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2014年3月11日火曜日

水上勉『金閣炎上』___信仰と宗教

 
 敗戦を郷里の成生でむかえた養賢は翌昭和二十一年四月に金閣寺に戻り、昭和二十二年四月に大谷大学に入学する。病もほとんど癒えたかに見えた。希望をもって大学に進み、成績も悪くはなかった。一、二学年は上位の成績を残している。ところが三学年になるとほとんどすべての課目の点数が急落し、最下位の席次になってしまう。何故このようなことになってしまったのか。ほんとうのところは、もしかしたら本人もわからなかったのかもしれないが、水上勉は養賢がまだ金閣に戻っていなかった昭和二十年敗戦直後に起こった「東山工作」とよばれる出来事に注目して、その原因を推測している。

 昭和二十年八月十六日南京国民政府が瓦解、主席の陳公博は日本に亡命する。八月二十五日に特別機で南京を脱出した陳公博とその一行計七名は鳥取県米子市に到着したが、数箇所を転々とした後に九月八日夜金閣寺に入る。亡命を指揮し、実際に陳氏一行の世話をしたのは日本政府であり京都府(知事および県警)で、府知事の発案で市内の寺院にかくまうことが提案されたようである。当時の府知事三好重夫氏が懇意だった天竜寺派管長関精拙師に依頼、精拙師はこれを受諾し、みずからは重篤の病床にあるため、法嗣の牧翁師をよんで金閣寺にたのめと指示した。金閣寺の慈海和尚はこれを受け入れたのである。

 日本の国民ばかりでなくアメリカ進駐軍からも秘密に庇護しなければならない一行は金閣寺では「東山商店一行」とよばれた。十月一日に陳公博が中国に帰国するまでの1ヶ月弱に関しては資料が複数あるが、そのいずれもが、彼らの(少なくとも傍目には)贅沢な、飢えに苦しむ庶民とは別世界のような生活ぶりを伝えている。とくに有名なのが金閣寺の前の池の鯉を丸揚げにして食べたというエピソードである。水上勉はこの一連の出来事を複雑な視線でみつめている。

 「慈海師の信奉する一所不住、不立文字の禅が、どこにあっても不住であり、不立であるとするなら、将軍の別荘にあっても、禅はあり得て不思議ではない。だが、そこに住んで、参観者の志納金によって喰う以上は、不住であるはずはなく、そこは禅者の常住地獄である。」

 
 ここまで厳しい視線を養賢も共有したか否かわからない。政治権力と金は、誤解を恐れず言うなら、宗教の基盤である。どんな宗教も政治権力から離れてあるいは対立して国家の中で存立することはできない。また金がなければ組織を維持できない。突き詰めて考えれば、金閣寺に限らず、寺院とは修行者にとって常住地獄なのではなかろうか。若い養賢が「地獄は一常住みかぞかし」と割り切ることが出来たとは思えないから、敗戦後の金閣が日々退廃、堕落していくように感じて、正義感と一体のリゴリズムに固まっていったとしても不思議はない。

 
 金閣の観光収入が増すのにつれて、事務方が寺の作務に介入してきて、そのことが徒弟たちとの軋轢をうみ、養賢のリゴリズムをより強固なものにしたかもしれない。だが、彼が孤立感を深めたのは、母志満子が成生の西徳寺から放逐されたことも原因と思われる。以前は彼自身が母に生家に戻るよう言ったのだが、実際に彼女が寺から追われてしまえば、養賢には帰る場所はない。そこにしか生きる場がない金閣が、信仰の上でも日常生活の面でも意識せぬ地獄でしかなかったら、それを消滅させて自分も死のう、と思うことはありうるのではないだろうか。

 『金閣炎上』後半は、放火を犯した後の養賢にかかわった人たちや裁判の記録が大半を占める。
それを読んでさまざまな思いがあるが、水上勉は昭和二十三年に金閣庭園の修理をうけもった久垣秀治氏の一文をひいて、養賢の人格を弁護し寺院側の体制を問題視している。久垣氏は「少年が法を犯してまで乱打した仏教界への警鐘を謙虚に受取ってもらいたい」と記している。これはそのまま自身長く仏教とかかわってきた水上勉の思いだろう。また、養賢が収容されていた加古川刑務所総務部長の橘恵龍氏が、金閣和尚の慈海師に書いた手紙を取り上げている。僧侶出身で大谷大学の先輩でもあった橘氏は養賢の心身衰弱を見て、金閣にもう一度戻りたいという彼の思いを代弁し、慈海師に連絡を請うたのである。だが、当然のことながら、慈海師の返答はない。昭和二十五年八月養賢は僧籍を除籍されている。

 刑務所の中で養賢は『歎異抄』を読んだのだろうか。五日に一度の割合で書いたという慈海師への手紙には「よき人のお仰せを蒙りて念仏申しおりますが」「いずれの行をも及び難き」という語句が散見される。「禅をやって自分の精神症状を吹飛ばす心算をしてゐます」という文章もあって、自力、他力を問わず何とか救いを得ようと懸命な努力を続けていたことがうかがわれる。だが、結核の進行と独居生活の長期化からか心身ともに衰弱の一途をたどり、昭和三十年十月釈放後すぐに入院した京都府立洛南病院で翌三十一年三月七日死亡した。入院直後から喀血が続き、最後は大量の喀血だったという。死に立ち会った小林淳鏡氏によれば、養賢は最後に「殺仏殺祖」についてながく考えてもわからなかったとつたえたということである。

 私は仏教についてはまったくの門外漢だが、養賢が獄中親しんだと思われる歎異抄に「念仏申さんと思ひ立つ心のおきるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずからしめたまふなり」という一節があることを思う。

 養賢の母志満子は彼が逮捕された直後、面会に行って拒否され、大江山山麓の実家に戻る途中保津峡に身を投げ死んでいる。水上勉は養賢と志満子の墓をたずねて成生の西徳寺、志満子の生家の大江山麓を探した。京都の金閣寺には無論養賢の墓はない。そして最後に養賢の父道源の生家がある安岡部落の共同墓地に二人の墓が別々に並んで建てられているのを発見する。ともに林家の建立したものである。水上勉は、孤独に、現世では救われることなく死んでいった母子に次の文章をたむけてこの長編を閉じる。

 「母子が俗家へ帰ったのだから、養賢としては、身近な在家である林家にもどって不思議はない、と思えるものの、大江山麓から嫁にきた志満子が、里の実家に眠らず、夫の実家の墓地で、成生の夫とはなされて眠るけしきは『三界に家なし』と仏門でいう女のありようを思わせた。子の墓石とならび、二基とも風霜で肌も荒れ、台石にはまだらにうす苔が被っていた。誰が供えたか、枯竹の花筒に、黄菊の束が差し込まれ、よごれた葉は涸れていた。

 養賢が林家に寄寓していた中学時代に、成生から海沿いの陽照り道を、日傘さして通った志満子が、『よく一人ぼっちで道ばたの石に腰かけ、海を見ていなさった』と話してくれた酒巻広太郎の思い出の光景が私の瞼にゆらぎづけた。

 帰りに村人に聞いてみると、母子の墓には、僧形の墓参者はひとりとてないとのことだった。」

 三島由紀夫の『金閣寺』の資料として読み始めた『金閣炎上』だったが、小説としての面白さ、水上勉のこころざしの深さゆえに我を忘れてひきこまれてしまった。『金閣寺』との比較はまた次の機会に、だがなるべく早くしたいと思っている。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月6日木曜日

水上勉『金閣炎上』____母と子への鎮魂歌

 三島由紀夫が『金閣寺』を書くために、膨大な資料から何を切り取って何を捨てたか、あるいは改変したかを知りたくて、水上勉の『金閣炎上』を読んでみた。『金閣炎上』は三島の『金閣寺』より二十年以上後に出版されたものだが、犯人の林養賢と事件に関して丹念な取材を積み重ねたもので、第一次資料として参考になるのではないかと考えたからである。

 裁判の記録や犯人の青年の周辺の人物への聞きこみなど、事実の経過をたどるための資料として読むことを考えていたのだが、読み始めていくらも経たないうちに、三島の『金閣寺』とはまったく違ったおもしろさに夢中になってしまった。こんなに小説がおもしろいものだということに、人生の後半になってやっと気がついたのである。三島の『金閣寺』が、絵画にたとえて端正な屏風絵だとしたら、水上勉の『金閣炎上』は荒削りなデッサンあるいは油絵のように思われる。立体的な画面から厳しい裏日本の風土と昂然と生きて無残に死んでいった孤独な母と子の姿が浮かび上がってくる。

 金閣寺放火犯の林養賢は若狭湾に突き出た京都府成生(なりう)岬で生まれた。生家は西徳寺という禅宗の末寺である。成生という集落がいまも存在するのかどうかわからないが、当時は二十二戸の檀家があり、漁で生計をたてていた。数年おきに鰤の大漁があって集落は裕福ともいえたが、寺は貧しかった。

 養賢の父道源の家は成生の南に位置する青葉山山麓の安岡という部落の中農だったが、病弱のため部落の寺の徒弟となって得度、二十五歳で無住だった西徳寺に赴任した。翌年道源は妻を娶る。妻の志満子は京都の大江山麓の尾藤という村の生まれである。成生にくらべ広大な水田を持つ村で、志満子はそこのやはり中農といえる家の長女だった。勝気で学校の成績もよかったが、早くに母をなくし家事をみるため高等科を中退しなければならなかった。大江山麓から二十四歳で辺境の成生に嫁ぐのにどんな事情があったのかわからない。水上勉は土地の漁婦の言葉をかりて、志満子の嫁ぐ日の姿をこのように描いている。

 「お寺へ嫁さんがくるというんで、浜とまでみんな出て見てました。ほしたら、田井の港で舟を下りやんしたとみえて、村口の坂をトランク一つと、日傘をもった背のひくい志満子さんが、紫地に花柄の銘仙の袷に、黄色い帯しめて、小股歩きにとぼとぼおいでなさってのう。あの日は、たぶん、浜の弥太夫さんの家で化粧やら、着替えやらなさって、西徳寺入りなさったとおぼえとります。式というてものう、総代さんやら五、六人が本堂にあつまりなさって、盃事しなさっただけで夕方に終わったようにおぼえとります。そのまま志満子さんは寺に泊りなさりました」

 
 それから足かけ五年経って昭和四年三月十九日林養賢が生まれた。結核の夫に代わって田畑を耕し、山にも入って、暮れれば蔭地の寺に戻って食事の仕度をする日々を送り、二十八歳の春志満子はたった一人で養賢を生んだのである。道源も志満子も子の誕生を喜ばぬ理由があるわけはないが、水上勉は周囲の複雑な視線をこう記している。

 「風の吹きつける野ざらしの産小舎跡は部落から離れていたために、こんな所まできて子を産まなければならなかった部落の因習のふかさを思わせた。志満子がその小舎で養賢を出産していなかったにしても、限られた農地しかない貧寒部落で、うとまれての出産であることをつゆ知らず、冬空にひびいたろう、幾人かの子の産声をきく思いがした。眼の下の淵はふかくえぐれ、紺青の水は岩裾に密着して、波立ちのない淀んだ深い穴であった。」

 吃音は養賢が三歳のときから始まったが、彼は三島の小説の主人公溝口のようなひよわで醜い少年ではなかった。大柄で学力も体力もまさっていた。年下の子どもの面倒見もわるくはなかった。彼に経文と尺八を教えた父は昭和十七年冬に死んだ。死ぬ前に父は一面識もない金閣寺の慈海和尚に手紙を書いて、養賢の入山を願い出た。多くの徒弟を戦争で徴集されていたこともあって、入山は許された。

 十三歳で得度した養賢は入山したが、戦時下で食糧事情が逼迫していたために、いったんは安岡の叔父の元に帰る。その後一年ほどでまた京都に戻り、金閣寺から花園中学に通って卒業する。この間母の志満子と何らかの確執があったのではないかと水上勉は推測している。花園中学在学中に養賢は父と同じく結核を発症する。勤労動員の過酷な労働が原因であろう。大学入学を目前にして、病を得た養賢は再び郷里に戻らなければならなかった。昭和二十年五月のことであった。

 敗戦を成生で迎えた養賢は翌年四月まで西徳寺で母と寺を守った。だが、そこはもう母と子が安住できる場所ではなかった。養賢はなんとしても金閣に戻ることを望み、母の志満子には大江山の生家に帰るように告げたのである。養賢の心中になにがあったのかはわからない。水上勉は西徳寺の檀家で寺のすぐ前に住む酒巻広一からの聞き書きとして、養賢が降り積もる雪の中、「くぐつ」と呼ばれる罠にかかった小動物をあつめて進む姿を臨場感あふれる文章で記してる。養賢はくぐつを作るのも仕掛けるのも巧みだった。父ゆずりの毛糸の首巻きをして学生服の肩をぬれるにまかせ、養賢は獲物をひきずって進んだ。同行した酒巻広一はこのときの養賢のたたずまいを「勇ましくもおぞましい」と述懐しているが、水上勉は以下のように記している。

 「・・・・人はたてまえだけでは生きられぬ。仏弟子も腹がへれば、鳥も兎も食う。女犯の戒を守るのが金閣住職のたてまえだったが、先住敬宗師の奔放な肉食、女性道楽を耳にしていた養賢にこのくぐつあそびが、深く宗教上の反省を強いられながらの行為であったかどうか、そこのところはわからない。広一からこの話をきいて、吹雪の中をひたすら獲物に向い、つき進んでいた養賢の、着ぶくれした十六歳の冬に、私はのちの金閣放火の、小雨の降る一夜をかさねて息をつめる。」


 水上勉はこの後敗戦の翌年に金閣にもどった養賢がどのように変わっていったか、あるいは金閣がどのように変わっていったかを書いていくのだが、長くなるので、今日はここまでにしたい。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。