黒衣の美女サリー・ヘイズとの惨憺たるデイトのあと、ホールデンはかつてフートンの先輩だったカール・ルースと会う。なぜか夜十時という時間に現れてさっさと帰ってしまったこのルースのことも、それから順序は前後するが、グランド・セントラル・ステーションでホールデンと朝食をともにしながらシェークスピアの話をした尼さんのこと、またペンシーの学友二人アクリーとストラドレーターについても書かなければならないのだが、いまはまず、アントリーニ先生について考えてみたい。ホールデンは三日間の逃避行?の最初と最後に「先生」と名のつく人に会うのである。
妹のフィービーに会いたくて、ホールデンは自宅マンションにしのび込む。だが、そこで夜を明かすことはできないので、かつてエレクトン・ヒルズで英語を教わったアントリーニ先生に電話して泊めてもらうことにする。まだ若い先生にはリリアンという六十くらい(!)年上の大金持ちの奥さんがいて、二人の仲はうまくいっているようだが、不思議なことにこの夫婦は同時に同じ部屋にいることがないので、いつも大声で叫びあっている。この夜も先生の方はハイボール片手にバスロープ姿で現れたが、奥さんは「ホールデン、ちょっとでもあたしを見ちゃだめよ。ひどい格好なんだから」と言って姿を隠そうとする。折りしも「バッファローから来た女房の友だち仲間」とパーティをしていた後で、あたり一面散らかり放題のようである。
アントリオーニ先生は「僕がこれまで接した中で一番いい先生だった」とホールデンはいう。ホールデンがエレクトン・ヒルズをやめた後も彼の様子を見に家を訪れて食事をともにしたり、ホールデンの方が先生の家に行ったりしていた。この夜ホールデンは極度の体調不良で早く休みたかったのだが、酩酊状態の先生は熱っぽく語ってやまない。
先生はホールデンが「どこまでも堕ちて行くだけ」の「特殊な堕落」「恐ろしい堕落」に向かって進んでいると言う。彼が「きわめて愚劣なことのために、なんらかの形で高貴な死に方をしようとしていることが」はっきりと見える、というのだ。そして、ウィルヘルム・シュテーケルという精神分析の学者の言葉「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」を書いた紙をホールデンに渡す。
さらに先生は学校教育について説き始める。ホールデンは遠からず自分の進むべき道をみつけださずにはいられない。そのときは直ちに学校に入らなければならない、というのだ。そこで自分と同じような経験をして同じような悩みを悩んだ先人の記録に学び、自らもその経験を人に与えることが出来れば、それは「美しい相互援助」というものであり、「こいつは教育じゃない。歴史だよ。詩だよ」と興奮してとどまるところを知らないかのようである。ホールデンのほうは何故か急に眠たくなってあくびをかみころしていたが、先生が「学校教育を続けていけば『自分の頭のサイズ』がわかりかけてくる」というくだりまで話したところでついにあくびをしてしまう。ようやく先生の演説が終わり、ホールデンは窮屈なベッドに身を横たえる。
出来事が起こったのはその後である。あっという間に眠り込んでしまったホールデンだったが、誰か手で頭をさわったのに気がついて突然目を覚ましてしまう。アントリーニ先生が床に坐ってホールデンの頭を愛撫していたようなのだ。ホールデンは「一千フィートばかしも跳び上がった」。そしてなんとか身支度を整えると、どうしても見つからないネクタイはしないまま、先生の部屋から逃げ出したのである。
ホールデンはどうしてそんなに怯えたのだろうか。信頼していた先生が同性愛者だったとしても、「身体が気違いみたいに震えて」汗びっしょりになるほど恐ろしい体験だろうか。こういうことは「子供の頃から二十回ほど」も繰り返した、というが二十回繰り返してもなお「がまんができない」体験?それにしては、前述のカール・ルースとの会話で、ホールデンはルースの性生活について同性愛も含めて話題にしているが、その話ぶりは執拗で、異常といってもいいくらいな執拗さに違和感を覚えるほどだ。話題にすることと実際に体験することとはまったく違うのだろうか?
アントリーニ先生とホールデンの会話はほとんど先生が一方的に熱弁を振るって高邁な教育論を語るのだが、妙に具体的でトーンの異なる箇所がいくつかある。その一つはホールデンが話題にした《弁論表現》の授業について、本題と無関係なことを言って《脱線!》とどなられてばかりいた生徒をホールデンが擁護する場面である。気が小さくて唇のふるえがとまらないこの生徒はいつもこの課目で《Dの上》だったが、あるとき父親が買った農場のことを話していて、途中で彼のおじさんが四十二のときに小児麻痺になったことを興奮して話だした、というのである。それに対してクラスの他の生徒たちは《脱線!》を浴びせかけるが、ホールデンはそのまま話さしてやるべきで、しょっちゅう「統一しろ」「簡潔にしろ」とばかり言う担当の教師も他の生徒たちも間違っているという立場なのだ。彼自身は《弁論表現》の評価は《F》だったという。
もうひとつ微妙にトーンの異なる箇所があって、それはアントリーニ先生が、ホールデンは「恐ろしい堕落の淵に向かって進んでいる」という話題を持ち出した部分である。その「堕落の種類」について先生が説明するのだが、その「種類」がちょっと不思議なのである。「君が三十くらいになったとき、どっかのバーに坐り込んでいて、大学時代にフットボールをやっていたような様子をした男が入って来るたんびに憎悪をもやす」というような堕落、あるいは「『それはあいつとおれの間の秘密でね』といった言葉遣いをする奴に顔をしかめるぐらいの教育しかない人間」になってしまうような堕落、さらに「身近にいる速記者に向かってクリップを投げつけるような人間になってしまう」ような堕落と三つの例を挙げるのだが、これらはそんなに「恐ろしい堕落」なのだろうか。この後に抽象的で高邁な教育論が続くので、この部分が際立って異質なものに見えるのである。
それから、これは日本語訳の問題かもしれないのだが、アントリーニ先生が「自分の頭のサイズ」はいくつか、という箇所について、原文はWhat size mind you have となっていることに少し引っかかるものを感じてしまう。訳者の野崎さんはこの部分 mind という単語をすべて「頭」と訳していて、ある意味それは名訳だと思うのだが、mind という単語は普通は「心」とか「気持ち」というような感性的なニュアンスの日本語に訳すのではないか?私自身は野崎さんがこの訳語を使ってくれたおかげで随分いろいろなことが見えてきたような気がするのだが。
アントリーニ先生に関して、まだいくつか考えなければならないことがあって、そのひとつが奥さんの名前についての疑問である。奥さんの名前は「リリアン」というのだが、ホールデンの兄D.Bが昔つきあっていた女の名前と同じなのだ。これは偶然なのだろうか。作品の中で違う人間に同じ名前をつけることがあるものだろうか。
アントリーニ先生については、もしかしたらスペンサー先生より謎の部分が多くあるのかもしれません。とりあえず途中経過の報告です。今日も不出来な文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
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