「対エスキモー戦争の前夜」の中で「あれこそまさに醇乎たる天才だね」と作中人物に賞讃される映画「美女と野獣」について、もう一度考えてみたい。サリンジャーは「美女と野獣」のどこに「醇乎たる天才」を見いだしたのか。美しいモノクロの画面の中でくり広げられる物語は荒唐無稽なお伽話のようでありながら、細部の心理描写にリアルなものがあり、ストーリーの展開が緊密で無駄がない。だが、サリンジャーは、たんにそのような映画的完成度にたいして「醇乎たる天才」と言ったのだろうか。
映画「美女と野獣」はジャン・コクト-が1946年に製作した作品であるが、ボーモン夫人による同名の小説と異なっているのは、原作にはないアブナンという人物を登場させている点である。アブナンは主人公の美女ベルの兄の友人であり、ベルに想いを寄せている。彼はぐうたらで生活力もないが、ベルの身を案じる気持ちに偽りはなく、そのために野獣を殺してその財宝を奪おうとする。欲に目がくらんだベルの姉たちがベルから盗んだ「ディアナ館」という宝物殿の鍵を渡され、野獣の館に向かったアブナンは、ディアナ館を見つけるが、「罠があるかもしれない」と言って屋根を壊して侵入しようとして、ディアナの彫像に射殺されてしまう。
一方野獣はベルに去られて寂しさのあまり瀕死の状態で庭園の中で横たわっている。そして、駆けつけたベルの必死の呼びかけにもこたえることは出来ず、ほんとうに死んでしまう。だが、たぶんここが原作と決定的に異なっている部分だと思うのだが、野獣はアブナンが死ぬのと同時に生き返り、しかも美しい王子の姿ですっくと立ち上がるのである。そしてアブナンの死骸は野獣のむくろとなっていくのだ。つまり、アブナンの死が野獣を再生させたのだ。
美しい王子の姿でよみがえった野獣にベルは「あなたは誰かに似ている」と言う。「その男を愛していたのか」と聞く王子にベルは「はい」と答え、「では野獣は(愛していたのか)」と聞かれるとこれにも「はい」とこたえる。?ベルは誰を愛していたのか?父親思いで働き者の純情な乙女が恋愛巧者の熟女に変身してしまったのか?なんとも不思議な場面で、王子となった野獣も「変わった娘だ」と言うのである。「(私がアブナンと)似ていては嫌か」とたずねる王子にベルは「嫌よ」とはぐらかしながら「うそです」と答える。なんとも堂々としたお手並みである。
最後は定石通り二人で王子の国へと旅立つ。むくむくと湧き上がる雲の上を飛んでいって、めでたしめでたし、となってそれなりのカタルシスも味わえる結末である。ときにあまりにもリアルな心理描写に微かな違和感を覚えることはあっても、よくできたお伽話として受け止めてさしつかえないように思うのだが、はたしてそれでよいのだろうか。
コクトーはこの映画の構想を第二次大戦中の1944年1月からもっていて、いったん挫折を余儀なくされながら、翌1945年8月に製作を開始する。当時コクトーは極度に健康状態が悪く、満身創痍で製作に打ち込んだ。また特筆すべきは、新進のドキュメンタリー作家として台頭してきたルネ・クレマンを、彼が対独レジスタンスの映画「鉄路の闘い」の撮影中であるにもかかわらず、「美女と野獣」の技術担当として引き抜いてしまったことである。「鉄路の闘い」は、最後にナチスの軍用列車が線路を爆破されて脱線するクライマックスシーンを残すのみであったという。執念ともいうべきコクトーの思いをこめたこの映画は、いったい何を伝えるのか。そしてサリンジャーは何を受け止めてこの映画を「醇乎たる天才」と賞讃したのだろうか。
このブログを書くにあたって、松田和之氏の「ルネ・クレマンとジャン・コクトー。__映画『美女と野獣』小考__」(福井大学教育地域科学部紀要Ⅰより)を参考にさせていただきました。松田先生に厚く御礼申し上げます。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
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