2013年1月31日木曜日

対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」____サリンジャーとコクトー

 「対エスキモー戦争の前夜」の中で「あれこそまさに醇乎たる天才だね」と作中人物に賞讃される映画「美女と野獣」について、もう一度考えてみたい。サリンジャーは「美女と野獣」のどこに「醇乎たる天才」を見いだしたのか。美しいモノクロの画面の中でくり広げられる物語は荒唐無稽なお伽話のようでありながら、細部の心理描写にリアルなものがあり、ストーリーの展開が緊密で無駄がない。だが、サリンジャーは、たんにそのような映画的完成度にたいして「醇乎たる天才」と言ったのだろうか。

 映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。

 一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。

 美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。

 最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。

 コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
 

 
 このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。

 
 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2013年1月14日月曜日

サリンジャーと雪

 身辺雑事はだいぶかたづいたのですが、原文講読も書くことも遅々としてはかどりません。能力の限界を感じています。と泣き言を言っても何もならないし、たまたま今日は雪が降っているので、本筋とあまり関係がないかもしれないのですが、「サリンジャーと雪」について少しだけ書いてみたいと思います。

 『ライ麦畑でつかまえて』は「十二月かなんかでさ、魔女の乳首みたいにつめたかった」土曜日の午後から始まる。何日かは特定されないが、クリスマス休暇間近の三日間の出来事である。土曜の夜、寮のディナーを済ませて食堂を出ると雪が降っている。ホールデンは寮に残っていた学生たちと一緒に雪投げをしたりしてはしゃぐ。毎日雪に降り込められる地方の人以外には、雪は古今東西時空を越えて心を浮きたたせるものらしい。ところでちょっと不思議なのはその後のホールデンの行動である。

 ホールデンは窓をあけて素手で雪球を握り、外の物にぶつけようとする。まず道路の向こう側に止まっていた車に、それから消火栓に。だが、そのどちらもあまりに「白くてきれい」なので、何にもぶつけずそのまま握っていて、ルームメイト二人と外出してバスの中でも持っている。さすがに運転手にドアをあけて捨てさせられたのだが。「雪球」を長時間(といっても数十分だろうけれど)握っていても溶けないことがあるのだろうか。

 『ライ麦畑でつかまえて』に雪が降るのはこの場面だけである。太陽は姿を見せないが、雪はもう降らない。冷たく陰鬱なニューヨークの空の下、ホールデンはさまざまな体験を重ねていく。そして最後に妹のフィービーを回転木馬にのせるところでこの物語は終わるのだが、ここでは、雨が降ってくるのだ。冬のさなかなのに真夏のような土砂降りの雨が降りだすのである。

 サリンジャーの作品ではこのほかに『ナイイン・ストーリーズ』中の「コネティカットのひょこひょこおじさん」にも雪が登場し、しかも重要な役割を果たす。大学時代の友人エロイーズを訪れたメアリ・ジェーンは雪に降り込められてエロイーズの家で足止めをくってしまう。そしてメアリ・ジェーンの車が移動できないことを口実にエロイーズは夫のルーを迎えに行くことを断る。だが、メイドのグレースの亭主は雪の中に追い出すのである。エロイーズの娘ラモーナが雪道で履くオーヴァーシューズを脱がすのに一騒動あったりもする。この小説で雪は重要な小道具、と言うより作品自体を成り立たせるためのひとつの劇場空間といった趣がある。エロイーズとメアリ・ジェーンの共通の知人、癌で死んだ先生の名が「ホワイティング先生」というのも偶然だろうか。

 書いているうちに雪は雨に変わってしまったようです。終の棲家に、と昨年11月に越してきたこの地は、連日氷点下7~8度の寒さです。関東地方の内陸部としては異常ともいえる寒さで、今年が特別でありますように、と願っています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。