2012年3月6日火曜日

「テディ」その1___テディは超能力者か

これも難解な小説である。だが、超常現象をあつかった作品ではない。例によって、いくつもの隠されたプロットを組み合わせて、読む者が神経衰弱になりそうな細工をこらしている。そのプロットとは何かを考える前に、テディという少年が、はたして超常能力をもつ人間として描かれているのか、ということを考えてみたい。

 小説の後半で、ニコルソンという青年の問いかけに答えて、テディは自分の前世を語る。自分は霊的にかなり進んだ人間だったが、一人の女性とめぐり会い、瞑想をやめた。その女性とめぐり会ったことで、もう一度この世に戻り、アメリカ人の肉体に生まれ変わることになった、と言う。前世についての意識、感覚というものは、テディに限らず、誰でも子どものころにもっていたのではないだろうか。私自身も小学校にあがる頃まで、しきりに自分の前世について考えていた記憶がある。それがどんなものだったか、というよりただ「前世」そのものを意識にのぼらせていたように思う。

 小説の前半で、海に浮かんだオレンジの皮についても、テディが言っていることとまったく同じことを私も考えていた。テディは、自分がオレンジの皮を見なければ、それがそこにあるということを知らない、知らなければ、存在するということさえ言えなくなる、と言う。私は小、中、高校と電車通学をしていたのだが、車窓の景色がどんどん変わっていくのをつり革につかまりながら眺めて、私が見ている景色、というより景色の中に存在するすべてのものは、私が見なくなっても存在するのだろうか、という感覚を覚えることがあった。中学生になってからもその感覚は残っていた。年配の国語の先生が、何かの授業で「あなた方の中で『存在の不思議』について考えたことのある人はいませんか」と聞かれて、もしかしたら、これがその「存在の不思議」とやらではないか、と思ったことがある。なぜか、答えるのが恥ずかしくて、黙って下を向いていたのだけれど。  

 つまり、十歳の少年として、テディは当たり前の能力を失わないでもっていた、ということなのだ。六歳のときに「すべてが神だ」と知って神の毛が逆立った、四歳の時は有限界から脱け出した、と言うのは彼の認識にかんすることで、もしかしたら私たちも子どものころはそういう認識をもち得たのかもしれない。大人になるということは、感覚、意識、認識がどんどん鈍くなっていくということなのだろう。「死んだら身体から跳び出せばいい。それだけのことだよ。誰しも何千回何万回とやってきたことじゃないか」という認識も特別なものではない。深沢七郎も「笛吹川」などで、登場人物の共通認識としてごく普通に書いている。深沢の小説の中では、昨日死んだ子どもが今日は別の家に赤ん坊となって生まれる、と誰もが当たり前に信じている。

 それでは、テディが死を予見できた、ということはどう考えればいいのか。厳密には、「予見」でなくて「予測」だろうが。彼は、最初に両親がいる船室から出ていくときに「このドアから出てしまうと、後はもうぼくはぼくを知っている人たちの頭の中にしか存在しなくなるかもしれない」と言っている。両親はそれに気づく気配もない。彼は、サン・デッキで日記を書いている最中に話しかけてきたニコルソンには、直後に起こり得る自らの死について詳しく語っている。だが、ニコルソンもまた起こりうるかもしれない事態そのものには関心がなさそうだ。そして、事態は可能性から現実になった、と思われる。もしかしたら、そうではなかったかもしれないのだが。

 なぜ彼が自分の死を予見できたのか、あるいは死ななければならなかったのか、を考えるには、幾層にも重ねられた隠されたプロットを見つけださなければならないのだろう。はたして、それができるかどうかわからないのだが、もう少し時間をかけてこの小説を詠みこんでみたいと思う。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。

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