2020年10月28日水曜日

三島由紀夫『奔馬』__「佐和」という存在___父と子の相克

   前回の投稿から随分長い時間が経ってしまった。書けない理由はいくつもあって、いろいろ総合すると、私の能力不足という厳然たる事実に行きつく。もう三島由紀夫につきあうのはこれまでにしようか、と思ったりもするのだが、それでも、力不足ながら、『奔馬』という小説のもっとも魅力的な登場人物(と思っているのは私だけかもしれないが)「佐和」について少しだけ書いてみたい。

 佐和は、『奔馬』の主人公飯沼功の父茂之の経営する「靖献塾」という右翼団体の最年長の塾員で「呆れるほど非常識な、四十歳の、妻子を國に置いて出てきた男である。肥って、剽軽で、暇さえあれば講談倶楽部を讀んでゐる。」と紹介される。他の塾員とは親密な関係を結ぶことがない__そのように父茂之が配慮している__勲にとって、唯一親しく話すことができるのが佐和だった。

 「神風連史話」に傾倒する勲は、同志を募って、腐敗した政、財界の要人を殺そうと企てる。一人一殺である。勲たちに理解を示す陸軍の中尉も参加することが期待され、二十人の同志の結成式もすませていた。その勲の計画を、何故か佐和が気づくのである。

 十月のある晴れた日、佐和は一人で下着を洗濯している。佐和は、いざというときに男は純白の下着をつけていなければならない、と常々言って毎日洗濯に精を出しているのである。靖献塾は塾頭始め、佐和以外皆出はらっている。大学から帰ってきた勲に、佐和は、勲たちがひそかに計画を練ろうとしている集まりに自分も参加したいと言い出す。勲は困惑するが、佐和はその場ではそれ以上深追いせず、自分の部屋に勲を誘って、今度は靖献塾の内幕を暴露する。

 ありていに言えば、勲の父茂之は三年前に巧妙かつ周到な強請をはたらいて、大金を得たのである。使い奴のさきがけとなって先方に赴いたのが佐和だった。思想を生業とする人生で、生活の糧を得るには、もっとも効率の良い方法なのだろう。これで靖献塾は裕福になったのである。「正義」とは、勲が帰宅途中で見かけた紙芝居の「黄金バット」のように、異様な金色のグロテスクな姿をしているものなのかもしれない。

 だが、勲をひどく愕かせたのは、最後の佐和の言葉である。誰を殺ってもいいが、蔵原武介はいけない。そんなことをすれば、飯沼先生が誰よりも傷つく、と佐和はつけたしのように言ったのだ。

 いったん自室に戻った勲は、木刀を提げて再び佐和の部屋を訪れる。先ほどの佐和の言葉の真偽を糾そうとしたのだ。父は大悪党の蔵原武介と本当に関係があるのか、と。ところが佐和は、勲の「現実が認識したい」という言葉を逆手にとって、「現実がわかると確信が変わるのか」と問い、それなら勲の志は幻にとらわれていたというのか、と逆襲するのである。

 勲は言葉に詰まるが、佐和が本当のことを言うまで動かない、と部屋に居座る。しばらくして、佐和は押入れから白鞘の短刀を取り出してそれを抜く。そして、蔵原を殺すのは自分にやらせてくれ、と懇願し、咽び泣くのだ。

 いったい佐和は、何故、勲に父茂之と蔵原の関係を暴露し、どうしても勲たちが蔵原を殺すなら、自分を同志に加えてくれ、というのか。靖献塾の大事な後継で、塾頭茂之の愛する勲を守る一心だろうか。それとも、佐和自身が悪党蔵原を殺さねばならない、と思い詰めているのか。

 佐和の泣く姿を見ているうちに、勲の方に余裕が生まれる。自分たちは「明治史研究會」なるものの会員で、集まって気焔をあげているだけだ、としらを切ったのである。勲は、心の中で、佐和が個別に蔵原を刺すなら、それでいい、と判断した。仮にも、それを言葉でみとめてはならない。彼は「指導者」になったのである。

 ところが、佐和の方が一枚も二枚も上手だった。勲の親友相良の家に「明治史研究會御一同様」という書留が届く。相良が勲たちが秘密に集まる場所に持参したその書留の中には、佐和が郷里の山林を売って作ったという千円が入っていた。そればかりか、佐和は、どうやって嗅ぎつけたのか、勲が新たに借りた隠れ家に現れ、一同を前にして、彼らの誓いの言葉を唱えるのである。

 佐和はたんに勲たちの仲間になっただけではない。勲たちの計画を実現可能なものとするために選択と集中の指針を与え、その実践のための具体的なやり方を示したのである。そして、蔵原武介殺害の役割をみずから担うことを否も応もなく決定し、いつか勲に見せた白鞘の短刀で人を刺す要領を、巧みな言葉とたしかな実技で教えたのだ。

 いよいよ決行を二日後に控えた十二月一日の朝、塾長の使いで外出した佐和を除く一同十一人が集まっていた隠れ家に警察が踏み込んできて、全員が捕まってしまう。佐和も靖献塾に戻ったところを逮捕される。一件は「昭和神風連事件」と名付けられ、世間を騒がせるが、一年の裁判を経て下された判決は、被告人全員の刑を免除する、というものだった。世間の風潮もまた、有為の若者にたいする同情に満ちていたようだった。

 判決の出た昭和八年十二月二十六日から三日後二十九日、皇太子命名の儀がある日、勲は佐和を誘って宮城前の提灯行列に参加する。群衆の中で佐和をまいた勲は、銀座に引き返して短刀と白鞘の小刀を買い、熱海の蔵原武介の別荘に忍び込み、佐和に教わった通りのやり方で、短刀で彼を刺した。それから、蜜柑畑の蜜柑を一つもぎとって食べ、白鞘の小刀を腹に突き刺したのだった。

 さて、佐和とは何者なのか。勲にとって、佐和はどのような役割を果たしたのか。その行動は謎に満ちている。そもそも、決行二日前に、勲たちの計画を父の茂之に伝えたのは勲を愛する槇子だが、佐和は最初から勲の計画、というより意志を知っていた。四谷の隠れ家の場所も知っていたのである。佐和が超優秀なスパイの訓練を受けていたのでないとすれば(もしかしたらその可能性もあるかもしれないが)、勲からすべてを打ち明けられていた槇子から聞いていた、としか思われない。槇子と佐和は、勲の知らないところでつながっていたのだろうか。

 また、槇子の密告は、勲を牢屋にぶち込んで、自分一人のものにしたい一心からだという佐和の言葉は本当だろうか。本当のようにも思われるし、そうでないようにも思われる。

 それから、最後に、最も重大な謎がある。提灯行列の群衆の中で勲を見失った佐和は、なぜ、「群衆のなかをあてどもなく四時間も」探した後、靖献塾へ帰って勲の失踪をつげたのか。三日前塾生が蔵原武介の不用意な不敬行為を報じる新聞を勲に見せたとき、すばやくそれを奪い取ったのは佐和である。勲が姿をくらませば、蔵原の別荘を目指すことは十分予想できた。すぐに父の茂之に連絡をとって、蔵原の別荘を警戒させれば大事に至らなかったはずである。

 目くるめくような絢爛豪華な悲劇『春の雪』の登場人物を影で動かしていたのは、蓼科という老女だった。清顕と聡子は蓼科の掌の上で遊ばされていたようにも思われる。蓼科は、エデンの園で、アダムとイヴに罪を犯すようにそそのかした蛇のような役割を果たすのだ。その後、蓼科は『奔馬』の次の『暁の寺』に再登場して、空襲で焼け野原になった東京の旧松枝邸で本多と再会する。九五歳!という設定で、化け物のような厚化粧をして、本多のくれた生卵をその場で食べてしまう。蛇の本性をあらわしたかのように。

 『奔馬』で蓼科と同じような役割を果たすのが佐和だが、佐和は蓼科のようにグロテスクに誇張されたキャラクターではない。飄々ととらえどころがなく、それでいて行動も頭のはたらきも俊敏である。だが、その存在は両義的で謎に満ちている。勲に蔵原武介を殺させたのは、まぎれもなく佐和だが、はたしてそれは佐和の本意だったのか。それとも「上手の手から水が漏れた」のか。

 勲は蔵原武介を殺した。そして、夜の海の気配にかこまれて自刃した。「父殺し」は成就したのか。それとも「子殺し」が成就されたのか。

 「父と子の相克」という主題は最終作第四部の『天人五衰』に持ち越されるのだが、それについて書くことができるのは、まだかなり先のことになってしまうかもしれない。というより、『暁の寺』以降、作品のトーンがあまりにも変わって、なんだか三島由紀夫の形而上学や心理学を読まされているような気がして、魅力的な登場人物を見つけられないのである。私の知力、教養が圧倒的に足りないのだろうと思うのだが。

 三か月ぶりに書いてみて、あまりの不出来に愕然としています。最後まで付き合って、読んでくださって、本当にありがとうございます。

 

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