2013年3月21日木曜日

「対エスキモー戦争の前夜」と「美女と野獣」について再び___主人公は誰か

 『ライ麦畑でつかまえて』の続きを書かなければ、と思うのだが、その前にコクトーの「美女と野獣」についてもう一度見直さなければいけないような気がしてならない。映画「美女と野獣」の主人公は誰なのか?

 「美女と野獣」というタイトルなのだから、「美女」と「野獣」の両方が主人公であって何の疑問の余地もない、というのが常識的な答えだろう。だがコクトーはこの映画を美女と野獣との「二人の愛の物語」にはしなかった。アヴナンという男を登場させて、ベルを挟んだ「三角関係の愛の物語」にしたのである。王子の姿に戻った野獣がベルに「(アヴナンを)愛していたのか?」と訊ね、ベルが「ウィ」と答え、「では野獣は(愛していたのか)?」と聞かれると、これにもベルが「ウィ」と答えるシーンがある。そして王子がベルのことを「変わった娘だ」というくだりになるのは前回書いた通りである。

 今回気がついたのは、この前に王子が「人を野獣に変えるのも愛」「醜い男を美しく変えるのも愛」と言っていることである。この「愛」という抽象的な言葉は具体的には美女の「ベル」ということだろう。「ベル」こそが自分に想いをよせるアヴナンを野獣に変え、その「愛に満ちた眼差し」で野獣として死んだ王子を蘇らせたのだから。言い換えればベルはアヴナンと野獣(王子)の二人を操ったのではないか。主人公は「美女と野獣」の二人ではなく、「美女」ベルその人なのではないか。映画の中で何度も繰り返される「ベェ~ル」という言葉が、言葉そのものとしてというより独特の響きをもった音声としていつまでも耳に残る。

 美女ベルが二人の男を操った、は言いすぎだとしても二人の男が美女ベルを仲介させて、一方は死に、一方は蘇ったというプロットを「対エスキモー戦争の前夜」と重ね合わせてみると、どんなものが見えてくるだろう?いうまでもなくこちらの主人公はジニー・マノックスである。このほうが分かりやすい、というよりむしろ誰も疑念はいだかないだろう。フランクリンが野獣でエリックがアヴナン、という図式をあてはめることもたぶん間違っていない、と思われる。問題はその次である。「対エスキモー戦争」でアヴナンのエリックは死んで、野獣のフランクリンは蘇って王子となり、ベルのジニーとともに「私(王子)の支配する国」に旅立ったのだろうか?むくむくと湧き上がる雲に乗って。

 映画「美女と野獣」については、この他にもいくつか書かなければならないことがあって、「対エスキモー戦争の前夜」という作品を考えるにあたって大事なことなのだが、長くなるのでそれはまたの機会にしたい。今回はそのテーマを二つだけあげておきたい。ひとつは、サリンジャーが作中エリックに「あの映画だけは開演に間に合うように行かなくっちゃ。そうしないと魅力が台無しになっちまうもん」と言わせていること。観客は幕が上がる前から画面に注目することを要求されているのだ。最初からワンカットも見逃さないでほしい、といっているのが何故か、ということである。
もうひとつは野獣のバラに対するこだわりである。何故こだわるか、ではなく、こだわっているという事実そのものについて考えてみたいと思っている。

 今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。



0 件のコメント:

コメントを投稿