方法で。飢餓による緩慢な死は、一気に命を絶つ自刃や縊死よりもむしろ残酷でつらい方法だろう。霞を食べる仙人の美しいお伽話のかたり口で、じつは無残な死を凱旋将軍に選ばせた作者の意図はどこにあったのか。
最後にまたもや蛇足をひとつ。なぜソンバーユは「北」守将軍なのか。南でも東でも西でもなく。王敏氏の論のように作品の舞台が中国大陸であるならば塞外の辺境は多く「西」域である。だが、『風の又三郎』のラストに顕著なように、賢治の関心はつねに「北」の地にあるようだ。
凱旋将軍のモデルは意外と賢治と同時代に近い人物だったのかもしれない。
前回の投稿からこれほどの月日が経ってしまったのは、ひとえに私の怠惰によるものです。容易に隙を見せない賢治の完璧主義が生半可なアプローチを寄せつけなかった、というのは私の言い訳にもならない泣きごとです。日清戦争の二年後に生まれ、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、とほぼ十年ごとの戦争を経験し、辛亥革命、ロシア革命と二度の革命(という名の戦争)を目の当たりに見た賢治の時代意識はどんなものだったのか。作品を読むことによって知るしかすべはないのでしょうけれど。
とりとめもない雑文を読んでくださって、ありがとうございました。