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2025年6月24日火曜日

大江健三郎『日常生活の冒険』___早すぎたレクレイムとゴッホとハタンキョウ

  『晩年様式集』を読み直す過程で『日常生活の冒険』にふれなければいけないといいつつ、何をどう書くかまとまらないでいる。書くべきことはたくさんあるが、軸が定まらない。主人公のモデルがあまりにもあからさまなので、現実とフィクションの齟齬に関心がむかいがちで、作品の主題を見失いそうになってしまう。主人公斎木犀吉のモデルである伊丹十三は1997年12月20日に64歳で死んでいる。だが1964年に書かれた『日常生活の冒険』は主人公斎木犀吉が25歳で自殺するところから始まるのである。

 伊丹十三がビルの屋上から「墜落死」してほぼ二年半後の2000年にに出版された『取り換え子』に先立つこと三十六年前に『日常生活の冒険』は出版されている。冒頭

 「あなたは、時には喧嘩もしたとはいえ結局、永いあいだ心にかけてきたかけがえのない友人が、火星の一共和国かとも思えるほど遠い、見知らぬ場所で、確たる理由もない不意の自殺をしたという手紙をうけとったときの辛さを空想してみたことがおありですか?」

こういう言葉で大江健三郎は、当時働き盛りで活躍中だった伊丹十三の死を悼んでいる。この小説は現実の伊丹の死の33年前に書かれたレクレイムである。なぜこんな奇妙な作品が書かれなければならなかったのか。

 『日常生活の冒険』が出版された1964年、大江健三郎は『個人的な体験』という作品も出版している。今日では、あるいは当時でもこちらの方が評価が高いようである。大江自身はこの小説を「技法、人物のとらえ方など、小説の基本レヴェルを満たしていない」として、『日常生活の冒険』を自身の選集に入れていない。 

 だが、、「鳥(バード)」と呼ばれる語り手の「個人的な体験」__はじめての子が障碍をもって生まれ、紆余曲折ありながら、その事実をうけいれ、「親」として生きる決意を表明するにいたるまでの過程を描いた作品とくらべて、『日常生活の冒険』が上記の「小説の基本レヴェル」において劣っているとは、少なくとも私は思えない。

 『日常生活の冒険』は、個性的な登場人物が波乱万丈のストーリーの展開とともに描かれ、みずみずしい感性が描写のすみずみにみなぎっている。あの時代の記念碑というべき魅力的な青春小説を読んだという思いがある。だが、小説の発表から数十年を経て選集の作品を選ぶとき、おそらく、モデルとなった人物、すなわち当時存命だった伊丹十三および作品に登場するその周囲の人物にたいする配慮から、目立つことはできるだけ避けたかったというのが作者大江の本意だったのだと思う。

 先に引用した冒頭の文章に明らかなように、物語の出発点で主人公は死んでいる。サリンジャーの『ナインストーリーズ』の巻頭「バナナ魚には理想的な日」のシーモアがそうであるように。『ナインストーリーズ』は、シーモアの死から始まって、一見脈絡のない短編を紡ぎながら、最後に「テディ」でとじられ、じつはまた「バナナ魚には理想的な日」に戻るのである。『ナインストーリーズ』の時間はメビウスの輪のように閉じられ、循環し、直線ではない。

 一方、『日常生活の冒険』は、『ナインストーリーズ』のように閉じられた時間の中で継起した出来事を寓意という手段をもちいて語ろうとしたものではない。主人公の死という「喪失からの出発」は共通しているが、サリンジャーがアレゴリーという武器をもちいて「出来事」を記したかったのに対し、大江健三郎は「斎木犀吉」という「人間」を記憶し続けたかったのである。

  死者を死せりと思うなかれ
  生者あらん限り死者は生けり
  死者は生きん 死者は生きん

 この詩はゴッホが、彼の従妹の夫が亡くなった時に「モーヴの思い出のために」と書き込んで《花咲ける木》という絵を描き、絵ともに従妹に贈ったものである。その絵の複製が若い犀吉の「壁際に書物がつみ重ねられたほかはまったく何もない五畳ほどの素裸の部屋」の壁に画鋲でとめてあり、絵を見ている「ぼく」に犀吉自身がこの詩を朗誦して教えてくれたのだった。

 「生者あらん限り死者は生けり 死者は生きん 死者は生きん」

 「ぼく」は生きている限り「斎木犀吉」を記憶し続け、書き続けようとしたのだ。なぜなら、彼ほど死をおそれた人間はいなかったから。耐えきれぬ苦痛の果ての無残な死はもちろん恐怖だが、死によって存在の痕跡が完全に無になることはもっと救いがない。犀吉は五畳の部屋のゴッホのハタンキョウの絵の前で「ぼく」にこう言ったのだ。

 「おれにとっての生者はきみひとりだったのさ。きみのあらん限り、おれは生きん、おれは生きん、そのおれ風の進軍歌をうたって、おれは死の恐怖に対抗してきたんだよ。」

 斎木犀吉とは何だろう。ナセル義勇兵の集会で「頬にも顎にも一本のひげも生えていない」少年として「ぼく」と出会い、徹底したモラリスト_道徳家という意味ではない。すべて自分自身の内側から考察するという意味の_として颯爽と生き、そして最後に「おれはまったくなにひとつやりとげなかったなあ。おれはなにひとつやれなかったなあ。……………おれはいま恐ろしいんだよ、喉からしたいっぱいに不安と恐怖をつめこまれたみたいだ…」と「ぼく」に訴え、「おれはヨーロッパについたら、今度はすぐにアルルに行ってみるよ、おれは花の咲いたハタンキョウの木が見たいんだがもう季節をすぎたかね?」と言って「ぼく」と空港で別れた「斎木犀吉」とは。

 ところで、この「花咲ける木」の絵について、私のなかで少しとまどいがある。「モーヴの思い出のために」と書き込まれたこの絵は有名で、ネット上でもたくさんの複製の写真がみられるが、これは桃の木を描いたものなのだ。「ハタンキョウ」の花を描いたものは「アーモンドの木の枝」として検索される。こちらは弟テオに子どもが生まれたことを祝福して描いたもののようだ。桃もすももも「ハタンキョウ」と呼ばれることがあるようだから、あまりこだわる必要はないかもしれないが。それでも「桃_もも」と「ハタンキョウ」では語感も字面もかなりちがうので、作者大江は意図的に「ハタンキョウ」という硬質の語感をもつ言葉を選んだのだろう。

 桃の木を描いた絵もアーモンドの木の枝を描いたものも、どちらも非常に美しい絵だと思うが、死者を悼む前者が春のおとづれを告げるように満開の花をつけた木を描いて華やかな印象を受けるのにたいして、新しい命の誕生を祝福する後者は、青い背景に白っぽく見える(経年変化で褪色したのかもしれないが)花をつけた枝が縁取りで描かれ、何か澄明な趣である。こちらはゴッホの最晩年にプロヴァンスの精神病院で制作したもののようである。  

 犀吉の五畳の部屋に画鋲で止めてあったのは、まちがいなく(日本でいう)桃あるいはすももの花の絵だったと思われる。画面右側に黄色っぽい柵のようなものが描かれ、中央に満開の花をつけた大きな木が立っている。後方に小さく同じような木が列をなして続いているようなので、これは果樹園の桃の木なのだろう。そして、さらによく見ると、中央の木はじつは二本あるようだ。二本の木が寄り添うように立っていて、後ろの木が前の木の二股に分かれた間から枝を差し入れているように見える。

 『日常生活の冒険』は、ナセル義勇軍の集いでの「ぼく」と犀吉の出会いから空港での別れまで、さまざまなエピソードが綴られるが、ゴッホの絵に言及される場面はその中でもとりわけ印象的である。モラリスト犀吉はいつも論理の鎧でタフネスをよそおっているが、この「花咲ける木」を前にして脆いほど素直に真情を吐露する。「ぼく」はそれを受けて「センチメンタル」になってしまう。最後の空港の別れの場面など「ぼく」は犀吉への憐憫の情で涙ぐんでしまいそうになった、と書かれる。「モーヴの思い出のために」と書き込まれた絵の中の二本の木が、死者とそれに寄り添う生者の象徴だとしたら、それはまた犀吉と「ぼく」の象徴でもあると想像することは不可能だろうか。

 ゴッホが「モーヴの思い出のために」と書き込んで二本の桃の木を描いてモーヴを悼んだように、大江健三郎は『日常生活の冒険』という「斎木犀吉」へのレクレイムをうたったのだ。「頬にも顎にも一本の髭も生えていない」十八歳の少年が、憔悴して、「惨めな苦力のように」よろめいて「ぼく」の前から姿を消すまでの七年間は、決して実際の大江健三郎と伊丹十三の人生と重なり合うものではない。大江が大学在学中から作家として注目されていたのはほぼ実生活と重なるかもしれないが、伊丹十三もまた多才な人で、「なにひとつやりとげなかった」どころか、エッセイストであり、努力して外国語を習得し、すでに国際俳優として活躍していた。この小説に描かれる斎木犀吉は、伊丹十三に身をかりた、大江の歌う「青春挽歌」の主人公である。

 同年に出版され、この小説とまったく作風の異なる『個人的な体験』との関係についても書きたかったのですが、力及ばずでした。故意か偶然か、というよりたぶん意図的に『日常生活の冒険』の魅力的な少女妻「卑弥子」と『個人的な体験』の成熟したヒロイン「火見子」は同じ「ひみこ」で、どちらも愛するひとに裏切られます。斎木犀吉は卑弥子を裏切って、ある意味当然の報いを受ける結果となりますが、「鳥(バード)」は火見子を捨てて、「親」となって社会復帰します。障碍をもつ子との「共生」というテーマで『個人的な体験』の方が評価が高い風潮は、個人的には納得できない気がするのですが。

 今日もまとまりのない文章を読んでくださってありがとうございます。

2025年2月11日火曜日

深沢七郎『楢山節考』__おりんのりんは倫理のりん__歌がつらぬく共同体の掟

  昔「深沢七郎の小説は構成が完璧」といったら、「「あたりまえさ。彼はギタリストだもの。」と応じた飲んだくれがいた。彼は深沢と同じ山梨県出身で、ギタリストではなく美大でゲバ棒をふるっていた。私と知り合ったときは動物愛護活動家ということをしていて、十年ほど前に死んでしまった。ギタリストだと、どうして完璧な構成の小説が書けると思ったのか、もう少し詳しく聞いておけばよかった。

 『銀河鉄道の夜』を読む時間がかなり長く続いている。この間、私の中で、何とも言えない重苦しい、いらだちに似た焦燥感があって、それをうまくことばに出来ないもどかしさがある。賢治は、詩を書くときは、あんなにのびやかに情念をことばに乗せることができるのに、散文を書くとき、とくに『銀河鉄道の夜』のそれは、どうしてこんなにぎごちなく不自然なのだろう。『オツペルと象』、『北守将軍と三人の兄弟医者』のように、独特のリズミカルな文体で書かれていて、最後まで一気呵成に読ませてしまう例外的な作品もあるのだが。

 それで、文字を追いかけていけばすらすら内容が頭に入ってしまう深沢七郎が読みたくなって、何年ぶりかで『楢山節考』を読んでしまった。懐かしく恐ろしい、日常を装った非日常の世界がここにある。

 物語は主人公おりんが楢山祭りの歌を聞くところから始まる。

 「楢山祭りが三度くりぁよ 
     栗の種から花が咲く」

時間の推移が自然を変移させるというあたり前の文句のようだが、来年正月が来れば七十になるおりんには、特別の意味をもっていた。七十になったら「楢山まいり」をするのが村の掟で、そのときが近づいていることを知らせる歌だからである。

 山々に囲まれているこの村だが、神が住むという「楢山」は特別な山だった。「楢山祭り」は陰暦七月十二日盆の前夜に行う夜祭で、山の幸だけでなくこの村では貴重な白米を炊いて食べ、どぶろくをつくって夜中御馳走を食べる。村で祭りといえば「楢山祭り」しかないようになってしまったのだが、白米を食べどぶろくを飲む機会はもうひとつあって、それは「楢山まいり」をする前夜の儀式だった。「楢山まいり」をする前夜は、すでに「楢山まいり」の「お供」をすませた近所の人だけをよんで、白米とどぶろくをふるまうのである。

 おりんはそのときのために、白米とどぶろくはもう用意してあって、気構えと準備は十分できていたが、寡夫になった息子の辰平が気懸りだった。だが、この日、おりんは、楢山祭りの歌を聞くと同時に、もうひとつの声を聞いた。むこう村のおりんの実家から、村に後家ができたと知らせてきたのである。年齢も辰平と同じ四十五で年恰好が合う。これでもう、辰平の嫁の心配はなくなった。

 楢山祭りの朝に、むこう村から玉やんという嫁がやって来た。「おばあやんがいい人だから早く行けって」いわれて、玉やんは朝飯を食べずに来たのだった。何度も「おばあやんがいい人だから」と玉やんが繰りかえすので、おりんはうれしくなって、勇気を奮って、石臼のかどに歯をぶつけて前歯を二本欠いてしまう。おりんの丈夫な歯は、孫のけさ吉さえも嘲って、

 「おらんのおばあやん納戸の隅で
     鬼の歯を三十三本揃えた」

と笑いものにされていたのである。

 食料が極端に不足しているこの村では、何でも食べられる丈夫な歯と旺盛な生殖能力は決して賛美ではなく、辱めの対象だった。おりんは、「楢山まいりに行くときは辰平のしょう背板に乗って、歯も抜けたきれいな年寄りになっていきたかった」。だから、いままでもこっそりと火打石で叩いてこわそうとしていたのだった。念願かなって歯を欠いたおりんは、その姿を見せびらかしたくて、楢山祭りの祭り場に行く。だが、愛想のつもりで血まみれの顎を突き出したおりんを見て、集まっていた人たちはみんな逃げ出してしまう。おりんは「きれいな年寄り」どころか、「根っこの鬼ばばあ」と陰口をたたかれるようになってしまった。

 ためらっている辰平の背中を押して、おりんが楢山まいりをしようと急ぐ理由が二つあった。一つは、まだ十六の孫のけさ吉が同じ村の松やんという少女をはらませてしまったことである。妊娠しているためもあってか、大食いの松やんは自分の家を追い出されて、おりん一家に入り込んできてしまった。けさ吉と松やんは夫婦気取りで仲良くしているが、このままではおりんは「ねずみっ子」を見ることになってしまう。

 「かやの木ぎんやんひきずり女
     せがれ孫からねずみっ子抱いた」

 村で一番大きいかやの木がある家のぎんやんという女の人は、息子、孫、ねずみっ子と呼ばれる曾孫まで抱いたといって歌にうたわれた。早熟、多産は辱めの対象で、ぎんやんは「ひきずり女」という最大の蔑称を受けなければならなかった。歯を欠いてまで共同体の倫理に準じようというおりんにとって、「ひきずり女」という蔑称は耐え難いものだった。

 もう一つは、冬を越すのに食料が足らなくなるおそれがあるからである。大食いの松やんが子を生んだら、ただでさえ足りない食糧がさらに不足してしまう。 

 「三十すぎてもおそくはねえぞ
     一人ふえれば倍になる」

 晩婚が奨励される村だが、十六のけさ吉が松やんをはらませてしまったのだ。思ってもいなかったことをけさ吉から聞かされて、当初おりんはその衝撃からけさ吉に箸を投げつけ「バカヤロー、めしを食うな!」と怒鳴ったのだが、その後、「これこそ物わかりのわるい年寄りのあさましいことにちがいないのだ」と思うようになる。けさ吉も松やんも一人前の大人になったのに、そこまで察していなかったことに申しわけない、とさえ思ってしまう。

 「おばあやんはいつ山へ行くでえ?」と何度も問うけさ吉に「来年になったらすぐ行くさ」と苦笑いしながら答えていたおりんだった。「楢山まいり」の前夜にふるまう御馳走はたっぷり準備してある。おりんが山へ行った翌朝、家のみんなが飛びついて食べ、びっくりするだろう。その時自分は、「新しい筵の上に、きれいな根性で座っているのだ。」とおりんは「楢山まいり」のことばかり考えていた。

 その山行きをさらに急き立てられる出来事が起こる。「楢山さんに謝るぞ!」という叫び声が起こり、「雨屋」という屋号の家が村総出で襲われる。雨屋の亭主が隣の家の豆のかますを盗み出したところを見つかって、家の者に袋だたきにされたのである。この村で食料を盗むものは極悪人で、「楢山さんに謝る」という最も重い制裁を受ける。村中が喧嘩支度で盗みをはたらいた家に駆けつけ、その家の食糧を奪い取って、みんなで分けてしまうのである。嫁に来た玉やんも末の子を背中にしばりつけるようにおぶって出て、太い棒を握って青い顔でかけだしていた。おりんが布団から這い出したときは、家中みんな飛び出した後だった。

 「家探し」された雨屋の家の縁の下から、一坪くらいになるほどの芋が出て来る。こんなに一軒の家で芋がとれるわけはないので、これは畑にあった時から村中の芋を掘り出したにちがいない。雨屋は先代も「楢山さんに謝った」家なので、「泥棒の血統だから、うち中の奴を根だやしにしなけりゃ」と囁かれるようになる。 

 雨屋の家族は十二人でおりんの家は八人だが、育ち盛りの子が多いので、食料の困窮は似たようなものだった。隣の銭屋の倅がやってきて、雨屋がよその家の種芋まで盗んでいたことがわかったので、どこの家でも仕事もしないで雨屋を根だやしにすることを考えている、という。からすが啼いて、「今夜あたり、葬式がでるかも知れんぞ」といって銭屋が出て行った後、みんな黙ってしまう。そうして、突然、寝ころんでいた辰平が「おばあやん、来年は山へ行くかなあ」といったのだ。再びの沈黙の後、

 けさ吉が

 「お父っちゃん出て見ろ枯れ木ゃ茂る
     行かざなるまい、しょこしょって」

と唄い出して三日後の夜、大勢の足音がおりんの家の前を通って行った。翌朝雨屋の一家は村から消えてしまったのだった。

 十二月になって白い小さい虫が舞って、子供たちが「雪ばんばァが舞ってきた」と騒ぐ。雪の降る前にはこの虫が舞うといわれていた。おりんは「おれが山へ行くときゃァきっと雪が降るぞ」と力んだ。

 「塩屋のおとりさん運がよい
     山へ行く日にゃ雪が降る」

楢山祭りのときに唄い出されていたこの歌は、山へ行く「時」を指定する歌だった。楢山は雪が降り積もれば行けない遠い山なので、雪のない道を上って、到着したら雪が降るのが運がよいとされ、そのような条件の「時」に行け、といっているのである。

 松やんが臨月に入ったことは誰の目にも明らかになった。あと四日で正月になるという日、おりんは、辰平に明日楢山まいりを決行することを告げる。その晩、渋る辰平を厳然と威圧して、お供をして山へ行った人たちを呼んでどぶろくを振る舞い、作法通りの教示を受ける。そして、次の夜おりんと辰平は楢山まいりの途についたのだった。

  ここからは、楢山に分け入る辰平とおりんの道行となる。二つ、三つと山の裾野を回り、四つ目の山は上に登って頂上に立つと、地獄へ落ちるかと思わせるような谷に隔てられて、向うに楢山が見える。奈落の底のような深い谷を廻って進む辰平は、もう人心地もなかった。楢山を見たときから、神の召使いのようになってしまったのである。

 七谷という七曲りの道を通り越すと、道はあっても道はないといわれた楢の木ばかりの楢山に来た。無言のおりんを背負って、辰平はとうとう頂上らしい所まで来る。すると、どの岩影にも死体があった。両手を握って、合掌しているような死人、バラバラになった白骨、からすに食べられて空洞になった腹がからすの巣となった死体、進むほどからすが多くなり、死骸もますます多く転がっていて、白骨も雪がふったようにころがっている。辰平は、白骨の中に木のお椀がころがっているのを見て呆然とする。

 楢山に分け入ってからは、リアルで鬼気迫る情景描写が続く。戦場か処刑場の跡のようで、様々な死が累積している。さすがにもう、歌は唄い出されない。死骸のない岩かげにおりんを降ろすと、不動の形で立ったおりんに力いっぱい背中を押され、辰平は今来た方に歩き出す。おりんの顔はすでに死人の相だった。

 生きながら菩薩の形となったおりんの姿を描いて、「楢山節」考はこれで終わってよかったのだが、深沢は止めなかった。開高健のいう「世話物の甘い呻吟」がこれに続くのである。

 「十歩ばかり行って辰平はおりんの乗っていないうしろの背板を天に突き出して大粒の涙をぽろぽろと落とした。酔っぱらいのようによろよろと下っていった。」

 これはもう「世話物の甘い呻吟」などではなく、慟哭というべきだろう。登場人物にたいしてつねに一定の距離を保ち、その内面に入り込むことをしない深沢の、ほとんど唯一の例外がここにあるように思う。

 辰平が山の中程まで下りてきた時に雪が降りだす。おりんが「わしが山へ行く時ァきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになった。辰平は掟を破って、今降りて来た山を猛然と登りだす。辰平は、本当に雪が降ったなあ!、と言いたかった。物を言ってはならないという誓いを破ってまでも、ひとこと言いたかったのだ。

 辰平がさっきの岩のところまで戻ると、雪に覆われて白狐のような姿になったおりんが、一点を見つめながら念仏をとなえている。

 「おっかあ、雪が降ってきたよう」
 「おっかあ、寒いだろうなあ」
 「おっかあ、雪が降って運がいいなあ」
 「山へ行く日に」

 辰平が呼びかけるが、おりんは無言で辰平の声のする方へ手を出して帰れ、帰れと振るばかりだった。
 「おっかあ、ふんとに雪が降ったなァ」
辰平は叫び終わると脱兎のごとく山を降った。 

 山を降りる途中、辰平は隣の銭屋の倅が父親の又やんを谷底に突き落とすのを目撃する。又やんは昨夜逃げ出そうとしたので、今度は雁字搦みに縛られていた。そして、芋俵のように転がされ、それでも必死にすがる又やんを、倅は腹を蹴とばして突き落としたのである。又やんがころがり落ちていくと、谷底から竜巻のようにからすの大群が舞い上がって、そしてまた舞い降りていった。倅もからすの群れを見て飛ぶように駆け出していた。

 家に戻って、戸の外から中の様子をうかがうと、次男が末の子に歌を唄って遊ばせていた。

 「お姥捨てるか裏山へ
     裏じゃ蟹でも這ってくる」
 「這って来たとて戸で入れぬ
     蟹は夜泣くとりじゃない」

子供たちはもうおりんが帰ってこないことを知っているのだ。松やんとけさ吉はおりんの衣類を身につけ、けさ吉はどぶろくの残りを飲んで陶然としていた。

 「運がいいや、雪が降って、おばあやんはまあ、運がいいや、ふんとに雪が降ったなあ」

 「なんぼ寒いとって綿入れを
     山へ行くにゃ着せられぬ」

おりんが生きていたら、雪をかぶって綿入れの歌を、きっと考えているだろうと、辰平は思った。

 あらすじを追いかけるだけで、相当な量の字数を費やしてしまった。全編通じて存在するのは、圧倒的な村=共同体の論理である。村=共同体の「倫理」、といってもいいかもしれない。人間は村=共同体に生れ落ちてから、いや生まれる前から、それに逆らうことはできない。けさ吉が松やんにはらませてしまった子も、生まれたら裏山に捨てられる運命だったのである。辰平の嫁の玉やんも、けさ吉も、はらんでいる松やん自身までもが、こぞってそれを実行しようしていた。人口の調節は村=共同体の至上の命題だった。そうしなければ、絶対に飢えるからである。

 おりんはこの共同体倫理を生きた。生き抜いた。おりんの人生は共同体倫理の内側にあった、というより倫理そのものだったかもしれない。善悪、当為の判断は個人の意志や感情の介入する余地はまったくない。だから、おりんは雨屋の制裁にも当然積極的に参加し、健康な歯を自ら砕いて死を迎え入れる自分の姿をアピールしたのである。私は、おりんの「りん」は共同体倫理の「倫」である、と勝手にに妄想している。

 そして、もう一つ、切ないまでに滲み出てくるのが、おりんの息子辰平の思いである。愛するひとを死出の途へいざなうことを強制する、あらがいようがない絶対の共同体論理の禁を犯して、辰平がおりんのもとに戻るくだりはこの小説の白眉である。

 もっとも恐ろしいのは、この村=共同体には支配者がいないことである。絶対的に食料の不足するこの村=共同体には支配ー被支配の関係が存在しない。誰もが平等で、平等な権力をもっている。支配者が存在して、それを打倒することができれば共同体の論理は変わる。だが、誰もが平等な社会に革命は起こらない。そのような社会は歴史上存在しただろうか。あるいは、そのような「空間」は、いつでも、どこでも、「日常」に存在し続けているのだろうか。

 最後に、この共同体論理を透徹させる「歌」の意味についても語らなければならないのだが、すでにかなりの長文になってしまったので、これについてはまた、回を改めて考えたいと思う。歌が共同体論理とどのように別れ、散文が成立したのかということの考察を始めたのが、私の文章を書く出発点だったのだが。

 長いばかりで尻切れとんぼの文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2024年6月10日月曜日

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』__「牛」というモチーフ__届かない牛乳とカムパネルラの死

 ジョバンニとカムパネルラを乗せた銀河鉄道の汽車は、白い十字架を通り過ぎた後、白鳥の停車場に「十一時かっきりに」着く。停車場の時計に二十分停車」と書いてあって、乗客はみな降りてしまう。二人も飛ぶようにして降りて、天の川の河原に来ると、「プリオシン海岸」という標識が立った白い岩が川に沿って平らに出ている。そこは「ボス」と呼ばれる「大きな大きな青白い獣の骨」の発掘現場だった。発掘を指導していた学者は、ここは百二十万年前は海岸だった、といい、カムパネルラが途中でひろった大きなくるみも百二十万年前のものだという。

 不思議なのは、蹄の二つある足跡のついた岩やくるみを「標本にするんですか。」という問いにこたえた学者のことばである。

  「いや、証明するに要るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけど、ぼくらとちがったやつからみでもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」

 『銀河鉄道の夜』は謎に満ちているが、この言葉は私にとって最大の謎である。「厚い立派な地層」の年代が「百二十万年」前かどうかを証明するのではなく、「厚い立派な地層」が「風か水や空」に見えないことの証明が必要なのである。

 私たちは、少なくとも同じ時点では、同じものを同じように見ているのではないか。「プリシオン海岸」という標識が立った白い岩という実体が、「風か水や空」に見える可能性はあるのだろうか。そもそも「風」は見えるのか。

 プリオシン海岸のエピソードは賢治の実体験にもとづくもので、『銀河鉄道の夜』に後から挿入されたといわれている。たしかに、ここは、作品全体をつらぬく倫理的、求道的な息苦しさから解放される部分であり、他のエピソードと異質なものがある。しかしそれは、この後に展開される「ほんたうの幸い(それはほんたうの正しさ」といってよいと思うが)とどのような関係があるのだろうか。

 結論からいえば、プリシオン海岸のエピソードは、キリスト教を基調とする全体の展開に後から付加されたものではなく、むしろ、当初から賢治のなかに「牛」というモチーフが存在していたのではないか。モチーフの形成には、賢治自身が北上川河畔で、農学校の生徒たちと一緒に偶蹄類の化石の発掘に参加した実体験も大いに影響を与えていたと思われるが、それだけではない。キリスト教、とくに原始キリスト教と牛の関係は看過できないものがある。

 以前のブログでもふれたが、原始キリスト教と「聖牛」を仲立ちにして複雑な関係にあるのがミトラ教である。ミトラ教については、その信者の多くが下層階級の庶民や軍人、あるいは海賊であったため、資料とされるものに乏しく、実態がよくわからない。秘密に祭儀を行う「密議宗教」であったといわれているが、牡牛を屠る太陽神ミトラの像が有名である。ミトラが牡牛を殺し、信者はその血を浴びることによって、歓喜し陶酔状態になる。牡牛を屠る英雄神ミトラがメシア信仰とむすびつき、ミトラがメシア_キリストと同一視されるようになったという説がある。

 そもそもミトラ教の起源、歴史は確実な考証がされているとは言い難い状況なのだが、原始キリスト教がミトラ信仰を取り込んで、融合というか習合していったのは確かだと思われる。。その過程で、殺された牡牛ではなく、殺したミトラ神が救世主キリストとして崇められるようになった。牡牛の「血の贖い」を支点にして、ここには非常に狡猾な顛倒がある。

 『銀河鉄道の夜』冒頭の「午後の授業」で、まず、先生は、天の川を「巨きな乳の流れ」にたとえ、その星を「乳のなかにまるで細かにうかんでゐる油脂の球」に当たると言っている。牛の乳が望遠鏡でしか見ることのできない天の川にたとえられ、そのなかの星は逆に顕微鏡でしか見えない乳脂にたとえられている。『銀河鉄道の夜』の構造自体が「巨きな乳の流れ」であり、「大きな大きな青白い獣」のモチーフに包摂されているとは言えないだろうか。ジョバンニが母親のために「届かない牛乳」を取りに行くというプロットが偶然に用意されているものでないことはいうまでもない。

 ジョバンニは、「白い布を被って寝んで」いる母親のために、牛乳をもらいに牧場の「黒い門」を入り、うすくらい台所に出てきた「赤い眼」の女のひとに「いま誰もゐないでわかりません。」と拒まれる。だが、銀河鉄道の旅の夢からさめて、ふたたび「ほの白い牧場の柵」をまわって牛舎の前に来ると、今度は「白い太いズボン」をはいた人が出て来て、まだ熱い乳の瓶を渡してくれる。この変化をもたらせたものが、銀河鉄道の旅であり、ジョバンニの経験だが、では、具体的にジョバンニに何が起こったのか。

 ジョバンニに起こった最も深刻なできごとは、これもまた、いうまでもなくカムパネルラの消失である。それは夢のなかだけでなく、(たぶん)現実であった。カムパネルラの死が、ジョバンニに届かなかった牛乳を「まだ熱い瓶」に入れて届けてくれた、とすれば、その死は何を意味するのだろう。カムパネルラはなぜ死ななければならなかったのか。カムパネルラの死を、たんにひとこと「犠牲」ということばですませてしまえるだろうか。そもそも「犠牲」という言葉のなかに牛が二匹いるのだが、カムパネルラの死と「まだ熱い乳の瓶」は、何かもっと生々しい経路でつながれているような気がする。

 『銀河鉄道の夜』の初稿から最終稿とされる第四稿まで、どれだけの年月が流れたのかわかりませんが、その生涯の最期まで決定稿を完成させられなかったというところに、賢治の苦闘の跡を見る思いがします。だからこそ、『銀河鉄道の夜』は汲みつくせぬ魅力と読者をひきつけてやまない磁場をもっているのでしょう。非力な私は、ほんの少々のキリスト教の素養しかなく、賢治の信仰していたという法華経はじめ仏教についてまるで何もわからないので、いつまでも堂々巡りの思考の罠からぬけだせないような気がします。前回、「橄欖の森」と「灯台看守」そして「孔雀」について書く、といいながら、「白鳥の停車場」であまりにもながく停まってしまったように思うので、ここでいったん「牛」というモチーフから離れて、次回は「灯台看守」の役割を中心に考えてみたいと思います。

 今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2023年12月14日木曜日

宮沢賢治『北守将軍と三人兄弟の医者』__凱旋将軍の最期

  賢治の童話中数少ない完成された作品で、一九三一年雑誌「児童文学」に発表されたものである。この作品の初稿とみられる『三人兄弟の医者と北守将軍』という童話も活字化されていて、こちらはおそらく一九二〇年までに書かれたものだといわれている。岩波文庫版でわずか十頁の短編が、推敲を重ねられ完成まで十年を要したということが興味深い。七五調の韻文で軽快に語られる物語は、起承転結むだをそぎ落としてなおかつ余韻を残す珠玉の掌編となっている。

 それだけに、どこから切り込んでいけるのか、とっかかりがつかめないのだ。あまりに完璧に作品化されて賢治の肉声を漏れ聞くことが容易でない、といったほうがいいかもしれない。

 「むかしラユーという首都に、兄弟三人の医者がいた」と始まるこの童話の舞台はおそらく中国あるいはより広くユーラシア大陸のどこかであり、時代も現代ではないようである。作中晩唐の詩人張蠙の詩「過蕭關」にヒントを得たと推測されるエピソードが語られているので、千年ほど昔の時代設定かもしれない。

 時も所も茫洋とした彼方の「ラユーという首都」を「九万人」という「雲霞の軍勢」がとり囲む。町中ざわめき緊張が走るが、この軍勢は実は「三十年という黄いろなむかし」に「この門をくぐって威張って行った」「十万の軍勢」が一割減って戻って来たものだった。しかし、なんとも異様な軍団だった。兵隊たちは「みな灰いろでぼさぼさして、なんだかけむりのよう」で、彼らをひきいるのが「するどい目をして、ひげが二いろまっ白な背中のまがった大将北守将軍ソンバーユ」である。

 ソンバーユと兵隊たちは塞外の砂漠で三十年間いくさをしていたのである。だが、彼らは敵とたたかって勝って凱旋したのではない。兵隊たちは歌う

 「みそかの晩とついたちは
  砂漠に黒い月が立つ
  西と南の風の夜は
  月は冬でもまっ赤だよ
  雁が高みを飛ぶときは
  敵が遠くへ逃げるのだ
  追おうと馬にまたがれば
  にわかに雪がどしゃぶりだ」

 「雪の降る日はひるまでも
  そらはいちめんまっくらで
  わずかに雁の行くみちが
  ぼんやり白くみえるのだ
  砂がこごえて飛んできて
  枯れたよもぎをひっこぬく
  抜けたよもぎは次々と
  都の方へ飛んでいく」

 荒涼として陰惨なのは砂漠の実景であると同時に兵士たちの心象であろう。ソン将軍と兵隊たちは、北の砂漠の厳しい自然とたたかい続けるうちに、たまたま敵が全員脚気で死んだので、故郷に戻ることができたのだ。敵は今年の夏の異常な湿気でダメージを受け、さらにこちらを追いかけて砂を走りすぎて脚気になったのだとソン将軍は歌う。敵も味方も過酷な自然とたたかいながら、追いつ追われつ砂漠をさすらった三十年だった。

 そしてソン将軍は「凱旋」したのである。九万の兵隊たちをひき連れて。十万の兵士はたった一割しか減らなかった。まさに奇跡の生還で、ソン将軍は真の英雄である。

 「三十年の間には たとえいくさに行かなくたって 一割ぐらいは死ぬんじゃないか」

 平和なはずの日本の今はもっとたくさん死んでいるような気がするが、それはともかく、ラユーの町は歓喜でわきたった。王宮に知らせが行って、迎えの使者がやってくる。ところがここで大変なことが起きる。一礼して馬から降りようとしたソン将軍の両足が馬の鞍につき、鞍は馬の背中にくっついて、ソン将軍はどうしても馬から降りることができない。

作者は将軍のこの状態を 

「ああこれこそじつに将軍が、三十年も、国境の乾いた砂漠のなかで、重いつとめを肩に負い、一度も馬をおりないために、馬とひとつになったのだ。」

と説明するが、そんな特殊な状況は「鮒よりひどい近眼」の迎いの大臣にわかるはずがない。馬から降りずにあわてて手をばたばたさせる将軍を見て、謀反を起こそうとしていると判断してひきあげてしまう。

 茫然自失の将軍は、しばらくすると気を取り直し、軍師に向かって、鎧兜を脱いで将軍の刀と弓をもって王宮に行き、事情を説明するよう指示する。そのうえで自分は医者に行くと言う。もはや自力では 馬から降りることは不可能だと悟ったのだ。ソン将軍は馬に鞭うち、馬は最後の力をふりしぼって駆け、名医リンパー先生の病院に入る。

 騎乗のまま病院に入り込んだソン将軍は、性急に診察を受けようとするが、相手にされない。怒ったソン将軍が鞭を上げると馬は跳ね、周りの病人たちは泣きだしてしまう。それでもリンパー先生は一顧だにしないが、先生の右手から黄の綾を着た娘が出てきて、花びんの花を一枝とって馬に食べさせる。ぱくっとかんだ馬は、大きな息をしたかと思うと足を折ってぐうぐう眠ってしまう。

 馬が死んでしまうと思ったソン将軍は、なんとか生き返らせようと塩の袋をとりだすが、やっぱり馬はねむっている。三十年間生死をともにした馬だけはどうかみてほしい、と哀願する将軍に、はじめてリンパー先生は振り向いて、馬は、ソン将軍をみるためにすわらせたので、まもなくなおると言う。

 リンパー先生の見立てでは、ソン将軍は「今でもまだ少し、砂漠のためにつかれている」のである。ソン将軍のいうことには、十万近い軍勢が、きつねにだまされ、「夜にたくさん火をともしたり、昼間砂漠の上に、大きな海をこしらえて、城や何かも出したりする」。また「砂こつ」という鳥が、馬のしっぽを抜いたり、目をねらったり、襲撃を試みる。「砂こつ」を見ると、馬は恐怖でふるえてあるけなくなってしまうというのだ。

 こうした砂漠の生活で、ソン将軍は数の把握をくるわせ、実際よりも一割少ない数を認識してしまっている。そこでリンパー先生は、二種類の薬を使って、まずソン将軍の兜をはずし、次に頭を洗うと将軍の「熊より白い」白髪が輝いて、頭はすっきり正常になる。リンパー先生のいうには「つまり頭の目がふさがって、一割いけなかった」のである。

 頭を正常にすることで、ソン将軍は武装解除された。だが、まだ馬から降りることはできなかった。「ずぼんが鞍につき、鞍がまた馬についたのをはなすというのは別」で、次は馬の武装解除をしなければならない。それは、リンパー先生の弟のリンプー先生の治療になる。

 となりのけしの畑をふみつけてリンプー先生の建物に入って行ったソン将軍は、リンプー先生に馬の年齢を聞かれて「四捨五入してやっぱり三十九」だという。九歳から三十年間ソン将軍と一体で砂漠を駆けていた白馬に、リンプー先生が「赤い小さな餅」を食べさせると、馬はがたがたふるえながら、体中から汗とけむりを吹き出した。けむりが消えて、滝の汗がながれだすと、リンプー先生が両手を馬の鞍にあててゆさぶる。たちまち鞍は馬から外れ、将軍の体もすっかりはなれる。最後にリンプー先生が、ほうきのようなしっぽを持って引っぱると、尾の形をした塊が床に落ち、馬はかろやかに、毛だけになったしっぽをふっている。そしてぎちぎち膝を鳴らすこともなく、しずかに歩きだす。馬も軍務から解放されて、本来の馬にもどったのだ。

 最後はリンポー先生が、将軍と兵隊たちの「顔や手や、まるで一面に生えた灰いろをしたふしぎなもの」の始末をした。この「灰いろをしたふしぎなもの」については、王敏という学者が『宮沢賢治、中国に翔る想い』という著書の中で卓見を述べておられる。

 「支那を戦場に想定した『北守将軍と三人の兄弟医者』にある「灰いろ」は怨霊を潜ませた死の色であり、生存者の十字架であろう」

 灰いろが「死の色であり、生存者の十字架」であるとはまさにその通りだが、きわめて抽象度の高い表現である。私見では「灰いろをしたふしぎなもの」とは、脚気で死んだという敵兵の昇華され得ない魂が、砂漠の中で唯一生気のあるところに住みついたものではないか。だとすると、三人の兄弟医者の中でもっとも簡略にかたられているポー先生の役割は、もしかしたら、もっとも重要なものだったのかもしれない。

 ポー先生が「黄いろな粉」を将軍の顔から肩にふりかけて、うちわであおぐと、将軍の顔じゅうの毛がまっ赤にかわり、「ふしぎなもの」はみんなふわふわ飛び出して、将軍の顔はつるつるになった。このときはじめて将軍は三十年ぶりににっこりする。「からだもかるくなったでのう。」ソン将軍はうれしくなって、はやてのように飛び出して、兵隊たちの待つ広場へむかう。その後、ポー先生の弟子が六人、兵隊たちの毛をとるために薬とうちわを持って将軍のあとを追う。

 広場で合流したソン将軍と九万の兵隊たちは、王宮へ粛々と行進する。馬をおりたソン将軍が壇上で叩頭すると、王はねぎらいのことばをかけ、さらに忠勤をはげんでくれという。だが、将軍は、自分はもはやその任に堪えないので、暇をもらって郷里に帰りたい、といって自分の代わりに四人の大将と三人の兄弟医者の名をあげる。さっそく王に許された将軍は、その場で鎧兜をぬいで、薄い麻の服を着る。

 将軍は、それから故郷の村のス山のふもとへ帰って、粟をまいたり間引いたりしていたが、だんだんものを食べなくなり、それから水も飲まなくなった。ときどき空を見上げてしゃっくりみたいな形をしていたが、そのうち姿を消してしまう。みんなは将軍さまは仙人になった、とまつりあげるが、国守になったリンパー先生は否定する。「肺と胃の腑は同じでない。」つまりは自死したことを示唆したのである。

 淡々と、軽妙にリズミカルな韻文形式で最後までかたりきって破綻のないこの作品を読了して、どうしてもここから「何か」をつかみだせなかった。前述の王敏氏は、漢文学に非常に造詣の深い方で、『宮沢賢治、中国に翔る想い』の中で、この作品に影響を与えた、もしくは読解のヒントとなる漢詩を随所に引用されている。大変参考にさせていただいたが、それでもなお、「何か」に逃げられているような気がして、ながいこと文章が書けなかった。

 いまも同じ思いなのだが、あえてことばにしてみると、これはあまりにも美しいお伽話である。前回とりあげた『飢餓陣営』が「コミックオペレット」と表記して、戦場のリアルな悲惨を戯曲化したのにたいして、『北守将軍と三人の兄弟医者』は、現実にはありえない出来事を神話化した。敵が全員自滅したので、九割の兵力を保存して帰還する。しかも、「北の砂漠」という過酷な自然環境に三十年さらされながらの攻防である。これを奇跡と呼ばずにいられようか。

 だが、私の関心はこの奇跡そのものにあるのではない。奇跡を成し遂げた英雄ソンバーユの最期である。故郷の「ス山」のふもとに帰って、自死した将軍のモデルはだれか。中国の歴史は絶え間ない異民族の侵入とのたたかいだったから、遠く辺境の地に赴いて、二度と故郷の土を踏むことができない人は数えきれないほど存在した。だが、生きて帰還して、そのあと自死したソン将軍のような軍人はいただろうか。しかも、みずから食を断つ、という自裁の方法で。飢餓による緩慢な死は、一気に命を絶つ自刃や縊死よりもむしろ残酷でつらい方法だろう。霞を食べる仙人の美しいお伽話のかたり口で、じつは無残な死を凱旋将軍に選ばせた作者の意図はどこにあったのか。

 最後にまたもや蛇足をひとつ。なぜソンバーユは「北」守将軍なのか。南でも東でも西でもなく。王敏氏の論のように作品の舞台が中国大陸であるならば塞外の辺境は多く「西」域である。だが、『風の又三郎』のラストに顕著なように、賢治の関心はつねに「北」の地にあるようだ。

 凱旋将軍のモデルは意外と賢治と同時代に近い人物だったのかもしれない。

 前回の投稿からこれほどの月日が経ってしまったのは、ひとえに私の怠惰によるものです。容易に隙を見せない賢治の完璧主義が生半可なアプローチを寄せつけなかった、というのは私の言い訳にもならない泣きごとです。日清戦争の二年後に生まれ、日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、とほぼ十年ごとの戦争を経験し、辛亥革命、ロシア革命と二度の革命(という名の戦争)を目の当たりに見た賢治の時代意識はどんなものだったのか。作品を読むことによって知るしかすべはないのでしょうけれど。

 とりとめもない雑文を読んでくださって、ありがとうございました。

 

2023年3月18日土曜日

宮澤賢治『氷河鼠の毛皮』__中途半端な革命譚__タイチと黒狐、氷河鼠

  タイチという金満家の男が、ベーリング(島?海?)をめざす列車の中で暴漢に襲われるが、船乗りの若者に救われる。稀少毛皮を外套にして幾重にも身にまとっていたことが、人だか熊だか判然としない暴漢たちに襲われた理由である。宗教学者の中沢新一は、『緑の資本主義』という著作の中でこの作品をとりあげ、「圧倒的な非対称」という章をもうけて論じている。中沢はタイチを襲う暴漢たちを熊とみなして、文明を作り上げた人間と動物の関係が「圧倒的な非対称」であり、この襲撃は「動物たちの人間へのテロ」であるという。多くの読者がすんなり納得させられる解析のように思われるが、はたしてそうか。

 十二月二十六日クリスマスの翌夜である。外は吹雪に閉ざされているが、イーハトーヴの停車場は暖炉の火が赤く燃え、暖炉の前に「最大急行」「ベーリング行」の乗客が「まっ黒に」立っている。夜八時汽罐車は汽笛とともに出発する。

 乗客は十五人。タイチはその中で最も太っていて、二人前の席をとっている。赤ら顔で「アラスカ産の金」の指輪をはめ、幾重にも毛皮をまとい、いかにも金に埋もれている様子だが、「十連発のぴかぴかする素敵な鉄砲」を持っているので、狩猟家でもある。向いの席の役人らしい紳士との会話で、今回のベーリング行で、黒狐の毛皮九百枚を持って来て見せるという賭けをしたといっている。

 乗客の多くは、タイチほどではなくても、同じように立派な身なりの紳士たちだったが、異質な人間が二人いた。一人は「北極狐のやうにきょとんとすまして腰を掛け」た「痩た赤いげの人」で、もう一人は「かたい帆布の上着を着て愉快さうに自分にだけ聞えるやうにな微かな口笛を吹いてゐる若い船乗りらしい男」である。しばらくすると、船乗りの青年は自分の窓のカーテンを上げ、窓に凍り付いた氷をナイフで削り、外の景色を見ていたが、「何か月に話し掛けてゐるかとも思はれ」るように「笑ふやうに又泣くやうに」かすかに唇をうごかしていた。

 痩た赤ひげの男は「熊の方の間諜」だった。タイチが役人風の男にいでたちの自慢をしているのを盗み聞きしていたのである。「イーハトーヴの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套ね、海狸の中外套根、黒狐表裏の外外套ね。」「それから北極兄弟商会の緩慢燃焼外套ね………。」「それから氷河鼠の頸のとこの毛皮だけでこさえた上着ね。」とタイチの自慢は際限もないが、さらに、今回黒狐の毛皮九百枚持って来てみせるという賭けをしたという。

 「ウヰスキーの小さなコップを十二ばかりやり」酔いがまわったタイチはあたりかまわずくだを巻きはじめる。他人の毛皮を贋物だとケチをつけたり、黄色の帆布一枚の若者に毛皮の外套を貸すと言って無視されたりしている。他の乗客は眠りについていて、起きているのは、聴き耳を立てて何か書きつけていた赤ひげの男と船乗りの青年だけだった。

 夜が明けると急に汽車がとまり、形相を変えピストルをつきつけた赤ひげの男を先頭に「二十人ばかりのすさまじい顔つきをした人がどうもそれは人といふよりは白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云った方がいいやうなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや着たといふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」が仮面をかぶったり顔をかくしながら車室の中に入って来る。人だか熊だか雪狐だかわからない集団は、赤ひげの男の告発でタイチを拉致しようとする。先頭から三番目のものが、タイチのことを「こいつだな、電氣網をテルマの岸に張らせやがったやつは」と指摘しているので、赤ひげが告発するより前にタイチの存在は集団に知られていたようである。

 押されたり引きずられたりしながら、扉の外へ出されそうになったタイチを救ったのは黄色の帆布を着た青年だった。「まるで天井にぶつかる位のろしのやうに飛びあが」った青年は、赤ひげの足をすくって倒し、タイチを車室の中に引っぱり込んで赤ひげのピストルを奪ってそれを赤ひげの胸につきつけ、叫ぶのだ。

 「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤もだ。けれどもおれたちだって仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉れ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから。」

 そして汽車は動き、赤ひげの男は船乗りの手をちょっと握って汽車から飛び降り、船乗りはピストルを窓の外へ放り出した。

 一件落着。めでたしめでたし。

 だろうか。船乗りの理屈に納得できる読者はどれくらいいるのだろうか。そもそも「生きてゐるものがきものを着る」ことと「おまへ(熊)たちが魚をとる」ことは等価だろうか。タイチが身にまとうラッコ裏の内外套、海狸の中外套、黒狐表裏の外外套、氷河鼠の頸の毛皮だけでつくった上着は「生きてゐる」ために必要なものでさえない。毛皮の外套は、極北に近い土地に狩りをしに行くために必要となったので、日常の生活になくてはならぬものだったとは思えない。極寒の地に狩りに行くためにしても、ここまでたくさん身にまとう必要はないだろう。

 それにたいして、熊たちにとって、魚をとることは生存の条件として絶対である。獲物をとって食べなければ生きていけないのだ。金持ちが道楽で毛皮を取るために動物を殺す行為と、熊が生存のために魚を殺す行為とを同じ秤ではかることはできない。金持ちの道楽のために殺される動物にむかって、殺す金持ちの側についたとりなし役が、あんまり無法に殺さないよう、すなわち適当に殺すようにするから、今回は許してくれ、という理屈が通用するのだろうか。

 不思議なことに、こんな、人間にとってだけ都合の良い理屈が、熊たちに通用したのである。思うにこれは、中沢新一がいうような「圧倒的な非対称」にある人間と動物の関係について寓喩した話ではない。では、何の寓喩なのか、これが難問なのである。

 そもそも「タイチ」とは何者か。タイチが若者に

 「ふん。バースレイかね。黒狐だよ。なかなか寒いからね、おい、君若いお方、失敬だが、外套を一枚お貸し申すとしようぢゃないか。黄色の帆布一枚ぢゃどうしてどうして零下の四十度をふせぐもなにもできやしない。」

と話しかける場面がある。この「バースレイ」についてあれこれ調べたら、berth  layのことのようである。船が波止場に繫留されている状態で、停泊休暇を意味するようだ。それにしても、タイチはなぜ黄色の帆布一枚の若者を見て停泊休暇の船乗りだと分かったのか。その後「黒狐だよ。なかなか寒いからね。」と続くのもわからない。

 「黒狐」もたんに「毛色の黒い狐」を意味するものではない。中国明代のエンサイクロペディア「三才図絵」によると、黒狐は北山に住む神獣で、王者が天下を平定した時に現れるとされる。滅多に姿を現すものではない。というか、伝説の世界の瑞獣である。タイチは黒狐の毛皮を九百枚取ってくるというが、どうやって取るのだろうか。それとも、タイチのいう黒狐は、カナダ、シベリアなどに生息するという銀狐=シルバーフォックスのことなのか。

 標題になっている「氷河鼠」の頸の毛皮というのもまたよくわからない。氷河鼠とは、北極圏に住むレミングという鼠のことだろうか。レミングは体長七センチから十五センチの鼠で、冬眠せず旺盛な食欲と繁殖力をもつが、三~四年周期で個体数が増減するそうである。こちらはうまくすれば、四五〇匹ないし百十六匹捕まえることは可能かもしれないが、こんなちいさな動物の頸の皮だけで外套を作る意味がわからない。

 要するに、タイチの言っていることは意味をなさないのだ。たぶん、タイチは「注文の多い料理店』の英国風紳士や『オツペルと象』のオツペル、さらに『ポランの広場』の山猫博士と発展していくキャラクターだろうが、「タイチ」という固有名詞が意味するものは何か。そして、黄色の帆布の若者が超人的な能力を発揮して、富と権力をひけらかす鼻持ちならないタイチを助けたのは何故だろう。

 タイチという固有名詞と黄色の帆布の若者との関係はひとまず措いておく。最終的に『ポランの広場』の山猫博士(謎の多い存在だが)へと行き着く「タイチ」というキャラクターは新興産業資本家のそれだろう。「ベーリング行最大急行」の乗客は資源獲得にむらがって、寒風吹きすさぶ停車場の暖炉の前に「まっ黒に立ってゐる」人たちだった。役人や商人も混じえた人々の群れの中で、もっとも強欲ぶりを発揮していたのがタイチだった。

 タイチが強欲な新興資本家の典型として描かれているとすれば、「熊」という言葉で表現されているものは何か。自然界の生物としての熊そのものではないだろう。熊だか人間だかわからない「もの」が汽罐車に闖入してきたことを「パルチザンの襲撃」と解釈した評者がいたように思うが、私の解釈もそれに近い。

 資源を搾取する側とされる側が「圧倒的な非対称」の関係にあることはいうまでもない。「非対称」は動物と人間の関係だけでなく、というよりむしろ、まず人間同士の間に「圧倒的非対称」=差別は在する。「ベーリング行最大急行」に闖入してきた「二十人ばかりのすざまじい顔つきをした人」は搾取され、差別される側のゲリラではないか。賢治が、「どうもそれは人といふより白熊といった方がいゝやうな、いや白熊といふよりは雪狐と云ったほうがいいやうなすてきにもくもくしたした毛皮を着た、いや着たと云ふよりは毛皮で皮ができているというた方がいゝやうな、もの」と、饒舌にことばを重ねながら、闖入者を描写しているのが興味深い。結局その集団は「人といふより…………、もの」とされるのだが。

 では、汽罐車に闖入してきたゲリラからタイチを守った黄色の帆布の若者は何者なのか。ゲリラを先導した赤ひげの男は、船乗りにピストルを奪われ、突きつけられながらも、去り際に「笑ってちょっと」彼の手を握るのだ。赤ひげは、タイチの側すなわち資本家の側について体制と秩序を守った船乗りに対して、微かな和解の意をしめしたのである。船乗りの若者は「ベーリング行最大急行」の乗客たちとは距離をおきながら、ゲリラの側にはつかず、身を挺してタイチを取り戻した。黄色の帆布の若者は、タイチを守るために「ベーリング行最大急行」に乗っていたかのようである。

 最後に「タイチ」という固有名詞について考えてみたい。「タイチ」は漢字で書けば「太一」だろう。「太極」かもしれない。いずれにしろ、宇宙、万物の根元であり、さらに北極星を指すともいわれ、古代中国において祭祀の対象になっていた。金に埋もれた資本家に賢治が「タイチ」という名をつけたのは何故だろう。船乗りの若者が「黄色」の帆布をまとっていたこととあわせて、私に仮説があるが、いま、ここで書くのは控えたい。

 例によって独断と偏見でいえば、この作品は尻切れトンボで中途半端な革命譚である。そのことは作品自体が尻切れトンボで中途半端であるという意味ではない。いうまでもなく。そのような、「革命」ともいえないような、ゲリラ戦すら実行できない状況を切り取って、賢治は緊迫感あふれる短編に仕上げたのである。

 前回の投稿から随分時間が経ってしまいました。賢治の作品はどれも難解ですが、その理由の一つが、彼の生きた時代の状況が私の中でもう一つつかみきれないということです。私が怠惰で非力であるということなのですが。今日も不出来な文章を最後までよんでくださってありがとうございます。

2022年12月18日日曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__最後に残る二つの謎__高田三郎と宮澤賢治

  この後の月曜日、一郎と嘉助が嵐の中登校して、三郎が転校したことを告げられる。嘉助は先生に挨拶するとすぐ、「先生、又三郎きょう來るのすか。」ときいている。先生が告げるまでもなく、もう三郎は来ないことを嘉助も一郎も知っているのだ。

 九月一日に現れて、(おそらく)十一日に去って行った高田三郎。三郎が「風の又三郎」かどうか、という問いに対して、じつは私はほとんど関心がない。嘉助がまず最初に「又三郎」と呼び、子どもたちもみなそう呼んだ。それで十分である。物語の中で、高田三郎は、モリブデンの発掘という仕事をする父親とともに、谷川の小学校に現れた。モリブデン発掘が中止になったので、村を去った。それ以上でもそれ以下でもない。

 『風の又三郎』という作品を、東北地方にあるという「風祭り」と関連づけたり、又三郎を「風の神」としてとらえる民俗学的アプローチもあるようだが、いまの私は、そのようなアプローチには組したくない。

 少し、興味を覚えるのは、「鼻のとがった人」がステッキのようなもので川の浅瀬を調べていたことと、モリブデンの発掘が関係があるのかもしれない、ということである。だが、これも、さほど重要なことではないかもしれない。

 私がどうしても解決できない謎が二つある。一つは、三郎を極度におびえさせたシュプレヒコールの発端となった

 「雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ又三郎。」

と叫んだのは誰か、ということである。本文では「すると、だれともなく、「雨は…。」と叫んだものがありました。」と書かれている。「叫んだもの」は人なのか、それとも作者はそうでないものを想起させたかったのか。

 この後すぐ、「みんなもすぐ声をそろえて叫びました。」と書かれているので、シュプレヒコールを発したのは子どもたちである。三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと「そでない、そでない。」と「みんないっしょに叫びました。」と、これも子どもたちがいっせいにそう叫んだのだ。

 最初に叫んだのが人か何かわからないが、次にシュプレヒコールを浴びせたのはあきらかに子どもたちである。だが、三郎の問いにみんなで声をそろえて否定する。またもやぺ吉が出て来て「そでない。」とだめ押しする。

 シュプレヒコールの威力は、集団の暴力である。多数の者がいっせいに声を出すことで、コミュニケーションを切断するのだ。前日は、一郎の音頭で子どもたちがシュプレヒコールを浴びせ、正体不明の鼻のとがった人を追い払った。この場面では一郎も集団のなかに埋没している。嘉助も耕助も「みんな」のなかである。三郎ひとり、「みんな」と対峙しなければならない。淵から上がった三郎のからだががくがくふるえていたのは、寒さと恐怖と、絶望的な疎外感のためだったのではないか。 

 もう一つわからないのは、物語の最期の段落の始めに

 「どっどど どどうど どどうど どどう
  青いくるみも吹きばせ
  すっぱいかりんも吹きとばせ
  どっどど どどうど どどうど どどう
  どっどど どどうど どどうど どどう

 先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。」
と書かれているのだが、本文中どこをさがしても、三郎が一郎あるいは子どもたちにこの歌を歌ってきかせている箇所はない。たしかなことは、一郎は「夢の中でまた」その歌をきいた、ということである。

 ここからは一郎と風の物語である。

 「馬屋のうしろのほうで何か戸がぱたっと倒れ、馬はぷるっと鼻を鳴らしました。一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあと息を強く吐きました。そして外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯をするというように激しくもまれていました。
 青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎれた栗の青いいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色に光り、どんどん北のほうへ吹きとばされていました。
 遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっと聞こえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げました。」

 まさに「青いくるみも吹きとばせ。すっぱいりんごも吹きとばせ」の歌の通り、風が猛威をふるっている。すさまじくも美しい破壊と浄化の自然現象である。一郎は全身でそれをうけとめている。

 「すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってくるのでした。」

 一郎の中で何かが起きている。何かが一郎の中を通過して、一郎を昂揚させている。

 「きのうまで丘や野原の空の底に澄み切ってしんとしていた風が、けさ夜あけがたにわかにいっせいにこう動き出して、どんどんタスカロラ海溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までもがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。」

 「きのうまでしんとしていた」風が動きだした、ということ、それが一郎を昂揚させ、自分まで北をめざして空を翔けるような気持ちにさせたのだ。破壊と浄化、そして飛翔。変革への期待で一郎は「顔がほてり、息もはあはあと」なる。それは別離でもあったが。 

 「風の又三郎」を「見た」のは嘉助だったが、一郎は「風の又三郎」と「生きた」のだった。

 だが、いまさらながら「風の又三郎」とは何か。また「高田三郎」とは何か。「風の又三郎」とは何か、の問いに答えることはいまの私には不可能に近い。「高田三郎」については、何の検証もできていないが、ある仮説がある。作者宮沢賢治の分身ではないかと考えている。賢治が作品の中で「風」をどのように扱ってきたかをもう一回見直してみたいと思っている。

 七転八倒しながらやはり尻切れとんぼの結論になってしまいました。私にとって「風の又三郎」はあまりにも難解です。力不足、と言われればその通りなのですが。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 


 

 

 


 

 

 

 

  この後、一郎と嘉助が嵐の中登校して、三郎が転校したことを告げられる。嘉助は先生に「先生、又三郎きょう來るのすか。」ときいている。もう三郎は来ないことを嘉助も一郎も知っているのだ。


 九月一日に現れて、(おそらく)十一日に去って行った高田三郎。三郎が「風の又三郎」かどうか、という問いに対して、じつは私はほとんど関心がない。嘉助がまず最初に「又三郎」と呼び、子どもたちもみなそう呼んだ。それで十分である。物語の中で、高田三郎は、モリブデンの発掘という仕事をする父親とともに、谷川の小学校に現れた。モリブデン発掘が中止になったので、村を去った。それ以上でもそれ以下でもない。

 『風の又三郎』という作品を、東北地方にあるという「風祭り」と関連づけたり、又三郎を「風の神」としてとらえる民俗学的アプローチもあるようだが、いまの私は、そのようなアプローチには組したくない。

 少し、興味を覚えるのは、「鼻のとがった人」がステッキのようなもので川の浅瀬を調べていたことと、モリブデンの発掘が関係があるのかもしれない、ということである。だが、これも、さほど重要なことではないかもしれない。

 私がどうしても解決できない謎が二つある。一つは、三郎を極度におびえさせたシュプレヒコールの発端となった

 雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ又三郎。」

と叫んだのは誰か、ということである。本文では「すると、だれともなく、「雨は…。」と叫んだものがありました。」と書かれている。「叫んだもの」は人なのか、それともそうでないものを想起させたかったのか。

 この後すぐ、「みんなもすぐ声をそろえて叫びました。」と書かれているので、シュプレヒコールを発したのは子どもたちである。三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと「そでない、そでない。」と「みんないっしょに叫びました。」と、これも子どもたちが一斉にそう叫んだのだ。

 最初に叫んだのが人か何かわからないが、次にシュプレヒコールを浴びせたのはあきらかに子どもたちである。だが、三郎の問いにみんなで声をそろえて否定する。またもやぺ吉が出て来て「そでない。」とだめ押しする。

 シュプレヒコールの威力は、集団の暴力である。多数の者がいっせいに声を出すことで、コミュニケーションを切断するのだ。前日は、一郎の音頭で子どもたちがシュプレヒコールを浴びせ、正体不明の鼻のとがった人を追い払った。この場面では一郎も集団のなかに埋没している。嘉助も耕助も「みんな」のなかである。三郎ひとり、「みんな」と対峙しなければならない。淵から上がった三郎のからだががくがくふるえていたのは、寒さと恐怖と、絶望的な疎外感のためだったのではないか。 

 もう一つわからないのは、物語の最期の段落の始めに

 「どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう
 どっどど どどうど どどうど どどう

 先ごろ、三郎から聞いたばかりのあの歌を一郎は夢の中でまたきいたのです。」と書かれているのだが、本文中どこをさがしても、三郎が一郎あるいは子どもたちにこの歌を歌ってきかせている箇所はない。たしかなことは、一郎は「夢の中でまた」その歌をきいた、ということである。ここから終末までは一郎の物語である。

 一郎は歌をきいてはね起きる。外は激しい嵐で、くぐり戸をあけるとつめたい雨と風がどっとはいって來る。ここから岩波文庫版で一頁あまり一郎と嵐の情景が描写される。

 「馬屋のうしろのほうで何か戸がぱたっと倒れ、馬はぷるっと鼻を鳴らしました。
 一郎は風が胸の底までしみ込んだように思って、はあっと息を強く吐きました。そして外へかけだしました。
 外はもうよほど明るく、土はぬれておりました。家の前の栗の木の列は変に青く白く見えて、それがまるで風と雨とで今洗濯をするとでもいうように激しくもまれていました。
 青い葉も幾枚も吹き飛ばされ、ちぎれた青いくりのいがは黒い地面にたくさん落ちていました。空では雲がけわしい灰色にひかり、どんどん北のほうへ吹き飛ばされていました。
 遠くのほうの林はまるで海が荒れているように、ごとんごとんと鳴ったりざっときこえたりするのでした。一郎は顔いっぱいに冷たい雨の粒を投げつけられ、風に着物をもって行かれそうになりながら、だまってその音をききすまし、じっと空を見上げました。」

 まさに「青いくるみも吹きとばせ すっぱいかりんも吹きとばせ」と風が猛威をふるっている。自然が、すさまじくも美しい破壊と浄化のかぎりをつくしている。一郎はその中に立って、全身でそれをうけとめている。

 「すると胸がさらさらと波をたてるように思いました。けれどもまたじっとその鳴ってほえてうなって、かけて行く風をみていますと、今度は胸がどかどかとなってくるのでした。」

 一郎のなかで何かが変化している。「胸がさらさらと波をたてるよう」「胸がどかどかとなってくる」。何かが一郎を昂揚させている。

 「きのうまで丘や野原の空の底に澄みきってしんとしていた風が、けさ夜あけ方にわかにいっせいのこう動き出して、どんどんタスカロラ海溝の北のはじをめがけて行くことを考えますと、もう一郎は顔がほてり、息もはあはあとなって、自分までがいっしょに空を翔けて行くような気持ちになって、大急ぎでうちの中へはいると胸を一ぱいはって、息をふっと吹きました。」

 タスカロラ海溝の北のはじをめがけて、風が動いている。その風と自分が同化していっしょに空を翔けている、という一体感が一郎を昂揚させている。もちろんそれは一瞬の幻覚にすぎず、翔けて行ったのは又三郎だ、と直感するのだが。

 さて、それで、いまさらだが、「風の又三郎」とは何か。子どもたちから「又三郎」と呼ばれた高田三郎とは何か。私自身は、作者宮沢賢治の分身が高田三郎である、という仮説をたている。その仮説から「風の又三郎」について、というより「風」について、賢治が作品のなかで「風」をどうあつかってきたかを検証してみたいのだが、いかんせん力不足、というよりほかない現状である。「風」がなぜ「北」をめざすのか、ということだけでも追いかけてみたいのだが。

 七転八倒して、尻切れとんぼの決論になってしまいました。この作品については、まだ言わなければならないことがあるように思うのですが、思いを言語化するのにもう少し時間がかかりそうです。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

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2022年12月16日金曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__高田三郎はいかにして鬼になったか

  三郎と子どもたちが葡萄と栗を交換したエピソードの次に語られるのは、少し複雑で難解な出来事である。

 「次の日は霧がじめじめ降って学校のうしろの山もぼんやりしか見えませんでした。ところが今日も二時間目からだんだん晴れてまもなく空はまっ青になり、日はかんかん照って、お午になって一、二年が下がってしまうとまるで夏のように暑くなってしまいました。」

と書き出されるが、「次の日」が葡萄蔓とりの翌日のことなのか、よくわからない。「今日も二時間目からだんだん晴れて」とあるので、たぶん連続した日の出来事なのだろう。真夏のような暑さで、授業が終わると、子どもたちは川下に泳ぎに行く。「又三郎、水泳ぎに行かないが。」と嘉助に誘われ、三郎もついて行く。昨日の葡萄蔓とりには「三郎も行かないが。」と誘った嘉助が、今日は「又三郎」と呼びかけていることを覚えておきたい。

 勢いこんで水に飛び込み、がむしゃらに泳ぎ始めた子どもたちを三郎がわらい、その三郎が、今度は水にもぐって石をとろうとして息が続かず、途中で浮かびあがってきたのを見た子どもたちがわらう、という場面の後、発破を仕掛ける大人たちが登場する。庄助という抗夫が発破をしかけ、ほかの大人たちは網を持ったりして、水に入ってかまえる。だが、彼らが狙った獲物はかからず、流れてきた雑魚を取った子どもたちが大よろこびする。

 発破の音を聞きつけて、また別の大人たちが五六人、そのあとにはだか馬に乗った者もやってくる。そのとき、「さっぱりいないな。」とつぶやく庄助のそばへ三郎が行って、「魚返すよ。」といって二匹の鮒を河原に置く。「きたいなやづだな」といぶかる庄助と魚を置いて帰ってくる三郎を見て、みんながわらう。収獲がないので、大人たちが上流に去ると、耕助が泳いで行って三郎の置いてきた魚を持ってくる。みんなはそこでまたわらう。

 「発破かけだら、雑魚撒かせ。」と嘉助が雄たけびをあげる。子どもたちは雑魚だろうが何だろうが、魚がとれたことが無条件にうれしいのだ。食べ物が手に入ったのだから。だが、三郎にとっては、手放しでよろこべることではなかった。発破をかけて魚を取ること自体が違法行為であり、そうやって手に入れた魚は発破を仕掛けた者の所有物である、と考えたのかもしれない。とりあえず、魚を返すことで違法行為と関わりを断っておきたかった。泥棒といわれたくない、という自尊心もあったかもしれない。

 雑魚を返しに行く三郎の遵法意識が庄助に通用せず、いぶかられたのを見て笑った子どもたちにあるのは「食べ物が手に入ればうれしい」という徹底した現実感覚であり、論理である。三郎が返しに行った魚を取り返しに行くのが、葡萄蔓とりの耕助である。くちびるを紫いろにして葡萄をためこんでいた耕助がまたしても魚を取り返しに行く。子どもたちにとって「食」は無前提に優先されるが、三郎はそうではない。行動の当為が問題なのだ。子どもたちと三郎の隔たりをうみだすものは、飢えとの距離感だろう。

 だが、この時点では、いくぶんかの齟齬はあるものの、三郎が子どもたちから疎外されていたというわけではない。むしろ、一郎の指揮下子どもたちは、見知らぬ大人の侵入を警戒して、三郎を守ろうとするのである。

 発破騒ぎのあと、「一人の変に鼻のとがった、洋服を着てわらじをはいた人」が登場する。ステッキのようなもので生け洲をかきまわしている。佐太郎が「あいづ専売局だぞ。」と言い、嘉助も「又三郎、うなのとった煙草の葉めっけたんで、うな、連れでぐさ来たぞ。」と言う。「なんだい。こわくないや。」と三郎は言うが、「みんな、又三郎のごと、囲んでろ。」と一郎の指示で、三郎はさいかちの木の枝のなかに囲まれる。

 ところがその男は三郎を捕まえる気配もなく、川の中を行ったり来たりしている。子どもたちの緊張はとけたが、男のしていることの意味がわからない。それで、一郎が提案して、みんなで男に叫びかける。「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」このシュプレヒコールは三度くり返され、男は「この水飲むのか。」「川を歩いてわるいのか。」と子どもたちに問いかけるが、最後まで子どもたちは「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生言うでないか。」とシュプレヒコールで返すだけだった。

 四度目のシュプレヒコールの後、男が去ると、子どもたちは何となく「その男も三郎も気の毒なようなおかしながらんとした気持ちになりながら」木からおりて、魚を手に家路についたのだった。

 子どもたちの生活世界のなかに、大人が侵入してくる。発破をしかけた一味と、それを見にきた集団。それから、目的不明で現れた「鼻のとがった人」。それらが、三郎と子どもたちの関係に微妙な波紋を投げかける。

 翌日、佐太郎が、発破の代わりに毒もみに使う山椒の粉を学校に持ってくる。山椒の粉は、それを持っているだけで捕まるというしろものである。この日の朝の天候は書かれていないが、「その日も十時ごろからやっぱりきのうのように暑くなりました。」とあるので、三日連続で夏のような天気が続いたことになる。授業が終わるのも待ち遠しく、子どもたちはさいかちの木の淵に急ぐ。佐太郎は耕助などみんなに囲まれて、三郎は嘉助とともに行ったのである。

 淵の岸に立って、佐太郎が一郎の顔を見ながら、差配する。佐太郎は、山椒の粉が入った笊を持って行って、上流の瀬で洗う。子どもたちはしいんとして、水を見つめている。三郎は水を見ないで、空を飛ぶ黒い鳥を見ている。一郎は河原に座って、石をたたいている。

 だが、いつまでたっても魚は浮いて来なかった。「さっぱり魚、浮かばないな。」と耕助がさけび、ぺ吉がまた「魚さっぱり浮かばないな。」と言うと、みんながやがやと言い出して、水に飛び込んでしまう。きまり悪そうにしゃがんでしばらく水をみていた佐太郎は、やがて立ち上がって「鬼っこしないか。」と言う。そうして、この「鬼っこ」が修羅場になる。

 つかまったりつかまえられたり、何遍も「鬼っこ」をするうちに、しまいに三郎一人が鬼になる。三郎が吉郎をつかまえて、二人でほかの子たちを追い込もうとするが、吉郎がへまをしたので、みんな上流の「根っこ」とよばれる安全地帯に上がってしまう。嘉助まで「又三郎、来」と、口を大きくあけて三郎をばかにする。さっきからおこっていた三郎はここで本気になって泳ぎ出す。これまで三郎をエスコートしてきた嘉助に裏切られたと思ったのだ。

 そして、みんなが集まっている「根っこ」の土に水をかけ始める。「根っこ」は粘土の土なので、だんだんすべって来て、集まっていた子どもたちは一度にすべって落ちてくる。三郎はそれをかたっぱしからつかまえる。一郎もつかまる。嘉助一人が逃げたが、三郎はすぐ追いついて、つかまえただけでなく、腕をつかんで四、五へん引っぱりまわす。水を飲んでむせた嘉助は「おいらもうやめた。こんな鬼っこもうしない。」と言う。ちいさな子どもたちは砂利の上に上がってしまい、三郎ひとりさいかちの木の下にたつ。三郎は一人ぼっちになってしまったのだ。

 三郎が一人鬼になってしまったのは偶然である。「鬼っこ」を始めたのも、毒もみ漁が上手くいかなかった佐太郎の思い付きだ。だが、鬼になった三郎が子どもたちを一網打尽にしたのは偶然ではない。彼がなみはずれた体力と知力をもっていたからである。そもそも、上の野原で逃げた馬を追って、馬といっしょに現れたのは三郎だった。

 その能力が怒りと結びついたとき、「鬼っこ」は修羅場と化した。天気も一変する。空は黒い雲に覆われ、あたりは暗くなり、雷が鳴りだす。轟音とともに夕立がやって来て、風まで吹きだす。

 さすがに三郎もこわくなったようで、さいかちの木の下から水の中に入って、みんなのほうへ泳ぎだす。そこへだれともなく、叫んだものがある。

 「雨はざっこざっこ雨三郎 
 風はどっこどっこ又三郎。」

すると、みんなも声をそろえて叫ぶのだ。

 「雨はざっこざっこ雨三郎、
 風はどっこどっこ風三郎。」

 前日鼻のとがった人を追い払ったシュプレヒコールがここでも繰り返される。さらに、動揺した三郎が「いま叫んだのはおまえらだちかい。」ときくと、みんないっしょに

 「そでない。そでない。」

と叫ぶのだ。その上、ぺ吉がまた出て来て

 「そでない。」

と言う。

 三郎は、いつものようにくちびるをかんで、「なんだい。」と言うが、からだはがくがくふるえている。

 「そしてみんなは、雨のはれ間を待って、めいめいのうちへ帰ったのです。」と結ばれて、高田三郎の物語は終わる。

 高田三郎の物語はここで終わります。一郎と嘉助、そして村の子どもたちについては、もう少し考えてみたいことがあるのですが、長くなるので、また次回にしたいと思います。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2022年12月4日日曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__葡萄と栗を交換する

  『風の又三郎』後半は、逃げた馬を追って彷徨した嘉助が、臨死体験のなかで「風の又三郎」を見た上の野原の出来事の後

 「次の日は朝のうちは雨でしたが、二時間目からだんだん明るくなって三時間目の終わりの十分休みにはとうとうすっかりやみ、あちこちに削ったような青ぞらもできて、その下を真白なうろこ雲がどんどん東へ走り、山の萱からも栗の木からも残りの雲が湯げのようにたちました。」

と書き出される。この「次の朝」が上の野原の出来事があった九月四日の日曜日の次の朝かどうか疑問なのだが、ともかくもここからは、嘉助の物語ではなく、又三郎と呼ばれる「高田三郎」の物語が語られる。

 耕助という子が葡萄蔓とりに嘉助を誘い、嘉助が三郎を誘う。葡萄蔓のありかを見つけた耕助は、嘉助が三郎を誘ったのがすでにおもしろくない。宝物のような葡萄蔓のありかをできるだけ秘密にしておきたかったのだ。

 葡萄蔓のある場所への道中、三郎はそれと知らないで、たばこの葉をむしって一郎に尋ねる。一郎は、たばこの葉が専売局の厳重な管理下にあるのを知っているので、少し青ざめて三郎をとがめる。子どもたちも口々にはやしたて、とくに耕助が、もと通りにしろなどと、いつまでも意地悪くいい募る。

 やがて山を少しのぼった所の栗の木の下に、山葡萄が藪になっている。耕助が「こごおれ見っつけたのだがらみんなあんまりとるやないぞ。」と言うと、三郎は「おいら栗のほうをとるんだい。」といって石を拾って枝に投げ、青いいがを落とす。そして、まだ白い栗を二つとったのである。

 その後一行が別の葡萄蔓の場所に移動する途中で、耕助が上から水をかけられて、体中水びたしになる。いつのまにか三郎が栗の木にのぼって、枝をゆすり、たまっていた雨水をふりかけたのだ。耕助がとがめても、三郎は「風が吹いたんだい。」とわらうだけである。そしてまた別の葡萄蔓に熱中する耕助は、またしても頭から水びたしになってしまう。姿は見えないが、今度も三郎が木をゆすって耕助に水をかけたのだった。

かんかんにおこった耕助と「風が吹いたんだい。」とくり返す三郎のやりとりを、ほかの子どもたちは笑ってみていたが、耕助は気持ちがおさまらない。三郎にむかって、「うあい又三郎、汝など世界になくてもいいなあ。」と言う。三郎は「失敬したよ、だってあんまりきみもぼくへ意地悪をするもんだから。」と謝るが、耕助のいかりはおさまらない。

 「汝などあ世界になくてもいいなあ。」「うなみたいな風など世界じゅうになくてもいいなあ。」「風など世界じゅうになくてもいいなあ。」と、あまりにも腹がたって言葉がみつからない耕助は、いつまでも同じことをいいつのる。結果、三郎に、風がなくてもいいというわけをいってごらん、と問い詰められ、いろいろ風の弊害をあげるが、最後に「風車もぶっこわさな。」といって、三郎だけでなくみんなに笑われてしまう。ついには耕助自身も笑い出し、三郎もきげんを直して耕助に謝り、仲直りする。

 帰るさに、一郎は三郎にぶどうを五ふさくれ、三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けた、とあるが、この交換は何を意味するのだろう。そもそもこの一日のエピソードは何のためにここに置かれているのか。

 ここに描かれている高田三郎という少年は、議論をすることが上手だという点を除けば、同年齢の子どもたちと変わらないように見える。議論が上手なのも、父親の仕事上、いろいろな土地、世界を知っているためもあるかもしれない。要するに、都会的で「おませ」なのだ。だが、村の子たちが当たり前に知ってるたばこの葉のことを知らなかったことで、自尊心を傷つけられてしまう。

 それからもうひとつ、村の子たちと異なるのは、食べ物にたいする貪欲さに乏しいことだろう。「もう耕助はじぶんでも持てないくらいあちこちにためていて、口も紫いろになってまるで大きくみえました。」とあるが、耕助だけでなく、ほかの子どもたちにとっても、ぶどうは大のご馳走だった。三郎にとってもぶどうは魅力的だったはずで、「ぼくは北海道でもとったぞ。ぼくのお母さんは樽へ二っつ漬けたよ。」と言っている。それでも三郎は自分では葡萄をとらなかった。

 その三郎に、一郎はぶどうを五ふさくれて、三郎は白い栗をみんなに二つずつ分けた、とある。おいしいぶどうと、未熟で食べられない栗は等価交換ではない。そもそも、藪のようになっているぶどうはすぐに手に取って食べられるが、白い栗は三郎が石を投げて木から落としたものである。食べられないもののために、なぜ、三郎はそんな乱暴なことをしたのか。

 三郎のなかにある暴力性と自尊心の問題は、この後二日間のエピソードを読む上でも大きなテーマとなるが、それについては、また回をあらためたい。「耕助」「一郎」それから「嘉助」など、一見固有名詞に見えるものの意味することも考えてみたい。もちろん「風の又三郎」と「三郎」についても。

 いまの季節になっても、昼間は農作業に忙しく、といっても大したことはやっていないのですが、なかなかものを書く時間も読む時間もとれません。つくづく、体力、知力の衰えを感じています。今日も不出来な一文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2022年10月19日水曜日

宮澤賢治『風の又三郎』__誰が風の又三郎を見たか

  又三郎を見たのは嘉助である。「ガラスのマントを着て、ガラスの靴をはき」「小さなくちびるを強そうにきっと結んだまま、黙って空を見て」いて、「いきなり」「ひらっとそらへ飛びあが」った又三郎を見たのは、嘉助である。谷川の岸にある小さな学校の小学五年生の嘉助だけが風の又三郎を見たのだった。

 『銀河鉄道の夜』と並んで、賢治の代表作として評価の定まっている『風の又三郎』については、多くの研究者の考察がある。いまさら私がいうべきことがあるだろうか、との思いもあるのだが、他の研究者の方と少し違う観点から(というより、例によって独断と偏見で)この作品と向き合ってみたい。

 賢治の多くの他作品と同様に、『風の又三郎』も彼の生前に活字化されたものではない。いま私がテキストとしているのは、昭和二六年四月二五日初版の第二七刷谷川徹三編の岩波文庫に収められたものであるが、ひとつの完成された作品として読むには、プロットの展開に不連続な部分があったり、矛盾が生じたりして不都合である。不可解な部分は不可解なまま読むしかないが、全体を通読して浮かび上がってくるのは、これは「童話」ではなく、「小説」なのだ、という思いである。作品のあちこちに存在する不可解な部分_謎を、「童話」のカテゴリーに入れて溶解させてしまうのでなく、現実の出来事として、どうしたらそのような事象が存在し得うるか、そのような事象を自分自身の感覚でリアリティあるものとして納得できるか、ぎりぎりまで考えていかなければならない。

 さて、作品に戻ると、いつも「くちびるをきっと結んだ」異形の転校生高田三郎の造型も印象的だが、それ以上に印象的なのが、彼を「又三郎」と呼び、かかわっていく村の子どもたちの姿である。

 新学期が始まった九月一日の朝、谷川の岸の小さな小学校の一つしかない教室の一番前に見知らぬ赤い髪の子がすわっている。登校して、自分の机におかしな赤い髪の子がすわっているのを見た一年生の子は泣きだし、後から「ちょうはあ かぐり ちょうはあ かぐり」とわけのわからないことを叫びながら「まるで大きなからすのように」「わらって」運動場にかけて来た嘉助はだまってしまう。その後来た一番年長の一郎が、赤い髪の子に呼びかけて、教室から外へ出てくるよう促すが、その子はきょろきょろみんなの方を見るだけで、じっとすわっている。

 たぶん、子どもたちの言葉が赤い髪の子にはまったくわからないのだろう。この作品で、賢治は、村の子どもたちに徹底して土地の方言で喋らせている。村の子どもたちにとって、赤い髪の子は言葉が通じない異邦人なのである。服装も「変なねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴をはいていたのです。」とあって、自分の机にすわられてしまった一年生の子が「黒い雪袴をはい」ていた時代では、「あいづは外国人だな」ということになってしまう。

 赤い髪の子を外国人から「風の又三郎」に昇華させたのは嘉助である。

 「そのとき風がどうと吹いて教室のガラスはみんながたがた鳴り、学校のうしろの山の萱や栗の木みんな変に青じろくなってゆれ、教室のなかのこどもはなんだかにゃっとわらってすこしうごいたようでした。
 すると嘉助がすぐ叫びました。
 「ああわかった。あいつは風の又三郎だぞ。」

 子どもたちも嘉助に同調して口々に赤い髪の子の又三郎たる所以を言い始める。これ以降、嘉助は一貫してその子を「又三郎」と呼び、子どもたちもそう呼ぶ。先生から「高田三郎」という本名を聞いた嘉助は、ここでも「わぁ、うまい、そりゃ、やっぱり又三郎だな。」と「まるで手をたたいて机の中で踊るようにしました」と書かれている。四年生の佐太郎だけが「又三郎だない。高田三郎だぢゃ。」というのだが、嘉助はどこまでも「又三郎だ。又三郎だ。」とがん張るのである。

 そうやって、「風の又三郎」を出現させた嘉助が、六年生の一郎に「嘉助、うなも残ってらば掃除してすけろ」といわれて「わぁい、やんたぢゃ。」と大急ぎで逃げだすと、

 「風がまた吹いてきて窓ガラスはまたがたがた鳴り、ぞうきんを入れたバケツにも小さな黒い波をたてました。」

と、嘉助の退場に風がさわぐのだ。「風の又三郎」より、嘉助自身のほうが、風と近親性があるのかもしれない。

 翌二日、小さな小学校の授業が始まる。一郎と嘉助が注目する中、三郎が「お早う。」と言って登校してくる。子ども同士で「お早う」と挨拶する習慣のない一郎と嘉助は、気後れしてしまって、ことばが返せない。他の子たちも誰も三郎に近寄っていかない。所在なく三郎が学校の玄関から向こう側の土手の方へ歩きだすと、つむじ風が起こる。するとまたもや嘉助が「そうだ。やっぱりあいづ又三郎だぞ。あいづ何かするときっと風吹いてくるぞ。」と高く言って、だめ押しするのである。

 この後、新学期最初の日の授業風景が描かれ、三郎が四年生の佐太郎に自分の木ペンを与えるエピソードが語られる。佐太郎は嘉助に「又三郎だない。高田三郎ぢゃ。」と言った子だが、自分の木ペンをなくしたので、妹の木ペンを取り上げてしまったのである。妹のかよが取り返そうとしても、佐太郎が机にへばりついて渡さないので、かよは泣き出しそうになっている。三郎は困ったようにそれを見ていたが、だまって、自分の半分になった鉛筆を佐太郎の机の上に置く。にわかに元気になった佐太郎が、「くれる?」と聞くと、三郎はちょっととまどいながらも「うん」と言う。子どもながら抜け目ない佐太郎の策士ぶりが描かれていて、印象的なシーンである。

 佐太郎は、三郎が登場する最後の日でも重要な役割をになう人物である。

 このエピソードには、嘉助は登場しない。先生も佐太郎と三郎のやり取りには気がつかない。一郎だけが、一番後ろでこれを見ていた。そして、言葉にできない思いで歯ぎしりしていたのである。最後の三時間目の授業中、鉛筆を佐太郎にくれてしまった三郎が、消し炭を使って雑記帳に計算しているのを見たのも一郎だけだった。

 これが、赤い髪の転校生高田三郎が登場する二日間のできごとである。この後

 「次の朝、空はよく晴れて谷川はさらさらなりました。一郎は途中で嘉助と佐太郎と悦治を誘って一緒に三郎のうちのほうへ行きました。」という書き出しで、この作品の一つの山場が語られる。逃げた馬を追いかけた嘉助が気をうしなって「風の又三郎」と出会い、又三郎が空に飛びあがるのを見る場面は、前半のクライマックスである。

 ところで、「次の朝」とは、いつの次なのだろうか。この日登場する三郎は、九月一日谷川の岸の小学校に突然現れた赤い髪の異邦人転校生の三郎から、綺麗な標準語で村の子どもたちと自然に会話する「又三郎」へと変身している。明かな断絶がある。九月一日、二日とこの日(おそらく九月四日の日曜日)の間に、三郎の変化の過程を語る何らかのエピソードが挿入される予定だったが、どうしても断念せざるを得ない事情が賢治に生じたのではないか。そのようなエピソードがあったとしても、たった一日で劇的な変身を遂げるという筋書きは無理のように思われるが。

 いつ親交を深めたのかわからないが、一郎と嘉助ら四人の子どもたちは、三郎を誘って「上の野原」に行く。この「上の野原」と呼ばれる場所がどんな位置にあって、どのような地形になっているか、じつは、私はこの箇所を何遍読んでもよくわからない。「学校の少し下流で谷川をわたって」と書かれているので、川の「向こう側」である。「学校」という生活空間__「テニスコートのくらいの」運動場があり、たったひとつだが教室があって、いわば安全が担保された場所から、川を隔てた向こうへ、子どもたちは「だんだんのぼって行く」のである。子どもたちが楊の枝の皮で鞭をつくり、ひゅうひゅう振りながらのぼったのは、山のけものを追い払うためだと思われるが、もっと広くは魔ものをよけるためだろう。

 林の中の暗い道を抜け、息を切らしながら、三郎の待つ「約束のわき水」の出る場所まで登った子どもたちは、ここで三郎と出会い、冷たいわき水を飲む。ちょっとおかしいのは、ここまでかけ上がってきて、水を飲んだのが「三人」と書かれていることである。ここまで登ってきたのは四人のはずだが、誰かいなくなったのか、それとも作者の錯誤だろうか。

 三郎と一緒に子どもたちはさらに登って行く。上の野原の入り口近くから西のほうをながめると、たくさんの丘のむこうに、川にそった「ほんとうの野原」が碧くひろがっている、と書かれている。「ほんとうの野原」という言葉はこの後にも一回出てくるが、「上の野原」とどのように違う野原なのだろう。「上の野原」はほんとうの野原ではないのか。

 上の野原の入り口に、一本の大きな栗の木があって、幹の根本がまっ黒に焦げて、大きな洞のようになり、枝に古い縄や切れたわらじなどが吊るされている。神域を示す指標とも見えるが、何より無残な印象が強く、ここから先の「上の野原」がどのような空間であるかを象徴している。

 上の野原は草刈り場で、その中の土手で囲まれた内側には牧馬がいた。「来年から競馬に出る」「千円以上もする」馬だというが、子どもたちは、三郎の発案でそれらの馬を追って遊び始める。最初は、子どもたちがけしかけても反応しなかった馬が、「だあ」と一郎が掛け声をかけると、七匹が走り出す。そのうち二頭が、土手から外に出てしまう。土手の切れたところに丸太がわたしてあったのを、土手の内側に入るときに「おらこったなものはずせだぞ」と、軽率に嘉助が抜いてしまったので、障害がなくなっていたからである。

 物語の冒頭、嘉助が石をぶつけて教室の窓ガラスをわった、と子どもたちが言う場面がある。嘉助は乱暴ものなのだ。「風の又三郎」より嘉助のほうが風と近親性がある、と書いたが、作品中二回くり返される

 どっどど どどうど どどうど どどう
 青いくるみも吹きとばせ
 すっぱいかりんも吹きとばせ
 どっどど どどうど どどうど どどう

という歌の歌い手は、又三郎こと高田三郎より、嘉助のほうがふさわしいかもしれない。この歌の主題は、端的に破壊性である。

 さて、逃げた馬のうち一匹は一郎が抑えたが、もう一匹は本気で逃げてしまう。三郎と嘉助が必死に追うが、馬は捕まらない。ここからは、馬を追う嘉助の内部から物語が展開する。

 馬はどこまでも走る。後を追う嘉助は足がしびれて方向感覚もなくなってしまう。前を行く馬の赤いたてがみと三郎の白いシャッポが見えたのを最後に、嘉助は草むらに倒れてしまう。仰向けになって見上げる空はぐるぐる回り、雲がカンカン鳴って走っている。なんとか起き上がった嘉助は、馬と三郎が通った跡のような道を見つけて、歩きだす。だが、それも何がなんだかわからなくなってしまい、おまけに天気までおかしくなってくる。冷たい風が吹き、雲や霧が通り過ぎ、嘉助は道を見失う。破局の予感に脅えた嘉助は声を限りに一郎を呼ぶが、応答はない。

 嘉助はもう馬を追うことは諦めて、一郎たちのところに戻ろうとするが、来た道と違うところに出てしまう。あざみが茂り、草の底に岩かけがころがる。そして、いきなり大きな谷が現れ、その向こうは霧の中に消えている。風に揺らぐすすきの穂にまで翻弄されるが、急いで引き返すと、馬のひづめの跡の小さな黒い道を見つける。嘉助は喜んでその道を歩きだすが、行き着いたところは、てっぺんが焼けた大きな栗の木を囲む広場で、野馬の集まり場所だった。

 嘉助はがっかりして、ふたたび黒い道を戻りはじめる。ここからの描写は、現実のことなのか、嘉助が幻をみていたのか、どちらともいえない書き方である。見知らぬ草がゆらぎ、空が光ってキインと鳴る。霧の中に大きな黒い家の形のものがあらわれるが、近寄ってみると、冷たい大きな黒い岩だった。空がまた揺らぎ、草がしずくを払う。死を思った嘉助が一郎を呼んで叫ぶと、明るくなって、草はよろこびの息をする。山男に手足をしばられた子どものことを話す人声が聞こえる。それから、黒い道が消え、しばらくしいんとした後、強い風が吹いてくる。空が光って翻り、火花が燃えて、嘉助は草の中に倒れて、眠ってしまう。

 そして嘉助は風の又三郎を見たのである。又三郎の肩には栗の木の影が青くおちている。又三郎の影は青く草に落ちている。風が吹いている。それから、いきなり又三郎はガラスのマントをギラギラ光らせて空へ飛びあがったのである。

 岩波文庫版テキスト四ページにもわたる嘉助の彷徨は最後に

 「そんなことはみんなどこかの遠いできごとのようでした。」

という一行で読者を突き放したのち、「風の又三郎」を出現させて幕を閉じる。「もう又三郎がすぐ目の前に足を投げ出してだまって空を見あげているのです。」以下の八行は嘉助の臨死体験である。もしかしたら、最初に草むらに倒れてからの叙述全体が臨死体験なのかもしれない。

 死に臨んだ嘉助が見た「風の又三郎」は死神である。同時に、臨死体験、あるいはもっと常識的に夢、というべきかもしれないが、日常と異次元の時間の中で存在するものはすべて自意識の反映であるとすれば、「風の又三郎」は嘉助自身である。子どもたちに「又三郎」と呼ばれる「高田三郎」ではなく。

 それからどれほどの時間が流れたかわからないが、嘉助が目を開くと、馬と三郎がいる。嘉助が彷徨していた間、馬と三郎が何をしていたかは一切語られない。上の野原の出来事の主人公は嘉助であって、嘉助に臨死体験をさせるために、馬と三郎はそれぞれの役割を果たしたのだ。

 なぜ、嘉助はそのような体験をしなければならなかったのか。「嘉助」とはいったい何だろう。

 嘉助の物語は、みんなが上の野原をおりることでいったん終わる。

 「草からはしずくがきらきら落ち、すべての葉も茎も花も、ことしの終わりの日の光を吸っています。
 はるかな西の碧い野原は、今泣きやんだようにまぶしく笑い、向こうの栗の木は青い後光を放ちました。」

 とりあえず、自然は嘉助の体験を嘉したのだ。

 『風の又三郎』の主題は複雑かつ重層的で、今回はほんの一部分の表面をさらったにすぎません。これ以降の部分は、子どもたちから又三郎と呼ばれる少年高田三郎の物語になっていきます。異邦人三郎がどのように子どもたちに受け入れられ、どのように疎外されていったか、という視点から作品を読み直してみたいと思います。

 未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2022年8月24日水曜日

宮澤賢治『注文の多い料理店』シベリア出兵のナインストーリー__「水仙月の四日」__北の雪嵐大作戦とやどりぎ

  『注文の多い料理店』中「からすの北斗七星」に次いで五番目の作品で、春間近の北国を襲う雪嵐を描いた短編である。

 「雪婆んごは遠くへ出かけておりました。」と始まるこの童話は擬人法で語られている。雪婆んごとその指揮下にある四人の雪童子、雪童子の手下となって獅子奮迅の働きをする十一匹の雪狼、これらが雪嵐を起こすのだが、「猫のような耳をもち、ぼやぼやした灰色の髪をした」雪婆んごの存在は特異である。「きょうはここらは水仙月の四日だよ。さあしっかりさ。ひゅう。」と檄を飛ばし、縦横無尽に空をかけめぐる雪婆んごの命令は絶対で、雪童子も雪狼も極度に緊張して動き回る。

 雪婆んごが「西の山脈の、ちぢれたぎらぎらの雲をこえて、遠くへ出かけて」しばし不在のとき、この物語は始まる。子どもが一人「大きな象の頭の形をした、雪丘のすそを」歩いている。子どもは「赤い毛布(けっと)にくるまって、しきりにカリメラのことを考えながら」家に急いでいる。あたりの光景は、

 「お日さまは、空のずうっと遠くのすきとおったつめたいとこで、まばゆい白い火をどしどしおたきなさいます。
 その光はまっすぐ四方に発射し、下の方に落ちてきては、ひっそりした台地の雪を、いちめんまばゆい雪花石膏の板にしました。」

 と書かれ、絵画のように美しい描写である。ここに「白くまの毛皮の三角ぼうしをあみだにかぶり、顔をりんごのようにかがやかし」たひとりの雪童子が登場して、物語は展開するのだが、この雪童子とは何者なのか。「象の頭のかたちをした雪丘」、「四方に発射された」太陽の光、「雪花石膏の板になった台地」という表現とともにあらわれる「童子」は、たんに雪婆んごの命令の執行者ではないだろう。ある宗教的存在を暗喩していると思われる。

 「象の頭のかたちをした、雪丘」を、雪狼のうしろから歩いていた雪童子は、空を見上げて呪文のような言葉をさけぶ。

 「カシオピイヤ、
 もう水仙が咲き出すぞ
 おまえのガラスの水車
 きっきとまわせ」

 「アンドロメダ、
 アザミの花がもうさくぞ、
 おまえのラムプのアルコオル、
 しゅうしゅとふかせ。」

カシオペア座とアンドロメダ座という二つの星座(それらはいまは見えない星々なのだが)への叫びの意味するものについては、「熱機関概念の拡張とネゲントロピー〈宮沢賢治の物理学〉」という論文で元近畿大学理工学部の伊藤仁之氏が解析しておられる。物理学はおろか、自然科学一般について知識と素養の乏しい私は、残念ながら、伊藤氏の論を十分理解できたとは言い難く、したがって、うまく要約、紹介することができない。興味のある方は上記のタイトルでPDFになっているものを読んでいただきたい。

 伊藤氏の論文に助けられながら、私なりに考察すると、賢治はこの二つの星座が連携し合って行う運行と、カリメラ≒電気菓子の装置をある相似形のものとしてとらえたのではないか。どちらも、熱と回転の作用で、星座の運行は吹雪を、カリメラ≒電気菓子の装置は綿菓子をつくる。伊藤氏はこの作品を

 「電気菓子と吹雪の機構を同一視する賢治の洞察は、物理学的には、相変化もアウトプットとするような熱機関概念の一般化へと止揚されるであろう。さらにこの類推は大気の大循環にまでひろげることもできる。じつは「水仙月の四日」は局地的な吹雪の物語にとどまるものではなく、この大循環を下敷きに、宇宙原理(文学的な)にいたろうという壮大な童話なのである。天の星座に水車とランプがかくされており、ランプの熱と水車の回転の結果が森羅万象なのである。」

と総括しておられる。作品の自然科学的理解としてほぼ完璧だと思われるのだが、私にももう少し言うべきことが残されているような気がするので、そのことを書いてみたい。ひとつは、雪童子が子どもになげつけたやどりぎについてである。

 象の形の丘にのぼった雪童子は、その頂上に一本の大きなくりの木が、黄金いろのやどりぎのまりを付けて立っているのを見つける。雪童子は雪狼の一匹にいいつけて、それを取ってこさせる。雪狼がかじりとったやどりぎを拾いながら、雪に覆われた下の町をながめた雪童子は、赤毛布を着た子どもが家路を急いでいるのを見る。「あいつはきのう、木炭のそりを押して行った。砂糖を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」と、雪童子はわらいながらやどりぎの枝を子どもにむかってなげつける。

 いきなり目の前にやどりぎの枝が落ちてきて、子どもはびっくりするが、枝をひろってあたりを見まわす。そこで、雪童子が革むちをひとつならすと、一片の雲もない真っ青な空から、さぎの毛のような真っ白な雪が一面におちてくる。

 「それは下の平原の雪や、ビールいろの日光、茶いろのひのきでできあがった、しずかなきれいな日曜日をいっそう美しくしたのです。」

と書かれる光景は、東北の寒村というより、どこかユーラシア大陸の北の農村のように思われるのだが。

 雪童子はなぜやどりぎのまりを雪狼に取ってこさせたのだろう。ここにこの童話を読み解く重要な鍵があるのかもしれないが、いまの私には解けない謎である。

 それに比べれば、雪童子がやどりぎを赤毛布を着た子どもに投げた理由はわかりやすい。子どもの頭をいっぱいにしているカリメラとやどりぎのかたちが似ているからである。糸状にした砂糖が綿のようにかたまったカリメラと、細い枝が交叉してまりのようになったやどりぎは、カシオペアとアンドロメダの二つの星座の連携と綿菓子の製造装置が相似形であるように、菓子と半寄生の生物の違いはあれ、かたちは相似形といえるのではないか。「ほら、カリメラをやるよ。」くらいの親近感とユーモアで雪童子は子どもにやどりぎを投げた、とひとまず解釈しておきたい。

 子どもはやどりぎの枝をもって歩きだすが、その後雪嵐が襲ってくる。雪婆んごが戻ってきたのだ。擬人化された雪婆んごの脅威は絶大で、その到来の予兆だけで雪童子も雪狼も緊張の極に達する。灰色の雪ときりさくような風の中から雪婆んごの声が聞こえると、りんごのようにかがやいていた雪童子の顔は青ざめ、くちびるはかたくむすばれる。「ひゅうひゅう、ひゅひゅう、ふらすんだよ、飛ばすんだよ。」「さあ、しっかりやっておくれ。きょうはここらは水仙月の四日だよ。」と、雪婆んごは檄をとばしつづけるのだが、「水仙月の四日」とは何か。

 「ここらは」水仙月の四日、ということは、「ここら」以外は「水仙月の四日」ではない。「水仙月の四日」とは、暦の上の特定の日ではなく、特別なイベントなのだろう。北の雪嵐作戦、とでもいうような。二十年くらい前、アメリカがイラクに攻め込んだとき「砂漠の砂嵐作戦」と名付けていたような気がする。作品と関係ないことで、うろ覚えだが。

  突然襲ってきた雪嵐の中、赤毛布の子は歩くことが出来なくなって、倒れてしまう。雪童子は、子どもに、毛布をかぶってうつむけになるよう声をかけるが、子どもにはただの風の声としか聞こえず、立ち上がろうともがいて泣いている。その声を聞いた雪婆んごは、「おや、おかしな子がいるね、そうそう、こっちへとっておしまい。水仙月の四日だもの、ひとりやふたりとったっていいんだよ。」という。雪童子は、子どもにわざとひどくぶつかり、雪婆んごに聞こえるように「ええ、そうです。さあ、死んでしまえ。」と言うが、子どもには、倒れたままで動くなと指示する。そしてもういちどひどくぶつかって、もう起き上がれない子どもに毛布をかけてやり、こごえないように、その上にたくさんの雪をかぶせたのである。

 この後、雪婆んごは「きょうは夜の二時までやすみなしだよ。ここらは水仙月の四日なんだから、やすんじゃいけない。」とさけぶ。そして、日が暮れ、夜を徹して雪がふったのだった。夜あけに近くなって、ようやく雪婆んごは、これから海のほうへ行くという。「ああ、まあいいあんばいだった。水仙月の四日がうまくすんで。」と東の方へかけていったのである。北の雪嵐作戦無事終了、といったところだろうか。雪婆んごは恐怖の総司令官であり有能な任務遂行者だが、作戦執行を命じる側の存在ではない。ヒエラルキーのトップは天のどこかにいるのだろう。

 雪婆んごが去ると、空は晴れ、いちめんの星座がまたたきだす。雪婆んごが連れてきた三人の雪童子とやどりぎを子どもに投げた雪童子は、はじめて挨拶を交わす。今年中にあと二回くらい会うだろう、と言って雪童子たちは別れ、朝になる。丘も野原もあたらしい雪でいっぱいで、雪狼はぐったりしているが、雪童子は雪にすわってわらっている。「そのほおはりんごのよう、その息はゆりのようにかおりました。」とあって、ふたたび宗教的存在を暗喩する表現となっている。

 太陽がのぼると、雪童子は雪に埋もれた子どもを起こしに行く。雪狼に命じて、雪をけちらし、赤い毛布の端がみえるようにする。村のほうから、かんじきをはき毛皮をきた子どもの父親らしき人がいそいでやってくる。「お父さんがきたよ。もう目をおさまし。」と雪童子がよびかける。「子どもはちらっとうごいたようでした。そして、毛皮の人は一生けん命走ってきました。」と結ばれる。

 はたして、子どもは助かったのだろうか。

 子どもの生死を考えるとき、雪童子が投げかけたやどりぎについてもう一度検討する必要があると思われる。「あしたの朝まで、カリメラのゆめをみておいで。」と子どもにいって、雪をかぶせた雪童子は

「「あの子どもは、ぼくのやったやどりぎをもっていた。」

とちょっと泣くようにしました。」
と書かれている。

 やどりぎは、冬になって、宿主の木が葉を落としても枯れないことから強い生命力の象徴とされ、神が宿る木とされる。雪童子は、カリメラとのかたちの相似から子どもにやどりぎを投げかけたのだろうが、作者は、物語の要素として、死と再生の象徴をやどりぎに託したのではないか。だからといって、子どもが助かったかどうかは、不明だが。

 やどりぎについて、最後にまた、蛇足をひとつ。十九世紀後半から二十世紀前半にかけて出版され、日本でも多くの学者に読まれたフレイザーの『金枝篇』という大作がある。世界各地の神話、民俗の研究書であるが、誰も折ってはならないとされる金枝を折ることができるのは逃亡奴隷だけで、金枝を折った者は森の王を殺さなければならない、というイタリアのネーミに伝わる神話から始まる。この金枝がやどりぎのことである、といわれている。

 賢治が『金枝篇』を読んでいたかどうかはわからない。だが、賢治より少し年長だが、ほぼ同時代の折口信夫が『金枝篇』について言及しているので、博覧強記の賢治の目に触れる機会があった可能性もある。であれば、やどりぎは、死と再生の象徴以上のものとして作品に登場したのではないか。雪童子がそれを雪狼に取ってこさせ、さらに、赤い毛布を着た子どもに投げた、という行為の意味をもう一度考えなければならない。

 雪童子については「りんごのようなほお」と「ゆりのようにかおる息」という表現が暗喩する宗教的存在を語らなければならないと思うのだが、仏教の素養が乏しい私の力の及ぶところではない。たぶん、菩薩と呼ばれるものだろうと思う。いっぽう「白くまの毛皮の三角ぼうしをあみだにかぶり」と書かれているのは、また別の表徴である。雪童子とは何か、雪童子が救おうとした赤い毛布を着た子どもは、なぜ、一人で雪道を家に向かっていたのだろう、とまたもや物語の原点に戻って、私は謎と向き合っている。

 緊張感にみちた美しい叙景詩ともいうべきこの作品に、無用の解析を試みてしまったような気がしています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2022年8月10日水曜日

宮澤賢治『注文の多い料理店』シベリア出兵のナインストーリーズ__「狼森と笊森、盗人森」__入植と侵略のユートピア

 『注文の多い料理店』第二話の短編である。狼森、笊森、盗人森はいずれも実在する黒いまつの森で、小岩井農場の北にあるという。自然と人間の交流を描いた作品として評価する論者が多いようだが、はたして、そのような牧歌的鑑賞にとどまってよいのだろうか。

 森と人間の歴史を語るのは、笊森と盗人森との間に位置する黒坂森のまん中の大きな岩である。これは、黒坂森の大きな岩が「わたくし」にきかせた話の記録である、という体裁になっている。黒坂森の大きな岩による建国神話であり、森の命名譚なのである。

 岩手山が何遍も噴火して、噴火がしずまると、灰に埋もれた場所に草が生え、木が生え、最後に四つの森ができる。まだ名前もない四つの森に囲まれた小さな野原に、ある年の秋「四人の、けらを着た百姓たちが、山刀や三本鍬や唐鍬や、すべての山と野原の武器を堅くからだにしばりつけて」やってくる。「よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです」とあるので、彼らはたんなる農民ではない。

 四人の百姓は、日あたりがよくきれいな水の流れる場所を選んで、定住して畑を起こすことを決める。百姓たちの家族もすぐにやってくる。「荷物をたくさんしょって、顔をまっかにし」たおかみさんたちが三人と、「五つ六つより下の子どもが九人」とあるので、ひとりの百姓は独身であるようだ。四人の百姓たちは、畑を起こすこと、家を建てること、火をたくこと、木を切ることのそれぞれに森に伺いをたてる。そして森はそのすべてに許可をあたえたのだ。

 それから四人の百姓とその家族は死の物狂いで働き、最初の冬を越す。いちめんの雪がきたが、冬のあいだ、森は家族のために北風をふせいでくれた。春が来て小屋が二つになり、そばとひえが播かれる。秋には小屋が三つになり、穀物はともかくもみのったのだが、ある「土の堅く凍った朝」九人の子どもたちのなかの小さな四人がいなくなる。

 あたりをさがしまわっても見つからないので、百姓たちは森に尋ねるが知らないといわれる。そこで、彼らはさがしに行くことを宣言して、みんないろいろの農具をもって、一番近い狼森に入って行く。森の奥では火がたかれ、九匹の狼が火のまわりを歌いながら踊りまわっていて、いなくなった四人の子どもたちは火に向かって、焼けたくりやはつたけなどを食べている。百姓たちが声をそろえて「狼どの、子どもを返してけろ」とさけぶと、狼たちはびっくりして、歌と踊りをやめる。すると「すきとおったばら色」に燃えていた火は消え、あたりは青くしいんとなって、子どもたちは泣きだしてしまう。

 途方に暮れた狼たちは森の奥に逃げていくが、子どもを連れて帰ろうとしている百姓たちに、自分たちに悪意はなく、子どもたちにご馳走したのだ、とさけぶ。これを聞いて百姓たちは、うちに帰ってあわ餅をつくり、狼森にお礼としておいてくる。

 ここで語られるのは贈与と謝礼の経済である。四人の百姓_刀を持った開拓者たちと森との関係は、北風を防ぎ、木を切らせて、森は一方的にあたえる側である。九匹の狼たちも、見返りをもとめて子どもたちをご馳走したのではない。冬のあいだ「冷たい、冷たい。」と泣いていた子どもたちに、暖かい火のまわりで、おいしいくりときのこを食べさせたのだ。四人の子どもたちは、もしかしたら人質にとられていたのかもしれないが、ここにはまちがいなく祝祭の空間が存在した。だから、百姓たちは狼のもてなしに対して、自発的にあわ餅を謝礼として返したのである。

 次の春は、子どもが十一人になり、馬が二匹きて、畑に腐った草や木の葉と一緒に馬の肥も入って、秋には穀物がよくとれるようになった。ところが「霜柱のたったつめたい朝」すべての農具がなくなってしまう。百姓たちは今度も森に尋ねるが、知らないといわれ、またも「さがしに行くぞぉ」とことわって、てぶらで森に入って行く。

 狼森では、九匹の狼がすぐ出てきて、ここにはないから外をさがせ、といわれる。百姓たちが、西のほうの笊森に行くと、かしわの木の下の大きな笊の中になくなった農具が九つとも入っている。それだけでなく「黄金色の目をした、顔のまっかな山男」があぐらをかいてすわっていた。農具を隠したのは山男だったのである。「山男、これからいたずらやめてけろよ」という百姓たちに、山男は自分にもあわ餅をもってきてくれ、とさけぶ。百姓たちは笑ってうちに帰り、またあわ餅をつくって、狼森と笊森に持って行ったのだった。

 今回山男にもって行ったあわ餅は、狼森にもっていった謝礼としてのあわ餅ではない。山男がいたずらを止める見返りとしてのそれである。山男は強要、といっては言い過ぎかもしれないが、懇願よりははるかに強い要請としてあわ餅をくれ、といったのである。農耕生産の道具を奪われたら、百姓は生きていくことができなくなってしまう。山男にとっては「いたずら」かもしれないが、農具をなくすということは開拓者共同体の危機である。生産手段の確保のためにあわ餅を供与したのだとすれば、これは限りなく納税に近くなってくる。

 そしてまた次の夏、耕地はひろがり、馬が三匹になった。納屋も木小屋もできて、みんなは豊かになった。今年こそは、どんな大きなあわ餅でも作ることができる、と思ったが、今度はそのあわが一粒もなくなってしまう。百姓たちはあわのゆくえを森に尋ね、またもや知らないといわれるので、ことわった上で、今度はめいめい「すきなえものをもって」森に入って行く。

 注目すべきは、この後語られる狼森の九匹の狼と笊森の山男との百姓たちに対する態度の微妙な変化である。狼も山男も自分たちのところにはないから外を探せ、というのだが、狼は「みんなを見て、フッとわらって」、山男は「にやにやわらって」と書かれている。あからさまな嘲弄ではないが、かすかに冷笑している気配である。えものをもって、あわ泥棒をやっつけなければ、という百姓たちの意気込みが滑稽にみえたのだろう。百姓たちは決死の覚悟だったが。

 さて、百姓たちにあわのゆくえを教えたのは、タイトルに名前の出てこない黒坂森だった。百姓たちの呼びかけに、「形は出さないで、声だけで」こたえた、と書かれる黒坂森は、あわ餅のことなどはひとこともいわずに、「あけ方、まっ黒な大きな足が、空を北へとんで行くのを見た」と言ったのである。そうして、「もう少し、北のほうへ行ってみろ」と指示したのだ。

 百姓たちが北に行くと、「まつのまっ黒な盗人森」から「まっくろな手の長い大きな大きな男」が出てくる。「あわ返せ、あわ返せ。」とどなる百姓たちに腹をたてた大男は、自分は盗んでいないと言って、盗人よばわりするものはみんなたたきつぶしてやる、と威嚇する。百姓たちは恐ろしくなって逃げだそうとする。だが、そのとき、「銀の冠をかぶった岩手山」の「それはならん。」という鶴の一声がすると、黒い男は地に倒れてしまう。

 岩手山は、あわを盗んだのはたしかに盗人森(黒い大男)であると審判を下す。そして、必ずそれを返させる、とも確約する。盗人森は、自分であわ餅をつくってみたくなったので、あわを盗んできたのだ、と盗人森の「動機」を説明もしたのである。岩手山が話し終えると、男はもう姿を消していた。

 百姓たちが家にかえってみると、あわは納屋にもどっていたので、みんなはあわ餅をつくって四つの森にもって行く。盗人森には、少し砂が入っていたが、いちばんたくさんのあわ餅をもっていった、とある。それから森は「すっかりみんなの友だち」で、毎年冬のはじめには、きっとあわ餅をもらったが、そのあわ餅も、時節がらずいぶん小さくなって、これはどうも仕方がない、と黒坂森の韜晦の言葉で建国神話は結ばれる。

 最後の盗人森の大男にもって行ったあわ餅にはどんな意味があるのか。狼や山男とは異質の凶暴な大男と百姓たちの交渉は、銀の冠をかぶった岩手山がいなければ、百姓たちの一方的な敗北である。せっかく作った食料をすべて奪われては共同体は壊滅する。百姓たちは、岩手山の権威のもとで、盗人森にシノギを納めて生産を続けることができたのだ。上品なことばでそれを納税というのだろう。

 返礼から納税へとあわ餅の意味は共同体の変化とともに変わっていった。森と開拓者たちの関係も変わっていったのはいうまでもない。これは黒坂森が語る「百姓の側からの歴史」であり、入植あるいは開拓の歴史だが、森の側からみれば「侵略」の歴史でもある。毎年冬のはじめにあわ餅をもらう狼や山男やまっくろな大男はその後どうなっていったのだろう。

 最後に、ささいなことかもしれないが、少し気になることを考えてみたい。この作品では、4、9の二つの数にこだわっているように思われる。四つの森、四人の百姓、九人の子ども、九匹の狼、九つの農具。九匹の狼は「水仙月の四月」にも「三人の雪童子」が「九匹の雪狼」を連れている、とあって、ここでも4、9が登場する。4、9は何の数字なのだろう。どうでもいいようにみえて、この疑問が解けないので、作品の土台のところでわかっていないような気がしてならない。

 結局尻切れトンボで終わってしまい、相変わらずの非力を覚えています。今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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2021年11月7日日曜日

三島由紀夫『天人五衰』__愛と救済のfarewell__輪廻転生を断ち切る残酷な真実

 前回の投稿で『天人五衰』について、もう言うべきことは言いつくしてしまったような気がするのに、何故か次の作品に向かうことが出来ない日が続いている。とりとめもない日常に埋没して、枯渇しつつあるエロスの対象を作品に集中することを怠っている毎日である。一言でいえば、能力不足なのだが。 

 それで、これから書くものは、読書感想文にもならぬただの「私の心境報告」である。

 この作品の難しさのひとつは、主人公が二人いて、しかもほとんど一人である、ということである。本多繁邦と安永透は、それぞれ別の人格をもって登場するが、二人ともまったく同じように、「純粋な悪」によって、正確無比に廻る歯車をもっている。歯車は、「無限に生産し、無限に廃棄するいやらしいほど清潔な工場の中で」廻りつづけている。そのことを両者ともに認識する存在として描かれている。作者は、あるときは安永透に憑依して彼の認識する世界を語り、あるときは本多繁邦の老いとその日常を彼の内側から告発する。安永透の世界の認識も本多繁邦の老残も、これ以上はないほど的確に叙述される。そして、的確に叙述されればされるほど、私の中で、この作品の「作者像」が揺らぐのである。

 作者像の揺らぎの問題はひとまず措くとして、いまの私の感覚、ほぼ生理的な感覚と言ってよいと思うのだが、それが受け入れやすいのは紛れもなく本多繁邦の老残の姿である。私はまだ本多の年齢には達していないし、本多とは性別を異にしているが、日常を生きることがそのまま死に近づていき、死の浸透をまぬがれないという厳然たる事実と向き合っている。ささやかだが執拗に続く身体の不具合、外の世界に対する秘かな軽蔑と無関心、あるいは破壊の衝動、これらはエロスの枯渇というよりもっと積極的に死の謀略であるという思いがある。

 朝目覚めた本多がまず向き合うのは死の顔だった。そんな現実よりもはるかに生きる喜びに溢れているのが夢の世界だった。目覚めても、夢の余韻に身を漂わせることが本多の習慣になっていた。小説の前半に、夢が思い出させたひとつのエピソードが語られている。若かったころの母が、ある雪の日に作ってくれたホットケーキの話である。

 ふりしきる雪の中を傘もささずに空腹で帰った本多を出迎えた母が、火鉢にフライパンをかけ、油をそそいで、一心に炭火を吹きながらホットケーキを焼いてくれた。炬燵にあたたまりながら食べたホットケーキの蜜とバターの融け込んだ美味も生涯忘れがたいが、少年の本多は、雪明かりのほの暗い茶の間で、ひたすら火を吹く母の突然のやさしさの裡にある憂悶、悲しみを、ホットケーキの美味を通じて、愛のうれしさを通じて、直観したのだった。遠い昔のつかの間の感覚の喜びが、半世紀以上も本多の人生の闇を、少なくとも火のある間は崩壊させたのである。

 このエピソードは、本多が久松慶子に招かれ、外国人の老女たちに囲まれてあまり身の入らないトランプのゲームをしている最中に、ふと想起した出来事のように書かれている。面前の現実よりも夢の世界に想いを馳せることが多くなった老年の本多が幾度も思いだすエピソードである。美しすぎるくらい美しいエピソードだが、ひとつ注目したいのは、この文脈で「愛のうれしさ」という言葉が使われていることである。

 「ホットケーキの美味を通じて」と並んでおかれる「愛のうれしさを通じて」という表現の中に挿入される「愛」という単語が何を意味するかについて、ほとんどの読者はこの箇所でたちどまって考えることはないだろう。どんな事情で母が憂悶をかかえていたかはわからないが、少年の本多は母の悲しみを感じとり、その悲しみを注ぎ込んだかのようなホットケーキの甘さを「愛のうれしさ」と受けとった。本多のこの感情の機微が「愛」と呼ばれていて、これを「愛」と呼ぶことには万人が共感するだろう。

 老年の本多の愛の記憶がどこまでも甘美なのに対して、本多とクローンのように同質の人間として、「純粋な悪として」、登場した安永透の「愛」はどのようなものとして語られるだろうか。

 安永透は孤児である。

 「彼は凍ったように青白い美しい顔をしてゐた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。」

と書き出される。

 いったい透の人物像の造型は、作者が彫琢をきわめればきわめるほど、凡庸な私の理解から遠ざかっていく。その完璧な人工性、独自性、そういう特性は、ことばとしては理解できても、というより、十分すぎるほど理解できるのだが、そうやってつくり上げた透の人間像は、自然に不自然なのだ。あるいは、不自然に自然である、といおうか。

 本多繁邦の養子になった透に縁談がもちこまれる。透は十八歳の高校二年生である。金目当ての申し入れと思いながら、本多は承諾し、透は百子という少女と交際を始めることになる。百子は没落しつつある旧家の令嬢で、美しいが平凡である。百子は無邪気に透に思いを寄せるが、透は、彼女をいたぶり、奸計をめぐらせて陥れ、婚約者の座から突き落とす。透は、満を持して待ち構えていたのだ。家庭教師の古澤に続く第二の犠牲者を。彼の磨き抜かれた刃で傷つける獲物を。そして、その情念を、透は「愛」と呼ぶ。

 「微笑が僕の重荷になったので、百子の前でしばらく不機嫌をつづけてやらふという目論見が僕にうまれた。怪物性をちらとのぞかせる一方、欲望が鬱積して不機嫌になる少年といふ、あのごくありきたりな解釋の餘地も殘しておく。そしてこれらすべてが無目的な演技ではつまらないから、僕にも何らかの情念がなければならない。僕はその情念の理由を探した。一番本當らしいものがみつかった。それは僕の中に生まれた愛だった。」

 小説の中ほどにかなりの部分を占めて「本多透の手記」が存在する。透の一人称で、自己分析をまじえながら、百子との「愛」の顛末が語られている。最初から、透の命題は、百子の「肉體を傷つけないで精神だけ傷つけ」ることだった。もしかしたら、肉體も精神もともに傷つけるよりも、もっと残酷な行為かもしれないが、それを意図した透の心情は理解できなくもない。私がわからないのは、以下に続く文章の意味である。

 「僕は僕の悪の性格をよく知っている。それは意識が、正に意識それ自體が、欲望に化身し了せるというやみがたい欲求なのだ。それは、言ひかへれば、明晰さが完全な明晰さのままで、人間の最奥の渾沌を演ずることだった。」

 難しい単語が使われているわけでもなく、文脈が読めないわけでもない。だが、私には「意識が欲望に化身し了せるというやみがたい欲求」がどういう欲求なのかが、まったくわからない。「明晰さが人間の最奥の渾沌を演ずる」とはどんな行為かわからない。

 突拍子もないことをいうようだが、たぶん、それは私が女だから、ではないだろうか。女は、というか私は、意識が欲望に化身するなどという放れ業は想像すらできない。いや、意識と欲望は未分化である。また、敢えて、独断と偏見をいえば、女と明晰は同じカテゴリーの中に入ることはできない。女は、

 「だって私の心がきれいだってことは、私が知ってゐるんですもの」

と平然と言い放つことができる百子と同じく、「ある悲しみに充ちた至福に涵ってゐて、あの少女趣味のがらくたから愛にいたるまで、かうしたあいまいな液體の中に融かし込んでゐる」生物なのだ。「彼女という浴槽に首まで漬かってゐ」るのは百子だけではない。女の常態である。

 いくつかの三島の小説を読んでいて思うのは、いったい彼はどんな女なら愛することが出来るのか、という疑問である。同時に、こんなに女を「知っている」男がいるのか、という驚嘆だ。もちろん、小説の主人公=三島由紀夫ではない。だが、『天人五衰』の本多透は三島のほぼ自画像といってよいだろう。少なくとも、リアルに存在する十八歳の少年ではない。

 手記の中で透は、「世界の外から手をさし入れて何かを創ってゐたので、自ら世界の内部に取込まれるといふ感じを味はったことはない」と自負する。また、「悲しいほどに獨自だった」と強調する透が、なぜ、特権階級の令嬢とはいえ、ただ平凡なだけの百子に苛立つのか。「他人の自己満足をゆるしておけないのが、僕のやさしさなのだ。」と透はいうのだが。

 「(愛されているかどうかという不安の)柵の内側に決してはいらない」「小さなすばしこい獣」と形容される百子を嫉妬させるために、透は汀という女を利用する。そして、最終的に、百子は、透に執拗に唆されて、汀に手紙を書く。自分は金目当てに透と付き合っていて、一家あげて透との結婚に賭けている。どうか、透と別れてくれ、という内容である。無邪気な百子は、「麻酔をかけるやうに」たえず耳に愛を囁かれて、愚かな女になったのだ。

 透が繰り返した「愛してゐる」という言葉について、彼はこうも言っている。

「しかし、「愛してゐる」といふ經文の讀誦は、無限の繰り返しのうちに、讀み手自身の心に何らかの變質をもたらすものだ。………
 百子の要求するものも亦、このいかにも時代遅れの少女にふさはしく、純粋に「精神的な」確證だけだったから、これに報いるには言葉で十分だった。地上にくっきりと影を落として飛翔する言葉、それこそ僕本来の言葉ではなかったか。僕はもともと言葉をさういふ風にのみ使ふうやうに生まれついたのだ。それなら、(この感傷的な言草はわれながら腹が立つが)、僕の人前に隠してきた本質的な母国語は、愛の言葉そのものだったかもしれない。」

 三島由紀夫の文学の急所がこの独白で語られている。それは、彼の文学が、「地上に影を落としながら飛翔する」すなわち、現実の重力に引きずられない言葉の文学であること、それは文学者として生まれついた出発点からそうであったこと、それから、これが最も重要かもしれないが、「愛の言葉そのもの」だった、という告白である。

 「本多透の手記」という章には「愛」という言葉が散りばめられている。三島の作品で、これほど「愛」という言葉が使われるものがほかにあっただろうか。だが、ここに使われる「愛」という言葉には、複雑な屈折が含まれている。前述のホットケーキにまつわる本多の回想が、万人が共感を寄せるような感情の機微であったのに対し、透の定義する「愛」は

 「しかし要するに、僕の人生はすべて義務だった。こちこちになった新米の水夫のやうに。……そして僕にとって義務でないものは、船酔、すなわち嘔吐だけだった。世間で愛と呼んでいるものに該當するもの、それが僕にとっての嘔吐だった。」

とあって、この言葉を感覚的に受け入れられる人は少ないだろう。

 嘔吐=愛の図式はあまりにも極端で奇を衒ったように思われる。だが、それにもかかわらず、この小説を読了して、私の中に沈殿してくるのは、「愛」である。人生のあらかたを生きてしまった本多の回想の中の甘美な感覚の喜びも、透の屈折と苦渋に満ちた行動の軌跡も、どちらも「愛」なのだ。

 末尾の久松慶子の苛烈な弾劾の言葉の底流も、やはり「愛」だろう。慶子の、そして本多の、「人間について知り過ぎてしまった人の 愛情」____複雑に絡み合った輪廻転生を断ち切ったのは、苦渋に満ちた、残酷な「愛」の真実だった。

 とりとめもない心境報告の最後に、「本多透の手記」の中で、というより『天人五衰』の中で、最も美しい場面を引用して終わりたい。百子と二人、日没間際の後楽園を散歩したときに透が見た光景である。

 「そこで橋上の僕らは、おかめ笹におほわれた丸い築山の小蘆山と、その背後の深い木立に、最後のしたたかな光を投げかけてゐる落日の投網に對してゐた。網目にとらへられることを拒みながら、そのまばゆさに耐へ、苛烈な光明に抗ってゐる最後の一尾の魚のやうに自分を感じた。
 僕はともすると他界を夢みてゐたのかもしれない。……もとより僕は救済を求める者ではないが、もし僕にも救済が来るとすれば、意識を絶たれたあとでなくてはならないと思った。悟性がこんな夕日のなかで腐敗してゆくときは、どんなにか快いにちがひない。
 たまたま西側の橋下は、蓮に充たされた小池であった。
 水のおもても見えぬほど密生した蓮の葉は、水母のやうに夕風に浮遊してゐた。裏革のやうな肌の、胡粉を含んだ粉っぽい緑の葉が、小蘆山の谷底を埋めていたのである。蓮の葉は光を柔軟にやりすごし、隣の葉の影を宿し、あるひは池邊の一枝の紅葉のこまかい葉影を描ゐていた。すべての葉が不安定に揺れながら、かがやく夕空に競って欣求してゐた。そのかすかな聲の合誦が聞こえるかのやうだった。」

 かがやく夕空に競って欣求していたのは蓮の葉であり、透であり、本多だった。生きとし生けるもの、何より私自身だったかもしれない。

 手記を海中に投げ捨て現実に驀進していった透は失明し、本多は、スキャンダルによって、財産以外築いてきたすべてを失った。だが、それでも、とうよりそれこそが、救済だったのではないか。

 長く粗雑な心境報告を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年8月14日土曜日

三島由紀夫『天人五衰』__猫と鼠__安永透と三島由紀夫の運命

  『天人五衰』というウエルダン・ストーリーにからめとられて、相変わらず書けないままである。そうすると、いつもの妄想癖が頭をもちあげて、あれこれ支離滅裂な想念が頭の中をかけめぐり、安永透の運命は三島由紀夫のそれと一致する、あるいは一致する予定だったのではないか、という独断と偏見を書いてみたくなってしまう。以下は合格点を貰う確率ゼロの読書感想文である。

 小説のちょうど真ん中あたりに、「猫と鼠」のエピソードが出てくる。本多に養子に迎えられた安永透が二年遅れの高校受験をする。そのために雇われた国語の家庭教師の古澤という東大生が、猫に喰われそうになった鼠が自殺する話を透に聞かせる。鼠は、たんに猫に追い詰められて死ぬのではない。シンプルに見えて、けっこう複雑な話なのだ。

 鼠は自分を猫だと信じていた。本質を点検してみて、自分は猫にちがいない、と確信するようになって、同類の鼠を見る目もちがってきた。あらゆる鼠は自分の餌にすぎないが、自分が猫だということを見破られないために、ほかの鼠を食わずにいるだけだと信じた。「自分の鼠という肉体」は、「猫という観念」が被った仮装だと考えた。鼠は思想を信じ、肉体を信じなかった。

 その鼠が本物の猫に出会って、「お前を喰べる」と宣言される。鼠はそれはできない、と言う。自分は猫だから、猫が猫を喰べることはできないはずだ、と。そうして、それを証明するために、鼠は洗剤の泡立つ洗濯盥のなかに身を投げて、自殺してしまう。洗剤に浸かった鼠は「喰へたものぢゃない」ので、猫は立ち去る。

 古澤という東大生は、この鼠の自殺が「自己正当化」の行動であり、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ちていた」と評価する。鼠は、肉体的にはあらゆる点で鼠であるが、「猫に喰われないで死んだこと」、「『とても喰えたものぢゃない』存在に仕立て上げたこと」の二点で「自分を「鼠ではなかった」と証明することができる。「鼠ではなかった」以上、「猫だった」と証明することはずっと容易になる。鼠の形をしているものが鼠でなかったなら、他の何者でもありうるから、というのが古澤の説明である。

 鼠の自殺は成功し、その自己正当化は成し遂げられたが、鼠の死は世界を変えただろうか、と古澤はさらに話し続ける。古澤はもはや透に聞かせるためではなく、自己の内部に沈潜していく。

 鼠の死は猫に何ももたらさなかった。猫は死んだ鼠をすぐに忘れて、眠ってしまった。彼は猫であることに充ち足り、そのことを意識さえしなかった。そして猫は、怠惰な昼寝のなかで、鼠が熱烈に夢みた他者にらくらくとなり、また何でもありえた。安楽で美しい世界に猫の香気と寝息がひろがった。

 語り続ける古澤に透は「権力のことを言ってゐるんですね」相槌を打つ。「そこですべては青年ごのみの悲しい政治的暗喩に終わってしまった」と三島は書くのだが、ここには「青年ごのみの悲しい政治的暗喩」とかたづけられないものがあると思う。決して看過できないものが二点ある。

 ひとつは、作者三島の世界認識がきわめて直截な形で述べられているということである。すなわち、権力の支配構造は「喰うか、喰われるか」ではなくて、「喰うか、喰われないか」なのだ。猫は鼠を、いつでも、任意に「喰う」が、鼠はそれを逃れるために猫を「喰う」ことはできない。「喰われない」ためには「勇敢で賢明で自尊心に充ちた」死を遂げるしかない。支配者と被支配者の関係は、美しいまでに粛然と分かたれている。猫はこの世の逸楽を十分に貪ることができるが、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ち」て死んだら、もはや何者でもないのだ。

 もうひとつは、「自尊心に充ちた鼠の死」というモチーフは、いうまでもなく、作品終末の安永透の死(未遂だが)を予告するものだが、同時に作者三島の死の予告でもある、ということである。安永透はほとんど三島由紀夫である。『天人五衰』の冒頭数頁、三島は十六歳の安永透に憑依して、倍率三十倍の望遠鏡から駿河湾を覗いている。

 安永透は、水平線の向こうから姿を現す船を認識し、船と交信する。航行する船の状況を港に連絡する「通信員」である。三島由紀夫は、地球上に無数に生起する「出来事」を切り取って「書く」ことによって、読者に提示する「作家」である。「通信員」と「作家」が微妙に重なり合う機微を暗示すると思われる部分があるので、以下に引用してみたい。

 六時。
 すでに大忠丸の船影は、そこを出てゆく興玉丸とすれちがふ形で、薔薇色の沖に模糊として泛んでゐる。それはいはば夢の中からにじみ出てくる日常の影、観念の中からにじみ出てくる現實、……詩が實體化され、心象が客體化される異様な瞬間だった。無意味とも見え、又凶兆とも見えるものが、何かの加減で一旦心に宿ると、心がそれにとらはれて、是が非でもこの世にそれを齎らさずにはおかぬ緊迫した力が生まれ、つひにはそれが存在することになるとすれば、大忠丸は透の心から生まれたものだったかもしれない。はじめ羽毛の一觸のやうに心をかすめた影は、四千噸に垂んとする巨船になった。それはしかし、世界のどこかでたえず起こってゐることだった。

 非常に難解な文脈が続く。いちいちの詳しい解釈は省くが、ここに語られているのは創作の秘儀である。

 さて、透は「暗赤色の巨きな海老のやうな魂の蠢めきを、人には見えない深部に隠している」「鐡道員の倅の貧しい秀才」古澤を周到に遠ざけ、「純粋な悪」のヒーローとして本領を発揮していく。注目すべきはその透の「内面は能ふかぎり本多に似てゐた」と書かれていることである。

 十六歳の透が仕事をしている「帝国通信所」を訪れた本多は、一目見て、透が自分と寸分違わぬ内部機構の持ち主であることを見抜いた。それは「無限に生産し、しかも消費者が見當らぬままに、無限に廃棄する」「磨き上げられた荒涼とした無人の工場」だった。その後透の脇腹に輪廻転生のしるしである「三つの黒子」を認めた本多は、即座に彼を養子に迎えることを決意する。そうして、本多は、清顕、勲、ジン・ジャンの夭折の美しさにこの上ない憧憬をよせながら

 「……詩もなく、至福もなしに!これがもっとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知ってゐる。
 時間を止めても輪廻が待ってゐる。それをも俺はすでに知ってゐる。
 透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これがあの少年に對する俺の教育方針だ」

と考えるのである。だが、これは、本多と透というクローン父子にとって、矛盾以外の何物でもないはずだ。輪廻転生のしるしである「三つの黒子」という「特権」をみとめたからこそ、透を養子にしたのに、その「特権」を享受する「詩と至福」という「運命」は拒否する、そんな都合のよい成り行きはありえない。

 二十歳を目前にした十二月の二十日、透は本多の友人久松慶子に一足早いクリスマスの晩餐に招かれる。孔雀と波を意匠したビーズ刺繍のソワレを着て迎えた慶子は、完膚なきまでに透の自尊心を打ち砕く。

 まず透に驚愕を与えたのは、透が自らひそかな誇りの根拠としていた左脇腹の三つの黒子の存在を慶子が知っていたことである。そればかりか、その黒子のために透は本多家の養子に望まれたのだ、と慶子は言う。黒子をもった者は二十歳で自然に殺される「運命」にあるので、本多は黒子をもった透を養子にして、彼の「神の子」の自負を打ち砕き、凡庸な青年に叩き直すことで、何としても救おうとしたのだ、と。

 桃山風の燦然とした客間の一角にしつらえた暖炉の火が消長する傍らで、透は慶子の語る輪廻転生の永い物語を聞く。聞き終えた透に、慶子はさらに決定的な一撃を与える。透は、これまで話してきた輪廻転生の物語に何の関係もない「贋物」だというのだ。慶子はいう。

 「私や本多さんを殺すことなんかあなたにはできませんよ。あなたの悪はいつも合法的な悪なんですから。観念の生み出す妄想にいい気になって、運命を持つ資格もないのに運命の持主を気取り、この世の果てを見透かしてゐるつもりでつひぞ水平線の彼方から誘ひは受けず、光にも啓示にも縁がなく、あなたの本当の魂は肉にも心にも見當らない。」

 透を「育英資金財圑向きの模範生」と貶め、己惚れた「認識屋」を自分たちのようなもっとすれっからしの同業者が、三十倍の望遠鏡の圓からひっぱりだしたのだ、と止めを刺す慶子の前に透は凍りついたままだった。

 この後、透は本多に乞うて清顕の夢日記を借り、その一週間後にメタノールを飲んで自殺を企る。それが、「鼠の自己正当化の自殺」と同じものなのか、じつはいまの私にはわからない。もうひとつわからないことがあって、養父を貶め、窮地に追いやったからといって、透は、何故ここまで厳しい糾弾の言葉を浴びせられなければならなかったのか。透のしたことは、婚約者の百子を陥れたことも含めて、「合法的な悪」というほどの大げさなものでもなく、ちっぽけな、それこそ「凡庸な青年」の悪である。

 暖炉の焔に照らされて、慶子が繰り出す糾弾の言葉ははたして、目前の透に対してだけ向けられたものだったのか。上述したように、安永透≒三島由紀夫、という独断と偏見に立てば、これは一言一句万金の重みをもつ自己批判の言葉である。作品の中でここまで言い得ている作家が、はたして、その後行動するだろうか。いや、「猫と鼠」の寓話を通して、これほどまでに透徹した権力の支配構造を提示する作家が、「自己正当化」の死を為すだろうか。肉体は思想を裏切って、鼠は自殺したら、猫になるどころか、何者でもなくなってしまうのだから。

 以上で私の支離滅裂な読書感想文は終わるのだが、最後に蛇足をひとつ。『天人五衰』という作品中で、天人に擬せられているのは絹江である。いつも髪に花を飾り、透のもとに訪れては、その髪に花を挿す。作中本多が紹介する「天人五衰」の衰兆の第一に「一に華冠自ら萎み」とあるのを思い出したい。失明した透は絹江のなすがままに豊かな黒髪に紅い葵を飾らせている。絹江ももちろんいっぱいの白い葵を飾っている。「天稟」ともいえる醜さをみずからの自意識ひとつをたよりに逆転させ、絶世の美女と化した絹江こそ、天人だったのだ。

 「豊饒の海」は「荒涼の沙漠」ではなかったのか。

 そうして、再び、「三島由紀夫」とは何者なのか。

 三島については、まだ言い足りないような、もうこれでいいような、複雑な思いをかみしめています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年7月3日土曜日

三島由紀夫『天人五衰』__衝撃のラストの一考察__ある雪の日のエピソードの謎

 『天人五衰』をめぐって、いうべきことはたくさんあるような気がする。でも。それは、「『天人五衰』をめぐって」であって、「『天人五衰』について」とはならないのである。作品論、というほど大袈裟なものを書くつもりもないのだが、いまの段階では、私の関心がどうしても作品そのものに集中してこないのだ。能力がない、といえばそれまでだが。

 集中力を妨げている一番大きな原因は、そもそも『豊饒の海』の作者は誰なのだろう、という疑問である。突拍子もないことを、といわれるかもしれない。より正確にいえば、『豊饒の海』一、二巻『春の雪』と『奔馬』を書いた人物と三、四巻『暁の寺』と『天人五衰』の間には完全な断絶があって、一貫した構想のもとに執筆されたとは思えないということである。文体に差異はないようにも見えるが、はたして、これは同一の作者の手になるものだろうか、という疑念が消えないのだ。

 断絶があるように見えるもっとも大きな理由は、本多の人物像の設定の突然の変化である。『春の雪』では主人公清顕の親友として、『奔馬』では同じく勲の弁護士として、現実世界_「歴史」といってもよいかもしれない_に積極的に関わる姿勢をとっていた本多が、『暁の寺』以降徹底して「認識者」として世界の外に立つ人間として描かれ、静かに悪を為す「支配者」になるのだ。そして、「認識」を論理的に説明するために仏教の唯識の理論がもちだされる。

 しかし、百歩譲って、『豊饒の海』前半と後半の作者が同一人物であるとしても、根本的には、「三島由紀夫」とは何者か、という疑問がある。私は、「三島由紀夫」が1970・11・25に自衛隊の市ヶ谷のバルコニーで檄文(文豪三島が書いたとは思えない文章である)を撒いたのち割腹自殺した、とされる人物であるという事実を受け入れることが、どうしてもできない。三島があのようなかたちでみずからの生を閉じる覚悟で『豊饒の海』全四巻を構想し、書き上げたのだとは思えない。そんな気配はどこにもない。憎らしいほど手練れの書き手が、最後まで手綱を緩めずに仕上げた極上の作品、というか読み物であると思われる。

 多くの人が『天人五衰』の最後を、三島その人の最期と関連づけて解釈している。だが、

「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。」

 この文脈のどこに、死へ向かうベクトルがあるというのか。

 六十年の時を経て、本多は聡子に会う。そして、彼女から、自分は清顕も本多も知らない、と言われる。断固とした聡子の拒絶の言葉に、本多は自分自身の存在の足元までも揺るがせてしまう。この結末は「衝撃のラスト」といわれ、多くの人が問題にしているが、私もささやかな考察を試みてみたい。たんなる思いつきにすぎないかもしれないが、作品全体にあふれる謎を解く手がかりのひとつになる可能性に賭けてみたいのだ。

 死を意識せざるを得ない体の不調に苛まれながら、むしろそのことに鼓舞されて、本多は月修寺を訪れる。門跡となった聡子は、「むかしにかはらぬ秀麗な形のよい鼻と、美しい大きな目を保ってをられる。むかしの聡子とこれほどちがってゐて、しかも一目で聡子とわかるのである」と書かれる。その彼女がまったく感情の動揺を見せずに、本多の話す長い物語を聞いて、清顕の存在さえも否定するかのように言う。

「そんなお方は、もともとあらしやらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやって、實ははじめから、どこにもをられなんだ、といふことではありませんか?」

 『春の雪』から長く紡がれてきた物語をすべて否定する聡子の言葉は、あまりに唐突、理不尽で、本多だけでなく、ほとんどすべての読者を作品世界の外に投げ出してしまう。私たちははたして、本多の「映る筈もない遠すぎる」「幻の眼鏡のやうな」記憶につきあって、幻想の世界を旅してきたのだろうか。

 聡子の言葉を字義通りに受け止めれば、彼女は記憶を完全に失った状態になってしまったか、あるいは、完璧な嘘つきである、ということになる。日常現実の感覚での理解はそれ以外にあり得ない。そうして、本多と同じく「何もない」時空に投げ出されてしまう。だが、ここに、作者の仕掛けた巧妙な、巧妙すぎる罠があるように思う。

 そもそも本多は何故、聡子に会うことを決意したのだろう。たんに久闊を舒する気持ちだけではなかっただろう。かつて松枝邸の焼け跡で会った蓼科に指摘されたように、本多自身の聡子への想いが彼を駆り立てたのだ。六十年前の清顕と同じように、病にむしばまれ、絶え間ない痛みに襲われながら、死を賭して、というよりむしろ、死への試練をみずからに課すかのように、本多は月修寺への道を歩む。盛夏七月二十二日の午後、門前で車を降りてから、山門までの道のりを杖をたよりによろぼいながら進む本多の姿は、死出の旅路を行く巡礼のようである。最後は一羽の白い蝶に導かれて、本多は山門に着く。

 ここはすでに幽明を異にする場所であるかのようだ。

 かなりの時が過ぎて、本多の前に現れた聡子は「老いが衰への方向へではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が静かに照るやうで、目の美しさもいよいよ澄み、蒼古なほど内に耀ふものがあって、全體に、みごとな玉のやうな老いが結晶してゐた。」と描写される。ここまで理想化された美を体現する聡子は、何か、この世に存在する老女ではなく、みやびやかな仏像をイメージして描かれているように思われる。

 「その松枝清顕さんといふ方は、どういふお人やした?」と繰り返す「門跡の顔には、いささかの衒ひも韜晦もなく、むしろ童女のやうなあどけない好奇心さへ窺はれて、静かな微笑が底に絶え間なく流れてゐた。」とあるのも、もはや聡子は、本多の語る物語の世界、そして本多の存在そのものと距離を隔てた位置にあることを示唆している。清顕が、勲が、ジン・ジャンが、そして本多がいる世界と、聡子の世界は次元が違うのだ。彼女の言葉でいえば「それも心々」なのである。聡子の「心」に清顕はいない。

 本多の語る物語を読んできた私たち読者にとって、聡子の言葉は詭弁である。だが、本多より高次の語り手はいうまでもなく作者であって、詭弁であっても、読者は、そのように語られたら、そのように読まなければならない。権力をもっているのは作者である。

 余談ながら『天人五衰』という小説の中で、権力はつねに「女」がもっている。聡子の完璧な否定の前に本多はなすすべもなかった。いや、聡子だけではない。安永透を完膚なきまでに打ちのめしたのは、孔雀明王のモチーフをまとって現れた久松慶子だった。盲目の透を花婿にしたのは「天稟」ともいえる醜さを逆転させ、世界を支配下に置いた絹江だった。

 三島由紀夫に限らず、作家は、フィクションであれノンフィクションであれ、言葉によって読者を支配する特権をもっている。とくに、三島由紀夫は悪魔的ともいえるほど卓越した言葉の使い手である。言葉の牢獄に閉じ込められていたのが三島だったともいえるのかもしれないが。読者の側は彼の繰り出す言葉に魅了され、支配されることの特権に身をゆだね、いまどき荒唐無稽な輪廻転生譚などという論証の彼方の夢物語を追いかけてきたのだ。最後にきて、それはおかしいなどと異をとなえることは許されない。これは作者の仕掛けた罠である。

 以上で私のつたない一文を終わりにしようと思うのだが、最後に、ひとつだけ、この「衝撃のラスト」読解のヒントになるかもしれないエピソードを取り上げてみたい。作品の中ほどに、「本多透の手記」というタイトルの文章がかなりの分量を占めている。許婚となった百子を「絹江のやうな、全世界を相手に闘ふ女」にしてやるために、透がとった行動の記録である。その中に、突然、本筋と関係があるとは思えないエピソードが出てくる。

 ある雪の土曜日の午後、本多は不在である、透が所在ないままに、家の階段の踊り場の窓から雪を眺めている。すると、家の前の私道に一人の老人が傘もささずに現れる。極端に痩せて、黒いベレエ帽をかぶり、灰色の外套を着ていて、腰のあたりが不自然にふくらんでいる。老人が門の前で立ち止まると、そのふくらみが急に削ぎ落され、雪の上にビニールに包まれた野菜や果物の切り屑が落される。

 老人はその後立ち去るが、非常に小刻みな歩幅で数歩歩いた後、今度は外套の背から何か黒いものが雪の上に落ちる。最初、透はそれを鴉か九官鳥か、鳥の屍だと思った。落ちた翼が雪を摶つような音が聞こえた気がした。何の鳥か確かめようとしたが、ふりしきる雪と庭木に遮られ、「何か壓倒的な億劫さに制せられて」確かめられなかった。そのうち、「あまり永く見詰めてゐるうちに」それは女の鬘のようにも思われだしたのである。

 雪に映えて「胸のむかつくやうな蘇りをもたらす」と形容される野菜屑と女の鬘、これはあきらかに聡子の出家に関する記号だと思われるが、これについて語ることはいまの私にはまだ力不足である。ただ、ラストへの何らかの伏線だと思う。「鬘」は『暁の寺』に登場する蓼科も被っていたのだが。

 「記憶もなければ、何もないところへ」来てしまったのは、「本多」であって、三島由紀夫ではない。「そのように語る」特権を三島由紀夫はもっている。その三島が、おのれの腹に刃を突き立てた、などという「事実」は、私にはどうしても受け入れられないのだ。

 ずいぶん長く時間がかかったのに、相変わらず、論理の展開が錯綜していて、未整理な文章です。今日も、最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年5月27日木曜日

三島由紀夫『天人五衰』_近代的自我の崩壊とその先にあるもの_安永透の至福

 三島文学の総決算ともいうべきこの作品を前にして、いつまでも立ち止まっている。格調高く、象徴的で謎と寓意に満ちた文章は、あまりにも完璧で、つけいる隙がない。語られている内容は、十六歳の自尊心の強い少年が、金持ちの弁護士の養子となるが、最後に、自らのプライドを保つために自殺を計り、失明する、というそんなに珍しくもないストーリーである。実話小説風プロットの展開と、緊張感漂う文章との落差が大きいのだが、その落差が不自然に見えないのも不思議だ。

 『豊穣の海』最終巻『天人五衰』は昭和四十五年五月二日の駿河湾の描写から始まる。

 「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。五月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。」

これ以降、刻々と様相を変える海と空が、時間の推移とともに具体的かつ象徴的に叙述される。海と太陽と雲と船を描写しながら、存在と生起にについて語る冒頭数ページは『豊饒の海』の主題のすべてが含まれている、といってよいと思われるのだが、これを見ているのは作者三島ではない。本編の主人公安永透が、倍率三十倍の望遠鏡を覗いているのである。だから、

 「三羽の鳥が空の高みを、ずっと近づき合ったかと思ふと、また不規則に隔たって飛んでゆく。その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、われわれの心の中に時たま現れる似たやうな三つの思念も?」

 「沖に一瞬、一箇所だけ、白い翼のやうに白波が躍り上がって消える。あれは何の意味があるのだらう。崇高な氣まぐれでなければ、きわめて重要な合圖でなければならないもの。そのどちらでもないといふことがありうるだらうか?」

 「一つの存在。船でなくともよい。いつ現れたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに足りる。

午後三時半。駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だった。」

という箇所の三羽の鳥と白波と夏蜜柑を見たのは透だったのだ。

 安永透は十六歳。貨物船の船長をしていた父が海で死に、その後間もなく母が死んで、孤児となった。伯父のもとにひきとられた後、中学を卒業して働いている。清水港に入港してくる船を確認して、関係機関に連絡する仕事である。望遠鏡を覗くことが透の仕事だった。その透にとって、「見る」ことは、たんに存在するものを「認識する」ことではなかった。

 「見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になって、誰も見たことのない領域へまで透を連れてゆく筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものがある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自體で透明になる領域がきっとある筈だ。」

 五月の駿河湾に、翼のように躍り上がって消えた白波と、波間にふと現れてみるみる東のほうへ遠ざかった一顆の夏蜜柑の向こうに、透は何を見ただろうか。

 翌朝勤務に就いていた透は、日の出前の美しい空を眺める。朝ぼらけの雲が山脈の連なりのように見える。その上に薔薇いろの横雲が流れ、下には薄鼠色の雲が海のように堆積して、山裾には人家の点在まで想像される。

 「そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の出現を透は見た。あそこから自分は来たのだ、と透は思った。夜明けの空がたまたま垣間見せるあの国から。」

だが、薔薇いろの国土は太陽の出現を前に消える。日の出の時刻を少し過ぎて「洋紅色の、夕日のやうなメランコリックな」太陽が現れる。

 「雲の御簾ごしのその太陽は、上下を隠されて、あたかも光る唇のやうな形をしていた。洋紅の口紅を刷いた薄い皮肉な唇の冷笑が、しばらく雲間に泛んだ。唇はますますほのかになり、あるかなきかの冷笑を残して消えた。」

 透が見た「薔薇いろの幻の国土」と「御簾越しの唇の冷笑」とは何か。

 一方、本編のもう一人の主人公本多繁邦は七十六歳になっている。妻を亡くしてから一人旅に出ることが多く、日本平から三保の松原を見物した際に、海辺を逍遥して、透の仕事場の建物に目を惹かれる。そして、透が船を見張っている頃、帰宅した本多は本郷の自宅で夢を見ていた。透は決して夢を見ないが、本多はよく夢をみるのである。

 三保の松原の空に、何人もの天人が群れを成して飛んでいる。手をとりあうだけで、お互いに心に想い合うだけ、見つめ合うだけ、語り合うだけで情を遂げることができるという天人たちの交会の集いのようである。たえず白い曼陀羅華が降る中、波打ち際近くまで舞い下りてまた舞い上がる天人たちの顔に、清顕や、勲、ジン・ジャンの面影もある。とめどもない遊行の流動がしまいにはうるさく感じられ、本多の自意識を呼び覚ます。クラクションの音に脅えた屈辱の公園の覗き見を思い出したのだ。本多は夢を削ぎ落して目をさました。

 「自分はいつも見ている。もっとも神聖なものも、もっとも汚穢なものも、同じやうに。見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。」

 梅雨が始まった。本多は女友だちの久松慶子を伴って、再び三保の松原を訪れる。本多は、錦蛇のブラウスにパンタロンといういでたちの奔放な慶子にふりまわされしまうが、最後に、前回興味を覚えた透の仕事場に立ち寄る。そこで偶然、透の左脇腹に三つの黒子があるのを見つけてしまう。本多は躊躇なく透を養子にすることを決意し、タクシーの中で慶子にそれを告げる。その後、宿泊先のホテルで、清顕から始まる輪廻転生のいきさつを慶子に話した後、本多はまたしても夢を見る。いままで一度も見なかった試験の夢だった。

 本多は、清顕が背後の席にいると意識しながら、落ち着いて試験に臨んでいた。焦燥感は全くなかった。彼は目を覚ましてから、誰がこんな夢を見させたのだろう、と考え、誰かが自分を見張っていて、何事かを強いていると思った。

 「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。」

 透を養子にしようとするのは、はたして本多の主体的意志そのものだったのか。

 夏になった。八月十日の朝、透の仕事場に絹江という狂女が訪れる。絹江はいつも花を髪に挿して来たが、その容貌は「萬人が見て感じる醜さ」で「その醜さは一つの天稟」だった。そして「たえず自分の美しさを嘆いてゐた」のだった。

 狂気の原因は、失恋によるもので、失恋の相手が彼女の醜さを嘲ったのである。絹江は半年間精神病院に入っていて、退院してからは、自分が絶世の美人と決めて落ち着いた。狂気によって、自分を苦しめていた鏡を破壊し、この世の現実の見たいものだけを見、見たくないものは見ないという放れ業をやってのけたのである。彼女は、あらたに造り出した自意識を作動させ、誰も犯すことのできない「金剛不壊」の世界を築いたのだ。

 美しさ故の不安や脅えを口実に透の仕事場を訪れていた絹江だったが、今回は「透が狙われている」という。透のことをあれこれ尋ねる男が絹江の前に現れたのは今回で二度目だった。絹江と透の中が疑われていて、透を抹殺しようとしている。おそろしい力のある大金持ちの蝦蟇のやうに醜い男が狙っているのだという絹江の話をひきとって、透はそれを論理化し、補強してやる。

 自分たち純粋で美しい者を滅ぼそうと狙っている強力な存在がある。それに打ち勝つには、相手方の差し出す踏絵を踏まなければならない。服従したふりをして油断させ、相手の弱点を突き、反撃する。そのためには堅固な自尊心を保たなければならない。

 本多が「おそろしい力のある大金持ちで蝦蟇のやうに醜い男」かどうかは別として、物語の後半、透はたしかに「無抵抗に服従するふりをして、何でもいいなりになってやる」「甘い男」を演じ切ることになる。はたして、その結果絹江のいうように「あなたと私とが手をつなげば、人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすっかり晒して漂白してしまへる」ことになっただろうか。

 絹江が帰った後、透は望遠鏡で波打ち際の海を眺める。複雑、微妙に変身して砕ける波の様子を追っていたレンズが天頂へ、水平線へ、ひろい海面へ向けられた時、一瞬、一滴の波しぶきが上がる。天にも届かんばかりの「至高の断片」。何を意味するのだろうか。

 夕方五時。透は再びレンズを波打ち際に向け直す。そのとき、砕ける波に死のあらわな具現を見ていた透の望遠鏡は「見るべからざるもの」を見たのである。顎をひらいて苦しむ波の口の裡に透が見たもの、それは海中の微生物が描いた模様のようなもの、あるいは波の腹に巻き込まれながら躍っていた幾多の海綿であったかもしれない。だが、波の口腔の暗い奥に閃光が走り、別の世界が開顕されて、透はそれを、確かに一度見た場所だと思ったのである。

 透は時間を異にする世界を見たのだろうか。

 八月下旬、透は残暑の夕景を見ている。本多の養子になることが決まって、仕事場で見る最後の夏である。美しい空だった。遠近法を以って沖に連なる横雲の向こうに、白く輝く積乱雲が神のように佇んでいた。だが、その横雲が、遠近法でだんだん低くなっているのではなく、白い埴輪の兵士の群が並んでいるように見えてきて、気がつくと、積乱雲の色は健やかさを失い、神の顔は灰色の死相になった。

 『天人五衰』の象徴詩のような前半は、ここで終わる。「凍ったやうに青白い美しい顔」で「心は冷たく、愛もなく、涙もなかった」と造型される透の幸福は、存在の極限まで「見る」ことだった。「自意識」によって自分のすべてが統御されていると考えている透にとって、「見る」こと以上の自己放棄はなかったのである。透が、五月から八月へかけて、駿河湾の海と空と船の向こうに見たもの、あるいは見させられたものは何だったのか。

 夢を見ない透が見たもの、それは未生の過去に経験した出来事を示唆するものであり、また、自分の半身が属していると信じる「濃藍の領域」が告げる運命だったのではないだろうか。試験の夢から覚めた本多が覚えた感覚_「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なもの」が本多を動かしたかもしれないように、存在の向こうの「濃藍の領域」が透に働きかけていた、と言ってもよいのではないだろうか。それは、みずからのすべてが完全に自意識の支配下にあると考える透の論理を破綻させるものだが。

 世界を認識の「対象」として「認識」し、自分を世界と別個の存在として「自意識」の絶対性を確保することが近代的自我の確立であるとするなら、安永透は近代的自我を極限まで拡張させた人間として登場する。狂女の絹江は透の鏡像である。透は現実そのものの中に自我を拡張させようとしたが、絹江は現実の方を変えて透よりさらに堅牢な自我の城を築いたのだ。そして、透の自我は崩壊し、絹江の自我はすべてを手に入れたのである。

 失明した透は「見る」ことから解放され、堅牢な自我の王国の女王となった絹江の花婿となる。文字通り絹江の飾り立てる花を髪に挿して。萎えた花が散乱する室内に、やがて次の生命も誕生するという。着たきりの浴衣に垢と膩と体臭を漂わせ、頭上の華も萎れて、五衰の天人の様相を呈しながら、透は黙って座っている。

 こんなに時間が経ったのに、結局あらすじをなぞることしかできませんでした。もう少し小説的な興味を覚える後半についても書きたいと思っています。透の家庭教師の青年が語る「猫と鼠」のたとえ話と、透を自殺に追いやる久松慶子という「錦蛇のパンタロン」の女性の役割を考えてみたいと思っています。まだ時間がかかるかもしれませんが。

 今日も大変不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年3月19日金曜日

三司馬由紀夫『暁の寺』__認識、破壊、そして燔祭(2)__本多繁邦の欲望と孔雀明王

  昭和二十年六月、本多は、渋谷松濤の依頼人の邸宅に招かれる。渋谷近辺の光景は、一週間前、二日にわたり延べ五百機のB29が東京を焼いて、「その高臺の裾から驛までの間は、ところどころに焼きビルをした殘した新鮮な焼址で」と描写される。人間の生の営みが完膚なきまでに破壊され、蹂躙された有様が、正確な筆致で過不足なく記述されるが、看過ごせないのは、その後

___これこそは今正に、本多の五感に譽へられた世界だった。戦争中、十分な貯へにたよって、気に入った仕事しか引き受けず、もっぱら餘暇を充ててきた輪廻轉生の研究が、このとき本多の心には、正にこうした焼址を顯現させるために企てられたように思ひなされた。破壊者は彼自身だったのだ。

と書かれていることである。

 この焼け爛れた末期的な世界は、それ自体終わりでもなく、はじまりでもない。世界は一瞬一瞬平然と更新されていく。本多は唯識の阿頼耶識の法則が全身に滲み透るのを感じて「身もをののくやうなを涼しさに酔った」のである。

 この後、用を済ませた本多は足を延ばして、旧松枝邸を訪れる。かつて十四萬坪あった敷地は細分化され、千坪ばかりになってしまったが、いままた茫々たる焼址になって、昔の規模を取り戻している。そこで本多は『春の雪』の影の主人公ともいうべき蓼科に邂逅する。蓼科は九十五歳になっている!

 『春の雪』の悲劇をよくできた人形浄瑠璃と見立てることができるとすれば、聡子と清顕の美しい人形を操っていたのは、蓼科である。綾倉伯爵への蓼科の思い、情念が二人を完璧な破滅に導いたのだ。破滅ではなく、輪廻のはじまりであり、今生の完成かもしれないが。あるいは、イノセントな二人に罪を教え、楽園追放にみちびく蛇の役割を果たしたのが蓼科だったかもしれない。この焼址に登場する蓼科は、あきらかに蛇のメタファーとして描かれているように思われる。

 本多は依頼人から土産にもらった鶏と卵を二つ蓼科に与える。いったんしまった卵を一つ取り出して、その場で割って呑みこむ蓼科のしぐさが、逐一描写されるが、それがまさに「蛇が卵を呑む」様子なのである。

 蓼科は本多に礼として「大金色孔雀明王經」という本をくれる。これを身につけていれば、さまざまな難を免がれることができるという。もともとは、蛇毒を防ぎ、蛇に咬まれても癒す呪文を釈迦が説いたということだが、蛇毒だけでなく、一切の熱病、外傷、痛苦を除く効験があるとされる密教の経典である。讀誦する場合はもちろんだが、「孔雀明王」を心にうかべるだけでも効験があるとされる。

 だが、この「孔雀明王」という優美な女神の原型は、かつて本多が訪れたカルカッタのカリガート寺院で見た「赤い舌を垂れ、生首の頸飾りをしたカリー女神」__殺戮と破壊をもたらし、たえざる犠牲を要求する大地母神なのだ。そしてまた、明王を背に乗せる孔雀は、毒虫や毒蛇を攻撃する鋭い蹴爪をもつ鳥である。蛇のメタファーとして登場する蓼科が、孔雀明王経を身につけているというのは逆説である。

 家に帰った本多が「孔雀明王經」を繙くと、そこに描かれた明王像は優美でやさしく、無限に人々を厄災から救うかのようにまどろんでいる。明王を背に乗せる孔雀もまた金、銀、紺、紫、茶の暗鬱な五彩に彩られて、その羽根尾を燦然と展いていた。だが、本多は、蓼科と会った焼址の夕焼けの空には、きっと緋色の孔雀が、緋色の孔雀明王すなわち殺戮と破壊を司るカリー女神を背に乗せて、顕れていたのだ、と思ったのである。

 孔雀明王はそれから七年後本多の夢の中に再び登場する。昭和二七年は血のメーデー事件が起こり、暴力革命前夜のような騒乱が続いたが、本多は再会した月光姫(ジン・ジャン)に溺れていた。妻の梨枝は夫の恋に気づき嫉妬するが、本多はジン・ジャンと直接の交渉をもったわけではない。彼女を手に入れようと奇怪、卑劣な策を弄するが、失敗する。ジン・ジャンは本多にとって、再び不在の人となった。

 夢の中で本多は、いまは消え失せてしまったような住宅街をさまよって、朽ちかけた枝折戸の向こうの古風なホテルの前庭に入っていく。ひろい前庭では立宴がひらかれている。突然喇叭の調べが起こると、足下の地が割れ、金色の衣裳の月光姫が、金色の孔雀の翼に乗ってあらわれる。孔雀は喝采する人々の頭上をを飛びめぐり、そうしているうちに月光姫は人々の頭上に放尿する。本多は姫のために厠を探しにホテルの中に入ったが、外の喧騒にひきかえて、中は人気がない。どの部屋も鍵がかかっていなくて、ベッドの上に棺が載せてある。あれがお前の探している厠だという声をどこかで聞きながら、本多は尿意をこらえかねる。棺の中にしようと思いながら、神聖を犯す怖ろしさにできなかった。

 何だかかの有名な『家畜人ヤプー』の一場面のようだが、ここにはまぎれもなく全体を覆う死のイメージがある。棺のなかには、すでに死者が納められているのだろうか、それとも、いま立宴で姫に喝采している人々が納められることになるのだろうか。地を割って出現した孔雀明王の化身が、小水を驟雨と降らせるというのは、何のメタファーなのか。

 そして、この夢からさめた本多は「誰憚るもののない喜びの、輝かしい無垢が横溢していた」というこの上ない幸福感に包まれる。

 空翔る孔雀明王の化身の姿を、本多は神話と共感の全き融和の裡にとらへてゐた。ジン・ジャンは彼のものだった。

と書かれるのだが、孔雀明王は無限の救いをもたらすのか。それとも、破壊と殺戮だろうか。あるいは破壊と殺戮の果ての無限の救い?本多の裡にあるのは、まったき自己の消滅、すなわちまったき世界の消滅であり、彼の欲望を成就させる孔雀明王こそジン・ジャンだったのだ。

 さて、清顕の、また勲の転生のしるしである左脇腹の三つの黒子はどうなったのか。別荘のプール開きの日、盛大に行われた祝宴の最中、本多は水着姿のジン・ジャンに何の印もないことを確認する。ところが、深夜再び本多が書斎に穿った覗き穴から覗くと、そこに繰りひろげられていたのは、別荘の隣人久松慶子とジン・ジャンが濃密に愛をかわしあう姿だった。そして、このときジン・ジャンの左脇腹には、はっきりと転生のしるしがみとめられたのである。

 三つの黒子は本当に存在するのか?現実に存在しない黒子が、本多の目には、久松慶子とむつみあうジン・ジャンにみとめられた、ということなのか?それとも、愛の行為の最中にだけ黒子は出現するのだろうか。

 三島が提示する「恋と認識と不在または不可能の方程式」を解くことは私の手に負えるものではない。輪廻転生と恋のそれも同様である。だが、妻の梨枝と二人して覗き穴からジン・ジャンジャンの裸体を見て、「本多が実體を発見したところに、梨枝は虚妄を発見していたゐたのである」と書かれて、すべては終わる。

 だから、この後、ジン・ジャンの裸体を見るために建てられた御殿場の別荘は見事なまでに焼かれて、燃え尽きたのである。建物の中に男女二人を燔祭の生贄として捧げて。そして、燃やしたのは本多である。あるいは本多の認識といってよいかもしれない。

 焔、これを映す水、焼ける亡骸、……それこそはベナレスだった。あの聖地で究極のものをみた本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があらうか。

 冒頭引用したように、

 破壊者は彼自身だったのだ。

 最後に、タイに帰ったジン・ジャンが、二十歳の春にコブラに咬まれて死んだことが簡単に報告されて物語は終わる。もはや、輪廻転生にも、孔雀明王にも言及されることはなく。

 プロットの表面だけをなぞった感想文しか書けませんでした。題名となった「暁の寺」は、本多が見る幻影としての富士山だと思われ、こちらからも本多の「認識」についてアプローチしなければならないのですが、今回は力及ばす、でした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 

2021年3月13日土曜日

三島由紀夫『暁の寺』__認識と破壊、そして燔祭(1)__本多繁邦の欲望

 『豊饒の海』第三巻は、日米戦争前夜一九四一年タイの首都バンコックを舞台に始まる。主人公は前二作でそれぞれの主人公松枝清顕、飯沼勲の同行者として登場した本多繁邦である。飯沼勲の弁護のために裁判官を辞して弁護士となった本多は、商社の仕事でバンコックを訪れる。その地で本多は、飯沼勲の生まれ変わりではないか、と思われるタイの王女の話を耳にする。

 自分はタイの王女ではなく、日本人の生まれ変わりで、本当の故郷は日本だ、と言い張ってきかない姫君がいる。父殿下始め多くの王族がスイスに行ったきりになっているのに、まだ七歳になったばかりの姫君が、侍女たちに囲まれて薔薇宮というところに押し込められているという。

本多は、ホテルでタイに持参した清顕の夢日記を繙く。その中で清顕は、タイの王族になって、廃園を控えた宮居の立派な椅子に掛け、かつてタイの王子がはめていたエメラルドの指輪を自分の指にはめている。そのエメラルドのなかに「小さな愛らしい女の顔」が泛んでいる。ここまで読んで、本多は、これこそまだ見ぬ姫君の顔で、姫は清顕の、また勲の生まれ変わりであると思う。

 商社員の菱川という男の取りつぎで、本多は姫に謁見がかなう。姫は突然本多に縋りついて、自分は八年前に死んだ勲の生まれ変わりだと言って泣き叫ぶ。清顕と勲に関する出来事の日時もまた、正確に答える。姫が清顕と勲の生まれ変わりであることは、本多の確信となった。

 だが、その後本多は、たまたま幼い姫の裸体を見る機会を得たが、その左脇腹に、転生のしるしである三つの黒子は、なかったのである。

 時は流れ、十一年の歳月が経った。物語の始めから日中戦争はすでに始まっていた。一九四一年に日米戦争が起こり、世界大戦となって、日本は敗れ、前年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた。日本だけでなく、世界中で多くの人が惨禍に巻き込まれたが、本多の生活は変わりがなかった。というより、僥倖ともいえるなりゆきで、金満弁護士となっていた。そうして、若さ以外のものは多くを手にいれた本多が、恋をしたのである。いまは、「月光姫(ジン・ジャン)」と呼ばれ、美しく成長したタイの姫君に。

 恋に理屈はいらないが、本多のジン・ジャンへの執着は異常である。姫の容姿がいかに魅力的であるかは、これ以上は不可能なほど精緻に描かれるが、その内面、精神に言及されることはない。言葉の問題もあるかもしれないが、はたして、本多とコミュニケーションがとれているかも怪しい。本多の欲望は、ジン・ジャンの左脇腹の黒子の有無を確かめたい、という点に集中する。そのために、本多は御殿場に別荘を作ったのである。姫を招いて、その寝室を隣の書斎に穿った覗き穴から覗き、プールを掘って、彼女の水着姿を見ようとしたのだ。

  初老の男の欲望というものがどんな内実をもつのかについて、女の私がどこまで理解、というか実感できるかについては、甚だ心もとないものがある。作者三島は言葉を尽くして、本多の心理を語るが、あまりにも観念的な分析だと思われる。ジン・ジャンの黒子を確かめるために彼女の裸体を「見る」ことへの欲望__それを本多(作者三島)は「認識慾」と呼ぶのだが、認識慾が自分の肉の慾と重なり合うということは「實に耐へがたい事態」であったから、この二つを引き離すために、ジン・ジャンは「不在」でなければならなかった、と書かれる。「不在」であること即ち

……ジン・ジャンは彼の認識慾の彼方に位し、又、欲望の不可能性に關はることが必要だったのである。

 本多はジン・ジャンに恋をする義務があったかのようである。

 ところで、「認識」という言葉はこの小説のなかで、ほとんど「見る」という言葉と同じ意義をもつかのように使われている。実は、本多はジン・ジャンの裸体だけをみることに固執しているのではない。夜の公園で睦あう男女の姿態をひそかに見ることにも異常なほど傾斜しているのだ。「認識」という言葉が「見る」という言葉、もっといえば「覗き見」という言葉と重なってくる。そうして、「見る」という行為は「権力の行使」なのである。

 「認識」という行為が「権力の行使」であり、直接には「破壊」である、という機序について語る事は、私の能力の限界を超えているいるようにも思われるが、次回「孔雀明王」のモチーフを中心に、いくらかでもたどってみたい。この小説のかなりの部分を占める仏教の理論に触れなければならないので、成功するかどうかまったく自信はないが。

 随分久しく書くことから遠ざかっていて、ようやく出来たものが、肝心なところで、尻切れとんぼになってしまいました。あまりの難解さに、もう書くのをやめようと思ったこともあったのですが、何とかメモを残せました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年10月28日水曜日

三島由紀夫『奔馬』__「佐和」という存在___父と子の相克

   前回の投稿から随分長い時間が経ってしまった。書けない理由はいくつもあって、いろいろ総合すると、私の能力不足という厳然たる事実に行きつく。もう三島由紀夫につきあうのはこれまでにしようか、と思ったりもするのだが、それでも、力不足ながら、『奔馬』という小説のもっとも魅力的な登場人物(と思っているのは私だけかもしれないが)「佐和」について少しだけ書いてみたい。

 佐和は、『奔馬』の主人公飯沼功の父茂之の経営する「靖献塾」という右翼団体の最年長の塾員で「呆れるほど非常識な、四十歳の、妻子を國に置いて出てきた男である。肥って、剽軽で、暇さえあれば講談倶楽部を讀んでゐる。」と紹介される。他の塾員とは親密な関係を結ぶことがない__そのように父茂之が配慮している__勲にとって、唯一親しく話すことができるのが佐和だった。

 「神風連史話」に傾倒する勲は、同志を募って、腐敗した政、財界の要人を殺そうと企てる。一人一殺である。勲たちに理解を示す陸軍の中尉も参加することが期待され、二十人の同志の結成式もすませていた。その勲の計画を、何故か佐和が気づくのである。

 十月のある晴れた日、佐和は一人で下着を洗濯している。佐和は、いざというときに男は純白の下着をつけていなければならない、と常々言って毎日洗濯に精を出しているのである。靖献塾は塾頭始め、佐和以外皆出はらっている。大学から帰ってきた勲に、佐和は、勲たちがひそかに計画を練ろうとしている集まりに自分も参加したいと言い出す。勲は困惑するが、佐和はその場ではそれ以上深追いせず、自分の部屋に勲を誘って、今度は靖献塾の内幕を暴露する。

 ありていに言えば、勲の父茂之は三年前に巧妙かつ周到な強請をはたらいて、大金を得たのである。使い奴のさきがけとなって先方に赴いたのが佐和だった。思想を生業とする人生で、生活の糧を得るには、もっとも効率の良い方法なのだろう。これで靖献塾は裕福になったのである。「正義」とは、勲が帰宅途中で見かけた紙芝居の「黄金バット」のように、異様な金色のグロテスクな姿をしているものなのかもしれない。

 だが、勲をひどく愕かせたのは、最後の佐和の言葉である。誰を殺ってもいいが、蔵原武介はいけない。そんなことをすれば、飯沼先生が誰よりも傷つく、と佐和はつけたしのように言ったのだ。

 いったん自室に戻った勲は、木刀を提げて再び佐和の部屋を訪れる。先ほどの佐和の言葉の真偽を糾そうとしたのだ。父は大悪党の蔵原武介と本当に関係があるのか、と。ところが佐和は、勲の「現実が認識したい」という言葉を逆手にとって、「現実がわかると確信が変わるのか」と問い、それなら勲の志は幻にとらわれていたというのか、と逆襲するのである。

 勲は言葉に詰まるが、佐和が本当のことを言うまで動かない、と部屋に居座る。しばらくして、佐和は押入れから白鞘の短刀を取り出してそれを抜く。そして、蔵原を殺すのは自分にやらせてくれ、と懇願し、咽び泣くのだ。

 いったい佐和は、何故、勲に父茂之と蔵原の関係を暴露し、どうしても勲たちが蔵原を殺すなら、自分を同志に加えてくれ、というのか。靖献塾の大事な後継で、塾頭茂之の愛する勲を守る一心だろうか。それとも、佐和自身が悪党蔵原を殺さねばならない、と思い詰めているのか。

 佐和の泣く姿を見ているうちに、勲の方に余裕が生まれる。自分たちは「明治史研究會」なるものの会員で、集まって気焔をあげているだけだ、としらを切ったのである。勲は、心の中で、佐和が個別に蔵原を刺すなら、それでいい、と判断した。仮にも、それを言葉でみとめてはならない。彼は「指導者」になったのである。

 ところが、佐和の方が一枚も二枚も上手だった。勲の親友相良の家に「明治史研究會御一同様」という書留が届く。相良が勲たちが秘密に集まる場所に持参したその書留の中には、佐和が郷里の山林を売って作ったという千円が入っていた。そればかりか、佐和は、どうやって嗅ぎつけたのか、勲が新たに借りた隠れ家に現れ、一同を前にして、彼らの誓いの言葉を唱えるのである。

 佐和はたんに勲たちの仲間になっただけではない。勲たちの計画を実現可能なものとするために選択と集中の指針を与え、その実践のための具体的なやり方を示したのである。そして、蔵原武介殺害の役割をみずから担うことを否も応もなく決定し、いつか勲に見せた白鞘の短刀で人を刺す要領を、巧みな言葉とたしかな実技で教えたのだ。

 いよいよ決行を二日後に控えた十二月一日の朝、塾長の使いで外出した佐和を除く一同十一人が集まっていた隠れ家に警察が踏み込んできて、全員が捕まってしまう。佐和も靖献塾に戻ったところを逮捕される。一件は「昭和神風連事件」と名付けられ、世間を騒がせるが、一年の裁判を経て下された判決は、被告人全員の刑を免除する、というものだった。世間の風潮もまた、有為の若者にたいする同情に満ちていたようだった。

 判決の出た昭和八年十二月二十六日から三日後二十九日、皇太子命名の儀がある日、勲は佐和を誘って宮城前の提灯行列に参加する。群衆の中で佐和をまいた勲は、銀座に引き返して短刀と白鞘の小刀を買い、熱海の蔵原武介の別荘に忍び込み、佐和に教わった通りのやり方で、短刀で彼を刺した。それから、蜜柑畑の蜜柑を一つもぎとって食べ、白鞘の小刀を腹に突き刺したのだった。

 さて、佐和とは何者なのか。勲にとって、佐和はどのような役割を果たしたのか。その行動は謎に満ちている。そもそも、決行二日前に、勲たちの計画を父の茂之に伝えたのは勲を愛する槇子だが、佐和は最初から勲の計画、というより意志を知っていた。四谷の隠れ家の場所も知っていたのである。佐和が超優秀なスパイの訓練を受けていたのでないとすれば(もしかしたらその可能性もあるかもしれないが)、勲からすべてを打ち明けられていた槇子から聞いていた、としか思われない。槇子と佐和は、勲の知らないところでつながっていたのだろうか。

 また、槇子の密告は、勲を牢屋にぶち込んで、自分一人のものにしたい一心からだという佐和の言葉は本当だろうか。本当のようにも思われるし、そうでないようにも思われる。

 それから、最後に、最も重大な謎がある。提灯行列の群衆の中で勲を見失った佐和は、なぜ、「群衆のなかをあてどもなく四時間も」探した後、靖献塾へ帰って勲の失踪をつげたのか。三日前塾生が蔵原武介の不用意な不敬行為を報じる新聞を勲に見せたとき、すばやくそれを奪い取ったのは佐和である。勲が姿をくらませば、蔵原の別荘を目指すことは十分予想できた。すぐに父の茂之に連絡をとって、蔵原の別荘を警戒させれば大事に至らなかったはずである。

 目くるめくような絢爛豪華な悲劇『春の雪』の登場人物を影で動かしていたのは、蓼科という老女だった。清顕と聡子は蓼科の掌の上で遊ばされていたようにも思われる。蓼科は、エデンの園で、アダムとイヴに罪を犯すようにそそのかした蛇のような役割を果たすのだ。その後、蓼科は『奔馬』の次の『暁の寺』に再登場して、空襲で焼け野原になった東京の旧松枝邸で本多と再会する。九五歳!という設定で、化け物のような厚化粧をして、本多のくれた生卵をその場で食べてしまう。蛇の本性をあらわしたかのように。

 『奔馬』で蓼科と同じような役割を果たすのが佐和だが、佐和は蓼科のようにグロテスクに誇張されたキャラクターではない。飄々ととらえどころがなく、それでいて行動も頭のはたらきも俊敏である。だが、その存在は両義的で謎に満ちている。勲に蔵原武介を殺させたのは、まぎれもなく佐和だが、はたしてそれは佐和の本意だったのか。それとも「上手の手から水が漏れた」のか。

 勲は蔵原武介を殺した。そして、夜の海の気配にかこまれて自刃した。「父殺し」は成就したのか。それとも「子殺し」が成就されたのか。

 「父と子の相克」という主題は最終作第四部の『天人五衰』に持ち越されるのだが、それについて書くことができるのは、まだかなり先のことになってしまうかもしれない。というより、『暁の寺』以降、作品のトーンがあまりにも変わって、なんだか三島由紀夫の形而上学や心理学を読まされているような気がして、魅力的な登場人物を見つけられないのである。私の知力、教養が圧倒的に足りないのだろうと思うのだが。

 三か月ぶりに書いてみて、あまりの不出来に愕然としています。最後まで付き合って、読んでくださって、本当にありがとうございます。

 

2020年7月28日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__「昭和維新」と「神風連」__英雄伝説の完成

 前回のブログで「まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。」と書きながら、なかなか書けないでいる。

 昭和七年、本多繁邦は三十八歳になった。

と書き出される時代は、内外の危機的状況のもと「昭和維新」を旗印に、とくに右翼勢力の側から実力行使が相次いだ。今日の目から見れば、昭和六年三月事件から昭和十一年二.二六事件まで九つの暗殺、テロ事件が起こり、それらの血生臭さがきわだつが、このように暴力による破壊行動に収斂するにいたるには、じつは明治後半から大正を経て、深刻で複雑な社会、文化の変化があったのはいうまでもない。

 この間の歴史を、たんに事象の表面をなぞるのではなく、そこに生きた日本人の思想、感情の屈折を精緻に分析、叙述した『昭和維新試論』(橋川文三著)という名著がある。余談になるが、教養や知識の蓄積が乏しい私は、この本を読んで多くのことを教えられた。というより、自分の無知、不勉強に気づくことを余儀なくされた、と言った方がいい。朝日平吾、渥美勝、田沢義鋪といった人物のことなど、この本を読まなければ、名前さえ知ることもなかっただろう。非常に概念的な言い方になるが、一九〇〇年前後からの内外の社会の激変が、とくにその底辺で生活する庶民の生存に危機的な影響をもたらし、「実存」(という言葉が当時使われたかどうかわからないのだが)の悲哀、あるいは「不安」という感情が世相に蔓延した、という論が『昭和維新試論』の中で述べられている。

 『奔馬』冒頭で、作者は、本多の同僚の裁判官に、オスカー.ワイルドの「今の世の中には純粋な犯罪というものはない。必要から出た犯罪ばかりだ。」という言葉を語らせている。本多もそれに対して「社会問題がそのまま犯罪に結晶したような事件が多いね。それもほとんどインテリでない連中が、自分では何もわからずに、そういう問題を体現している。」と答えている。実際、裁判官として本多は、娘を娼家に売った農民が約束の金を半分も貰えぬのに腹を立てたあげく、誤って娼家の女将を死なせてしまった事件を裁いている。

 一九二九年のニューヨーク株の大暴落から始まる世界恐慌が庶民の生活を危機に追い込んだことはよく知られているが、日本ももちろんその例外ではなかったのである。だが、一方、そのような庶民の困窮を、豪奢な晩餐後の酒席の話題として会話する階級が存在したことも、三島は『奔馬』のなかで伝えている。

 一家の飢えを救うには、兵隊となった息子の遺族手当ををもらうしかないすべがないので、早く息子を戦死させてくれ、と小隊長に手紙を書いた貧農の話が語られるのは、軽井沢の財閥男爵の炉端である。「通貨の安定こそが国民の究極の幸福である」と金本位制復帰を説いて「九割を救うために一割が犠牲になってもやむをえない」とする主賓の「金満資本家」蔵原武介をはじめ、「つややかな頬」や「つややかな手」をもつ男たちは、十分な食事と酒の後、貧農の願いがかなって、名誉の戦死を遂げた息子の話に涙するのだ。

 この間の事情は、小説の末尾近く、蹶起前日にとらえられた飯沼勲が、初回の公判の場で、裁判長の求めに応じて、心情を吐露するかたちで縷々述べられている。簡潔で要を得た勲の説明は、二十歳の青年勲の現実認識とその説明、というより作者三島のそれのように思われてならないのだが、それはさておき、暗雲晴れやらぬ皇国の現状を憂える勲が、みずから行動を起こすための決定的な啓示となったのが「神風連」であり、「必死の忠」であると述べていることは、複雑で多層的な問題を含んでいる。

 明治九年熊本で、廃刀令に反対する士族の反乱がおこる。「敬神党の乱」あるいは「神風連の乱」と呼ばれる。乱を起こしたのは、国学者、神道家の林櫻園を祖と仰ぐ太田黒伴雄ら約百七十名の人々で、神託のままに「敬神党」を結成して、十月二十四日に熊本鎮台を襲った。ウィキペディアに月岡芳年という画家の描いた「熊本暴動賊魁討死之図」という錦絵が掲載されているが、刀と槍と薙刀を武器とした敬神党の面々が、近代兵器を備えた鎮台に攻め込むさまは、このような美しい錦絵とはほど遠い地獄図だったろう。蹶起した百七十余名のうち、死者、自刃者百二十四名、残り約五十名が逮捕され、斬首されたものもあったという。

 三島は『奔馬』前半「神風連史話 山尾綱紀著」という書物の全文引用の体裁で神風連の乱を語る。「神風連史話」は、「その一 宇気比」から始まり、「その二 宇気比の戦」「昇天」と結ばれる短編小説となっている。目次が示す通り、敬神党の人々の戦いは、古神道、神ながらの道の精神に貫かれたもしくはその精神を貫くための戦いであり、結末であった。

 彼らには、厳密な意味での戦略はなかった。敵を滅ぼすためではなく、「もののふ」としてのアイデンティティに賭けた戦いで、敗北は必定だったように思われる。むしろ、自刃を目的として蹶起したのであり、戦いはそこに至る過程にすぎなかったようである。血塗られた死の美学がくりひろげる抒情詩が「神風連史話」であった。山尾綱紀という架空の作家にたくして、三島はそのように書いている。そして『奔馬』の主人公飯沼勲は「神風連史話」という「書物」から「召命」ともいうべき啓示をうけたのである。「神風連の乱」という歴史の事実からではなく。

 「神風連史話」が厳密な意味での「神風連の乱史」でないことは、勲からこの書物を借りて読んだ本多の勲への手紙の中で指摘されている。周到にも三島は、『奔馬』という作品中で「神風連史話」に対する的確な批判をしているのである。統一的な「物語」をつくるために、「事実」の中に含まれる多くの矛盾が除去されていること。敬神党の敵である明治政府の史的必然性を逸していること。そのために「全体的な、均衡のとれた展望」を欠いていること。

 三十八歳の裁判官本多は以上の点を指摘し、「神風連史話」に傾倒する勲に教訓を垂れている。「過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化」することは歴史を学ぶことではない。「純粋性と歴史の混同」をしてはならない、と戒めるのである。「神風連史話」の的確な批評であり、これに傾倒する勲への適切な忠告である。____だが、『奔馬』という小説のはらむ最も核心的な謎がここにあると思われてならない。

 本多という人物の言葉を借りて、このように的確な「神風連史話」の批判ができるなら、つまり、そのような歴史認識をもっているなら、作者三島は、何故、『奔馬』を書いて、それを遺作としたのか。明治九年の「神風連の乱」の時代の純粋は、「昭和維新」の時代のそれではありえないならば、昭和四五年の11・25のそれともまったくの別物である。

 通俗的で愚かな私は、いつも、この部分で躓いて堂々巡りの思考に陥ってしまうのだが、『奔馬』という小説は破綻のない、完成度の高い作品であると思う。本多は勲への手紙の中で、「神風連史話」を「一個の完結した悲劇であり、ほとんど芸術作品にも似た、首尾一貫したみごとな政治事件であり、人間の心情の純粋さのごく稀にしか見られぬ徹底的実験」と評しているが、これはそのまま『奔馬』にあてはまる評価である。『春の雪』の松枝清顕と同じく、飯沼勲もまた、輪廻転生の主体のひとつであって、二十歳で死ぬことを運命づけられていたのだった。夭折の英雄伝説の完成である。

 「神風連史話」はおびただしい血と死を流して悲劇を完成するが、『奔馬』は飯沼勲と蔵原武介の二人の血によって完結する。飯沼勲が何故蔵原武介を殺さなければならなかったかについては、また別の機会に考えてみたい。私は三島の文学の隠されたテーマとしての「父殺し」の主題がここに存在すると思うのだが、それを書くのには、まだあまりにも力不足である。

 以前も書いたのですが、三島由紀夫の小説は、私にとってあまりにも「面白過ぎる純文学」で、読むことじたいに堪能してしまい、それについていざ何かを書こうとすると、どこから手をつけていいかわからないのです。今回の『奔馬』についても、その面白さの一ミリも伝えることのできないもどかしさでいっぱいです。もう一回「父と子」のテーマで書こうと思っています。物語の展開で、重要な役割を果たす「佐和」という中年の男に焦点をあてて考えてみたいのですが。

 今日も不出来な感想文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年5月26日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__海と白い奔馬

 三島由紀夫『豊穣の海』第二作『奔馬』は、とくにそのラストが昭和四五年十一月二十五日の事件と関連づけて論じられることが多い。たしかに、『奔馬』は1970.11.25の盾の会の蹶起とその失敗を予告、というより実践したもののように見える。それは、ある意味まさにその通りなのかもしれないが、いや、その通りであるからこそ、ここに書かれていることは、言葉を失ってしまうほどの衝撃的な事実なのではないか。

 三島由紀夫とは何者なのか。

 最初に題名の「奔馬」という言葉について考えてみたい。ほとんどの辞書には「奔馬_荒れ狂って走る馬。また、勢いの激しいことのたとえ」とある。「奔馬」という言葉は、「一人一殺」あるいは「一殺多生」のスローガンのもと要人テロとその計画があいついで起こった昭和維新と呼ばれる時代とそのヒーローを象徴するものとして用いられていると思われる。

 昭和六年三月事件から始まり、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、神兵隊事件、十一月事件、国体明徴、天皇機関説排撃事件、永田鉄山中将殺害事件、そして昭和十一年二.二六事件にいたる六年間に九つもの重大事件が起こった。日本国内だけでなく、世界のあちこちで暗殺テロが相次いだ。人々はこうした殺人、破壊行為を「国家革新」の旗印のもとに、むしろ肯定的に受け止める風潮だった。この時期は、事件を起こした実行者たちだけでなく、それを裁く司法までも含めて、「昭和維新」の美名のもとに、荒れ狂った馬のように理性を失っていたのである。

 ところで、「奔馬」という言葉は、前作『春の雪』の文章の中にもさりげなく埋めこまれている。夭折する美の体現者松枝清顕の親友本多繁邦が、湘南の海の砂浜で海に対峙している。ここに書かれている繁邦の思いは、作者三島の歴史観のエッセンスといってもいいものだろう。それを簡潔に要約することは私の能力を超えているが、いくつかの文章を抜き書きして考えてみたい。

 ・・・・そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮の退き際、一つの波打ち際、一つの境界に他ならなかった。
 ……海はすぐその目の前で終わる。
 波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。
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 あの橄欖いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号だったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変わってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
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 しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力強く見えていた渚の波も、実は希薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打ち際の海の濃厚な成分は凝縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮詰つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この希いあわただしい波の重複のはてに、青く結晶したもの、それこそは海なのだ。

 これを、私の言える一言でいえば、「諦観」だろう。あるいは「時間の概念のない歴史」を鳥瞰する目。波打ち際という境界にあって、無限の彼方の「距離とひろがりを装いながら、青く結晶したもの」を見る目。海は始原の、永遠の「青い結晶」に凝縮され、「逞しい横隊を組んだ」「白い奔馬」は、はその「蹴立てる白い蹄」の残像が記録されるだけだ。

 この諦観が『春の雪』という第一作で呈示されていることは、『豊饒の海』四部作を語るうえで、決して見逃してはならない点であると思われる。そして、ここに私の「躓きの石」がある。このように、諦観もしくは韜晦の境地に到達していながら、なぜ『奔馬』の後『暁の寺』『天人五衰』を書き継がなければならなかったのか。それから、作家の実人生を作品読解に持ち込まない、という自戒をあえて破る愚を冒していえば、なぜ「三島事件」は起きたのか。

 以上の疑問がいつまでも私の中にわだかまっていて、堂々巡りの思考からぬけだせないでいるが、まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。この作品の成立には、明治九年熊本で起こった神風連の乱が影響を与えているといわれるが、実はプロットの大枠は昭和八年の神兵隊事件によるのではないか。また、個々の登場人物の造型にはそれぞれの事件のさまざまな実在の人物をモデルにしているようである。尊皇愛国の志に燃えた若者が本懐を遂げるまでの直線的な物語のように見えて、かなり複雑な仕掛けが隠されているように思われる。仕掛けの一端でも読み解ければ、と思うのだが、難題である。何かまとまったことが書けるようになるまで、もう少し時間がほしいと思う。

 気がつけば日常の光景が一変していて、信じられないような世界に生きています。何が起こっているのか、何故なのか、「今」を理解できなくてもがいています。情報はあふれていますが、必要なのは情報ではなくたしかな実在感です。薄気味悪い浮遊感の漂う中で、性根を据えて作品に向かい合う時間がつくりだせないでいます。ひとえに非力のなせるわざですが。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。