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大江健三郎
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2025年6月24日火曜日
大江健三郎『日常生活の冒険』___早すぎたレクレイムとゴッホとハタンキョウ
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『晩年様式集』を読み直す過程で『日常生活の冒険』にふれなければいけないといいつつ、何をどう書くかまとまらないでいる。書くべきことはたくさんあるが、軸が定まらない。主人公のモデルがあまりにもあからさまなので、現実とフィクションの齟齬に関心がむかいがちで、作品の主題を見失いそうに...
2018年1月1日月曜日
大江健三郎『晩年様式集』__私らは生き直すことができるか
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非常に粗雑なたどり方ながら『晩年様式集』まで来てしまうと、ある種の到達感、というより虚脱感を覚えてしまって、何も書けないでいる。書くことはあって、むしろ、書かなければならないことは確実にあるのだが、作品論のかたちをとれないのだ。ひとえに私が怠惰なためである。この場を借りて、書か...
2017年10月13日金曜日
大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__塙吾良の「ありえない」死と伊丹十三
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前回の「ウソの山のアリジゴクの穴から」で次回は塙吾良の死について書く、と言っておきながらどうしても書けないでいる。ひとつには、塙吾良のモデルである伊丹十三の事件が、小説の外側の現実から投げかける影があまりにも大きく深刻だからである。そしてもうひとつ、小説のなかで説明される事件...
2017年9月4日月曜日
大江健三郎『晩年様式集』__終活ノートの告白__「ウソの山のアリジゴクの穴から」
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告発者アサの告発は二つある。一つは、作家の「私」の書いてきた作品のウソについて。もう一つはギー兄さんの死の真相について。この二つは方法論と中身の問題で、つきつめれば、「ギー兄さんの死」__「塙吾良の死」の究明が目的だと思われる。 小説のウソと本当のことについて、『憂い顔の...
2017年8月16日水曜日
大江健三郎『晩年様式集』_____終活ノートの告白その1_「三・一一」とは何か
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「イン・レイト・スタイル」とルビが振られたこの小説について、何か月も何も書けないでいる。ひとえに私が怠惰なためである。これを書こう、という意欲がどうしても湧きあがらないのだ。言い訳じみたことをいえば、読後感が散漫なのである。もっといえば、「物語」が語られないのだ。いくつかの、非...
2017年2月20日月曜日
大江健三郎『ピンチランナー調書』___権力の「両建て構造」を暴露する__核と革命と天皇
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今世紀に入ってから「イデオロギー」という言葉は死語になったかの感がある。「左翼」「革新」も同様。「革新」は技術の分野で使われるが、「左翼」は使われるとすれば嘲弄の対象となることがほとんどである。それに対して、かつて「反動」の定冠詞であった「保守」は、いまは肯定的なニュアンスで使...
2016年12月30日金曜日
大江健三郎『晩年様式集』___『懐かしい年への手紙』を読み直す___ギー兄さん、塙吾良、伊丹十三
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少し体調を崩していたこともあって、『晩年様式集』についていつまでも書けないでいる。ひとつには、これが大江健三郎の「最新」の作品なので、それについて書くことが私の大江健三郎論の総括、のようになってしまうことを怖れる意識がはたらくのかもしれない。 『晩年様式集』というタイトル...
2016年11月9日水曜日
大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー」を聴く女たち』「泳ぐ男__水のなかの「雨の木(レイン・ツリー」」___再び八十年代とは何だったか
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連作短篇集の最後の作品である。これまでの四作も不思議な小説だったが、この小説は、解釈、というより読解が拒まれているような気がする。たんに私の能力不足かもしれないが。 年上の女が若い男を誘惑する。男はたぶん童貞で、女のあからさまな挑発と積極的な行動にひきずられて、危険な性的...
2016年9月20日火曜日
大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー」)を聴く女たち』「さかさまに立つ雨の木(レイン・ツリー)」___さかさまに立つ反核運動
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連作短篇集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第四作目。第二作「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」に登場したペニー(ペネロープ・シャオ=リン・タカヤス)が「僕」に宛てた手紙から始まる。 亡くなった高安カッチャンが「高級コールガール」といって連れてきたペニーは、カ...
2016年9月9日金曜日
大江健三郎『「雨の木(レイン・ツリー)」の首吊り男』___「自殺」という首吊りの方法
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連作短編集『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』の第三作目で、第五作目「泳ぐ男__水の中の雨の木(レイン・ツリー)」に次ぐ長さの小説である。短編、というより短い中編といったほうがいいかもしれない。作家の「僕」が半年ほどメキシコに滞在して、当地の「学院(コレヒオ)」で客員教授を...
2016年8月12日金曜日
大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」____「暗喩(メタファー)」としての「雨の木(レイン・ツリー)」___三角関係という宇宙モデル
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前作「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」から一年十か月経って「雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち」が発表された。本作は、「僕」の「友人にして師匠(パトロン)というのがあっている」音楽家のTさん(これはあきらかに武満徹のことである)が作曲した「雨の木(レイン・ツリー)」の演奏を...
2016年8月4日木曜日
大江健三郎『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』「頭のいい雨の木(レイン・ツリー)」__「80年代」とは何だったか?
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やはり今でも『晩年様式集』について書けなくて、あるいは書かないで、留保の状態を続けている。そしてもう一度、私が大江健三郎の作品を読むきっかけとなった『雨の木(レイン・ツリー)を聴く女たち』を読み直している。読み直しても、最初に読んでわからなかったことがわかるようになった、とはと...
2 件のコメント:
2016年6月23日木曜日
映画『静かな生活』伊丹十三と大江健三郎____『晩年様式集』読解の助走として
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『晩年様式集』についていつまでも考えている。 『日常生活の冒険』の斎木犀吉、『懐かしい年への手紙』のギー兄さん、そして『取り換え子』から『晩年様式集』にいたるまでの塙吾郎、それらのモデルはあからさまに伊丹十三である。『晩年様式集』では、その三者をもう一度作品中に呼び戻し...
5 件のコメント:
2016年1月9日土曜日
大江健三郎『水死』___「をちかへり」考___「ウナイコという戦略」拾遺
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『水死』について、これ以上書くこともない、というか書けることもないのだが、一つだけ前回「ウナイコという戦略」で書き残したことを書いてみたい。『水死』のヒロイン、反・時代精神の女優ウナイコ「ウナイコ」が「ウナイコ」と呼ばれるようになったくだりで引用される古歌の解釈の問題である。 ...
2015年12月21日月曜日
大江健三郎『水死』__コギーという記号とあらゆる手続きの演劇化
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大江健三郎の小説を読んで分かった、と思ったことは一度もない。分かった、と思うときがきたら、そのとき私は大江の読者でなくなるだろう。『水死』も分からない小説で、いろいろな分からなさがあるが、まずは「コギー」なる名称と存在が分からない。 物語の始めに、古義人が賞をもらったとき...
2015年12月14日月曜日
大江健三郎『水死』___フィクサー・アサの役割と沈黙する古義人
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この小説ほど古義人の妹アサの活躍する作品はない。アサは、物語りの発端から終末まで事件の展開の節目節目に登場して、その主導権を握っていく。アサから古義人への手紙、というかたちで語り手としての役割も担っている。一方、古義人はなんら主体性なく沈黙がちで、結末の破局までなすすべもなかっ...
2015年12月5日土曜日
大江健三郎『水死』__「大黄さん」に関する備忘録
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『水死』はやはり不思議な小説である。この作品だけ読めば、起承転結整っていてスキがないようにみえるが、長江古義人シリーズの最新作としては、これまでの作品との破綻があちこちにあると思う。もちろん、これも作者大江の戦略なのだろうが。 前回のブログ「ウナイコという戦略_『みずから...
2015年11月9日月曜日
大江健三郎『水死』__ウナイコという戦略__『みずから我が涙ぬぐいたまう日』を読み替える
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『水死』は不思議な小説である。主人公は誰か?大江健三郎は何故この小説を書いたのか? 十七歳の少女が強姦され堕胎をさせられる。十七年後女優になった彼女は強姦した男に復讐する。物語の縦糸はこれである。縦糸に絡む横糸として、作家長江古義人の「水死小説」がある。縦糸と横糸で織り成...
2015年8月20日木曜日
大江健三郎『﨟たしアナベル・リィ総毛立ちつ身まかりつ』__「﨟たし」と「らうたし」のはざまに
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これは「M計画」というプロジェクトにかかわったサクラさんという国際的な映画女優と作家の「私」、そして「私」の東大の同期生で敏腕プロデュサーの「木守有(こもりたもつ)」の物語である。表題の「﨟たしアナベル・リー総毛立ちつ身まかりつ」とは、特異な人生を生きたサクラさんを、エドガー・...
2015年7月8日水曜日
陰謀論で読む大江健三郎『さようなら、私の本よ!』__大江健三郎とは何か__「ミシマ問題」から炙りだされるもの
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大江健三郎の作品はどれも難解なのだが、それは、一部に言われているような文章のわかりにくさ、というような次元の問題ではない。ストーリーの起承転結が不自然で納得できない、というわけでもない。読んでいるときは立ち止まることもなく、すらすら進んで結末までいって、最後の大江節に単純な感動...
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