ラベル 三島由紀夫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 三島由紀夫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年11月7日日曜日

三島由紀夫『天人五衰』__愛と救済のfarewell__輪廻転生を断ち切る残酷な真実

 前回の投稿で『天人五衰』について、もう言うべきことは言いつくしてしまったような気がするのに、何故か次の作品に向かうことが出来ない日が続いている。とりとめもない日常に埋没して、枯渇しつつあるエロスの対象を作品に集中することを怠っている毎日である。一言でいえば、能力不足なのだが。 

 それで、これから書くものは、読書感想文にもならぬただの「私の心境報告」である。

 この作品の難しさのひとつは、主人公が二人いて、しかもほとんど一人である、ということである。本多繁邦と安永透は、それぞれ別の人格をもって登場するが、二人ともまったく同じように、「純粋な悪」によって、正確無比に廻る歯車をもっている。歯車は、「無限に生産し、無限に廃棄するいやらしいほど清潔な工場の中で」廻りつづけている。そのことを両者ともに認識する存在として描かれている。作者は、あるときは安永透に憑依して彼の認識する世界を語り、あるときは本多繁邦の老いとその日常を彼の内側から告発する。安永透の世界の認識も本多繁邦の老残も、これ以上はないほど的確に叙述される。そして、的確に叙述されればされるほど、私の中で、この作品の「作者像」が揺らぐのである。

 作者像の揺らぎの問題はひとまず措くとして、いまの私の感覚、ほぼ生理的な感覚と言ってよいと思うのだが、それが受け入れやすいのは紛れもなく本多繁邦の老残の姿である。私はまだ本多の年齢には達していないし、本多とは性別を異にしているが、日常を生きることがそのまま死に近づていき、死の浸透をまぬがれないという厳然たる事実と向き合っている。ささやかだが執拗に続く身体の不具合、外の世界に対する秘かな軽蔑と無関心、あるいは破壊の衝動、これらはエロスの枯渇というよりもっと積極的に死の謀略であるという思いがある。

 朝目覚めた本多がまず向き合うのは死の顔だった。そんな現実よりもはるかに生きる喜びに溢れているのが夢の世界だった。目覚めても、夢の余韻に身を漂わせることが本多の習慣になっていた。小説の前半に、夢が思い出させたひとつのエピソードが語られている。若かったころの母が、ある雪の日に作ってくれたホットケーキの話である。

 ふりしきる雪の中を傘もささずに空腹で帰った本多を出迎えた母が、火鉢にフライパンをかけ、油をそそいで、一心に炭火を吹きながらホットケーキを焼いてくれた。炬燵にあたたまりながら食べたホットケーキの蜜とバターの融け込んだ美味も生涯忘れがたいが、少年の本多は、雪明かりのほの暗い茶の間で、ひたすら火を吹く母の突然のやさしさの裡にある憂悶、悲しみを、ホットケーキの美味を通じて、愛のうれしさを通じて、直観したのだった。遠い昔のつかの間の感覚の喜びが、半世紀以上も本多の人生の闇を、少なくとも火のある間は崩壊させたのである。

 このエピソードは、本多が久松慶子に招かれ、外国人の老女たちに囲まれてあまり身の入らないトランプのゲームをしている最中に、ふと想起した出来事のように書かれている。面前の現実よりも夢の世界に想いを馳せることが多くなった老年の本多が幾度も思いだすエピソードである。美しすぎるくらい美しいエピソードだが、ひとつ注目したいのは、この文脈で「愛のうれしさ」という言葉が使われていることである。

 「ホットケーキの美味を通じて」と並んでおかれる「愛のうれしさを通じて」という表現の中に挿入される「愛」という単語が何を意味するかについて、ほとんどの読者はこの箇所でたちどまって考えることはないだろう。どんな事情で母が憂悶をかかえていたかはわからないが、少年の本多は母の悲しみを感じとり、その悲しみを注ぎ込んだかのようなホットケーキの甘さを「愛のうれしさ」と受けとった。本多のこの感情の機微が「愛」と呼ばれていて、これを「愛」と呼ぶことには万人が共感するだろう。

 老年の本多の愛の記憶がどこまでも甘美なのに対して、本多とクローンのように同質の人間として、「純粋な悪として」、登場した安永透の「愛」はどのようなものとして語られるだろうか。

 安永透は孤児である。

 「彼は凍ったように青白い美しい顔をしてゐた。心は冷たく、愛もなく、涙もなかった。」

と書き出される。

 いったい透の人物像の造型は、作者が彫琢をきわめればきわめるほど、凡庸な私の理解から遠ざかっていく。その完璧な人工性、独自性、そういう特性は、ことばとしては理解できても、というより、十分すぎるほど理解できるのだが、そうやってつくり上げた透の人間像は、自然に不自然なのだ。あるいは、不自然に自然である、といおうか。

 本多繁邦の養子になった透に縁談がもちこまれる。透は十八歳の高校二年生である。金目当ての申し入れと思いながら、本多は承諾し、透は百子という少女と交際を始めることになる。百子は没落しつつある旧家の令嬢で、美しいが平凡である。百子は無邪気に透に思いを寄せるが、透は、彼女をいたぶり、奸計をめぐらせて陥れ、婚約者の座から突き落とす。透は、満を持して待ち構えていたのだ。家庭教師の古澤に続く第二の犠牲者を。彼の磨き抜かれた刃で傷つける獲物を。そして、その情念を、透は「愛」と呼ぶ。

 「微笑が僕の重荷になったので、百子の前でしばらく不機嫌をつづけてやらふという目論見が僕にうまれた。怪物性をちらとのぞかせる一方、欲望が鬱積して不機嫌になる少年といふ、あのごくありきたりな解釋の餘地も殘しておく。そしてこれらすべてが無目的な演技ではつまらないから、僕にも何らかの情念がなければならない。僕はその情念の理由を探した。一番本當らしいものがみつかった。それは僕の中に生まれた愛だった。」

 小説の中ほどにかなりの部分を占めて「本多透の手記」が存在する。透の一人称で、自己分析をまじえながら、百子との「愛」の顛末が語られている。最初から、透の命題は、百子の「肉體を傷つけないで精神だけ傷つけ」ることだった。もしかしたら、肉體も精神もともに傷つけるよりも、もっと残酷な行為かもしれないが、それを意図した透の心情は理解できなくもない。私がわからないのは、以下に続く文章の意味である。

 「僕は僕の悪の性格をよく知っている。それは意識が、正に意識それ自體が、欲望に化身し了せるというやみがたい欲求なのだ。それは、言ひかへれば、明晰さが完全な明晰さのままで、人間の最奥の渾沌を演ずることだった。」

 難しい単語が使われているわけでもなく、文脈が読めないわけでもない。だが、私には「意識が欲望に化身し了せるというやみがたい欲求」がどういう欲求なのかが、まったくわからない。「明晰さが人間の最奥の渾沌を演ずる」とはどんな行為かわからない。

 突拍子もないことをいうようだが、たぶん、それは私が女だから、ではないだろうか。女は、というか私は、意識が欲望に化身するなどという放れ業は想像すらできない。いや、意識と欲望は未分化である。また、敢えて、独断と偏見をいえば、女と明晰は同じカテゴリーの中に入ることはできない。女は、

 「だって私の心がきれいだってことは、私が知ってゐるんですもの」

と平然と言い放つことができる百子と同じく、「ある悲しみに充ちた至福に涵ってゐて、あの少女趣味のがらくたから愛にいたるまで、かうしたあいまいな液體の中に融かし込んでゐる」生物なのだ。「彼女という浴槽に首まで漬かってゐ」るのは百子だけではない。女の常態である。

 いくつかの三島の小説を読んでいて思うのは、いったい彼はどんな女なら愛することが出来るのか、という疑問である。同時に、こんなに女を「知っている」男がいるのか、という驚嘆だ。もちろん、小説の主人公=三島由紀夫ではない。だが、『天人五衰』の本多透は三島のほぼ自画像といってよいだろう。少なくとも、リアルに存在する十八歳の少年ではない。

 手記の中で透は、「世界の外から手をさし入れて何かを創ってゐたので、自ら世界の内部に取込まれるといふ感じを味はったことはない」と自負する。また、「悲しいほどに獨自だった」と強調する透が、なぜ、特権階級の令嬢とはいえ、ただ平凡なだけの百子に苛立つのか。「他人の自己満足をゆるしておけないのが、僕のやさしさなのだ。」と透はいうのだが。

 「(愛されているかどうかという不安の)柵の内側に決してはいらない」「小さなすばしこい獣」と形容される百子を嫉妬させるために、透は汀という女を利用する。そして、最終的に、百子は、透に執拗に唆されて、汀に手紙を書く。自分は金目当てに透と付き合っていて、一家あげて透との結婚に賭けている。どうか、透と別れてくれ、という内容である。無邪気な百子は、「麻酔をかけるやうに」たえず耳に愛を囁かれて、愚かな女になったのだ。

 透が繰り返した「愛してゐる」という言葉について、彼はこうも言っている。

「しかし、「愛してゐる」といふ經文の讀誦は、無限の繰り返しのうちに、讀み手自身の心に何らかの變質をもたらすものだ。………
 百子の要求するものも亦、このいかにも時代遅れの少女にふさはしく、純粋に「精神的な」確證だけだったから、これに報いるには言葉で十分だった。地上にくっきりと影を落として飛翔する言葉、それこそ僕本来の言葉ではなかったか。僕はもともと言葉をさういふ風にのみ使ふうやうに生まれついたのだ。それなら、(この感傷的な言草はわれながら腹が立つが)、僕の人前に隠してきた本質的な母国語は、愛の言葉そのものだったかもしれない。」

 三島由紀夫の文学の急所がこの独白で語られている。それは、彼の文学が、「地上に影を落としながら飛翔する」すなわち、現実の重力に引きずられない言葉の文学であること、それは文学者として生まれついた出発点からそうであったこと、それから、これが最も重要かもしれないが、「愛の言葉そのもの」だった、という告白である。

 「本多透の手記」という章には「愛」という言葉が散りばめられている。三島の作品で、これほど「愛」という言葉が使われるものがほかにあっただろうか。だが、ここに使われる「愛」という言葉には、複雑な屈折が含まれている。前述のホットケーキにまつわる本多の回想が、万人が共感を寄せるような感情の機微であったのに対し、透の定義する「愛」は

 「しかし要するに、僕の人生はすべて義務だった。こちこちになった新米の水夫のやうに。……そして僕にとって義務でないものは、船酔、すなわち嘔吐だけだった。世間で愛と呼んでいるものに該當するもの、それが僕にとっての嘔吐だった。」

とあって、この言葉を感覚的に受け入れられる人は少ないだろう。

 嘔吐=愛の図式はあまりにも極端で奇を衒ったように思われる。だが、それにもかかわらず、この小説を読了して、私の中に沈殿してくるのは、「愛」である。人生のあらかたを生きてしまった本多の回想の中の甘美な感覚の喜びも、透の屈折と苦渋に満ちた行動の軌跡も、どちらも「愛」なのだ。

 末尾の久松慶子の苛烈な弾劾の言葉の底流も、やはり「愛」だろう。慶子の、そして本多の、「人間について知り過ぎてしまった人の 愛情」____複雑に絡み合った輪廻転生を断ち切ったのは、苦渋に満ちた、残酷な「愛」の真実だった。

 とりとめもない心境報告の最後に、「本多透の手記」の中で、というより『天人五衰』の中で、最も美しい場面を引用して終わりたい。百子と二人、日没間際の後楽園を散歩したときに透が見た光景である。

 「そこで橋上の僕らは、おかめ笹におほわれた丸い築山の小蘆山と、その背後の深い木立に、最後のしたたかな光を投げかけてゐる落日の投網に對してゐた。網目にとらへられることを拒みながら、そのまばゆさに耐へ、苛烈な光明に抗ってゐる最後の一尾の魚のやうに自分を感じた。
 僕はともすると他界を夢みてゐたのかもしれない。……もとより僕は救済を求める者ではないが、もし僕にも救済が来るとすれば、意識を絶たれたあとでなくてはならないと思った。悟性がこんな夕日のなかで腐敗してゆくときは、どんなにか快いにちがひない。
 たまたま西側の橋下は、蓮に充たされた小池であった。
 水のおもても見えぬほど密生した蓮の葉は、水母のやうに夕風に浮遊してゐた。裏革のやうな肌の、胡粉を含んだ粉っぽい緑の葉が、小蘆山の谷底を埋めていたのである。蓮の葉は光を柔軟にやりすごし、隣の葉の影を宿し、あるひは池邊の一枝の紅葉のこまかい葉影を描ゐていた。すべての葉が不安定に揺れながら、かがやく夕空に競って欣求してゐた。そのかすかな聲の合誦が聞こえるかのやうだった。」

 かがやく夕空に競って欣求していたのは蓮の葉であり、透であり、本多だった。生きとし生けるもの、何より私自身だったかもしれない。

 手記を海中に投げ捨て現実に驀進していった透は失明し、本多は、スキャンダルによって、財産以外築いてきたすべてを失った。だが、それでも、とうよりそれこそが、救済だったのではないか。

 長く粗雑な心境報告を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年8月14日土曜日

三島由紀夫『天人五衰』__猫と鼠__安永透と三島由紀夫の運命

  『天人五衰』というウエルダン・ストーリーにからめとられて、相変わらず書けないままである。そうすると、いつもの妄想癖が頭をもちあげて、あれこれ支離滅裂な想念が頭の中をかけめぐり、安永透の運命は三島由紀夫のそれと一致する、あるいは一致する予定だったのではないか、という独断と偏見を書いてみたくなってしまう。以下は合格点を貰う確率ゼロの読書感想文である。

 小説のちょうど真ん中あたりに、「猫と鼠」のエピソードが出てくる。本多に養子に迎えられた安永透が二年遅れの高校受験をする。そのために雇われた国語の家庭教師の古澤という東大生が、猫に喰われそうになった鼠が自殺する話を透に聞かせる。鼠は、たんに猫に追い詰められて死ぬのではない。シンプルに見えて、けっこう複雑な話なのだ。

 鼠は自分を猫だと信じていた。本質を点検してみて、自分は猫にちがいない、と確信するようになって、同類の鼠を見る目もちがってきた。あらゆる鼠は自分の餌にすぎないが、自分が猫だということを見破られないために、ほかの鼠を食わずにいるだけだと信じた。「自分の鼠という肉体」は、「猫という観念」が被った仮装だと考えた。鼠は思想を信じ、肉体を信じなかった。

 その鼠が本物の猫に出会って、「お前を喰べる」と宣言される。鼠はそれはできない、と言う。自分は猫だから、猫が猫を喰べることはできないはずだ、と。そうして、それを証明するために、鼠は洗剤の泡立つ洗濯盥のなかに身を投げて、自殺してしまう。洗剤に浸かった鼠は「喰へたものぢゃない」ので、猫は立ち去る。

 古澤という東大生は、この鼠の自殺が「自己正当化」の行動であり、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ちていた」と評価する。鼠は、肉体的にはあらゆる点で鼠であるが、「猫に喰われないで死んだこと」、「『とても喰えたものぢゃない』存在に仕立て上げたこと」の二点で「自分を「鼠ではなかった」と証明することができる。「鼠ではなかった」以上、「猫だった」と証明することはずっと容易になる。鼠の形をしているものが鼠でなかったなら、他の何者でもありうるから、というのが古澤の説明である。

 鼠の自殺は成功し、その自己正当化は成し遂げられたが、鼠の死は世界を変えただろうか、と古澤はさらに話し続ける。古澤はもはや透に聞かせるためではなく、自己の内部に沈潜していく。

 鼠の死は猫に何ももたらさなかった。猫は死んだ鼠をすぐに忘れて、眠ってしまった。彼は猫であることに充ち足り、そのことを意識さえしなかった。そして猫は、怠惰な昼寝のなかで、鼠が熱烈に夢みた他者にらくらくとなり、また何でもありえた。安楽で美しい世界に猫の香気と寝息がひろがった。

 語り続ける古澤に透は「権力のことを言ってゐるんですね」相槌を打つ。「そこですべては青年ごのみの悲しい政治的暗喩に終わってしまった」と三島は書くのだが、ここには「青年ごのみの悲しい政治的暗喩」とかたづけられないものがあると思う。決して看過できないものが二点ある。

 ひとつは、作者三島の世界認識がきわめて直截な形で述べられているということである。すなわち、権力の支配構造は「喰うか、喰われるか」ではなくて、「喰うか、喰われないか」なのだ。猫は鼠を、いつでも、任意に「喰う」が、鼠はそれを逃れるために猫を「喰う」ことはできない。「喰われない」ためには「勇敢で賢明で自尊心に充ちた」死を遂げるしかない。支配者と被支配者の関係は、美しいまでに粛然と分かたれている。猫はこの世の逸楽を十分に貪ることができるが、鼠は「勇敢で賢明で自尊心に充ち」て死んだら、もはや何者でもないのだ。

 もうひとつは、「自尊心に充ちた鼠の死」というモチーフは、いうまでもなく、作品終末の安永透の死(未遂だが)を予告するものだが、同時に作者三島の死の予告でもある、ということである。安永透はほとんど三島由紀夫である。『天人五衰』の冒頭数頁、三島は十六歳の安永透に憑依して、倍率三十倍の望遠鏡から駿河湾を覗いている。

 安永透は、水平線の向こうから姿を現す船を認識し、船と交信する。航行する船の状況を港に連絡する「通信員」である。三島由紀夫は、地球上に無数に生起する「出来事」を切り取って「書く」ことによって、読者に提示する「作家」である。「通信員」と「作家」が微妙に重なり合う機微を暗示すると思われる部分があるので、以下に引用してみたい。

 六時。
 すでに大忠丸の船影は、そこを出てゆく興玉丸とすれちがふ形で、薔薇色の沖に模糊として泛んでゐる。それはいはば夢の中からにじみ出てくる日常の影、観念の中からにじみ出てくる現實、……詩が實體化され、心象が客體化される異様な瞬間だった。無意味とも見え、又凶兆とも見えるものが、何かの加減で一旦心に宿ると、心がそれにとらはれて、是が非でもこの世にそれを齎らさずにはおかぬ緊迫した力が生まれ、つひにはそれが存在することになるとすれば、大忠丸は透の心から生まれたものだったかもしれない。はじめ羽毛の一觸のやうに心をかすめた影は、四千噸に垂んとする巨船になった。それはしかし、世界のどこかでたえず起こってゐることだった。

 非常に難解な文脈が続く。いちいちの詳しい解釈は省くが、ここに語られているのは創作の秘儀である。

 さて、透は「暗赤色の巨きな海老のやうな魂の蠢めきを、人には見えない深部に隠している」「鐡道員の倅の貧しい秀才」古澤を周到に遠ざけ、「純粋な悪」のヒーローとして本領を発揮していく。注目すべきはその透の「内面は能ふかぎり本多に似てゐた」と書かれていることである。

 十六歳の透が仕事をしている「帝国通信所」を訪れた本多は、一目見て、透が自分と寸分違わぬ内部機構の持ち主であることを見抜いた。それは「無限に生産し、しかも消費者が見當らぬままに、無限に廃棄する」「磨き上げられた荒涼とした無人の工場」だった。その後透の脇腹に輪廻転生のしるしである「三つの黒子」を認めた本多は、即座に彼を養子に迎えることを決意する。そうして、本多は、清顕、勲、ジン・ジャンの夭折の美しさにこの上ない憧憬をよせながら

 「……詩もなく、至福もなしに!これがもっとも大切だ。生きることの秘訣はそこにしかないことを俺は知ってゐる。
 時間を止めても輪廻が待ってゐる。それをも俺はすでに知ってゐる。
 透には、俺と同様に、決してあんな空怖ろしい詩も至福もゆるしてはいけない。これがあの少年に對する俺の教育方針だ」

と考えるのである。だが、これは、本多と透というクローン父子にとって、矛盾以外の何物でもないはずだ。輪廻転生のしるしである「三つの黒子」という「特権」をみとめたからこそ、透を養子にしたのに、その「特権」を享受する「詩と至福」という「運命」は拒否する、そんな都合のよい成り行きはありえない。

 二十歳を目前にした十二月の二十日、透は本多の友人久松慶子に一足早いクリスマスの晩餐に招かれる。孔雀と波を意匠したビーズ刺繍のソワレを着て迎えた慶子は、完膚なきまでに透の自尊心を打ち砕く。

 まず透に驚愕を与えたのは、透が自らひそかな誇りの根拠としていた左脇腹の三つの黒子の存在を慶子が知っていたことである。そればかりか、その黒子のために透は本多家の養子に望まれたのだ、と慶子は言う。黒子をもった者は二十歳で自然に殺される「運命」にあるので、本多は黒子をもった透を養子にして、彼の「神の子」の自負を打ち砕き、凡庸な青年に叩き直すことで、何としても救おうとしたのだ、と。

 桃山風の燦然とした客間の一角にしつらえた暖炉の火が消長する傍らで、透は慶子の語る輪廻転生の永い物語を聞く。聞き終えた透に、慶子はさらに決定的な一撃を与える。透は、これまで話してきた輪廻転生の物語に何の関係もない「贋物」だというのだ。慶子はいう。

 「私や本多さんを殺すことなんかあなたにはできませんよ。あなたの悪はいつも合法的な悪なんですから。観念の生み出す妄想にいい気になって、運命を持つ資格もないのに運命の持主を気取り、この世の果てを見透かしてゐるつもりでつひぞ水平線の彼方から誘ひは受けず、光にも啓示にも縁がなく、あなたの本当の魂は肉にも心にも見當らない。」

 透を「育英資金財圑向きの模範生」と貶め、己惚れた「認識屋」を自分たちのようなもっとすれっからしの同業者が、三十倍の望遠鏡の圓からひっぱりだしたのだ、と止めを刺す慶子の前に透は凍りついたままだった。

 この後、透は本多に乞うて清顕の夢日記を借り、その一週間後にメタノールを飲んで自殺を企る。それが、「鼠の自己正当化の自殺」と同じものなのか、じつはいまの私にはわからない。もうひとつわからないことがあって、養父を貶め、窮地に追いやったからといって、透は、何故ここまで厳しい糾弾の言葉を浴びせられなければならなかったのか。透のしたことは、婚約者の百子を陥れたことも含めて、「合法的な悪」というほどの大げさなものでもなく、ちっぽけな、それこそ「凡庸な青年」の悪である。

 暖炉の焔に照らされて、慶子が繰り出す糾弾の言葉ははたして、目前の透に対してだけ向けられたものだったのか。上述したように、安永透≒三島由紀夫、という独断と偏見に立てば、これは一言一句万金の重みをもつ自己批判の言葉である。作品の中でここまで言い得ている作家が、はたして、その後行動するだろうか。いや、「猫と鼠」の寓話を通して、これほどまでに透徹した権力の支配構造を提示する作家が、「自己正当化」の死を為すだろうか。肉体は思想を裏切って、鼠は自殺したら、猫になるどころか、何者でもなくなってしまうのだから。

 以上で私の支離滅裂な読書感想文は終わるのだが、最後に蛇足をひとつ。『天人五衰』という作品中で、天人に擬せられているのは絹江である。いつも髪に花を飾り、透のもとに訪れては、その髪に花を挿す。作中本多が紹介する「天人五衰」の衰兆の第一に「一に華冠自ら萎み」とあるのを思い出したい。失明した透は絹江のなすがままに豊かな黒髪に紅い葵を飾らせている。絹江ももちろんいっぱいの白い葵を飾っている。「天稟」ともいえる醜さをみずからの自意識ひとつをたよりに逆転させ、絶世の美女と化した絹江こそ、天人だったのだ。

 「豊饒の海」は「荒涼の沙漠」ではなかったのか。

 そうして、再び、「三島由紀夫」とは何者なのか。

 三島については、まだ言い足りないような、もうこれでいいような、複雑な思いをかみしめています。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年7月3日土曜日

三島由紀夫『天人五衰』__衝撃のラストの一考察__ある雪の日のエピソードの謎

 『天人五衰』をめぐって、いうべきことはたくさんあるような気がする。でも。それは、「『天人五衰』をめぐって」であって、「『天人五衰』について」とはならないのである。作品論、というほど大袈裟なものを書くつもりもないのだが、いまの段階では、私の関心がどうしても作品そのものに集中してこないのだ。能力がない、といえばそれまでだが。

 集中力を妨げている一番大きな原因は、そもそも『豊饒の海』の作者は誰なのだろう、という疑問である。突拍子もないことを、といわれるかもしれない。より正確にいえば、『豊饒の海』一、二巻『春の雪』と『奔馬』を書いた人物と三、四巻『暁の寺』と『天人五衰』の間には完全な断絶があって、一貫した構想のもとに執筆されたとは思えないということである。文体に差異はないようにも見えるが、はたして、これは同一の作者の手になるものだろうか、という疑念が消えないのだ。

 断絶があるように見えるもっとも大きな理由は、本多の人物像の設定の突然の変化である。『春の雪』では主人公清顕の親友として、『奔馬』では同じく勲の弁護士として、現実世界_「歴史」といってもよいかもしれない_に積極的に関わる姿勢をとっていた本多が、『暁の寺』以降徹底して「認識者」として世界の外に立つ人間として描かれ、静かに悪を為す「支配者」になるのだ。そして、「認識」を論理的に説明するために仏教の唯識の理論がもちだされる。

 しかし、百歩譲って、『豊饒の海』前半と後半の作者が同一人物であるとしても、根本的には、「三島由紀夫」とは何者か、という疑問がある。私は、「三島由紀夫」が1970・11・25に自衛隊の市ヶ谷のバルコニーで檄文(文豪三島が書いたとは思えない文章である)を撒いたのち割腹自殺した、とされる人物であるという事実を受け入れることが、どうしてもできない。三島があのようなかたちでみずからの生を閉じる覚悟で『豊饒の海』全四巻を構想し、書き上げたのだとは思えない。そんな気配はどこにもない。憎らしいほど手練れの書き手が、最後まで手綱を緩めずに仕上げた極上の作品、というか読み物であると思われる。

 多くの人が『天人五衰』の最後を、三島その人の最期と関連づけて解釈している。だが、

「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。」

 この文脈のどこに、死へ向かうベクトルがあるというのか。

 六十年の時を経て、本多は聡子に会う。そして、彼女から、自分は清顕も本多も知らない、と言われる。断固とした聡子の拒絶の言葉に、本多は自分自身の存在の足元までも揺るがせてしまう。この結末は「衝撃のラスト」といわれ、多くの人が問題にしているが、私もささやかな考察を試みてみたい。たんなる思いつきにすぎないかもしれないが、作品全体にあふれる謎を解く手がかりのひとつになる可能性に賭けてみたいのだ。

 死を意識せざるを得ない体の不調に苛まれながら、むしろそのことに鼓舞されて、本多は月修寺を訪れる。門跡となった聡子は、「むかしにかはらぬ秀麗な形のよい鼻と、美しい大きな目を保ってをられる。むかしの聡子とこれほどちがってゐて、しかも一目で聡子とわかるのである」と書かれる。その彼女がまったく感情の動揺を見せずに、本多の話す長い物語を聞いて、清顕の存在さえも否定するかのように言う。

「そんなお方は、もともとあらしやらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやって、實ははじめから、どこにもをられなんだ、といふことではありませんか?」

 『春の雪』から長く紡がれてきた物語をすべて否定する聡子の言葉は、あまりに唐突、理不尽で、本多だけでなく、ほとんどすべての読者を作品世界の外に投げ出してしまう。私たちははたして、本多の「映る筈もない遠すぎる」「幻の眼鏡のやうな」記憶につきあって、幻想の世界を旅してきたのだろうか。

 聡子の言葉を字義通りに受け止めれば、彼女は記憶を完全に失った状態になってしまったか、あるいは、完璧な嘘つきである、ということになる。日常現実の感覚での理解はそれ以外にあり得ない。そうして、本多と同じく「何もない」時空に投げ出されてしまう。だが、ここに、作者の仕掛けた巧妙な、巧妙すぎる罠があるように思う。

 そもそも本多は何故、聡子に会うことを決意したのだろう。たんに久闊を舒する気持ちだけではなかっただろう。かつて松枝邸の焼け跡で会った蓼科に指摘されたように、本多自身の聡子への想いが彼を駆り立てたのだ。六十年前の清顕と同じように、病にむしばまれ、絶え間ない痛みに襲われながら、死を賭して、というよりむしろ、死への試練をみずからに課すかのように、本多は月修寺への道を歩む。盛夏七月二十二日の午後、門前で車を降りてから、山門までの道のりを杖をたよりによろぼいながら進む本多の姿は、死出の旅路を行く巡礼のようである。最後は一羽の白い蝶に導かれて、本多は山門に着く。

 ここはすでに幽明を異にする場所であるかのようだ。

 かなりの時が過ぎて、本多の前に現れた聡子は「老いが衰への方向へではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が静かに照るやうで、目の美しさもいよいよ澄み、蒼古なほど内に耀ふものがあって、全體に、みごとな玉のやうな老いが結晶してゐた。」と描写される。ここまで理想化された美を体現する聡子は、何か、この世に存在する老女ではなく、みやびやかな仏像をイメージして描かれているように思われる。

 「その松枝清顕さんといふ方は、どういふお人やした?」と繰り返す「門跡の顔には、いささかの衒ひも韜晦もなく、むしろ童女のやうなあどけない好奇心さへ窺はれて、静かな微笑が底に絶え間なく流れてゐた。」とあるのも、もはや聡子は、本多の語る物語の世界、そして本多の存在そのものと距離を隔てた位置にあることを示唆している。清顕が、勲が、ジン・ジャンが、そして本多がいる世界と、聡子の世界は次元が違うのだ。彼女の言葉でいえば「それも心々」なのである。聡子の「心」に清顕はいない。

 本多の語る物語を読んできた私たち読者にとって、聡子の言葉は詭弁である。だが、本多より高次の語り手はいうまでもなく作者であって、詭弁であっても、読者は、そのように語られたら、そのように読まなければならない。権力をもっているのは作者である。

 余談ながら『天人五衰』という小説の中で、権力はつねに「女」がもっている。聡子の完璧な否定の前に本多はなすすべもなかった。いや、聡子だけではない。安永透を完膚なきまでに打ちのめしたのは、孔雀明王のモチーフをまとって現れた久松慶子だった。盲目の透を花婿にしたのは「天稟」ともいえる醜さを逆転させ、世界を支配下に置いた絹江だった。

 三島由紀夫に限らず、作家は、フィクションであれノンフィクションであれ、言葉によって読者を支配する特権をもっている。とくに、三島由紀夫は悪魔的ともいえるほど卓越した言葉の使い手である。言葉の牢獄に閉じ込められていたのが三島だったともいえるのかもしれないが。読者の側は彼の繰り出す言葉に魅了され、支配されることの特権に身をゆだね、いまどき荒唐無稽な輪廻転生譚などという論証の彼方の夢物語を追いかけてきたのだ。最後にきて、それはおかしいなどと異をとなえることは許されない。これは作者の仕掛けた罠である。

 以上で私のつたない一文を終わりにしようと思うのだが、最後に、ひとつだけ、この「衝撃のラスト」読解のヒントになるかもしれないエピソードを取り上げてみたい。作品の中ほどに、「本多透の手記」というタイトルの文章がかなりの分量を占めている。許婚となった百子を「絹江のやうな、全世界を相手に闘ふ女」にしてやるために、透がとった行動の記録である。その中に、突然、本筋と関係があるとは思えないエピソードが出てくる。

 ある雪の土曜日の午後、本多は不在である、透が所在ないままに、家の階段の踊り場の窓から雪を眺めている。すると、家の前の私道に一人の老人が傘もささずに現れる。極端に痩せて、黒いベレエ帽をかぶり、灰色の外套を着ていて、腰のあたりが不自然にふくらんでいる。老人が門の前で立ち止まると、そのふくらみが急に削ぎ落され、雪の上にビニールに包まれた野菜や果物の切り屑が落される。

 老人はその後立ち去るが、非常に小刻みな歩幅で数歩歩いた後、今度は外套の背から何か黒いものが雪の上に落ちる。最初、透はそれを鴉か九官鳥か、鳥の屍だと思った。落ちた翼が雪を摶つような音が聞こえた気がした。何の鳥か確かめようとしたが、ふりしきる雪と庭木に遮られ、「何か壓倒的な億劫さに制せられて」確かめられなかった。そのうち、「あまり永く見詰めてゐるうちに」それは女の鬘のようにも思われだしたのである。

 雪に映えて「胸のむかつくやうな蘇りをもたらす」と形容される野菜屑と女の鬘、これはあきらかに聡子の出家に関する記号だと思われるが、これについて語ることはいまの私にはまだ力不足である。ただ、ラストへの何らかの伏線だと思う。「鬘」は『暁の寺』に登場する蓼科も被っていたのだが。

 「記憶もなければ、何もないところへ」来てしまったのは、「本多」であって、三島由紀夫ではない。「そのように語る」特権を三島由紀夫はもっている。その三島が、おのれの腹に刃を突き立てた、などという「事実」は、私にはどうしても受け入れられないのだ。

 ずいぶん長く時間がかかったのに、相変わらず、論理の展開が錯綜していて、未整理な文章です。今日も、最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年5月27日木曜日

三島由紀夫『天人五衰』_近代的自我の崩壊とその先にあるもの_安永透の至福

 三島文学の総決算ともいうべきこの作品を前にして、いつまでも立ち止まっている。格調高く、象徴的で謎と寓意に満ちた文章は、あまりにも完璧で、つけいる隙がない。語られている内容は、十六歳の自尊心の強い少年が、金持ちの弁護士の養子となるが、最後に、自らのプライドを保つために自殺を計り、失明する、というそんなに珍しくもないストーリーである。実話小説風プロットの展開と、緊張感漂う文章との落差が大きいのだが、その落差が不自然に見えないのも不思議だ。

 『豊穣の海』最終巻『天人五衰』は昭和四十五年五月二日の駿河湾の描写から始まる。

 「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる。それでも沖はきのふよりも澄み、伊豆半島の山々の稜線も辿られる。五月の海はなめらかである。日は強く、雲はかすか、空は青い。」

これ以降、刻々と様相を変える海と空が、時間の推移とともに具体的かつ象徴的に叙述される。海と太陽と雲と船を描写しながら、存在と生起にについて語る冒頭数ページは『豊饒の海』の主題のすべてが含まれている、といってよいと思われるのだが、これを見ているのは作者三島ではない。本編の主人公安永透が、倍率三十倍の望遠鏡を覗いているのである。だから、

 「三羽の鳥が空の高みを、ずっと近づき合ったかと思ふと、また不規則に隔たって飛んでゆく。その接近と離隔には、なにがしかの神秘がある。相手の羽風を感じるほどに近づきながら、又、その一羽だけついと遠ざかるときの青い距離は、何を意味するのか。三羽の鳥がさうするやうに、われわれの心の中に時たま現れる似たやうな三つの思念も?」

 「沖に一瞬、一箇所だけ、白い翼のやうに白波が躍り上がって消える。あれは何の意味があるのだらう。崇高な氣まぐれでなければ、きわめて重要な合圖でなければならないもの。そのどちらでもないといふことがありうるだらうか?」

 「一つの存在。船でなくともよい。いつ現れたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさへ存在の鐘を打ち鳴らすに足りる。

午後三時半。駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だった。」

という箇所の三羽の鳥と白波と夏蜜柑を見たのは透だったのだ。

 安永透は十六歳。貨物船の船長をしていた父が海で死に、その後間もなく母が死んで、孤児となった。伯父のもとにひきとられた後、中学を卒業して働いている。清水港に入港してくる船を確認して、関係機関に連絡する仕事である。望遠鏡を覗くことが透の仕事だった。その透にとって、「見る」ことは、たんに存在するものを「認識する」ことではなかった。

 「見ることは存在を乗り超え、鳥のやうに、見ることが翼になって、誰も見たことのない領域へまで透を連れてゆく筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海といふものがある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現はれないことの確実な領域、そこは又確実に濃藍で、物象も認識もともどもに、酢酸に涵された酸化鉛のやうに溶解して、もはや見ることが認識の足枷を脱して、それ自體で透明になる領域がきっとある筈だ。」

 五月の駿河湾に、翼のように躍り上がって消えた白波と、波間にふと現れてみるみる東のほうへ遠ざかった一顆の夏蜜柑の向こうに、透は何を見ただろうか。

 翌朝勤務に就いていた透は、日の出前の美しい空を眺める。朝ぼらけの雲が山脈の連なりのように見える。その上に薔薇いろの横雲が流れ、下には薄鼠色の雲が海のように堆積して、山裾には人家の点在まで想像される。

 「そこに薔薇いろに花ひらいた幻の国土の出現を透は見た。あそこから自分は来たのだ、と透は思った。夜明けの空がたまたま垣間見せるあの国から。」

だが、薔薇いろの国土は太陽の出現を前に消える。日の出の時刻を少し過ぎて「洋紅色の、夕日のやうなメランコリックな」太陽が現れる。

 「雲の御簾ごしのその太陽は、上下を隠されて、あたかも光る唇のやうな形をしていた。洋紅の口紅を刷いた薄い皮肉な唇の冷笑が、しばらく雲間に泛んだ。唇はますますほのかになり、あるかなきかの冷笑を残して消えた。」

 透が見た「薔薇いろの幻の国土」と「御簾越しの唇の冷笑」とは何か。

 一方、本編のもう一人の主人公本多繁邦は七十六歳になっている。妻を亡くしてから一人旅に出ることが多く、日本平から三保の松原を見物した際に、海辺を逍遥して、透の仕事場の建物に目を惹かれる。そして、透が船を見張っている頃、帰宅した本多は本郷の自宅で夢を見ていた。透は決して夢を見ないが、本多はよく夢をみるのである。

 三保の松原の空に、何人もの天人が群れを成して飛んでいる。手をとりあうだけで、お互いに心に想い合うだけ、見つめ合うだけ、語り合うだけで情を遂げることができるという天人たちの交会の集いのようである。たえず白い曼陀羅華が降る中、波打ち際近くまで舞い下りてまた舞い上がる天人たちの顔に、清顕や、勲、ジン・ジャンの面影もある。とめどもない遊行の流動がしまいにはうるさく感じられ、本多の自意識を呼び覚ます。クラクションの音に脅えた屈辱の公園の覗き見を思い出したのだ。本多は夢を削ぎ落して目をさました。

 「自分はいつも見ている。もっとも神聖なものも、もっとも汚穢なものも、同じやうに。見ることがすべてを同じにしてしまふ。同じことだ。……はじめからをはりまで同じことだ。」

 梅雨が始まった。本多は女友だちの久松慶子を伴って、再び三保の松原を訪れる。本多は、錦蛇のブラウスにパンタロンといういでたちの奔放な慶子にふりまわされしまうが、最後に、前回興味を覚えた透の仕事場に立ち寄る。そこで偶然、透の左脇腹に三つの黒子があるのを見つけてしまう。本多は躊躇なく透を養子にすることを決意し、タクシーの中で慶子にそれを告げる。その後、宿泊先のホテルで、清顕から始まる輪廻転生のいきさつを慶子に話した後、本多はまたしても夢を見る。いままで一度も見なかった試験の夢だった。

 本多は、清顕が背後の席にいると意識しながら、落ち着いて試験に臨んでいた。焦燥感は全くなかった。彼は目を覚ましてから、誰がこんな夢を見させたのだろう、と考え、誰かが自分を見張っていて、何事かを強いていると思った。

 「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なものが、この闇の奥のどこかにゐるのだ。」

 透を養子にしようとするのは、はたして本多の主体的意志そのものだったのか。

 夏になった。八月十日の朝、透の仕事場に絹江という狂女が訪れる。絹江はいつも花を髪に挿して来たが、その容貌は「萬人が見て感じる醜さ」で「その醜さは一つの天稟」だった。そして「たえず自分の美しさを嘆いてゐた」のだった。

 狂気の原因は、失恋によるもので、失恋の相手が彼女の醜さを嘲ったのである。絹江は半年間精神病院に入っていて、退院してからは、自分が絶世の美人と決めて落ち着いた。狂気によって、自分を苦しめていた鏡を破壊し、この世の現実の見たいものだけを見、見たくないものは見ないという放れ業をやってのけたのである。彼女は、あらたに造り出した自意識を作動させ、誰も犯すことのできない「金剛不壊」の世界を築いたのだ。

 美しさ故の不安や脅えを口実に透の仕事場を訪れていた絹江だったが、今回は「透が狙われている」という。透のことをあれこれ尋ねる男が絹江の前に現れたのは今回で二度目だった。絹江と透の中が疑われていて、透を抹殺しようとしている。おそろしい力のある大金持ちの蝦蟇のやうに醜い男が狙っているのだという絹江の話をひきとって、透はそれを論理化し、補強してやる。

 自分たち純粋で美しい者を滅ぼそうと狙っている強力な存在がある。それに打ち勝つには、相手方の差し出す踏絵を踏まなければならない。服従したふりをして油断させ、相手の弱点を突き、反撃する。そのためには堅固な自尊心を保たなければならない。

 本多が「おそろしい力のある大金持ちで蝦蟇のやうに醜い男」かどうかは別として、物語の後半、透はたしかに「無抵抗に服従するふりをして、何でもいいなりになってやる」「甘い男」を演じ切ることになる。はたして、その結果絹江のいうように「あなたと私とが手をつなげば、人間のあらゆる醜い欲望を根絶し、うまく行けば全人類をすっかり晒して漂白してしまへる」ことになっただろうか。

 絹江が帰った後、透は望遠鏡で波打ち際の海を眺める。複雑、微妙に変身して砕ける波の様子を追っていたレンズが天頂へ、水平線へ、ひろい海面へ向けられた時、一瞬、一滴の波しぶきが上がる。天にも届かんばかりの「至高の断片」。何を意味するのだろうか。

 夕方五時。透は再びレンズを波打ち際に向け直す。そのとき、砕ける波に死のあらわな具現を見ていた透の望遠鏡は「見るべからざるもの」を見たのである。顎をひらいて苦しむ波の口の裡に透が見たもの、それは海中の微生物が描いた模様のようなもの、あるいは波の腹に巻き込まれながら躍っていた幾多の海綿であったかもしれない。だが、波の口腔の暗い奥に閃光が走り、別の世界が開顕されて、透はそれを、確かに一度見た場所だと思ったのである。

 透は時間を異にする世界を見たのだろうか。

 八月下旬、透は残暑の夕景を見ている。本多の養子になることが決まって、仕事場で見る最後の夏である。美しい空だった。遠近法を以って沖に連なる横雲の向こうに、白く輝く積乱雲が神のように佇んでいた。だが、その横雲が、遠近法でだんだん低くなっているのではなく、白い埴輪の兵士の群が並んでいるように見えてきて、気がつくと、積乱雲の色は健やかさを失い、神の顔は灰色の死相になった。

 『天人五衰』の象徴詩のような前半は、ここで終わる。「凍ったやうに青白い美しい顔」で「心は冷たく、愛もなく、涙もなかった」と造型される透の幸福は、存在の極限まで「見る」ことだった。「自意識」によって自分のすべてが統御されていると考えている透にとって、「見る」こと以上の自己放棄はなかったのである。透が、五月から八月へかけて、駿河湾の海と空と船の向こうに見たもの、あるいは見させられたものは何だったのか。

 夢を見ない透が見たもの、それは未生の過去に経験した出来事を示唆するものであり、また、自分の半身が属していると信じる「濃藍の領域」が告げる運命だったのではないだろうか。試験の夢から覚めた本多が覚えた感覚_「夢の中で自分を強ひるもの、超歴史的な、あるひは無歴史的なもの」が本多を動かしたかもしれないように、存在の向こうの「濃藍の領域」が透に働きかけていた、と言ってもよいのではないだろうか。それは、みずからのすべてが完全に自意識の支配下にあると考える透の論理を破綻させるものだが。

 世界を認識の「対象」として「認識」し、自分を世界と別個の存在として「自意識」の絶対性を確保することが近代的自我の確立であるとするなら、安永透は近代的自我を極限まで拡張させた人間として登場する。狂女の絹江は透の鏡像である。透は現実そのものの中に自我を拡張させようとしたが、絹江は現実の方を変えて透よりさらに堅牢な自我の城を築いたのだ。そして、透の自我は崩壊し、絹江の自我はすべてを手に入れたのである。

 失明した透は「見る」ことから解放され、堅牢な自我の王国の女王となった絹江の花婿となる。文字通り絹江の飾り立てる花を髪に挿して。萎えた花が散乱する室内に、やがて次の生命も誕生するという。着たきりの浴衣に垢と膩と体臭を漂わせ、頭上の華も萎れて、五衰の天人の様相を呈しながら、透は黙って座っている。

 こんなに時間が経ったのに、結局あらすじをなぞることしかできませんでした。もう少し小説的な興味を覚える後半についても書きたいと思っています。透の家庭教師の青年が語る「猫と鼠」のたとえ話と、透を自殺に追いやる久松慶子という「錦蛇のパンタロン」の女性の役割を考えてみたいと思っています。まだ時間がかかるかもしれませんが。

 今日も大変不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

 

2021年3月19日金曜日

三司馬由紀夫『暁の寺』__認識、破壊、そして燔祭(2)__本多繁邦の欲望と孔雀明王

  昭和二十年六月、本多は、渋谷松濤の依頼人の邸宅に招かれる。渋谷近辺の光景は、一週間前、二日にわたり延べ五百機のB29が東京を焼いて、「その高臺の裾から驛までの間は、ところどころに焼きビルをした殘した新鮮な焼址で」と描写される。人間の生の営みが完膚なきまでに破壊され、蹂躙された有様が、正確な筆致で過不足なく記述されるが、看過ごせないのは、その後

___これこそは今正に、本多の五感に譽へられた世界だった。戦争中、十分な貯へにたよって、気に入った仕事しか引き受けず、もっぱら餘暇を充ててきた輪廻轉生の研究が、このとき本多の心には、正にこうした焼址を顯現させるために企てられたように思ひなされた。破壊者は彼自身だったのだ。

と書かれていることである。

 この焼け爛れた末期的な世界は、それ自体終わりでもなく、はじまりでもない。世界は一瞬一瞬平然と更新されていく。本多は唯識の阿頼耶識の法則が全身に滲み透るのを感じて「身もをののくやうなを涼しさに酔った」のである。

 この後、用を済ませた本多は足を延ばして、旧松枝邸を訪れる。かつて十四萬坪あった敷地は細分化され、千坪ばかりになってしまったが、いままた茫々たる焼址になって、昔の規模を取り戻している。そこで本多は『春の雪』の影の主人公ともいうべき蓼科に邂逅する。蓼科は九十五歳になっている!

 『春の雪』の悲劇をよくできた人形浄瑠璃と見立てることができるとすれば、聡子と清顕の美しい人形を操っていたのは、蓼科である。綾倉伯爵への蓼科の思い、情念が二人を完璧な破滅に導いたのだ。破滅ではなく、輪廻のはじまりであり、今生の完成かもしれないが。あるいは、イノセントな二人に罪を教え、楽園追放にみちびく蛇の役割を果たしたのが蓼科だったかもしれない。この焼址に登場する蓼科は、あきらかに蛇のメタファーとして描かれているように思われる。

 本多は依頼人から土産にもらった鶏と卵を二つ蓼科に与える。いったんしまった卵を一つ取り出して、その場で割って呑みこむ蓼科のしぐさが、逐一描写されるが、それがまさに「蛇が卵を呑む」様子なのである。

 蓼科は本多に礼として「大金色孔雀明王經」という本をくれる。これを身につけていれば、さまざまな難を免がれることができるという。もともとは、蛇毒を防ぎ、蛇に咬まれても癒す呪文を釈迦が説いたということだが、蛇毒だけでなく、一切の熱病、外傷、痛苦を除く効験があるとされる密教の経典である。讀誦する場合はもちろんだが、「孔雀明王」を心にうかべるだけでも効験があるとされる。

 だが、この「孔雀明王」という優美な女神の原型は、かつて本多が訪れたカルカッタのカリガート寺院で見た「赤い舌を垂れ、生首の頸飾りをしたカリー女神」__殺戮と破壊をもたらし、たえざる犠牲を要求する大地母神なのだ。そしてまた、明王を背に乗せる孔雀は、毒虫や毒蛇を攻撃する鋭い蹴爪をもつ鳥である。蛇のメタファーとして登場する蓼科が、孔雀明王経を身につけているというのは逆説である。

 家に帰った本多が「孔雀明王經」を繙くと、そこに描かれた明王像は優美でやさしく、無限に人々を厄災から救うかのようにまどろんでいる。明王を背に乗せる孔雀もまた金、銀、紺、紫、茶の暗鬱な五彩に彩られて、その羽根尾を燦然と展いていた。だが、本多は、蓼科と会った焼址の夕焼けの空には、きっと緋色の孔雀が、緋色の孔雀明王すなわち殺戮と破壊を司るカリー女神を背に乗せて、顕れていたのだ、と思ったのである。

 孔雀明王はそれから七年後本多の夢の中に再び登場する。昭和二七年は血のメーデー事件が起こり、暴力革命前夜のような騒乱が続いたが、本多は再会した月光姫(ジン・ジャン)に溺れていた。妻の梨枝は夫の恋に気づき嫉妬するが、本多はジン・ジャンと直接の交渉をもったわけではない。彼女を手に入れようと奇怪、卑劣な策を弄するが、失敗する。ジン・ジャンは本多にとって、再び不在の人となった。

 夢の中で本多は、いまは消え失せてしまったような住宅街をさまよって、朽ちかけた枝折戸の向こうの古風なホテルの前庭に入っていく。ひろい前庭では立宴がひらかれている。突然喇叭の調べが起こると、足下の地が割れ、金色の衣裳の月光姫が、金色の孔雀の翼に乗ってあらわれる。孔雀は喝采する人々の頭上をを飛びめぐり、そうしているうちに月光姫は人々の頭上に放尿する。本多は姫のために厠を探しにホテルの中に入ったが、外の喧騒にひきかえて、中は人気がない。どの部屋も鍵がかかっていなくて、ベッドの上に棺が載せてある。あれがお前の探している厠だという声をどこかで聞きながら、本多は尿意をこらえかねる。棺の中にしようと思いながら、神聖を犯す怖ろしさにできなかった。

 何だかかの有名な『家畜人ヤプー』の一場面のようだが、ここにはまぎれもなく全体を覆う死のイメージがある。棺のなかには、すでに死者が納められているのだろうか、それとも、いま立宴で姫に喝采している人々が納められることになるのだろうか。地を割って出現した孔雀明王の化身が、小水を驟雨と降らせるというのは、何のメタファーなのか。

 そして、この夢からさめた本多は「誰憚るもののない喜びの、輝かしい無垢が横溢していた」というこの上ない幸福感に包まれる。

 空翔る孔雀明王の化身の姿を、本多は神話と共感の全き融和の裡にとらへてゐた。ジン・ジャンは彼のものだった。

と書かれるのだが、孔雀明王は無限の救いをもたらすのか。それとも、破壊と殺戮だろうか。あるいは破壊と殺戮の果ての無限の救い?本多の裡にあるのは、まったき自己の消滅、すなわちまったき世界の消滅であり、彼の欲望を成就させる孔雀明王こそジン・ジャンだったのだ。

 さて、清顕の、また勲の転生のしるしである左脇腹の三つの黒子はどうなったのか。別荘のプール開きの日、盛大に行われた祝宴の最中、本多は水着姿のジン・ジャンに何の印もないことを確認する。ところが、深夜再び本多が書斎に穿った覗き穴から覗くと、そこに繰りひろげられていたのは、別荘の隣人久松慶子とジン・ジャンが濃密に愛をかわしあう姿だった。そして、このときジン・ジャンの左脇腹には、はっきりと転生のしるしがみとめられたのである。

 三つの黒子は本当に存在するのか?現実に存在しない黒子が、本多の目には、久松慶子とむつみあうジン・ジャンにみとめられた、ということなのか?それとも、愛の行為の最中にだけ黒子は出現するのだろうか。

 三島が提示する「恋と認識と不在または不可能の方程式」を解くことは私の手に負えるものではない。輪廻転生と恋のそれも同様である。だが、妻の梨枝と二人して覗き穴からジン・ジャンジャンの裸体を見て、「本多が実體を発見したところに、梨枝は虚妄を発見していたゐたのである」と書かれて、すべては終わる。

 だから、この後、ジン・ジャンの裸体を見るために建てられた御殿場の別荘は見事なまでに焼かれて、燃え尽きたのである。建物の中に男女二人を燔祭の生贄として捧げて。そして、燃やしたのは本多である。あるいは本多の認識といってよいかもしれない。

 焔、これを映す水、焼ける亡骸、……それこそはベナレスだった。あの聖地で究極のものをみた本多が、どうしてその再現を夢みなかった筈があらうか。

 冒頭引用したように、

 破壊者は彼自身だったのだ。

 最後に、タイに帰ったジン・ジャンが、二十歳の春にコブラに咬まれて死んだことが簡単に報告されて物語は終わる。もはや、輪廻転生にも、孔雀明王にも言及されることはなく。

 プロットの表面だけをなぞった感想文しか書けませんでした。題名となった「暁の寺」は、本多が見る幻影としての富士山だと思われ、こちらからも本多の「認識」についてアプローチしなければならないのですが、今回は力及ばす、でした。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 

2021年3月13日土曜日

三島由紀夫『暁の寺』__認識と破壊、そして燔祭(1)__本多繁邦の欲望

 『豊饒の海』第三巻は、日米戦争前夜一九四一年タイの首都バンコックを舞台に始まる。主人公は前二作でそれぞれの主人公松枝清顕、飯沼勲の同行者として登場した本多繁邦である。飯沼勲の弁護のために裁判官を辞して弁護士となった本多は、商社の仕事でバンコックを訪れる。その地で本多は、飯沼勲の生まれ変わりではないか、と思われるタイの王女の話を耳にする。

 自分はタイの王女ではなく、日本人の生まれ変わりで、本当の故郷は日本だ、と言い張ってきかない姫君がいる。父殿下始め多くの王族がスイスに行ったきりになっているのに、まだ七歳になったばかりの姫君が、侍女たちに囲まれて薔薇宮というところに押し込められているという。

本多は、ホテルでタイに持参した清顕の夢日記を繙く。その中で清顕は、タイの王族になって、廃園を控えた宮居の立派な椅子に掛け、かつてタイの王子がはめていたエメラルドの指輪を自分の指にはめている。そのエメラルドのなかに「小さな愛らしい女の顔」が泛んでいる。ここまで読んで、本多は、これこそまだ見ぬ姫君の顔で、姫は清顕の、また勲の生まれ変わりであると思う。

 商社員の菱川という男の取りつぎで、本多は姫に謁見がかなう。姫は突然本多に縋りついて、自分は八年前に死んだ勲の生まれ変わりだと言って泣き叫ぶ。清顕と勲に関する出来事の日時もまた、正確に答える。姫が清顕と勲の生まれ変わりであることは、本多の確信となった。

 だが、その後本多は、たまたま幼い姫の裸体を見る機会を得たが、その左脇腹に、転生のしるしである三つの黒子は、なかったのである。

 時は流れ、十一年の歳月が経った。物語の始めから日中戦争はすでに始まっていた。一九四一年に日米戦争が起こり、世界大戦となって、日本は敗れ、前年にサンフランシスコ講和条約が結ばれた。日本だけでなく、世界中で多くの人が惨禍に巻き込まれたが、本多の生活は変わりがなかった。というより、僥倖ともいえるなりゆきで、金満弁護士となっていた。そうして、若さ以外のものは多くを手にいれた本多が、恋をしたのである。いまは、「月光姫(ジン・ジャン)」と呼ばれ、美しく成長したタイの姫君に。

 恋に理屈はいらないが、本多のジン・ジャンへの執着は異常である。姫の容姿がいかに魅力的であるかは、これ以上は不可能なほど精緻に描かれるが、その内面、精神に言及されることはない。言葉の問題もあるかもしれないが、はたして、本多とコミュニケーションがとれているかも怪しい。本多の欲望は、ジン・ジャンの左脇腹の黒子の有無を確かめたい、という点に集中する。そのために、本多は御殿場に別荘を作ったのである。姫を招いて、その寝室を隣の書斎に穿った覗き穴から覗き、プールを掘って、彼女の水着姿を見ようとしたのだ。

  初老の男の欲望というものがどんな内実をもつのかについて、女の私がどこまで理解、というか実感できるかについては、甚だ心もとないものがある。作者三島は言葉を尽くして、本多の心理を語るが、あまりにも観念的な分析だと思われる。ジン・ジャンの黒子を確かめるために彼女の裸体を「見る」ことへの欲望__それを本多(作者三島)は「認識慾」と呼ぶのだが、認識慾が自分の肉の慾と重なり合うということは「實に耐へがたい事態」であったから、この二つを引き離すために、ジン・ジャンは「不在」でなければならなかった、と書かれる。「不在」であること即ち

……ジン・ジャンは彼の認識慾の彼方に位し、又、欲望の不可能性に關はることが必要だったのである。

 本多はジン・ジャンに恋をする義務があったかのようである。

 ところで、「認識」という言葉はこの小説のなかで、ほとんど「見る」という言葉と同じ意義をもつかのように使われている。実は、本多はジン・ジャンの裸体だけをみることに固執しているのではない。夜の公園で睦あう男女の姿態をひそかに見ることにも異常なほど傾斜しているのだ。「認識」という言葉が「見る」という言葉、もっといえば「覗き見」という言葉と重なってくる。そうして、「見る」という行為は「権力の行使」なのである。

 「認識」という行為が「権力の行使」であり、直接には「破壊」である、という機序について語る事は、私の能力の限界を超えているいるようにも思われるが、次回「孔雀明王」のモチーフを中心に、いくらかでもたどってみたい。この小説のかなりの部分を占める仏教の理論に触れなければならないので、成功するかどうかまったく自信はないが。

 随分久しく書くことから遠ざかっていて、ようやく出来たものが、肝心なところで、尻切れとんぼになってしまいました。あまりの難解さに、もう書くのをやめようと思ったこともあったのですが、何とかメモを残せました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年10月28日水曜日

三島由紀夫『奔馬』__「佐和」という存在___父と子の相克

   前回の投稿から随分長い時間が経ってしまった。書けない理由はいくつもあって、いろいろ総合すると、私の能力不足という厳然たる事実に行きつく。もう三島由紀夫につきあうのはこれまでにしようか、と思ったりもするのだが、それでも、力不足ながら、『奔馬』という小説のもっとも魅力的な登場人物(と思っているのは私だけかもしれないが)「佐和」について少しだけ書いてみたい。

 佐和は、『奔馬』の主人公飯沼功の父茂之の経営する「靖献塾」という右翼団体の最年長の塾員で「呆れるほど非常識な、四十歳の、妻子を國に置いて出てきた男である。肥って、剽軽で、暇さえあれば講談倶楽部を讀んでゐる。」と紹介される。他の塾員とは親密な関係を結ぶことがない__そのように父茂之が配慮している__勲にとって、唯一親しく話すことができるのが佐和だった。

 「神風連史話」に傾倒する勲は、同志を募って、腐敗した政、財界の要人を殺そうと企てる。一人一殺である。勲たちに理解を示す陸軍の中尉も参加することが期待され、二十人の同志の結成式もすませていた。その勲の計画を、何故か佐和が気づくのである。

 十月のある晴れた日、佐和は一人で下着を洗濯している。佐和は、いざというときに男は純白の下着をつけていなければならない、と常々言って毎日洗濯に精を出しているのである。靖献塾は塾頭始め、佐和以外皆出はらっている。大学から帰ってきた勲に、佐和は、勲たちがひそかに計画を練ろうとしている集まりに自分も参加したいと言い出す。勲は困惑するが、佐和はその場ではそれ以上深追いせず、自分の部屋に勲を誘って、今度は靖献塾の内幕を暴露する。

 ありていに言えば、勲の父茂之は三年前に巧妙かつ周到な強請をはたらいて、大金を得たのである。使い奴のさきがけとなって先方に赴いたのが佐和だった。思想を生業とする人生で、生活の糧を得るには、もっとも効率の良い方法なのだろう。これで靖献塾は裕福になったのである。「正義」とは、勲が帰宅途中で見かけた紙芝居の「黄金バット」のように、異様な金色のグロテスクな姿をしているものなのかもしれない。

 だが、勲をひどく愕かせたのは、最後の佐和の言葉である。誰を殺ってもいいが、蔵原武介はいけない。そんなことをすれば、飯沼先生が誰よりも傷つく、と佐和はつけたしのように言ったのだ。

 いったん自室に戻った勲は、木刀を提げて再び佐和の部屋を訪れる。先ほどの佐和の言葉の真偽を糾そうとしたのだ。父は大悪党の蔵原武介と本当に関係があるのか、と。ところが佐和は、勲の「現実が認識したい」という言葉を逆手にとって、「現実がわかると確信が変わるのか」と問い、それなら勲の志は幻にとらわれていたというのか、と逆襲するのである。

 勲は言葉に詰まるが、佐和が本当のことを言うまで動かない、と部屋に居座る。しばらくして、佐和は押入れから白鞘の短刀を取り出してそれを抜く。そして、蔵原を殺すのは自分にやらせてくれ、と懇願し、咽び泣くのだ。

 いったい佐和は、何故、勲に父茂之と蔵原の関係を暴露し、どうしても勲たちが蔵原を殺すなら、自分を同志に加えてくれ、というのか。靖献塾の大事な後継で、塾頭茂之の愛する勲を守る一心だろうか。それとも、佐和自身が悪党蔵原を殺さねばならない、と思い詰めているのか。

 佐和の泣く姿を見ているうちに、勲の方に余裕が生まれる。自分たちは「明治史研究會」なるものの会員で、集まって気焔をあげているだけだ、としらを切ったのである。勲は、心の中で、佐和が個別に蔵原を刺すなら、それでいい、と判断した。仮にも、それを言葉でみとめてはならない。彼は「指導者」になったのである。

 ところが、佐和の方が一枚も二枚も上手だった。勲の親友相良の家に「明治史研究會御一同様」という書留が届く。相良が勲たちが秘密に集まる場所に持参したその書留の中には、佐和が郷里の山林を売って作ったという千円が入っていた。そればかりか、佐和は、どうやって嗅ぎつけたのか、勲が新たに借りた隠れ家に現れ、一同を前にして、彼らの誓いの言葉を唱えるのである。

 佐和はたんに勲たちの仲間になっただけではない。勲たちの計画を実現可能なものとするために選択と集中の指針を与え、その実践のための具体的なやり方を示したのである。そして、蔵原武介殺害の役割をみずから担うことを否も応もなく決定し、いつか勲に見せた白鞘の短刀で人を刺す要領を、巧みな言葉とたしかな実技で教えたのだ。

 いよいよ決行を二日後に控えた十二月一日の朝、塾長の使いで外出した佐和を除く一同十一人が集まっていた隠れ家に警察が踏み込んできて、全員が捕まってしまう。佐和も靖献塾に戻ったところを逮捕される。一件は「昭和神風連事件」と名付けられ、世間を騒がせるが、一年の裁判を経て下された判決は、被告人全員の刑を免除する、というものだった。世間の風潮もまた、有為の若者にたいする同情に満ちていたようだった。

 判決の出た昭和八年十二月二十六日から三日後二十九日、皇太子命名の儀がある日、勲は佐和を誘って宮城前の提灯行列に参加する。群衆の中で佐和をまいた勲は、銀座に引き返して短刀と白鞘の小刀を買い、熱海の蔵原武介の別荘に忍び込み、佐和に教わった通りのやり方で、短刀で彼を刺した。それから、蜜柑畑の蜜柑を一つもぎとって食べ、白鞘の小刀を腹に突き刺したのだった。

 さて、佐和とは何者なのか。勲にとって、佐和はどのような役割を果たしたのか。その行動は謎に満ちている。そもそも、決行二日前に、勲たちの計画を父の茂之に伝えたのは勲を愛する槇子だが、佐和は最初から勲の計画、というより意志を知っていた。四谷の隠れ家の場所も知っていたのである。佐和が超優秀なスパイの訓練を受けていたのでないとすれば(もしかしたらその可能性もあるかもしれないが)、勲からすべてを打ち明けられていた槇子から聞いていた、としか思われない。槇子と佐和は、勲の知らないところでつながっていたのだろうか。

 また、槇子の密告は、勲を牢屋にぶち込んで、自分一人のものにしたい一心からだという佐和の言葉は本当だろうか。本当のようにも思われるし、そうでないようにも思われる。

 それから、最後に、最も重大な謎がある。提灯行列の群衆の中で勲を見失った佐和は、なぜ、「群衆のなかをあてどもなく四時間も」探した後、靖献塾へ帰って勲の失踪をつげたのか。三日前塾生が蔵原武介の不用意な不敬行為を報じる新聞を勲に見せたとき、すばやくそれを奪い取ったのは佐和である。勲が姿をくらませば、蔵原の別荘を目指すことは十分予想できた。すぐに父の茂之に連絡をとって、蔵原の別荘を警戒させれば大事に至らなかったはずである。

 目くるめくような絢爛豪華な悲劇『春の雪』の登場人物を影で動かしていたのは、蓼科という老女だった。清顕と聡子は蓼科の掌の上で遊ばされていたようにも思われる。蓼科は、エデンの園で、アダムとイヴに罪を犯すようにそそのかした蛇のような役割を果たすのだ。その後、蓼科は『奔馬』の次の『暁の寺』に再登場して、空襲で焼け野原になった東京の旧松枝邸で本多と再会する。九五歳!という設定で、化け物のような厚化粧をして、本多のくれた生卵をその場で食べてしまう。蛇の本性をあらわしたかのように。

 『奔馬』で蓼科と同じような役割を果たすのが佐和だが、佐和は蓼科のようにグロテスクに誇張されたキャラクターではない。飄々ととらえどころがなく、それでいて行動も頭のはたらきも俊敏である。だが、その存在は両義的で謎に満ちている。勲に蔵原武介を殺させたのは、まぎれもなく佐和だが、はたしてそれは佐和の本意だったのか。それとも「上手の手から水が漏れた」のか。

 勲は蔵原武介を殺した。そして、夜の海の気配にかこまれて自刃した。「父殺し」は成就したのか。それとも「子殺し」が成就されたのか。

 「父と子の相克」という主題は最終作第四部の『天人五衰』に持ち越されるのだが、それについて書くことができるのは、まだかなり先のことになってしまうかもしれない。というより、『暁の寺』以降、作品のトーンがあまりにも変わって、なんだか三島由紀夫の形而上学や心理学を読まされているような気がして、魅力的な登場人物を見つけられないのである。私の知力、教養が圧倒的に足りないのだろうと思うのだが。

 三か月ぶりに書いてみて、あまりの不出来に愕然としています。最後まで付き合って、読んでくださって、本当にありがとうございます。

 

2020年7月28日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__「昭和維新」と「神風連」__英雄伝説の完成

 前回のブログで「まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。」と書きながら、なかなか書けないでいる。

 昭和七年、本多繁邦は三十八歳になった。

と書き出される時代は、内外の危機的状況のもと「昭和維新」を旗印に、とくに右翼勢力の側から実力行使が相次いだ。今日の目から見れば、昭和六年三月事件から昭和十一年二.二六事件まで九つの暗殺、テロ事件が起こり、それらの血生臭さがきわだつが、このように暴力による破壊行動に収斂するにいたるには、じつは明治後半から大正を経て、深刻で複雑な社会、文化の変化があったのはいうまでもない。

 この間の歴史を、たんに事象の表面をなぞるのではなく、そこに生きた日本人の思想、感情の屈折を精緻に分析、叙述した『昭和維新試論』(橋川文三著)という名著がある。余談になるが、教養や知識の蓄積が乏しい私は、この本を読んで多くのことを教えられた。というより、自分の無知、不勉強に気づくことを余儀なくされた、と言った方がいい。朝日平吾、渥美勝、田沢義鋪といった人物のことなど、この本を読まなければ、名前さえ知ることもなかっただろう。非常に概念的な言い方になるが、一九〇〇年前後からの内外の社会の激変が、とくにその底辺で生活する庶民の生存に危機的な影響をもたらし、「実存」(という言葉が当時使われたかどうかわからないのだが)の悲哀、あるいは「不安」という感情が世相に蔓延した、という論が『昭和維新試論』の中で述べられている。

 『奔馬』冒頭で、作者は、本多の同僚の裁判官に、オスカー.ワイルドの「今の世の中には純粋な犯罪というものはない。必要から出た犯罪ばかりだ。」という言葉を語らせている。本多もそれに対して「社会問題がそのまま犯罪に結晶したような事件が多いね。それもほとんどインテリでない連中が、自分では何もわからずに、そういう問題を体現している。」と答えている。実際、裁判官として本多は、娘を娼家に売った農民が約束の金を半分も貰えぬのに腹を立てたあげく、誤って娼家の女将を死なせてしまった事件を裁いている。

 一九二九年のニューヨーク株の大暴落から始まる世界恐慌が庶民の生活を危機に追い込んだことはよく知られているが、日本ももちろんその例外ではなかったのである。だが、一方、そのような庶民の困窮を、豪奢な晩餐後の酒席の話題として会話する階級が存在したことも、三島は『奔馬』のなかで伝えている。

 一家の飢えを救うには、兵隊となった息子の遺族手当ををもらうしかないすべがないので、早く息子を戦死させてくれ、と小隊長に手紙を書いた貧農の話が語られるのは、軽井沢の財閥男爵の炉端である。「通貨の安定こそが国民の究極の幸福である」と金本位制復帰を説いて「九割を救うために一割が犠牲になってもやむをえない」とする主賓の「金満資本家」蔵原武介をはじめ、「つややかな頬」や「つややかな手」をもつ男たちは、十分な食事と酒の後、貧農の願いがかなって、名誉の戦死を遂げた息子の話に涙するのだ。

 この間の事情は、小説の末尾近く、蹶起前日にとらえられた飯沼勲が、初回の公判の場で、裁判長の求めに応じて、心情を吐露するかたちで縷々述べられている。簡潔で要を得た勲の説明は、二十歳の青年勲の現実認識とその説明、というより作者三島のそれのように思われてならないのだが、それはさておき、暗雲晴れやらぬ皇国の現状を憂える勲が、みずから行動を起こすための決定的な啓示となったのが「神風連」であり、「必死の忠」であると述べていることは、複雑で多層的な問題を含んでいる。

 明治九年熊本で、廃刀令に反対する士族の反乱がおこる。「敬神党の乱」あるいは「神風連の乱」と呼ばれる。乱を起こしたのは、国学者、神道家の林櫻園を祖と仰ぐ太田黒伴雄ら約百七十名の人々で、神託のままに「敬神党」を結成して、十月二十四日に熊本鎮台を襲った。ウィキペディアに月岡芳年という画家の描いた「熊本暴動賊魁討死之図」という錦絵が掲載されているが、刀と槍と薙刀を武器とした敬神党の面々が、近代兵器を備えた鎮台に攻め込むさまは、このような美しい錦絵とはほど遠い地獄図だったろう。蹶起した百七十余名のうち、死者、自刃者百二十四名、残り約五十名が逮捕され、斬首されたものもあったという。

 三島は『奔馬』前半「神風連史話 山尾綱紀著」という書物の全文引用の体裁で神風連の乱を語る。「神風連史話」は、「その一 宇気比」から始まり、「その二 宇気比の戦」「昇天」と結ばれる短編小説となっている。目次が示す通り、敬神党の人々の戦いは、古神道、神ながらの道の精神に貫かれたもしくはその精神を貫くための戦いであり、結末であった。

 彼らには、厳密な意味での戦略はなかった。敵を滅ぼすためではなく、「もののふ」としてのアイデンティティに賭けた戦いで、敗北は必定だったように思われる。むしろ、自刃を目的として蹶起したのであり、戦いはそこに至る過程にすぎなかったようである。血塗られた死の美学がくりひろげる抒情詩が「神風連史話」であった。山尾綱紀という架空の作家にたくして、三島はそのように書いている。そして『奔馬』の主人公飯沼勲は「神風連史話」という「書物」から「召命」ともいうべき啓示をうけたのである。「神風連の乱」という歴史の事実からではなく。

 「神風連史話」が厳密な意味での「神風連の乱史」でないことは、勲からこの書物を借りて読んだ本多の勲への手紙の中で指摘されている。周到にも三島は、『奔馬』という作品中で「神風連史話」に対する的確な批判をしているのである。統一的な「物語」をつくるために、「事実」の中に含まれる多くの矛盾が除去されていること。敬神党の敵である明治政府の史的必然性を逸していること。そのために「全体的な、均衡のとれた展望」を欠いていること。

 三十八歳の裁判官本多は以上の点を指摘し、「神風連史話」に傾倒する勲に教訓を垂れている。「過去の部分的特殊性を援用して、現在の部分的特殊性を正当化」することは歴史を学ぶことではない。「純粋性と歴史の混同」をしてはならない、と戒めるのである。「神風連史話」の的確な批評であり、これに傾倒する勲への適切な忠告である。____だが、『奔馬』という小説のはらむ最も核心的な謎がここにあると思われてならない。

 本多という人物の言葉を借りて、このように的確な「神風連史話」の批判ができるなら、つまり、そのような歴史認識をもっているなら、作者三島は、何故、『奔馬』を書いて、それを遺作としたのか。明治九年の「神風連の乱」の時代の純粋は、「昭和維新」の時代のそれではありえないならば、昭和四五年の11・25のそれともまったくの別物である。

 通俗的で愚かな私は、いつも、この部分で躓いて堂々巡りの思考に陥ってしまうのだが、『奔馬』という小説は破綻のない、完成度の高い作品であると思う。本多は勲への手紙の中で、「神風連史話」を「一個の完結した悲劇であり、ほとんど芸術作品にも似た、首尾一貫したみごとな政治事件であり、人間の心情の純粋さのごく稀にしか見られぬ徹底的実験」と評しているが、これはそのまま『奔馬』にあてはまる評価である。『春の雪』の松枝清顕と同じく、飯沼勲もまた、輪廻転生の主体のひとつであって、二十歳で死ぬことを運命づけられていたのだった。夭折の英雄伝説の完成である。

 「神風連史話」はおびただしい血と死を流して悲劇を完成するが、『奔馬』は飯沼勲と蔵原武介の二人の血によって完結する。飯沼勲が何故蔵原武介を殺さなければならなかったかについては、また別の機会に考えてみたい。私は三島の文学の隠されたテーマとしての「父殺し」の主題がここに存在すると思うのだが、それを書くのには、まだあまりにも力不足である。

 以前も書いたのですが、三島由紀夫の小説は、私にとってあまりにも「面白過ぎる純文学」で、読むことじたいに堪能してしまい、それについていざ何かを書こうとすると、どこから手をつけていいかわからないのです。今回の『奔馬』についても、その面白さの一ミリも伝えることのできないもどかしさでいっぱいです。もう一回「父と子」のテーマで書こうと思っています。物語の展開で、重要な役割を果たす「佐和」という中年の男に焦点をあてて考えてみたいのですが。

 今日も不出来な感想文を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2020年5月26日火曜日

三島由紀夫『奔馬』__海と白い奔馬

 三島由紀夫『豊穣の海』第二作『奔馬』は、とくにそのラストが昭和四五年十一月二十五日の事件と関連づけて論じられることが多い。たしかに、『奔馬』は1970.11.25の盾の会の蹶起とその失敗を予告、というより実践したもののように見える。それは、ある意味まさにその通りなのかもしれないが、いや、その通りであるからこそ、ここに書かれていることは、言葉を失ってしまうほどの衝撃的な事実なのではないか。

 三島由紀夫とは何者なのか。

 最初に題名の「奔馬」という言葉について考えてみたい。ほとんどの辞書には「奔馬_荒れ狂って走る馬。また、勢いの激しいことのたとえ」とある。「奔馬」という言葉は、「一人一殺」あるいは「一殺多生」のスローガンのもと要人テロとその計画があいついで起こった昭和維新と呼ばれる時代とそのヒーローを象徴するものとして用いられていると思われる。

 昭和六年三月事件から始まり、十月事件、血盟団事件、五.一五事件、神兵隊事件、十一月事件、国体明徴、天皇機関説排撃事件、永田鉄山中将殺害事件、そして昭和十一年二.二六事件にいたる六年間に九つもの重大事件が起こった。日本国内だけでなく、世界のあちこちで暗殺テロが相次いだ。人々はこうした殺人、破壊行為を「国家革新」の旗印のもとに、むしろ肯定的に受け止める風潮だった。この時期は、事件を起こした実行者たちだけでなく、それを裁く司法までも含めて、「昭和維新」の美名のもとに、荒れ狂った馬のように理性を失っていたのである。

 ところで、「奔馬」という言葉は、前作『春の雪』の文章の中にもさりげなく埋めこまれている。夭折する美の体現者松枝清顕の親友本多繁邦が、湘南の海の砂浜で海に対峙している。ここに書かれている繁邦の思いは、作者三島の歴史観のエッセンスといってもいいものだろう。それを簡潔に要約することは私の能力を超えているが、いくつかの文章を抜き書きして考えてみたい。

 ・・・・そして本多と清顕が生きている現代も、一つの潮の退き際、一つの波打ち際、一つの境界に他ならなかった。
 ……海はすぐその目の前で終わる。
 波の果てを見ていれば、それがいかに長いはてしない努力の末に、今そこであえなく終わったかがわかる。そこで世界をめぐる全海洋的規模の、一つの雄大きわまる企図が徒労に終わるのだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 あの橄欖いろのなめらかな腹を見せて砕ける波は、擾乱であり怒号だったものが、次第に怒号は、ただの叫びに、叫びはいずれ囁きに変わってしまう。大きな白い奔馬は、小さな白い奔馬になり、やがてその逞しい横隊の馬身は消え去って、最後に蹴立てる白い蹄だけが渚に残る。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 しかし沖へ沖へと目を馳せると、今まで力強く見えていた渚の波も、実は希薄な衰えた拡がりの末としか思われなくなる。次第次第に、沖へ向かって、海は濃厚になり、波打ち際の海の濃厚な成分は凝縮され、だんだんに圧搾され、濃緑色の水平線にいたって、無限に煮詰つめられた青が、ひとつの硬い結晶に達している。距離とひろがりを装いながら、その結晶こそは海の本質なのだ。この希いあわただしい波の重複のはてに、青く結晶したもの、それこそは海なのだ。

 これを、私の言える一言でいえば、「諦観」だろう。あるいは「時間の概念のない歴史」を鳥瞰する目。波打ち際という境界にあって、無限の彼方の「距離とひろがりを装いながら、青く結晶したもの」を見る目。海は始原の、永遠の「青い結晶」に凝縮され、「逞しい横隊を組んだ」「白い奔馬」は、はその「蹴立てる白い蹄」の残像が記録されるだけだ。

 この諦観が『春の雪』という第一作で呈示されていることは、『豊饒の海』四部作を語るうえで、決して見逃してはならない点であると思われる。そして、ここに私の「躓きの石」がある。このように、諦観もしくは韜晦の境地に到達していながら、なぜ『奔馬』の後『暁の寺』『天人五衰』を書き継がなければならなかったのか。それから、作家の実人生を作品読解に持ち込まない、という自戒をあえて破る愚を冒していえば、なぜ「三島事件」は起きたのか。

 以上の疑問がいつまでも私の中にわだかまっていて、堂々巡りの思考からぬけだせないでいるが、まずは原点に帰って、『奔馬』という小説の世態風俗、人情に触れなければならない。この作品の成立には、明治九年熊本で起こった神風連の乱が影響を与えているといわれるが、実はプロットの大枠は昭和八年の神兵隊事件によるのではないか。また、個々の登場人物の造型にはそれぞれの事件のさまざまな実在の人物をモデルにしているようである。尊皇愛国の志に燃えた若者が本懐を遂げるまでの直線的な物語のように見えて、かなり複雑な仕掛けが隠されているように思われる。仕掛けの一端でも読み解ければ、と思うのだが、難題である。何かまとまったことが書けるようになるまで、もう少し時間がほしいと思う。

 気がつけば日常の光景が一変していて、信じられないような世界に生きています。何が起こっているのか、何故なのか、「今」を理解できなくてもがいています。情報はあふれていますが、必要なのは情報ではなくたしかな実在感です。薄気味悪い浮遊感の漂う中で、性根を据えて作品に向かい合う時間がつくりだせないでいます。ひとえに非力のなせるわざですが。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2019年12月2日月曜日

三島由紀夫『春の雪』_日露戦争の亡霊

 『豊穣の海』第二作の『奔馬』についてはある程度まとまったことが書けそうな気がするのだが、『春の海』は難問である。どこまでも美しく、崇高でしかも限りなく官能的な清顕と聡子の恋、それがどのように始まって成就したか、作者の視線はこの一点にそそがれて揺るぎない。恋愛の要素であるむき出しの欲望や生臭い情動は、彫琢をきわめた流麗な文章によって、みごとに「優雅」の域に昇華されている。非の打ちどころのない恋愛小説として完結しているようにみえ、そこに謎を見出すことは困難であるように思われる。

 主人公松枝清顕は、明治維新で勲功を立て、郷里鹿児島で「豪宕な神」とみなされた人物を祖父にもつ。祖父の息子二人は日露戦争で戦死して、残ったのは清顕の父一人のようである。清顕の父は清顕以外に子をもたなかったので、清顕は松枝家のただ一人の嫡子である。冒頭、渋谷郊外の広大な敷地十四万坪の中に、和洋取り交ぜた豪壮な建物を保有するばかりでなく、その名も「紅葉山」と呼ばれる山、その山を背景にする広い池、池に落ちる滝など、平安時代の王朝絵巻と見紛う松枝家の光景が描かれる。ここには、爛熟と豪奢、つまり貴族趣味そのものがあって、生硬なもの、粗削りなもの、質素なものは登場しない。

 松枝清顕は、貴族趣味、というより、その性質もふくめて、貴族そのものである。若く、美しく、自尊心が抜きんでて高く、そして優柔不断な御曹司が清顕である。その清顕の心情を、作者は物語の冒頭「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する日露戦争の戦死者の写真と結びつけて語るのである。

 すべては中央の、小さな白い祭壇と、花と、墓標へ向って、波のように押し寄せる心をささげているのだ。野の果てまでひろがるその巨きな集団から、一つの、口につくせぬ思いが、中央へ向ってその重い鉄のような巨大な輪を徐々にしめつけている。古びた、セピア色の写真であるだけに、これのかもし出す悲哀は、限りがないように思われた。

 十八歳の清顕がこのような心持になったのは、幼いころ公家の家に預けられて「優雅」を学ばされたことに原因がある、と書かれている。その公家の家が、清顕と禁断の恋に落ちる聡子が生まれた綾倉という伯爵家であって、清顕と綾倉聡子はまさに「優雅」な、そしてすさまじい恋をするのだが、いまは「優雅」にしのびより浸透していく死の影が、最初から清顕を覆っていたことに注目しておきたい。死と戦争は、物語の辻々に、さりげなく、だが印象的に挿入される。父侯爵が妾に会いに行くとき、付き添う清顕は、寒夜の風が松の梢を騒がす音にも「得利寺の戦死者弔祭の写真」の樹々のざわめきを聞き、死を連想するのだ。

 清顕が再び「得利寺附近の戦死者の弔祭」を見るのは、雪の中、聡子と俥を走らせていたときのことだった。美しく怜悧で活発な聡子に対して、少年らしい自尊心から反発しながらも惹かれていた清顕だったが、ある雪の朝、唐突に、聡子から雪見に連れて行ってくれと呼び出しがかかる。迎えに行った清顕の俥に聡子が乗り込んできた時の様子はこう描かれている。

 聡子が俥へ上がってきたとき、それはたしかに蓼料や車夫に扶けられて、半ば身を浮かすようにして乗ってきたのにはちがいないが、幌を掲げて彼女を迎い入れた清顕は、雪の幾片を襟元や髪にも留め、吹き込む雪と共に、白くつややかな顔の微笑を寄せてくる聡子を、平板な夢のなかから何かが身を起こして、急に自分に襲いかかってきたように感じた。聡子の重みを不安定に受けとめた俥の動揺が、そういう咄嗟の感じを強めたのかもしれない。
 それはころがり込んできた紫の堆積であり、たきしめた香の薫りもして、清顕には、自分の冷えきった頬のまわりに舞う雪が、俄かに薫りを放ったように思われた。

 これ以上ないほどの近さで身を寄せてきた聡子は、清顕にとって、美しい恋人というよりむしろ、何か日常世界を超えた次元からやってきた存在のようである。この後すぐ世にも美しい接吻へのなりゆきが繊細、精妙な描写で続くのだが。

 そして、官能のほてりに暑さを覚えた清顕が、俥の幌を開けたときに、日露戦争の亡霊が現れるのである。折しもさしかかった坂の上の崖から見下ろす麻布三聯隊の兵庭には、肩と軍帽の庇に雪を積んだ数千の兵士が、白木の墓標と祭壇を遠巻きにしてうなだれていた。彼らはみな死んでいて、みずからを弔っているのだった。幻は一瞬にして消え、あたりは平穏な日常の佇まいに戻るのだが、清顕と聡子の陶酔は戻らなかった。

 麻布三聯隊と霞町という場所はこの後、『春の雪』という作品の中で、一つの記号のように繰り返し登場する。清顕と聡子が初めて結ばれるのも、蓼料が懇意にしている北崎という軍人宿の離れで、そこは三聯隊の正門近くである。ふりつづく雨の中、清顕は北崎の宿におもむき、聡子と逢う。下宿の離れで清顕と聡子が結ばれる性愛の描写は、これほど具体的かつ高度な象徴性に満ちた描写はあるまいと思われるのだが、はたしてこれは、たんに性愛の描写だろうか。

 清顕が、禁忌の存在に対して、自らの純潔をかけて届こうとすること、そのことによって

 誰も見たことのないような完全な曙が漲る筈だった。

という預言は第二作『奔馬』のラスト、飯沼勲が

 正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と上った。

となって成就するのだ。

 北崎の宿は、物語の後半綾倉伯爵と綾倉家の老女蓼科の会話の中で登場する。清顕の子を身ごもった聡子が蓼科の指示を受け入れず、いっこうに中絶しようとしないことで、進退窮まった蓼科はカルチモンを飲んで自殺を図る。蓼科の部屋を訪れた伯爵に、蓼科は八年前の北崎の宿での伯爵の言葉をもちだすのである。

 八年前も雨が降っていた。もう梅雨に入っていた。八年後に清顕と聡子が結ばれることになる北崎の離れで、伯爵と蓼科は何とも陰惨な春画を見て、十四年ぶりに情を交わした。そして伯爵は驚くべきことを蓼科に頼んだのだった。

 八年前のその日、松枝侯爵が十三歳になった美しい聡子を見て、自分が三国一の婿を世話して、綾倉家から一度も出たことのないような豪勢な嫁入りをさせてやろう、と言った。このとき、無力な伯爵はこのはずかしめに対して、あいまいに笑っているだけだったが、何とか長袖者流の復讐をしてやろうと思っていたのである。それは、松枝侯爵が決めた婿に、生娘の聡子を与えない。縁組の前に、聡子を彼女が気に入っている男と添臥させる、ということで、このことを誰にも知らせず、蓼科一存でおかした過ちのようにやりとおしてほしい。そのために、生娘でないものと寝た男に生娘と思わせ、反対に、生娘と寝た男に生娘でないと思わせる二つの術を聡子に教え込むことができるだろうか。伯爵のこの恥知らずな、残酷な頼みを蓼科は「承りましてございます」と請け合ったのである。

 「門も玄関もない、そのくせかなりな広さの庭に板塀をめぐらした坂下の家。湿った、暗い、なめくじの出そうな」と描写される北崎の家での伯爵と蓼科の会話は、『春の雪』という舞台劇の暗い裏側を覗かせる。清顕と聡子の美しすぎる悲恋は、彼らを取り巻く大人たちの情念と陰謀によって仕組まれたものだったのだ。零落しているがゆえにはずかしめられ、やりどころのない伯爵の憤懣が、このようなグロテスクな企てを思いつかせたのだろうが、それだけではない。ここにはもっと淫靡で複雑な男と女の情念が濃縮されて呈示されている。その情念のひとつひとひとつを書くのもおぞましいが、伯爵も侯爵も、自分の命さえも手玉に取って、みごとに情念をつらぬき復讐を果たした蓼科の存在感は圧倒的である。

 『春の雪』の原点ともいえる八年前の出来事が、日露戦争に出征にする兵士の壮行会と同じ場所で行われたことに注目したい。降りしきる雨の中、事後の二人の耳に軍歌の合唱が届く。

 鉄火はためく戦場に
 護国の運命、君に待つ
 行け忠勇の我が友よ
 ゆけ君国の烈丈夫

 北崎の宿と日露戦争は、この後『春の雪』に登場することはない。美しく崇高な悲劇の原点が、陰惨で淫靡な情念の世界であり、そこはまた血生臭い戦場と隣り合わせの場所であることを示唆して、物語は終末に向かっていく。

 難問の『春の雪』に、せめて補助線を引いてみようと思って書き出したのですが、やはり難問のままでした。でも、あきらめないで、影の主人公本多繁邦を中心に、もう一度考えたいと思っています。未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。  

2019年11月14日木曜日

三島由紀夫『春の雪』_大正デモクラシーの王朝絵巻_「みかどのめ(妻)を盗む」というモチーフ

 『豊穣の海』四部作について、いつか書こう、書かなければならないと思いながら、ずるずると書けないまま時間が過ぎてしまった。四部作すべてを見渡して、何か三島文学の結論めいたものを引き出そうなどとだいそれたことは、もちろん考えていない。そういうことではなくて、私にとって三島由紀夫の作品は、批評、分析の対象となる以前に面白すぎるのである。小説ビギナーの私でも無理なく読めて、最初から最後まで読むことの快感に浸りながら、結末までもっていかれてしまう。そして最後になって、はて、この小説はどう読めばいいのか、と立ち止まってしまうのだ。

 『豊穣の海』あるいは『春の雪』だけでなく、三島由紀夫の作品は言葉が溢れかえっている。プロットの展開を語り、登場人物の心理を描写する叙述に破綻はまったくないが、ときに思弁的、形而上学的用語をまじえ、言葉は過剰の域の内側にかろうじてとどまっているように見える。もうひとつ、『春の雪』の文章に特徴的なことは、登場する皇族への待遇表現の丁重さである。作者は徹底して最上級の敬語を使用し、皇族と他の登場人物の間に決して越えられぬ一線を劃している。幼い清顕が魅せられた春日の宮妃、禁断の恋を生きた聡子の婚約者洞院宮王子の一家、留学中のシャムの王子たち、さらに物語の中に一瞬登場する「お上」に対して、王朝の女房文学かと見紛うほどの念入りの敬語が繰りだされる。

 『春の雪』の最後に、後註として、

『豊穣の海』は『浜松中納言物語』を典拠とした夢と転生の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なる Mare Foecunditatis の邦訳である。

と書かれている。輪廻転生は四部作を展開する力学のエネルギー源だが、第一作の『春の海』を読んだ印象では、作者に直接のインスピレーションを与えたのは、『浜松中納言物語』というより『源氏物語』や『伊勢物語』ではないかと思われる。『浜松中納言物語』は数多くある『源氏物語』のひとつの亜流とされている。『源氏物語』さらに遡って『伊勢物語』の重要な主題は「政治と性」具体的には「みかどのめ(妻)を盗む」ことである。

 『源氏物語』はいうまでもなく光源氏と藤壺の不倫から始まる。父桐壷帝の妻を犯し、生まれた子を帝の位につけるという背徳の行為が源氏に栄耀栄華をもたらすのである。一方『伊勢物語』第三段から第六段は「二条の后」と業平と思しき男の恋の経緯が語られてる。こちらは業平の悲恋で、奪い取った「二条の后」藤原高子は彼女の兄たちに奪い返されてしまう。業平は栄耀栄華どころか都落ちを余儀なくされる。源氏と業平の運命は両極端だが、性と権力の相互浸透、というより性=権力の方式が成り立つという点で共通したものがあるのではないかと思われる。

 『春の雪』は平安時代の女房文学ではなく、大正元年(1912年)の十月から始まる物語である。(出版されたのは昭和四十四年_1969年。アポロ11号が月面着陸した年)日清、日露の二つの戦争を経て明治が終わり、日本はどのような社会になっていったのか。実は、『春の雪』という小説中に、社会はまったくといっていいほど描かれないのである。第二作『奔馬』では、作者は、主人公飯沼勳に詳細すぎるほど詳細に、昭和十年代初頭の東北農民の窮状と政治の腐敗を語らせている。一方『春の雪』は、渋谷の郊外に十四万坪の敷地をもつ松枝清顕の屋敷を舞台に、松枝家とその周辺の上流階級が中心で、庶民の生活がふりむかれることはない。

 政治がもちこまれることが決してない、という点で小津安二郎の映画がきわめて政治的であるのと同様に、『春の雪』もまた、きわめて政治的である。前年1911年一月中国で辛亥革命が起り、当年二月十二日には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が退位するなど、東アジアは大きく揺れ動いていた。だが、日本では、というか『春の雪』の世界では、何事も起こらなかったかのように、主人公松枝清顕と綾倉聡子の恋に作者の視線は集中する。聡子に触れることが禁忌にならなかったら決して成立しなかったであろう恋に。清顕にとって、あるいは三島由紀夫にとって、恋の必要条件は「禁忌=不可能」だったのではないか。もしかしたらそれは十分条件だったかもしれない。

 「私たちの歩いている道は、道でなくて桟橋ですから、どこかでそれが終わって、海がはじまるのは仕方がございませんわ」という聡子の言葉の通り、終わりの時が来て、聡子は大叔母が門跡をつとめる月修寺で出家してしまう。「海」_「豊穣の海」_「月の海」_「月修寺」_という連想がたんなる言葉の遊びでなければ、聡子は月世界にもどったかぐや姫だろうか。異次元の世界に行ってしまった聡子にこの世で会うことは不可能なのだから、『天人五衰』のラストは、この時点で決定していたのだ。清顕も、彼の親友本多も、そして六十年後の本多も、肉の身をもつ聡子に再び相まみえることはない。

 一方、清顕は翌年春の歌会始の儀式であらたな天皇の顔をかいま見、そこに清顕に対する怒りをみとめて恐怖する。そのとき、快楽とも戦慄ともつかぬ感覚とともに彼を貫いたのは

 『お上をお裏切り申し上げたのだ。死なねばならぬ』

という考えだった、と書かれている。禁忌を冒すこと、その結果死ぬこと、その二つが二つとも清顕にとっては「快さとも戦慄ともつかぬもの」だったのだ。だから、この後春寒の奈良を訪れて、月修寺に通い詰め、病いを得て死んでいくという深草の少将のような清顕の行動は、成就されるべき死への道行きだったのである。

 『春の雪』については、こんな概念的な感想文でなく、もっと丁寧にストーリーの展開を追って書きたいことがあるのですが、長くなるので回を分けたいと思います。清顕と聡子の、精妙としか呼びようのない性愛と心理の描写、対照的に隠微で生臭い謀略の影、など小説を読む醍醐味はこちらにあるのかもしれません。とくに蓼科と呼ばれる老女の存在感は圧倒的で、『春の雪』の主人公は彼女ではないかと思ってしまいそうです。

 今日も不出来な感想を読んでくださってありがとうございます。  

2016年4月23日土曜日

三島由紀夫『禁色』__三島由紀夫とは何者だったのか

 三島由紀夫の『禁色』について、いつまでも考えている。書くことはたくさんありそうで、さて、何をどう書いたらいいのか迷っている。ひとことでいったら思弁的、形而上学的装いの通俗小説である、と評したくなる誘惑にかられている。あるいは、複雑かつ巧妙にカモフラージュされたモデル小説である、とも。

 物語の発端は檜俊輔という老齢の作家が美少女に懸想し、袖にされたことから始まる。美少女康子に執着する俊輔は、彼女の後を追って海辺のさびれた観光地で、南悠一という美青年に出会う。アポロンのようなこの美青年は女を愛することができないのに、持参金目当てで康子と結婚することになってしまった。腎臓病の母親をかかえ、没落した家の家計を支えなければならなかったからである。

  悠一の告白を聞いた俊輔は彼に持参金以上の金を与え、その上で康子と結婚させる。俊輔は自分を愛さなかった康子を女を愛することのできない悠一と結婚させ、不幸にしたかったのだ。そして、俊輔が不幸にしたかったのは康子だけではなかった。夫と組んで彼を美人局の罠に陥れた鏑木伯爵夫人、彼の愛を受けいれなかった穂高恭子、この三人の女が悠一を愛することによって、俊輔から復讐されるのである。「醜さ」のゆえに女から愛されない青春を送った作家俊輔は絶世の美青年南悠一という「作品」を操って女への復讐を企てたのだ。

 中でも最も残忍な仕打ちを受けるのは穂高恭子である。俊輔の描いたシナリオ通りに悠一に誘惑された恭子は、悠一と思いこんで暗闇の中で俊輔に犯され、一夜をすごしてしまう。何故彼女がこうまでされなければならないのかその理由は明らかではない。俊輔は「あんな目に会わせるだけの悪いことはしていない女なんだ」といいながら「あの女はこの事件を境にひどく身を持崩すだろう」と予言するのである。

 康子と鏑木夫人の不幸は複雑である。女を愛さない夫との間に子を生んだ康子は、夫が「作品」から「現実の存在」になったときに、ほんとうの「不幸」になる。悠一は同性愛が露見すると、それを取り繕うために鏑木夫人の力を借りる。だが、悠一が同性愛であろうがなかろうが、康子にとっては、もはやどうでもよいことだった。この間の機微を三島はこう書いている。

 「しかるにすでに康子は自若としていて生活の中に腰をおちつけ、渓子を育てながら、老醜の年齢まで、悠一の家を離れない覚悟を固めていたのである。絶望から生まれたこんな貞淑には、どのような不倫も及ばない力があった。
 康子は絶望的な世界を見捨てて、そこから降りて来ていた。その世界に住んでいたとき、彼女の愛はいかなる明証にも屈しなかった。・・・・・・・・
 その世界から降りて来たのは、何も彼女の発意ではない。・・・良人として多分親切すぎた悠一は、わざわざ鏑木夫人の力を借りて、妻をそれまで住んでいた灼熱とした静けさの愛の領域から、およそ不可能の存在しない透明で自在な領域から、雑然とした相対的な愛の世界に引きずり下ろしたのである。・・・・・そこに処する方法は一つである。何も感じないことである。何も見ず、何も聴かないことである。
 ・・・・(康子は)自分にたいしてすら敢然と愛さない女になった。この精神的な聾唖者になった妻は、一見はなはだ健やかに、派手な格子縞のエプロンを胸からかけて良人の朝食に侍っていた。もう一杯珈琲はいかが、と彼女は言った。やすやすとそう言ったのである。」

 康子は『仮面の告白』の園子をはるかに超えて、正真正銘の悪女となったのだ。
 
 鏑木夫人の場合は、さて、彼女は不幸になったのか。それとも幸福になったのか。あるときは単独に、あるときは夫と組んで背徳をかさねた彼女は悠一に殉愛を捧げる。同性愛の夫と悠一の現場を見てしまってもその愛は変ることがない。悠一も失踪した彼女からの手紙に感動して「僕はあの人を愛している。・・・僕が女を愛しているんだ!」と思う。だがその愛は、少なくともこの世のものとしては、成就することはない。ラスト近く二人は連れ立って伊勢、志摩の海に浮かぶ賢島に旅行する。そこでプラトニックな一夜を明かすことで鏑木夫人は悠一への愛を永遠のものとしたのである。まるでエーゲ海のほとりで語られる神話のように。

 悠一と三人の女たちとの関係は、美と愛をキーワードに語られる。それは、虚実皮膜論の皮のような危うさを含んでいる。絶対にありえないリアルさ、とでもいったらいいのだろうか。それに比べて、悠一と男たちとの関わりはリアルそのものである。そのキーワードは「金」と「権力」である。檜俊輔は悠一を愛して、彼に莫大な遺産を残して自殺する。鏑木伯爵は夫人に去られて生活の糧を失い、悠一に捨てられる。産業資本家であり有能な経営者の河田は悠一への愛に溺れそうになる自分を守るために多額の手切れ金を悠一に渡して別れる。悠一自身は、これら年上の男たちを愛することはない。彼が愛するのは、彼と同じように若くて美しい男である。そしてその愛はすべて一回的な愛である。

 檜俊輔の女たちへの復讐譚として始まったこの小説は、途中から俊輔の「作品」としてつくられた美青年南悠一の物語となる。アポロンの塑像から血の通った野心的な青年へと悠一は成長していく。その過程が観念的でありながらも精緻な心理分析とともに語られるのだが、これが敗戦からそんなに月日を隔てていない昭和二十六年に書かれた小説であることに驚いてしまう。朝鮮動乱を経て、ようやく庶民が食べ物に困らなくなったこの時代に、鏑木夫人は悠一に「プラム入りの温かいプディング」をつくって食べさせるのである。不夜城と化すナイトクラブ、同性愛の外人のたむろする大磯の「ジャッキー」の家などの描写は、日本の上流階級は敗戦の打撃など受けなかったのだろうか、と思ってしまうほど豪奢である。三島由紀夫は庶民と隔絶した別世界の出来事をほとんど痛みなく書いていく。いったい三島由紀夫とは何者だったのか。何のためにこの小説を書いたのか。

 この小説は、作中人物のそれぞれにモデルがいて、当時の読者にはそれを特定することが容易だったのではないだろうか。鏑木伯爵や河田、あるいは一場面だけ登場する製薬会社社長の松村など、それぞれに経歴や地位が書かれているので、大体のところは察しがついてしまう。不思議、というか複雑なのは檜俊輔で、そのモデルは誰でも思い浮かぶ文豪だろうが、私見ではそれは一人ではない。いや、モデルは何人いてもいいし、そのうちの一人は三島由紀夫自身かもしれないのだが、問題は作品中とはいえ、俊輔を自殺させてしまっていることである。小説が書かれて二十年近く経って、最初に三島が死に、それから文豪が不可解な死を遂げたことをいま現在の私たちは知っている。メビウスの輪のように、現在と過去と未来がよじれて繋がっていて、時間がゆがんでいるような感覚にはまってしまう。

 いったい三島由起夫とは何者だったのか。

 まだまだ書かなくてはならないことがあるのですが(この作品以降繰り返される「覗き見」と「火事」のモチーフについてなど)、長くなるのでまた次の機会にしたいと思います。今日も未整理な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 

2016年2月28日日曜日

橋本治『三島由紀夫とはなにものだったのか』___「父」と「天皇」そして「女」を語らない自分史

 のっけから随分辛口のタイトルとなったが、この評論はおもしろかった。ひとつには、著者の橋本治が私とほぼ同世代で、ともに学生運動の嵐が吹き荒れる中で青春時代(歌の題名みたいであまり使いたくない言葉だが)を過ごしたからである。

 橋本治は当時現役バリバリの東大生で、のみならず「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というポスターの作者としても知られている。だが、しかし、彼は、このポスターの文句から当然うかがわれるように、全共闘の活動家ではなかった。そして、私は、というと、すでにブログの中で何回か述べたが、「ホー・チミンってフランスの女優さん?」と訊ねたように、政治といわず世の中の状況にまったく無知だった。何をしていたか?生涯あの四年間だけは二度と繰り返したくないし思い出したくもない会社勤めと、そして、ほとんど確実におとづれるであろう破局の予感のなかで恋をしていたのである。「三島由紀夫」は私にとって何の関係もない存在だった。いま、あれから四十年が過ぎて、「三島由紀夫」がそこにいて、「橋本治」と私が向きあっていることにつくづく人生の不思議を感じる。

 橋本治は三島の作品を精緻に分析して三島を語る。当たり前のようだが、そうではない。作品をそっちのけにして語られることがおかしくないほど、「三島由紀夫」は特異な存在だった。とりわけその唐突で不可解な死を遂げた後はそうである。だが、私は三島の死から演繹して彼の作品を語るべきではないと思う。『豊饒の海』のラストと三島の死を結びつけて論じるのはルール違反だ。この点で、私は橋本治の論の立て方に納得できないものがあるのだが、彼の同性愛を主軸にすえた作品論はすぐれたものだと思う。同性愛というものに関心の薄い私は、この評論を読んで「そうなのか~」と教えられることが多かった。でも、よくわかっていないと言わざるを得ないのだけれど。

 実は、この本の中で一番おもしろかったのは、最後の最後に「補遺」として書かれた「恋すべき処女__六世中村歌右衛門」の章だった。ここには三島由紀夫の「最愛の女優」といわれた六世中村歌右衛門と、三島由紀夫、そしてそれを論じる橋本治のすべてが炙り出されている。いろいろすごい言葉が並んでいるが、私が最も興味深かったのは「彼(歌右衛門)は、自分が演じようとする「女」が信じられないのである」という一文である。もちろん、こう言っているのは橋本治である。「六世中村歌右衛門」を論じて、論の対象との距離が近すぎる三島より、橋本治のほうが核心をついたものがあるように思われる。

 本論の中で取り上げられる作品は主に『仮面の告白』と『豊饒の海』、『禁色』、『午後の曳航』などである。先に述べたように、橋本治は三島の内部に入り込んで、三島の同性愛を中心に作品分析を組み立てる。それは、そのように読むことはもちろん可能で、おもしろいのだが、読んでいくうちに何だか「おもしろうて やがてかなしき」という気分になってきてしまう。その原因は、ことばにできるものとしては、この評論があまりに自己完結的だからだと思う。橋本治が自己完結的、三島由紀夫が自己完結的・・・・・三島由紀夫が自己完結的な作家であったことは疑いないことだったから、それを語る橋本治は自己完結的に語ったのか?いや、そうではなくて、橋本治は三島由紀夫のなかに、自分自身と同じ「自己完結的」という共通の資質をみいだし、なかば無意識のうちにそれを頼りに三島の文学の鉱脈をまさぐろうとしたのではないか。

 しかし、橋本治が三島の鉱脈から掘り出してきたものよりもっと豊かでエネルギッシュな、自己完結をつきやぶろうとするデーモンが三島にはある。三島の文学で重要なテーマでありながら、橋本治が触れなかったもの、それは「父」であり「天皇」であり、そして「女」である。

 橋本治は三島と「男」の関係については詳細に論じる。執拗に、といってもよい。だが、三島と「父」については全く触れないのである。『午後の曳航』は、「父」となった母親の愛人を主人公の少年が殺す小説であるが、橋本治はその中でこういう文章を引用している。

《ところでこの塚崎龍二といふ男は、僕たちみんなにとっては大した存在じゃなかったが、三號にとっては、一かどの存在だった。少なくとも彼は三號の目に、僕がつねづね言ふ世界の内的關聯の光輝ある證據を見せた、という功績がある。だけど、そのあとで彼は三號を手ひどく裏切った。地上で一番わるいもの、つまり父親になった。これはいけない。はじめから何の役にも立たなかったのよりもずっと惡い。》

 何故「父親になる」ことが即「地上で一番わるいもの」になることなのか。塚崎龍二という男は「小柄だが、逞しく迫りだした胸毛の生えた胸板を持ち、女に向かって雄々しく男根をそそり立てる男」だから殺されたのではない。「父」と呼ばれる存在になったから殺されたのである。

 もうひとつ『禁色』の隠されたテーマも「父殺し」であると思う。『禁色』についてはもっと読み込んで作品論を書いてみたいので、くわしくは述べないが、実に魅力的な教養小説、もっとわかりやすくいえば成長小説である。主人公の美青年南悠一は「父」に擬せられたメフィストフェレス檜俊輔という老作家を自殺というかたちで死に追いやり、のりこえて行く。莫大な遺産も手にする。

 橋本治は「父」を語らないので、当然「天皇」を語らない。『英霊の声』はもちろん、『憂国』も取り上げない。『憂国』は昭和三五年雑誌『中央公論」に深沢七郎の「風流夢譚」が掲載されることを知って、性急に執筆されたともいわれている。ここで詳しく述べる余裕はないが『金閣寺』もまた、「父」と「天皇制」が隠されたテーマであると私は考えている。

 そして最後に、橋本治は「女」を語らないのである。作家三島由紀夫の「祖母」を語り、「母」を語る。作品中の「母なる存在」についても語っている。「女方」については前述のように優れた考察がある。だが、「女」は不在なのだ。三島由紀夫に「女」は不在だったか。とんでもない。以前「面白すぎる純文学___三島由紀夫『仮面の告白』』というブログでも書いたように、三島の小説は魅力的な女_悪女に満ち満ちている。『仮面の告白』の園子、『禁色』の康子、『豊饒の海』の聡子、どれもすばらしい悪女たちではないか。

 私が一番驚いたのは、橋本治が『仮面の告白』の園子を「日本文学史上最も魅力のないヒロインである。」といってのけたことである。橋本治はよほど園子が嫌いらしく、「性的な抑圧が強くて偽善的__典型的な中産階級の娘である。なんの魅力もない」とダメを押す。ほう~!小説とは読み手によってこんなにもちがう捉えられ方をするのか。私は女で、そしてミーハー偏差値抜群なので、自分が園子になりかわったような気持ちでこの小説を読んだ。園子のようなことがあったらどんなにすてきだろう、と胸をドキドキさせながら読んだ。そう、橋本治のいうように、女は恋愛小説が好きで、私は女だから、この小説を、とくに園子が初々しい人妻となって「私」と再会してからラストまでをすばらしい恋愛小説として読んだのである。

 だから、最後に園子が「私」に「女を知ったか」ということをたずねたときの「私」とのやり取りについて、私は橋本治と決定的に異なった解釈をする。長くなるが、重要な場面なので、橋本治が引用するより少し前からぬきだしてみたい。

 とはいえこの場の空気が、しらずしらずのうちに園子の心にも或る種の化学変化を起させたとみえて、やがてそのつつましい口もとには、何か言い出そうとすることを予め微笑で試していると謂った風の、いわば微笑の兆しのようなものが漂った。
「おかしなことをうかがうけれど、あなたはもうでしょう。もう勿論あのことはご存知の方(ほう)でしょう」
 私は力尽きていた。しかもなお心の発条のようなものが残っていて、それが間髪を容れず、尤もらしい答えを私に言わせた。
「うん、・・・・・・知っていますね。残念ながら」
「いつごろ」
「去年の春」
「どなたと?」
 ___この優雅な質問に私は愕かされた。彼女は自分が知っている女としか、私を結びつけて考えることを知らないのである。
「名前はいえない」
「どなた?」
「きかないで」
 あまり露骨な哀訴の調子が言外にきかれたものか、彼女は一瞬おどろいたように黙った。顔から血の気がひいていくのを気取られぬように、あらん限りの努力を私は払っていた。

 橋本治はこのやり取りで、園子の追及を字義通りにとらえている。自分よりいい女が「私」の前にあらわれ、「私」はその女と交渉をもった。その女が誰か知りたくて園子は執拗に追求している、というのが橋本治の解釈である。そうではないだろう。園子はまっすぐにきいているだけだ。そして「私」の嘘を女の直感でみぬいているが、なんの衒いもなく思ったことを言葉にしているだけなのだ。いうまでもなく、それは彼女がすでに「女」でなおかつ自然で伸びやかな「女」だったからだ。もっといえば、その「女」を満たそうとしない「私」に焦れているからだ。

 何だかこれ以上書いていくと、ミーハー度満開の「女を語る自分史」になってしまいそうである。評論とは「他人をダシにして自分を語ること」だといった人がいたが、まさにそうなのかもしれない。著者には不本意かもしれないが、私はこの本を橋本治の自分史として興味深く読んだ。ここに語られている複雑な、そして自己撞着的な議論をじゅうぶん理解できたとはとても思えないが、そういう筋道もあるのだ、という発見をした。何より、もう一度三島を読みたい、と思うきっかけがあたえられたことに感謝している。

 ほんとうは大江健三郎の『晩年様式集』について書かなければ、と思っているのですが、もうひとつ集中できず、三島論に寄り道してしまいました。不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

   

2014年7月31日木曜日

たとえば薔薇___コクトー、三島、そして大江健三郎

 大江健三郎の『宙返り』を読んでいます。これも手強い。大江の小説では数少ない三人称の叙述であることで、ちょっと勝手が違う感じがする。そもそも、冒頭からして、状況が具体的に絵として描けない。で、ちょっと閑話休題。「薔薇」の話です。

 『燃え上がる緑の木』第二部「揺れ動く」は主人公ギー兄さんの父「総領事」の死を中心に語られる。ハイライトはその葬儀の模様で、篤志家「亀井さん」の資力で完成した礼拝堂で執り行われ、ギー兄さんはここで名実ともに「救い主」としてデヴューする。そのとき礼拝堂をみたしたのは、ニグロスピリチュアルの女声と「薔薇の奇蹟」_薔薇の香りだった。先のギー兄さんの妻だったオセッチャンの連れ子「真木雄」が礼拝堂の裏の湧水の出る場所に香りのもとを入れたのだった。

 おそらく亡くなった総領事が生前彼の身辺の世話をしていた真木雄にそのことを託していたのだろう。死を前にしてイエーツを貪るように読んでいた総領事のなかで、薔薇の香りと霊(スピリット)の本性の結びつきは緊密なものだった。葬儀礼拝の最後に、「やはり淡いものながら、新しく礼拝堂に満ちるようだった」と書かれる薔薇の香りのなかで、ギー兄さんは「《慰めぬしなる霊よ、われらにきたり給え》」と結んだのである。

 でも、なぜ薔薇の香りと霊(スピリット)が結びつくのだろう。私はイエーツの詩を原文でも日本語訳でも読んだことがなく、読んでも詩人の感性を理解できないかもしれない。西洋の神秘思想の源流の一つに一七世紀初めに突然出現して忽然と姿を消した「薔薇十字社」という秘密結社がある。イエーツは「黄金の夜明け団」という秘密結社に参加していたから、「薔薇十字社」の神秘思想の流れをくむものだった可能性はある。ヨーロッパの美術、文学における「薔薇」は特別な意味があるようだ。

 
 以前サリンジャーの「対エスキモー戦争前夜」でとりあげたコクトーの「美女と野獣」という映画のなかでも薔薇は重要な記号である。事の発端は美女ベルが、父親にお土産として薔薇の花を一輪所望したことなのだ。貿易商の父親は、あてにしていた荷が入らなくて一文無しになり、深夜迷い込んだ館の薔薇を手折おうとして、館の主の野獣に見つかってしまう。激怒した野獣の命令に従い、父親の身代わりになってベルは館に赴くのだ。そして最後に、王子の姿に戻った野獣はベルに二人のなかは「薔薇がとりもつ縁」だと言う。

 コクトーの映画の影響でもないだろうが、戦後一時期薔薇が流行ったことがあった。「薔薇」とかいて「しょうび」と読ませた雑誌があったような記憶がある。澁澤龍彦という作家が関係していたような気がするがたしかではない。たしかなのは三島由紀夫の薔薇への傾倒である。いまは稀観本となってしまった写真集『薔薇刑』はあまりにも有名だ。私は写真を見るのは好きだが、「解釈」しなければならない写真は苦手なので、高額な対価を払って『薔薇刑』を入手しようとは思わない。ネットで見られる限りの写真についての感想は、特にない。薔薇は何色なのだろう、白黒の写真だからよくわからないなあ、たぶん赤だろうが、写真では黒に見えて、黒だったら、ちょっとすてきだなあ、とか、ミーハー度満開の思いにひたったりしている。なかでひとつ、う~ん、という写真があって、それについてだけはつい「解釈」してしまいそうになる。「エノラ・ゲイ」ってこのこと?など。

 ちょっときわどい話になりそうなので、最後にウィキペディアでちゃんと調べた知識をひとつ。セオドア、フランクリンと二人の大統領をだしたルーズヴェルトという苗字はRoosevelt(ローズヴェルトともいう)で、「薔薇の畑」という意味だそうである。アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズヴェルトは野球が好きで、それにちなんで「ルーズヴェルト・ゲーム」というゲームもあるそうですね。そういえば、『ナイン・ストーリーズ』の中心に位置する「笑い男」では、「団長」の恋人の美女メアリ・ハドソンも毛皮のコートを身にまとい、はじめて握るバットをもって颯爽と登場、二塁打をかっとばしました。

 なんて余計な話です。

脈絡もなく思いつきの乱筆乱文を今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。
いまからまた、『宙返り』に戻ります。

2014年4月14日月曜日

三島由紀夫『宴の後』____シンデレラボーイにされた政治家

 功成り遂げた美貌の料亭女将が硬骨かつ高潔な老政治家に恋をして、彼の選挙のために情熱と知略と全財産をささげて戦い、破局をむかえる。言ってみればそれだけの小説で、よくできてはいるがどこに文学的興味を覚えればいいのか、との趣もある。この小説が有名になったのは、いまはごく普通の日本語となった感のある「プライヴァシー」の侵害という件で作者の三島由紀夫と小説を出版した新潮社がモデルとなった政治家有田八郎に提訴されたからである。

 政財界の要人が利用する高級料亭雪後庵の女将福沢かづは客として店で出会った元大使の野口雄賢に惹かれる。寡黙で朴訥でありながら事に当たって迅速な行動力を見せた野口は、過去を懐かしむだけの他の客と際立って異なっていた。妻を亡くして独り身を通していた野口とかづはどこか不器用ながらやがて結ばれ、正式に結婚する。

 結婚は天涯孤独で運命を切り開いてきたかづに「野口家の墓に入れる!」という安心感をもたらしたが、雪後庵の客は少しずつ減り始めた。雪後庵の客は保守党の要人で、野口は革新党の政治家だったからである。そのような状況で野口に都知事選立候補の要請があった。料亭経営に以前ほど熱情を傾けられなくなっていたかづは、野口の背中を押してこの要請を受けさせ、みずから主導権をとって動き始める。違反すれすれのなりふり構わぬ選挙運動もしたが、最後に相手陣営がかづの過去をスキャンダラスに暴露した文書を撒いたこともあって野口は敗れる。かづもありったけの金を使ったが、最後は保守党の金が勝ったのだ。

 落選した野口は陶淵明の「帰去来辞」のような生活を望むが、かづはそこにおさまることができる人間ではなかった。選挙戦のさなかにいったん閉めた雪後庵を再開しようと保守党のかつての顧客に奉加帳を廻したかづに野口は激怒し、二人は離婚する。物語の最後は、選挙参謀でかづのよきパートナーだった山崎という男が、雪後庵再開の招待状への返信としてしたためた手紙で締めくくられている。

 以上のあらすじは概ね事実に基づいていると思われる。もとより小説はフィクションなので、事実そのままでなくても訴えられることはない。だから原告の有田氏も「プライヴァシーの侵害」という抽象的な理由で提訴せざるを得なかった。だが、もう少し詳しく事実と小説の関係を見ていきたい。問題としたいのは、まず、有田氏と妻となった「かづ」こと畔上輝井の結婚生活についてである。

 小説の中ではかづは野口と知り合ってまもなく都知事選を迎えたように書かれている。だが、畔上輝井と有田八郎は大戦中の一九四四年に事実上の夫婦(入籍は一九五三年)となり、戦後はじめての衆議院議員選挙で有田は新潟一区から出馬し最高得票で当選している。その後一九五五年二回目の衆議院選挙で落選し、直後都知事選に立候補するがこれも落選、『宴の後』で書かれた選挙戦はその後一九五九年に再び行われた都知事選のものである。つまり有田氏と畔上輝井との結婚生活は少なくとも一五年は続いたのである。「紅の豚」のジーナではないが、「(この国では)人生はもうちょっと複雑なの」ではないか。

 また元大使の野口が学者肌で理想主義的な政治家として描かれていることも微妙な問題を孕んでいると思う。実際の政治家有田八郎はチャイナスクールと呼ばれるアジア通で、近衛、平沼、米内の三代の内閣で外務大臣を務め、日独伊防共協定を締結した人物である。終戦直前に天皇に上奏文を書いたことでも知られ、豪胆かつ実務的な政治家のように思われる。小説の中で、彼を潔癖で清貧の人として描くのは間違っているとはいえないが、政治家として有能な側面をないがしろにしている感が否めない。そのあたりが有田氏を提訴に踏み切らせた真の動機ではないだろうか。

 妻となった畔上輝井という人については資料がほとんど見当たらない。有田氏と知り合ったときすでに高級料亭「般若苑」の女将だったことは事実だが、その後三田に「桂」という料亭を出し有田氏の生活を支えた、といわれる。「桂」という店名は有田氏の実父山本桂の「桂」にちなんだかとも思われ、資金の出所が畔上輝井の側だけだったのかどうか疑問である。また「般若苑」についても、畔上輝井が実際に取得したのは一九四九年だったので、それまで所有していたのは誰だったのだろう。不思議なのは、小説の中でも実際にも、「超」がつくほどの高級料亭を女手ひとつでどうしたら手に入れることができたのだろうか、ということである。(つい最近高名な実業家が般若苑の跡地(もしくはその一部)を買って白亜の宮殿風建物を建てたということで話題になった)小説の中では、野口がかづに貢がれたシンデレラボーイとして描かれているが、普通に考えれば、まずシンデレラが畔上輝井だろう。

 三田の「桂」という料亭は、戦後まもなく起きた「辻嘉六事件」の舞台となった何やらきな臭い匂いもする場所である。『宴の後』裁判は案外奥の深いものだったのかもしれない。そもそもこの小説は激動の昭和三五年雑誌「中央公論」に連載されながら中央公論社から単行本として出版されず、新潮社から出たのである。作者三島がそれほどにもこだわって出版したのは何故なのだろう。ここに描かれる政治および政治家の姿はむしろ類型的で、一般読者の通念におもねっているようにも思われ、文学作品として心血を注ぎきったものとまではみえないのだが。

 ともあれ六〇年安保を境に日本の革新勢力とその運動は転換期を迎え、有田氏個人の政治生命は完全に終息したのである。

 書かなければ、と思いながらなかなか進まず、散漫な文章になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年3月19日水曜日

三島由紀夫『金閣寺』___「父」と「子」そして「母」の「家庭小説」___「非政治」という政治性

 水上勉の『金閣炎上』を読んでふたたび『金閣寺』を考えている。学者でも評論家でもなく小説読みビギナーとして、まず思うことは、なぜ三島由紀夫はこのように実像とかけはなれた人物を描きだしたのか、ということである。三島の『金閣寺』に登場する主人公「私」(溝口)、母、そして金閣和尚の道詮の人間像は水上勉『金閣炎上』の林養賢、母の志満子、慈海和尚とあまりにも異なっている。とくに林養賢と母の志満子は、『金閣寺』の中ではひたすら醜く、母の志満子は作中固有名詞すらあたえられず、養賢(「私」)は偏執的精神異常者の外貌をもつ。彼ら母子の人格の復権は、水上勉が『金閣炎上』を著わすまで二十年待たなければならなかった。三島が同じようなモデル小説『宴のあと』を書いたときは、モデルとされた有田八郎氏が社会的地位も高く、経済的にも知的にも充分な能力があったため、世に言う「プライバシー裁判」を起された。だが、『金閣寺』のモデルとなった林母子はなんら社会的地位のない庶民で、作品が世に出たときにはすでに死んでおり、遺族もまたもう事件に触れてほしくないという判断だったのだろう。死人に口なし、である。

 醜く狷介不羈で自尊心の塊りに描かれた主人公「私」(溝口)はいうまでもなく作者三島の自画像だろう。同じく障碍を負いながらそれを逆手にとって道徳的反逆者を標榜する柏木、この二人と正反対で悪意ということを知らないアポロンのような青年として登場し、あっけなく自殺してしまう鶴川、これらも同様に三島の自画像だと思われる。私見では、『金閣寺』には主人公「私」と、「母」、そして道詮老師の三人しか登場しない。冒頭登場して恋人に撃ち殺される有為子は女=母の象徴である。柏木に捨てられる美しい女たちは生き残った有為子だ。最後に「私」を性の世界にみちびくまり子は、反転した「母」だと思われる。そして道詮老師は、あっけなく死んでしまった「私」の「父」に代わる『父』であり、富と権力をほしいままにする存在である。要するにこの小説は、「父」と「母」と「子」の三者が複雑にからみあう「家庭小説」なのではないか。だとすれば、ここにあるのはどす黒い近親憎悪だろう。

 いまその近親憎悪の様相を精緻に分析するつもりはない。問題にしたいのは、「父」「母」「子」という三者に介入してくる他者の不在ということである。「家庭小説」の中に「社会」がないのだ。金閣放火はあくまでも「私」と『父』道詮老師の関係の破綻を契機に、「私」が生きるために行われる。

 「私」と老師の関係が緊張を余儀なくされるのは、進駐軍兵士の子を孕んだ娼婦の腹を「私」が踏んで女を流産させた出来事が契機となる。ここになんらかの政治的寓意をうけとることも可能かもしれないが、このエピソードから読み取るべきは、女の腹を踏むよう米兵に強制された「私」が、その行為にひそかな快感を覚え、それに気づきながら知らないふりをした老師のなかに「私」が自分と同質のものが存在するのをさとった、ということである。「私」は隠微な背徳の喜び老師と共有したと感じたのだ。「老師は、私の感じた中核、その甘美さの中核を知っていた!」

 関係が決定的に破綻にいたるのは、「私」が偶然に、あるいは物語的には必然に、和尚が女連れでハイヤーに乗り込むのを見てしまった事件から始まる。雑踏のなかをひとりで歩いていた「私」は芸妓と連れ立って歩いていた老師を見つけ、とっさに自分が見られたことを危惧した。だが、なぜかぼろぼろの風体をした黒い尨犬のあとを追ううちに再び老師と出会ってしまう。動顚した「私」は、発すべき言葉を出せないままに、和尚に向かって笑いかけてしまう。そして老師は「馬鹿者!わしをつける気か」と叱咤したのである。

 この事件の後、「私」はあの日の出会いがなかったかのような老師の無言に耐えられなくなっていく。ついに「私」は老師の連れていた芸妓の写真を買い、それを新聞の間に挟んで老師に届ける。脅迫ともみえる行為をなした「私」の心理を作者はこう説明している。
 「自室に坐って、学校へ行くまでのその間、鼓動のいよいよ高まるのに任せながら、私はこうまで希望を以て何事かを待ったことはない。老師の憎しみを期待してやった仕業であるのに、私の心は人間と人間とが理解し合う劇的な熱情に溢れた場面をさえ夢みていた。」

 当然のことながらこんな空想は実現するはずはなかった。老師は女の写真を紙に包み「私」が学校に行っている間に「私」の机の抽斗に入れておいたのである。写真は「私」から老師へ、老師から「私」へ、ひそかに届けられ、同じようにひそかに返還された。そして、老師が人目を忍ぶ行為を余儀なくされ、そのことが「私」への憎しみを産んだ、という思いは「私」のなかで「得体のしれない喜び」となった。「私」と老師は憎しみを媒介に結ばれたのである。

 この結びつきは老師の一方的な決別宣言で崩壊する。老師は「私」を金閣の後継にする意志がない、と言い渡したのである。その返答として「私」はまたしても別事を言う。老師が「私」のことを隈なく知るように、「私」も老師を知っている、と言ったのである。それは表面的にはハイヤーに女と一緒に乗り込んだことを指すが、より深層の次元では背徳の喜びを共有していることを示唆している。それに対する老師の答えは、「私」が老師を知っている、ということを否定するものではなく、知っていても何の益にもならぬ、というものだった。老師は現世のすべてを見捨てているのだった。背徳の喜びまでも。___「私」は出奔を考えた。自分のまわりにただよう「血色のよい温かみのある屍」の漂わす「無力」から遠ざかりたかったのだ。「無力」ではないが、「凡ての無力の根源である」金閣からも。

 柏木に旅費を用立ててもらった「私」は海に向かった。「西舞鶴」で列車を降り、河口沿いを歩いて荒涼とした晩秋の由良の浜に着いたのだった。そしてそれは「正しく裏日本の海だった!私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと力の源泉だった。」と書かれる。海は「私」に親密だった。私は自足し、何ものにも脅かされず、ひとつの想念につつまれた。『金閣を焼かねばならぬ』

 想念を現実の行動に移すにはもうひとつの力がはたらかねばならない。「私」は逗留先の宿の女将に警察に不審者として通報されたことから居所が知れ、再び金閣に戻ったが、寺の門前に待っていたのは母だった。その母の醜く歪んだ顔を見下ろして、「私」は母から解放されたと感じる。

 「・・・・・・しかし今、母が母性的な悲嘆におそらくは半ば身を沈めているのを見ながら、突然私は自由になったと感じた。何故であるかは知れない。母がもう決して私を脅かすことはできないと感じたのである。」

 「私」を脅かしていたのは母だった、と書かれていることは興味深い。醜い母、どこまでも醜さが強調される母、その醜さの根源にあるものが「希望」だと書かれていることも。

 「湿った淡紅色の、たえず痒みを与える、この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰っている頑固な皮癬のような希望、不治の希望であった。」

 身をもち直すよう哀願する母の姿が、「私」の絆しを断ち切って、想念を現実の行動へと踏み出させたのである。

 この後「私」が束ねた藁に燐寸の火をつけ金閣を焼くにいたるまで、じつはかなり複雑な心理のあやが、とくに老師との間の微妙なそれが語られるのだが、長くなるのでいまはその部分を割愛したい。だが、放火決行の直前にたまたま金閣を訪れた生前の父の友であり、老師の友でもある禅海という禅僧との「私」の会話について、書いておきたい。禅海和尚は老師と正反対ともいえる豪放磊落、直情の人として描かれる。「私」は和尚に酌をしながら、自分がどう見えるかを問う。善良で平凡な学僧に見えるという和尚に、「私」は「私を見抜いて下さい」と言う。そして和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と判断を下す。この言葉が「私」を走りださせたのである。

 「私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になった。その空白をめがけて滲み入る水のように、行為の勇気が新鮮に湧き立った。」

 この最後の会話の部分は謎である。「私」と老師=『父』との葛藤に結末をつける行為に向けて、最後に背中を押した会話は禅問答のようである。「禅海」和尚もまた『父』なのか。

 そして最後、闇のなかに絢爛と輝く金閣を観照し、「私」は「弱法師」の俊徳丸の日想観を思う。ここにもまた、「父」と「子」がある。

 駆け足で、粗雑に筋書きを追った文章になってしまいました。ほんとうは、『金閣炎上』にある「東山工作」をまったく取り上げないこと、敗戦の日に道詮和尚が「南泉斬猫」の講話をしたことなど、三島がこの作品から「政治」「社会」を徹底的に遠ざけたことについて、もっと書きたかったのですが、それはまた別の機会にしたいと思います。「政治」を遠ざけるということ、そのことが完全に政治なのですが。

 今日も不出来な文章を読んでくださってありがとうございます。

2014年2月25日火曜日

三島由紀夫『金閣寺』序論___生きるために殺す___「モデル小説」という「私小説」

 ミイラ取りがミイラになって、いつまでも三島にかかわっています。でも、やはり大江健三郎に戻っていかなければならないと考えているので、三島についてはこの『金閣寺』と『宴のあと』という二つの作品を取り上げて一応の区切りとしたいと思います。

 読めば読むほど三島由紀夫は端整な作家である。ほとんどの作品が起承転結が完璧で描写も的確なので、きちんと読めばちゃんとわかるように書かれている。わからないのはこちらの読み込みが足りないか、理解力が不足しているのである(要するに私が馬鹿だということ)。小説『金閣寺』は冒頭
 「幼時から父は、私によく、金閣のことを語った。」
と始まる。さらに
 「父によれば、金閣ほど美しいものは地上になく、又金閣というその字面、その音韻から、私の心が描き出した金閣は、途方もないものであった」
と続く。主人公の「私」にとって、まだ見ぬ金閣は「金閣寺」そのもの自体だけでなく、この世の至上の美すべての象徴であった。

 一方「私」は体力、容貌に劣等感をもつ吃音障害の少年だった。外界への融通無碍な働きかけに障害をもつが故の権力への志向、それと表裏一体の徹底した孤独を養って「私」は育っていった。そして「私」は「この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待っているような気がしていた」と語るのである。

 その「使命」とは何かを考える前に、僧侶としての修行に入る前、中学生のときの二つのエピソードを取り上げてみたい。一つは海軍機関学校の生徒の美しい短剣に切り傷をつけたことである。休暇をとって母校に遊びにきた眩くも凛々しい海兵生徒の(みずからも自覚している)数年後の死を待ちながら、待つことの重みに耐えかねて、「若い英雄の遺品」に見えた短剣を傷つけたのだった。

 もう一つは「有為子」という美しい娘の死を語るエピソードである。「私」は夏の朝有為子を待ち伏せしたが、自転車に乗って現れた彼女を前にして「石」と化してしまった。ベルを鳴らしながら傲然と去った有為子の告げ口で、面倒をみてもらっていた叔父から叱責された「私」は有為子の死をねがうようになる。
 「私は有為子のおもかげ、暁闇のなかで水のように光って、私の口をじっと見ていた彼女の眼の背後に、他人の世界__つまり、われわれを決して一人にしておかず、進んでわれわれの共犯となり証人となる他人の世界__を見たのである。他人がみんな滅びなければならぬ。私が本当に太陽に顔を向けられるためには、他人が滅びなければならぬ。・・・・・」

 そしてそのねがいは成就する。海軍の脱走兵と恋に落ち、妊娠した彼女は志願看護婦として勤めていた病院を追い出され、憲兵に捕まる。囮となって恋人の潜む名刹の御堂に向かった有為子は恋人の脱走兵に撃ち殺されたのである。有為子は囮になることで恋人を裏切ったが、「裏切ることによって、とうとう彼女は俺を受け容れたんだ。」と思った「私」をも裏切って死んだのだ。死んだ有為子は美と愛と憎しみの象徴として「金閣」と同値の存在となったのである。

 「金閣」は、「私」がそれから疎外されているが故に、「私」にとって至上の美であり、唯一の愛の対象であった。そしてまた「それ故に」「凡ての無力の根源」でもあった。この図式から、「私」が生きるためには、十全に生きるためには、「金閣」を焼くことは必然という結論が導き出されることに障害はない。決行の当夜、闇の中に燦然と輝く幻の金閣を見て、激甚の疲労に襲われ、行為を躊躇う「私」に記憶の底から言葉が近づいてくる。
 「裏に向かひ外に向かって逢着せば便ち殺せ」
 「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘わらず透脱自在なり」

 以上は『金閣寺』という小説から、観念的、形而上学的な骨組みだけを取り出して試みた分析である。小説はプロットだけで成り立つものではもちろんないので、作中魅力的な人物が複数造型され、それぞれ重要な役割を果たす。「私」と正反対のアポロンのような存在として描き出されるが最後に自殺してしまう鶴川、「私」と同様に障害をもち、それを生きるために徹底的に利用する柏木、「私」の生殺与奪の権を握り、しかもそれを容易に行使しようとしない道詮和尚、「私」をごく自然に「全く普遍的な単位の、一人前の男として扱」ったまり子。とくに道詮和尚は、「私」を罰しない(=「私」に応答しようとしない)ということで、私」を放火に追いやった。そしてまり子は「私」と外界との壁をあっけなく融かしてしまい、そのことが「企図」の段階にあった放火を「行為」へと踏み出させたのである。これらの人物があまりにも生き生きとリアルに描かれているので、ある種通俗小説を追いかけているかのような錯覚に陥ってしまう。だが、これは純文学である。

 何故ならこれは「モデル小説」をよそおった「私小説」だからだ。この小説は主人公の「私」の疎外感の原因が吃音障害であるという出発点と、最後に放火の後「生きようと私は思った」という結末と、その両方とも事実と異なっていると思われる。吃音障害は生得のものではない。言語を習得し使用できるようになる幼児期の何らかの心理的抑圧が原因である。私見だが父子関係の軋轢によるのではないだろうか。だが、この小説で描かれるのは、ひとつ蚊帳の中で母親が不倫の行為をしているのを見ないように子供の目をふさぐ弱く卑怯な父親である。吃音障害と無力な父親という設定は矛盾している。また、最後に放火した後、現実の放火犯はカルチモンを飲んで切腹を図っている。彼は「金閣」とともに「死のう」としたのだ。

 「金閣」を焼いて「生きよう」と思ったのは「私」なのだ。「私」は「金閣」を焼かなければ生きられないと思ったのだ。_______では、「金閣」とは何か。

 『金閣寺』については、機会があれば本論を書いてみたいと思っています。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

2014年1月22日水曜日

三島由紀夫『仮面の告白』___面白すぎる純文学

 いまはほとんど議論の対象にならなくなったけれど、一時期かなり真剣に「純文学とそれ以外の小説」の区別が問題になったことがある。純文学とそれ以外__中間小説、大衆小説と呼ばれていた__では発表される雑誌も違っていた。いずれのジャンルの小説も、いま考えると不思議なくらい量産されていて、毎月発行される雑誌も御三家(新潮社、文芸春秋、講談社)中心に数多かった。当時の流行作家だった瀬戸内晴美(寂聴)が「挿絵がついていないのが純文学で、挿絵つきはそうでない」という定義をしていて、そうなのか、と納得した覚えがある。その当時もいまも「純文学」というものを読んでわかった気になったことは一度もないのだが。

 三島由紀夫は当時最もきらきらした流行作家で、かつ純文学の作家だった。ただ、私の文学体験が折口信夫全集からはじまるかなり特殊なものだったので、同時代人としての三島に関しては、高校の読書感想文の課題図書となった『潮騒』を読んだ、というより読まされた記憶しかない。当時の私にはさっぱり面白くない作品だった。純真だが貧乏で粗野な若者と美貌の資産家の娘が愛し合って、試練を乗り越えて結ばれる、というハッピィ・エンドの物語のどこに文学的興味をもてばよいのかわからなかった。いま読み直すと、この小説は、神話的枠組みの中で、どこまでも健康に異性間の愛と純潔を語り上げたという点で、三島の他の作品と際立って異なっていると思われる。

 純文学かそうでないかの区別に話を戻すと、私なりの区別の仕方があって、それは、作品を読んだあとの後味のちがいである。純文学は、読み終わって、また同じその作品をもう一度読みたくなるのだ。読後に感動とともに謎が残っているので、それをつきとめたくなるのだろう。読み終わって、「ああ面白かった。で、次は何を読もうか」と未練なく読み捨てられるのは純文学ではない、という独断と偏見にみちた私の判断基準からいえば、上記の『潮騒』はまぎれもなく純文学である。だが、それ以外の三島由紀夫の作品は、いま読むとどれもあまりにも面白くて、しかも次の作品が読みたくなり、これがはたして純文学なのだろうか、と思ってしまう。私は三島の遺作ともいうべき「豊饒の海」四部作から読みはじめたのだが、それからやめられなくなって手当たり次第に濫読している。(なのでちっともブログが書けませぬ)

 「豊饒の海」四部作については、いつかきちんとしたものを書きたいと考えている。それから、これはまちがいなく「純文学」であり、大江健三郎や深沢七郎にも大きな刺激と影響を与えた「憂国」も取り上げたいと思っているが、ここではあまりに面白い純文学として「仮面の告白」について、少しだけ書いてみたい。

 有名な小説なのであらすじを紹介するまでもないと思う。三島由紀夫が二十四歳の時に書かれた「ゐたせくすありす」だといわれている。「自分が生まれた光景を見た」という不思議な体験を語ることからはじまるこの小説は、「近江」という少年への恋、残虐と恍惚が入り混じった死への異常な関心と傾斜、異性に対する不能を語りながら、「園子」という美貌の少女を登場させる。戦時下にこんな生活があったのかと思うような別世界で、天真爛漫で育ちのよい園子は語り手の「私」を愛する。その一途な愛が、あまりにも一途なので、かえって愛されている「私」を嫉妬させるほどに。だが「私」は愛を成就させることはできない。

 「愛の不能」が三島の作品だけでなく、世界的な文学や芸術のテーマであった時代が当時だったのかもしれない。なんだかよくわからないけれどそんなようなテーマをうたったフランス映画を観に行った記憶がある。でも、いま「仮面の告白」で取り上げたいのは、そんな観念的なテーマについてではない。一途に「私」を愛する園子の見事な悪女性について、である。園子が悪女だとは作品の中に一言も書かれていない。少女期特有の甘やかな感傷を身にまとい、園子は純粋に「私」を愛そうとする。「私」も彼女以外に真剣に想う相手はいない。彼女と「私」の間に愛を阻む条件はないのである。戦時下で頻繁に空襲があり、いつ日常が断たれるかという状況はあっても、それだからむしろ一層園子の愛はまっすぐなのだ。純粋な善そのもののような園子を三島は身も凍るような悪女にしたのである。

 「私」は園子の家から正式に縁談がもちこまれそうになると、逃げてしまう。そして原爆が落とされ戦争が終わった。官吏登用試験を目前にしている「私」は「偶然に」園子と再会する。配給の蒟蒻が入ったバケツをもって「私」の前に現れた彼女は人妻になっていた。その後再び彼女の兄の家で出会った二人は逢瀬を重ねるようになる。「どうして私たち結婚できなかったのかしら。」「あたくしをおきらいだったの?」とたずねる園子に、今度は「私」は「もう一度二人きりで会えない?」と誘い、彼女もそれに応じたのだ。どこまでいってもプラトニックな関係のままで。このかぎりなく狡猾で隠微な関係を三島はこう描写する。

 私たちはお互いに手をさしのべて何ものかを支えていたが、その何ものかは、在ると信じれば在り、無いと信じれば失われるような、一種の気体に似た物質であった。これを支える作業は一見素朴で、実は巧緻を要する計算の結果である。私は人工的な「正常さ」をその空間に出現させ、ほとんど架空の「愛」を瞬間瞬間に支えようとする危険な作業に園子を誘ったのである。彼女は知らずしてこの陰謀に手を貸しているように見えた。知らなかったので、彼女の助力は有効だったということができよう。

 しかし破綻はまちがいなくやってきた。再会から一年経った晩夏のある日、逢引の場所のレストランでの会話である。

 彼女は指輪のきらめく指でプラスチックのハンドバッグの留め金をそっと鳴らした。
「もう退屈したの?」「そんなこと仰言っちゃ、いや」
何かふしぎな倦怠が彼女の声の調子にこもってきこえる。それは「艶やかな」と謂っても大差のないものである。

 この後、夫に対する良心の呵責から受洗を考えているという彼女を誘って「私」は行き慣れぬ踊り場に足を運ぶ。そこで出会った名もしらぬ半裸の若者の肉体と刺青に「私」は突然の情欲に襲われる。忘我のうちに幻想を見ていた「私」は園子の「あと五分だわ」という叫びに我にかえる。彼女の逢引に使える時間は逼迫していたのだ。しどろもどろで取り繕う「私」に彼女はこう言うのだ。

 ・・・やがて そのつつましい口もとには、なにか言い出そうとすることを予め微笑で試していると謂った風の、いわば微笑の兆しのようなものが漂った。
「おかしなことをうかがうけれど、「もう」でしょう。「もう」勿論あのことはご存知の方(ほう)でしょう」

 彼女は、「私」が女を買おうとして自分の不能を確定させた一晩の経験を知っているはずはない。ただ、彼女のなかの「女」がこう言わせたのである。それがたわむれな、あるいは偶発的なものでない証拠に、彼女はさらにたたみかけて聞くのだ。

 私は力尽きていた。しかもなお心の発条(ばね)のようなものが残っていて、それが間髪を容れず、尤もらしい答えを私に言わせた。
「うん、・・・・・・知っていますね。残念ながら」
「いつごろ」
「去年の春」
「どなたと?」

 「私は」、執拗に相手の名を聞く園子に「きかないで」と答えるのがやっとだった。完膚なきまでにたたきのめされた「私」の心象風景を三島はこう描写して一編を閉じる。

 ___時刻だった。私は立ち上げるとき、もう一度日向の椅子のほうをぬすみ見た。一団は踊りに行ったとみえ、からっぽの椅子が照りつく日差しのなかに置かれ、卓の上にこぼれている何かの飲み物が、ぎらぎらと凄まじい反射をあげた。

 こんなにも魅力的な悪女を書き得たのが弱冠二十四歳の青年だったということが信じられない。園子をこのような悪女に造型するために、「私」は性的倒錯の不能者として描かれなければならなかったのだが、現実に女を知らない人間が書ける小説ではないのは言うまでもない。このあとも三島は次々と魅力的な悪女を書いてく。というより、『潮騒』のような例外を除けば、三島は悪女だけをかいたのではないか。遺作となった「豊饒の海」は悪女のオンパレードのように思われる。

 大江健三郎を読み解くために三島由紀夫に取り組んだつもりだったのですが、やはり地がでて、ミーハー度満開の読書感想文になってしまいました。今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。