ラベル テディ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル テディ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012年8月16日木曜日

「テディ」____オレンジの皮と輪廻転生

 「テディ」について書くのはこれが三回目である。以前書いたものを踏まえて、というより大幅に修正したものを早く出さなければいけないと思っていた。いま、完全なものが出せるわけではないのだが、とりあえずの経過報告をしたいと思う。

 あらすじは今年三月七日「テディとは何か」で紹介した。十歳の「天才少年」テディが船旅の途中で妹のブーパーに水の入っていないプールに突き落とされて死ぬまでの一時間足らずの出来事である。出来事そのものについては「テディとは何か」の記事で比較的詳しく書いたので、今回はテディが語る二つの哲学的命題「オレンジの皮をめぐる存在論」と小説の後半アイヴィ青年ニコルソンと繰り広げる「輪廻転生」について少し考えてみたい。と言っても、純粋に哲学的考察をすることは私の能力をはるかに超えているので、かなり世俗的な推測にとどまるのだが。

父親の旅行鞄を踏み台にして舷窓から身をのりだしていたテディは、誰かが捨てたオレンジの皮が海上に浮かんでいるのを目撃する。オレンジの皮を目にしているのはテディだけである。そして彼は次のような三段論法を完成させる。もしテディがオレンジの皮を見なかったら、それがそこにあるのを知らない。そこにあるのを知らなければ、オレンジの皮が存在することも言えない。そして皮が沈んでしまったら、皮が浮いているのは彼の頭の中だけになる。結論は「そもそもオレンジの皮が浮かぶというのはぼくの頭の中から始まったことだからだ」

 この結論について「認識と実在」といった哲学的命題をとりだすことも可能かと思われるが、私が注目したいのはオレンジの皮が浮かび、沈んでいくのを見ていたテディがその後「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と考えたことである。自分が「つまりオレンジの皮と同じことかもしれない」と思うのである。オレンジの皮とテディとはたんに偶然の関係しかないのだろうか。

 後半のアイヴィ青年ニコルソンとの哲学的論争はまず感情というものをどう捉えるか、について始まる。「詩人とはもともと感情を扱うもんだろう」というニコルソンに対して、テディは日本の俳句を例に上げ、それに反論する。そして「きみには感情がないと言うこと?」とニコルソンに聞かれ、彼は「持っているにしても使った記憶はない」「感情って何の役に立つのか分かんないんだ」と答えるのである。「神を愛しているだろう?」とも聞かれるが「感傷的に愛しているんじゃない」と言い、両親には<親近感>を持っている、と言う。「彼らはぼくの両親だし、ぼくたちみんながめいめいの調和やら何やらの一部をなしている」からだと説明し、両親に対して、生きている間は楽しいときを過ごしてもらいたいと思うが、彼らは自分と妹をそのように愛することはできないのだと言う。あるがままの自分たち兄妹を愛するのではなくて、愛する理由を愛しているのだと批判する。

 その後二人はヴェーダンダ哲学について議論する。ここでは輪廻転生と、有限界から抜け出す手段が語られる。輪廻転生については、テディが前世に一人の女性にめぐりあったことで最終悟達に失敗したことが明らかにされる。テディは、その女性にめぐりあわなければ、アメリカ人に生まれ変わることはなかったと言うのだ。また、有限界から抜け出す手段については、論理から脱却することが何より必要だとテディは言う。彼はその実地体験として、ニコルソンに彼の片腕を上げてくれ、と言う。そしてそれを何と呼ぶかたずねる。とまどうニコルソンにテディは聞く。「あなたはそれが腕と呼ばれていることは知っているけど、それが腕だとどうして分かる?腕だという証拠がある?」とたたみかけるのだ。論理を吐き出してしまえば、物をありのままに見ることができるし「ついでに言えば、あなたの腕が本当は何かってことも分かるようになる」

 最後にニコルソンは、テディの予知能力についてたずねる。テディが自分を調査した「ライデッカー調査委員会」のメンバーに彼らがいつ、どんな風に死ぬかを教えてやったという噂の真偽を聞いたのだ。テディはそれに対して、それぞれのメンバーが注意すべきことは言ったが、みんなほんとうは自分が死ぬのを怖れているのが分かっているから、その時期については言っていないと答える。しかし、「死んだら身体から跳び出せばいい」「誰しも何千回何万回とやってきたこと」だと言って直後に起こる自分自身の死を予知するのである。

 もう時間がないと言って席をたとうとするテディをひきとめてニコルソンは教育と医学研究についてたずねる。テディは教育については「彼らがもし他のいろんなことを__名前だとか色だとか、そういったことをさ__学びたいと思ったら、・・・・・・・最初は物を見る本当の見方から始めてもらいたいんだ、ほかのりんご好きの連中(論理を抜け出せない人たち)の見方じゃなくね」と簡潔に答え、医学研究については、医学者たちの多くは「細胞自身が無限の可能性を持っていて、それの持ち主の人間なんかそっちのけみたいに聞こえる」と批判する。

ニコルソンとテディの会話は哲学的命題に終始しているように思われる。だが、ほんとうにそうだろうか。サリンジャーは、よく言われるように梵我一如のインド哲学の薀蓄を披瀝したかったのか。そうではないだろう。彼は形而上学者ではないし、神秘主義者でもない。徹底したリアリストである。「テディ」は徹底したリアリストが徹底してリアリステックに事実を語った小説なのだ。

ところでサリンジャーは作中「感情という要素」がほとんど入っていない詩の例として
「やがて死ぬ景色は見えず蝉の声」と「この道や行く人なしに秋の暮れ」
と芭蕉の句をとりあげている。サリンジャーの日本文学への造詣の深さに驚いてしまうのだが、もしかしたらこの作品全体へも芭蕉の影響は及んでいるのかもしれない。有名な『奥の細道』はこう始まる。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ馬の口とらへて老いをむかふる物は日々旅にして旅を栖とす。」
テディの生涯は舟の上で閉じられたのである。

八月十五日の昨日の日付で投稿したかったのですが、一日遅れてしまいました。それにしても拙い文章で恥ずかしいのですが、何とか書きだしてみました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2012年3月7日水曜日

「テディ」その2___テディとは何か

この小説のストーリーは単純である。十歳の天才少年テディが海を渡って、イギリスの大学でインタビューを受け、家族とともにアメリカに戻る途中の船の中で、妹に水の入っていないプールに突き落とされて死ぬ(たぶん)。そして、テディはそのことを予見していた、という。一見単純なストーリーだが、実はいくつものプロットが複雑に絡み合っていて、さりげない描写の暗示する深層の事柄を読み解くのは、まさにトランプの神経衰弱のような作業が必要だ。いまの段階では、まだ全部のカードがぴったり揃えられたとはとても言えないのだが。

 物語はテディがグラッドストーンの旅行鞄の上に乗って、舷窓から身を乗り出して外を見ているところから始まる。朝もう早くない時間だというのに、両親はなぜかほとんど裸でベッドの中だ。テディの風体は異様だ。素足に汚れたバスケット・シューズ、大きすぎる半ズボン、肩のところに穴のあいたTシャツ、黒い鰐皮のベルトだけが立派だった。髪の毛がひどくのびて「特に首すじのところなど、すぐにも鋏を入れたいくらい」。だが、「淡い鳶色の目で心もち藪睨み」ではあるが「これこそほんとうに美しい顔」で、「句切りながら言う一つ一つの言いまわしが、何というか、小型にしたウィスキーの海にすっぽりと浸された小さな古代の島といった感じ」と形容される。テディの言葉にはまったく関心がなさそうな両親だが、母親は、十時半に水泳の練習があるので、遊びに出ている妹のブーパーを探して連れてくるようにと言い、父親もテディがブーパーに持たせたカメラを すぐさま返すように命じる。

  船室を出たテディは、「白い糊のきいた制服を着た金髪の大柄な女」に左手で頭の天辺を撫でられたり、美貌の海軍少尉に言葉遊びのゲームの始まる時間を聞いたりしながら、聖ジョージが竜を退治している壁画の描かれた階段を上がって、妹を運動用甲板で見つける。そこは「日当たりのよい開墾地というか、まるで森の中の空き地」のような場所で、妹はそこでマイロンという男の子を傍らに、赤と黒のデッキ・ゴルフの円盤を積み上げていた。そして「あたしがいるのは二人の巨人だけ」で「二人であきるまで双六をやって、あきたらあそこの煙突に登って、みんなにこいつをぶつけて、みんな殺してしまうんだ」と「物知り顔に言」うのである。

 「兄さんなんか大嫌い!この海にいる人はみんな嫌い」とブーパーに悪態をつかれながら、何とか彼女の首にカメラを吊るし、船室に戻るよう言い含めたテディは、運動用甲板の下の日光浴甲板のデッキ・チェアに座って、手帳を取り出し、昨日自分で書いた文を注意深く読み直すと、今度はあらたに書き始める。日付は一九五二年十月二十七日、二十八日である。その様子を上の運動用甲板から見ていた青年が、下に降りてきて、テディに話しかける。「腿のところが並外れて太く」長い肢をもったニコルソンと名のるその青年は、テディが手帳に書きこんでいる様子を「まさに若きトロイの戦士のように颯爽と書きまくっていた」と「物語でも語って聞かせるように言いだした」。そして、テディとニコルソンはさまざまな問答をする。

 存在と認識についてニコルソンと問答するうち、テディはあり得る話として、この後自分が妹に水の入っていないプールに突き落とされるかもしれない、と言う。そして、それは悲劇的なことではない、夢の中で悲しいことがあっても、目が覚めれば、大丈夫であるのと同じことだと言う。そう言って、テディはニコルソンと別れた。その一分半後にプールから幼い女の子の遠くまで鋭く響く悲鳴が聞こえた。

 あらすじの紹介にずいぶん字数を費やしてしまったので、隠されたプロットについては、私が見つけられたものをいくつか挙げておこうと思う。もっとも深層にあるのは、「聖ジョージの竜退治」のプロットであろう。ただし、「聖ジョージ」と「竜」は実は同じ象徴で表わされる。また、明らかにそれとわかる記述で語られているのは、巨人伝説および巨岩伝説である。それと関連してトロイの戦士の伝承も切り離せない。作中テディの言葉として、ヴェーダンタの輪廻について説かれるが、これは比喩ではなく直接真理として呈示される。輪廻の「輪」がこの小説のキーワードだと思われる。テディとは何か、いう問いの答えは、輪廻の「輪」であり、それを具象化する生物なのだ、とひとまず仮定してもそれほど的を外れてはいないように思う。

 ナイン・ストーリーズの中で、この作品が一番難関でした。最後の結末をどう読むかによって、作品の解釈が正反対になってしまうからです。サリンジャーはここでもルール違反ぎりぎりの手法をとっている、と思えてしかたがないのです。はたしてテディは、みずから予見した死を従容とうけいれたのでしょうか。 

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

2012年3月6日火曜日

「テディ」その1___テディは超能力者か

これも難解な小説である。だが、超常現象をあつかった作品ではない。例によって、いくつもの隠されたプロットを組み合わせて、読む者が神経衰弱になりそうな細工をこらしている。そのプロットとは何かを考える前に、テディという少年が、はたして超常能力をもつ人間として描かれているのか、ということを考えてみたい。

 小説の後半で、ニコルソンという青年の問いかけに答えて、テディは自分の前世を語る。自分は霊的にかなり進んだ人間だったが、一人の女性とめぐり会い、瞑想をやめた。その女性とめぐり会ったことで、もう一度この世に戻り、アメリカ人の肉体に生まれ変わることになった、と言う。前世についての意識、感覚というものは、テディに限らず、誰でも子どものころにもっていたのではないだろうか。私自身も小学校にあがる頃まで、しきりに自分の前世について考えていた記憶がある。それがどんなものだったか、というよりただ「前世」そのものを意識にのぼらせていたように思う。

 小説の前半で、海に浮かんだオレンジの皮についても、テディが言っていることとまったく同じことを私も考えていた。テディは、自分がオレンジの皮を見なければ、それがそこにあるということを知らない、知らなければ、存在するということさえ言えなくなる、と言う。私は小、中、高校と電車通学をしていたのだが、車窓の景色がどんどん変わっていくのをつり革につかまりながら眺めて、私が見ている景色、というより景色の中に存在するすべてのものは、私が見なくなっても存在するのだろうか、という感覚を覚えることがあった。中学生になってからもその感覚は残っていた。年配の国語の先生が、何かの授業で「あなた方の中で『存在の不思議』について考えたことのある人はいませんか」と聞かれて、もしかしたら、これがその「存在の不思議」とやらではないか、と思ったことがある。なぜか、答えるのが恥ずかしくて、黙って下を向いていたのだけれど。  

 つまり、十歳の少年として、テディは当たり前の能力を失わないでもっていた、ということなのだ。六歳のときに「すべてが神だ」と知って神の毛が逆立った、四歳の時は有限界から脱け出した、と言うのは彼の認識にかんすることで、もしかしたら私たちも子どものころはそういう認識をもち得たのかもしれない。大人になるということは、感覚、意識、認識がどんどん鈍くなっていくということなのだろう。「死んだら身体から跳び出せばいい。それだけのことだよ。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか」という認識も特別なものではない。深沢七郎も「笛吹川」などで、登場人物の共通認識としてごく普通に書いている。深沢の小説の中では、昨日死んだ子どもが今日は別の家に赤ん坊となって生まれる、と誰もが当たり前に信じている。

 それでは、テディが死を予見できた、ということはどう考えればいいのか。厳密には、「予見」でなくて「予測」だろうが。彼は、最初に両親がいる船室から出ていくときに「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と言っている。両親はそれに気づく気配もない。彼は、サン・デッキで日記を書いている最中に話しかけてきたニコルソンには、直後に起こり得る自らの死について詳しく語っている。だが、ニコルソンもまた起こりうるかもしれない事態そのものには関心がなさそうだ。そして、事態は可能性から現実になった、と思われる。もしかしたら、そうではなかったかもしれないのだが。

 なぜ彼が自分の死を予見できたのか、あるいは死ななければならなかったのか、を考えるには、幾層にも重ねられた隠されたプロットを見つけださなければならないのだろう。はたして、それができるかどうかわからないのだが、もう少し時間をかけてこの小説を詠みこんでみたいと思う。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。